第八話:直属斥候は、沈黙に牙を研ぎ澄ます
作戦会議室の空気は、初動の前とは明らかに異なっていた。
壁際の掲示板には地図と戦術図が広げられ、印の数は倍以上に増えている。椅子の配置も詰められ、後方の補佐官や各班の指揮補助が立ち見するほどの混雑だった。
リシャは斥候班の面々──ハールト、レイナ、カルム、サラとともに後方に席を取り、前方中央のユージーンへ視線を向ける。
「第二週までの進行状況について、全体へ報告する」
ユージーンはそう口火を切った。いつも通りの、くぐもりなくよく通る声。会議室に静けさが満ちる。
「第二週初頭、主戦班および後方支援班が合流。物資搬入・通信網の増設・衛生拠点の設営を完了した。陣形構築は予定より半日早く進行。初期包囲網の形成と火砲の配置基点の確保が完了している」
ユージーンは地図の一角に視線を送り、壁際の副官席に軽く合図を送った。するとロルフが手元の資料を捲り、補足事項を読み上げる。
「罠の設置は第四支援班によって行われ、起爆系統の試験済み。予定通り、《赫焔》の主巣南西側──“背丘の裂け目”周辺に火砲班を展開。巣口に繋がる全導線を魔導罠で監視下に置くことに成功」
説明ひとつひとつに意味がある。
リシャは聞き逃すまいと前のめりになりながら、ユージーンとロルフの表情を見ながら記録を取る。
「敵影の確認について──《赫焔》は巣の奥に留まり、第二週時点で明確な動きなし。ただし、瘴気の揺らぎと熱源の増減が確認されている。警戒を継続したうえで、次週中盤に誘導を含む第一波の接近を行う予定」
前方に座る副斥候のひとりが小さく息を呑んだのが、耳に届いた。
(次週中盤……いよいよ、本格的な接触)
リシャ自身は前週の踏査を終えて以降、地図の再確認や通信班との調整にまわっていた。だが、赫焔の存在はいつでも近くにあるような気配だけは消えなかった。
「包囲拠点の拡張に伴い、全班の配置見直しを行う。斥候班には前線と後方との連絡維持を含め、変則経路の確保を引き続き任せる」
自分たちの班名が呼ばれたとき、リシャは自然と姿勢を正した。
その視線の先、ユージーンがふと目線を動かし、一瞬だけ彼女の方へ視線が落とされた気がした。
(……私は、私の場所で応える)
ユージーンを見据え、静かに頷く。
「報告は以上。来週初めより各班再配置。詳細は指揮官ごとに通達する。解散」
短く告げられたその言葉で、会議室がわずかにざわつき始めた。
誰もが、赫焔との交戦がもうすぐだということを理解していた。
ユージーンは淡々とその事実を伝え、指揮官としての冷静さを崩すことはなかった。
リシャはそれを頼もしく思うと同時に、また、少しだけ心配にもなった。
彼は、どれほどのことを一人で抱えているのだろう。
だが今、その背を支えるために必要なのは、心配ではなく任務遂行だ。
そう思いながら、リシャは静かに立ち上がり、斥候仲間とともに次の動きへ向けて歩き出した。
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山の腹を巡る獣道は、昼でも薄暗かった。
踏みしめるたび、湿った苔が靴裏にぬるりとまとわりつく。空気は重く、風の抜けは悪い。上方からは、樹々の葉が風に擦れる低い音と、遠く響く鍛冶槌のような火砲試験の残響が交互に届いてくる。
──ここが、敵が通らない保証などどこにもない道だ。
リシャは先頭を進みながら、呼吸を一定に保ち、進行ルートに目を凝らしていた。
後方にはハールト、レイナ、カルムの三名が適度な間隔を保って追従している。
彼らの足音は、整っていた。誰一人として、無駄な動きをしていない。
この任務は、指揮官であるユージーンから下された再配置通達──
「包囲拠点の拡張に伴い、全班の配置見直しを行う。斥候班には前線と後方との連絡維持を含め、変則経路の確保を引き続き任せる」──それに基づいている。
現在、第七団は前線拠点と補給基地の中間地点を中心に再配置を進めていた。
だが、地形の制約と魔獣の痕跡がそれを容易にはさせない。正規の道は限られており、いざというときの抜け道を確保するのが斥候班の役目だった。
「次、左手のくぼ地を経由して、第二伝令拠点に出ます。湿地を回避して、岩肌沿いに回ってください」
低くはっきりと告げると、ハールトが短く「了解」と応えた。カルムは無言で頷き、レイナは既に次の地図区画を確認している。
リシャの頭の中では、三つ以上のルートが常に並行して動いていた。通れる道、通れない道、非常時の離脱経路。そして、地図には記されていない変動地形。
(……熱の影響か、ここ数日で道の形状が変わり始めてる)
巣から流れ出る熱は地面を乾かし、土をひび割れさせていた。岩肌が崩れた斜面もあれば、逆に瘴気の湿り気で足を取られる場所もある。
そのどれもが、伝令という任務においては致命的だった。
「斥候班、応答を。第三拠点、設営完了との報」
ジジッという音が鳴り、魔導通信機からノイズ混じりの声が届いた。
リシャは腰に下げた受信器に軽く手を添え、短く送信する。
「こちら斥候班、応答確認。南西からの迂回路は使用可能。第三拠点への連絡路、現在確保中。完了次第、図上で報告」
「了解、待機します」
この報告もまた、再配置計画に基づいた連絡網の整備の一環だった。斥候が敷いた道が、全体の連携を支えている。誰かが動き、誰かが救われる。その一歩が、誰かの命綱になりうる。
リシャは、小さく息を吐いた。
「ハイネ斥候、副路の確認を。前回踏査した分岐路、崩落の兆候があるかもしれません」
「……了解」
カルムの足取りが一瞬止まり、すぐに脇道へ消えていく。
リシャはその姿を視線で追いながら、自身は再び前方の斜面へと目を向けた。
この先は崖沿いの獣道。湿気と風の乱れが激しく、足を滑らせれば一気に転落の危険がある。
「慎重に。滑ったら終わりです」
短く告げたその一言に、誰も応えはしなかったが、三人の足取りが、確かに一段と慎重になったのが伝わってきた。
斥候班は、兵を率いる役ではない。前を歩く者として、全ての判断を背負う立場だ。
(──私は、任されている)
それを裏切るわけにはいかない。
ユージーンの言葉でも、指揮でもなく、自分自身の意思として。
リシャは己の中の緊張を手綱のように締め直し、先を行く岩肌へと足を掛けた。
ここが通れなければ、連絡線は切れる。その先にいる兵たちが孤立する。
だからこそ──恐れずに、進むしかない。斥候の任務は、戦わずして戦場をつなぐことだ。
その一歩一歩が、すでに戦場の一部だった。
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尾根を越え、最終指定地点への到達を確認したとき、陽はすでに傾きかけていた。
乾いた風が灌木の隙間を抜け、焦げた匂いを遠ざけていく。目視による地形の確認、先行班との合流報告──すべてを終えた時点で、リシャたちは無言で視線を交わした。
「……あとは、本部への帰還と報告ですね」
レイナが息をつき、脇に抱えていた記録板を改める。
ハールトも肩の荷を直し、合図のように軽く顎を引いた。
「最後まで無事で何より。ハイネ斥候とメレル記録係の配置もうまく噛み合ってたな。よし、行こう」
帰還は迅速だった。足元の判断、風の流れの読み。全員の動きには、余計な言葉ひとつなかった。
拠点に戻る頃には、空がわずかに色づき始めていた。火砲班の音はすでに止み、代わりに応急処置所から低く交わされる声だけが、夜の帳の足音を感じさせていた。
報告書の提出先は、臨時司令室の帳簿管理を担っているロルフだった。
「ギルデン副官。報告書、提出します。第七団・斥候班、リシャ・アイゼル以下四名分です」
書類を差し出したリシャに対し、ロルフは視線を上げる。
眼鏡の奥の瞳がわずかに細まり、彼女の全身を素早く見回した。
「状況は聞いている。灰の堆積地帯と見られる箇所、座標付きで確認済みとのことだったな。……ご苦労だった」
「はい。全員、怪我なく任務を完了しています」
リシャの答えに、ロルフは小さく頷いたあと、机に書類を置いた。
「今、団長が戦況整理の最中だ。おそらく間を見て、確認に来る」
ロルフの予告通り、書類をまとめ終える前に、足音が一つ、廊下の先から響いた。
ユージーンだった。
「斥候班──戻ったか」
その声はいつも通りに聞こえた。だが、リシャは一瞬だけ、ユージーンの肩に滲む疲労の影を読み取った。
「報告書、提出済みです。確認お願いいたします」
書類を手に取ったユージーンが目を通す間、室内はしばし静まり返った。数ページめくったところで、彼の視線がふと上がる。
「風向きの異常、そして熱の再集積点──的確な記録だ。確認済み。
……ありがとう。きみたちの報告は、次の展開に大きく影響する」
「はい」
リシャは短く答え、頭を下げる。今はただ、指揮官の信頼に応えることがすべてだった。
ユージーンは数秒だけ何かを言おうとして、それを飲み込むように口を閉じた。
「今夜は、よく休んでくれ」
それだけを告げて、彼は再び作戦室の奥へと姿を消した。
その背を見送りながら、リシャはようやく、自分が深く息を吐いていたことに気づいた。
──次の週には、もっと大きな動きが来る。
だからこそ今は、与えられた責務を果たしたことに、小さく肩の力を抜いてよいのだと、自分に言い聞かせた。




