第七話:直属斥候は、迫る気配に静かに構える
朝の光がまだ柔らかく、床の上に細く影を落としていた。
目を覚ましたリシャは、ゆっくりと身体を起こし、制服へと袖を通す。背筋を伸ばす感覚に、自然と気が引き締まるのを感じながらも、どこかその動作にも、あたたかな名残が残っていた。
食卓には、昨日の夜と同じように、二人で準備した朝食が並ぶ。
湯気を上げるスープの香り、切り分けられたパンの焼き色、添えられた果物の酸味──どれもが静かな朝の静けさを彩っていた。
言葉少なに、けれど居心地よく、ふたりで食べる時間。
食べ終わった食器を並んで洗い、拭いて、元の位置へ戻していくその作業にも、すっかり慣れが生まれていた。
その後、リシャは宿舎に戻ることにした。数日分の着替えを整え、外泊届もきちんと出しておきたかった。
玄関で靴を履いていると、ユージーンが見送りに来てくれた。
「行ってらっしゃい、また後ほど」
穏やかな声が、すぐ背中に落ちる。
リシャは振り返り、ほんの少し照れくさそうに、けれど笑顔で手を振った。
「……はい。行ってきます」
扉が静かに閉まる音を背に、リシャは宿舎へと歩き出した。
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戻ってきた宿舎の個室は、いつもよりも冷えて感じられた。
空気の重みが違う気がして、窓を少しだけ開ける。
誰もいなかった数日間──それだけのはずなのに、この部屋はどこか、少しだけ静かすぎた。
鏡の前に立ち、髪を梳き、襟を整える。
丁寧に整えるほど、「人前に出る」という実感が戻ってきて、リシャは自然と気を引き締めた。
執務棟の副官席では、ロルフ・ギルデン副官がいつものように静かに書類を整理していた。
リシャが外泊届を差し出すと、ロルフはちらと目を通し、口元をわずかに緩めた。
手慣れた筆さばきで必要事項を記入し、控えを整える。その動作は無駄がなく、静かな信頼感を伴っていた。
控えを手にしたまま、ふと目を上げる。声に探るような色はなく、ただ静かな関心がこもっていた。
「……そちらでの暮らし、落ち着きそうか?」
唐突な問いに、リシャは一瞬まばたきをした。
「……はい。まだ不慣れな部分もありますが、居心地は……とても、いいです」
その返答に、ロルフの目元がわずかに和らぐ。
「それは何よりだ」と、それだけが返ってくる。それ以上は何も言わず、控えの紙をリシャの手元へ滑らせた。
わずかに目元が和らぎ、それだけで十分な肯定が伝わってくる。
リシャは静かに頭を下げ、その場をあとにした。
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午後、定時の報告を終えた頃だった。
持ち場に戻ったリシャは、なんとなく周囲の空気に違和感を覚える。
声をひそめるように会話を交わす隊員、何かを探るような視線、足早に行き交う伝令──普段の穏やかな巡回とは明らかに異なる、張り詰めた気配が周囲を包んでいた。
間もなくして、前線指揮隊本部に「団長直下による第七団全体の招集」が通達される。
通知を受けた隊員たちが次々と廊下を歩み、扉の先の集会室へと集まっていく。リシャもその流れに混ざる。
整然と並んだ椅子の列の一角に腰を下ろし、扉の奥をじっと見つめた。
間もなくして、重たい靴音とともにユージーンが現れる。
その隣には、整えた制服姿のロルフがぴたりと付き従っていた。
指揮官としての登壇。それだけで場の空気がさらに引き締まる。
部屋にいる全員が息を潜めるようにして、その一言目を待った。
「──現在、黒霧の尾根周辺にて、上級魔獣《赫焔》の巣とされる活動域が確認されている」
開口一番、低く響いたその言葉に、室内の空気が一段と緊張を増す。
赫焔──リシャはその名を、記録上で見たことがある気がした。
だが、実際の現場で動員がかかるのは初めてだった。
ユージーンの声は、迷いなく淡々と続いていく。
「確認されたのは《赫焔の巣》と呼ばれる活動圏で、昨年以降、民間の行方不明報告や家畜の消失が相次いでいる地域と一致する。
現地の状況から、放置すれば軍管轄区にも危険が及ぶと判断されたため、複数回に分けた“遠征任務”として段階的に対応を行う」
横に立つロルフが、準備された地図を掲げ、現在の想定地図を壁面へと貼り出す。
そこには山岳地帯の稜線に沿って赤い印が施され、想定される活動領域と包囲計画が明記されていた。
「第一遠征は、四日後。索敵と後方支援を兼ねた部隊が先行する。
第二以降は、戦術班、斥候班、補給班に分かれて出発し、現地で合流。赫焔本体の出現に備えた布陣を敷く」
その説明の中に、斥候の名がある。リシャも当然、その対象に含まれていた。
隊内に走る緊張が、否応なしに自身の胸にも伝わってくる。
ユージーンの目が、一瞬だけこちらに向いた気がして、リシャは無意識に姿勢を正す。
──そうか。昨日のあの呼び出しは、この件だったのか。ようやく、点と点がつながった気がした。
説明は続き、現在得られている赫焔の特徴──
灼熱を帯びた甲殻、周囲への精神的影響を与える咆哮、強靭な耐久と移動範囲の広さ──が淡々と報告された。それらは、想像以上に厄介な敵であることを明確に示していた。
「この任務は数週にわたり継続する可能性がある。必要な準備と心構えを整えておくように。以上だ」
最後の一言で、空気に緩みが戻ることはなかった。
それほどに、《赫焔》という名には圧があった。
リシャは椅子の背に深く寄りかかることもせず、背筋を伸ばしたまま、静かに息を吐く。
視線は前を向いていたが、胸の奥には、静かな火種のような感情が灯っていた。
怖さはあった。けれど、それ以上に「やるべきことがある」という確かな感覚が、静かに根を張りはじめていた。
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全体への説明が終わると、隊員たちは班ごとに分かれて、詳細な任務割り振りと準備の指示を受けることになった。
リシャの所属する斥候班は、隊舎裏の簡易会議室に集められている。
いつもより少し空気が重いのは、誰もが、《赫焔》という名に、ただならぬものを感じ取っていたからだろう。
斥候統括の上官が簡潔に説明を始める。
「第七団斥候班には、第一遠征における“周辺地形の踏査”および“敵影の先行察知”が求められている。
現地での道標設置、地図との照合、見落としやすい巣穴の発見──これらは、主戦力が動く前に必ず完了させる必要がある」
隊員たちの間に、小さく緊張が走る。
だが、それでも誰一人として顔色を変えないのは、この班の面々が皆、実地で経験を積んできたからだった。
「当日、先行斥候として出るのは──セズネ、グリース、アイゼルの三名。
合流支援にハイネを配置。後方支援班とは適宜連携を取れ。合流地点は追って指示する」
名前を呼ばれた瞬間、リシャは小さく返事をし、背筋を伸ばした。
「……《赫焔》、か。まさか本当にこっちが動くとはな。前に南の部隊が絡んだ時は、犠牲出たって話だったぞ」
その背後では、ハールト・セズネ斥候が腰に手を当て、ぼそりと呟く。普段は柔らかく笑うその顔も、今は少し硬かった。
「記録、読みました。……熱と咆哮の影響で、三日以上動けなかった者もいたとか」
落ち着いた声で応じたのは、副斥候のレイナ・グリース。明るい髪を短くまとめ、切れ長の目元に凛とした印象を湛えた、きびきびとした女性だ。いつも通り、簡潔かつ丁寧な口調で言葉を継ぐ。
任務中は礼節を重んじ、言葉づかいも慎重──だが、任務を離れれば、年相応の口調で気さくに仲間とやりとりを交わす姿も多い。緩急を心得たその振る舞いは、斥候隊内でも「切り替えができるタイプ」として信頼を得ている。
「……倒れるわけにはいかないですね」
リシャの声は静かだったが、芯のある調子だった。
その言葉に、ハールトがちらと目を向け、ふっと表情をやわらげる。
「……そうだな。ま、おれたちが先に道を切り開かなきゃ、誰も進めないもんな」
「七前のみんなが一緒なら心強いよ。地形、ちゃんと見てくれるし」
おっとりとした声が飛ぶ。言葉の主は、サラ・メレル。記録係として同行している彼女は、現場では一歩引いた立場ながら、いつも穏やかな目で隊の空気を見守っていた。肩までの髪をゆるくまとめ、微笑を浮かべながら続ける。
「後方班とも連携する。俺もできる限り動く。無理だけはするなよ」
そう口にしたのは、カルム・ハイネ斥候。黒髪を短く刈り込んだ無愛想な青年で、今も腕を組んだまま、壁に背を預けている。口数は少ないが、隊内では斥候としての技量に信頼が置かれていた。
それぞれが短く頷く。
そのやりとりのなかに、不安も覚悟も、そして小さな信頼も、確かにあった。
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朝靄のなか、斥候班の五人は静かに隊舎を後にした。
目的地は《赫焔》の棲み処とされる峡谷。その周辺を事前に踏査し、主戦力が展開する前に経路と地形情報を確保する。それが彼らの任務だった。
先頭を行くのはリシャ。団長直属の斥候として、全体の索敵と進行の舵を担う立場にあった。斥候としての経験は浅くない。だが、それ以上に“彼女が団長直属である”という事実が、仲間たちの目に自然と緊張を走らせていた。
「……進路、南西に折れる。谷の端を縫うように進みます」
低く短い声でそう告げると、カルムが小さく顎を引いた。
「了。……風向き、交差しそうだ。背後は俺が抑える」
彼は寡黙だが、判断は早い。先読みも的確で、直接やりとりした回数は少ないが、確かな実力の持ち主だった。
「木立の向こう、尾根の起伏が急に落ちてます。陽が高くなれば、影が乱れて索敵しづらくなりますよ」
レイナが横を並ぶようにして告げる。視線は鋭く、地形の変化を逃さず追っている。
「風の音も変わった。……このあたりで、護衛の交代をしていいか?」
後方にいる歩哨担当のハールトから声をかけられ、リシャは一度振り返り、軽く頷いた。
「お願いします。私が中間に入ります。……背後の情報を共有してください」
「了解。こっちの守りは任せといて。……ま、転んでも受け止めるくらいの準備はしとくさ」
軽口を交えたハールトの声に、少しだけレイナが笑った。
そのやりとりを、後方支援の位置からサラが眺めていた。手元の記録帳を開いたまま、ほんのりと目元を和らげながら。
「……いいねえ。言葉少なだけど、ちゃんと通じて合ってるって感じ」
「支援者がそう言ってくれると、ちょっと自信になるかも」
レイナが囁くように返すと、サラは「ふふ」と笑い、肩をすくめた。
そうして斥候班は、風の音と影の変化に耳を澄ましながら、赫焔の棲み処へと近づいていった。
その先には、まだ姿を見ぬ“脅威”が潜んでいるが、誰一人として足を止める者はいなかった。
──それは、背中に守るべき仲間と、譲れぬ想いを背負っているからだ。
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尾根を越えた先の斜面は、風の通りが異様に重く、肌を刺すような焦げた草のにおいが漂っている。踏み込むほどに、湿った土と炭化した枝の混じる匂いが強まった。熱が、空気ごと揺れている。
「……地熱じゃないですね。焦げ跡、そっちにも」
レイナが、崖沿いの茂みを指差した。
リシャは膝を折り、土を指で払う。そこだけ、草が根ごと炙られたように黒く枯れていた。表面は乾いているが、指先で軽くなぞれば、細かな灰が指紋にまとわりつく。
「──斥候記録と一致」
レイナが低く呟く。「過去の接近報告でも、熱と焦げの痕跡が先行して確認されてます。瘴気が流れてきた方向とも合いますね」
リシャは、風上に目を向けた。
風が、どこかおかしい。渦を巻くように小さく踊り、尾根の斜面にまとわりついて離れない。
「……ここでいったん、引いたほうがいいかもしれない。
風の流れが不自然すぎる。何かが潜んでいる可能性があります」
「了解」
すぐ横にいたハールトが頷き、肩の荷を直す。装備が擦れる小さな音さえ、静けさの中で不気味に響いた。
「このまま南へ回り込めば、合流予定地にも出られる。記録のために、あと一地点だけ確認して、戻ろう」
リシャの指示に、レイナも無言で頷いた。三人は素早く立ち上がり、各自の間隔を保ちながら再び移動を開始する。
その直前──風に混じって、かすかな音が紛れ込んだ。
灰が擦れるような、乾いた気配。だが、それはすぐに枝葉のざわめきに呑まれた。
誰も、それを異変と認識することはなかった。
風の気まぐれか、山の呼吸のひとつか──判断できるほどの確証は、どこにもなかった。
ただそのとき、リシャがふと風下に目を向けた。
だが視線はすぐに戻され、彼女自身すらも、それが何に反応したものかを理解していなかった。
──赫焔は、確かにここを通った。
その名が、ただの記録上の存在ではないことを、土と風が静かに証明していた。
斥候たちは、誰も後ろを振り返らずに、尾根を後にした。
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夜の帳が下りる頃には、斥候班は予定の観測地点から安全な尾根を経て、仮設の夜営地へと戻っていた。任務報告や情報共有のひとときを終え、各班員が交代で休息をとる時間となる。
斥候班が割り当てられたのは、斜面に面した岩場の一角を利用した小部屋のようなスペースだった。遮蔽布で囲われたその中には、簡素な寝具と荷物を置けるだけの空間がある。
室内にはリシャ、レイナ、サラの女性陣三人。男子陣は別の区画で装備の手入れ中だった。
任務の緊張感がやわらぎ、場の空気がほぐれはじめると、レイナの表情もふっと緩む。ひとつ息を吐き、額の汗を袖でぬぐったあとで髪をかき上げるように手を通す。副斥候の顔をしまいこむ、無意識のスイッチだ。
「さーて、と」
そんな小さな合図のあとで、レイナの口調は自然と砕けたものへと切り替わる。
「ねえねえ、サラさん。
リシャちゃん、最近ちょっとさ……雰囲気、変わってきたと思わない?」
サラが、携帯用のポットで温かい湯を注ぎながら、ぽつりと笑う。
「うん。髪も伸びたのはそうなんだけど、痩せ方も健康的になってきたし、なんというか……艶が出てきてるよねえ」
レイナが頬杖をついたまま、じっとリシャの顔を見つめる。
「好きな人、いるんじゃない?」
「えっ……」
不意を突かれて、リシャは湯を持つ手を止めた。
サラがいたずらっぽく笑って追い打ちをかける。
「やっぱり〜。ね、リシャちゃん。いるの? 気になる人」
「……は、はい……」
「おおっ」
レイナが小さく声を上げると、リシャはさらに目を泳がせた。
「どんな人? 隊の人? 後方の人? ……それとも、もっと上の……」
「や、やさしくて……あったかくて……その、ちゃんと見ててくれる人、です……」
声が小さくなるたびに、視線も落ち、最後は湯の表面をじっと見つめて言葉を濁した。
「あら〜」
サラが膝を抱えてぱちぱちと拍手をし、レイナもくすくすと笑う。
「え、なにそれ……惚気では……?」
「ち、ちが……! その、そんなつもりじゃ……」
動揺するリシャの耳まで赤く染まり、所在なさげに身をすくめたその瞬間、遮蔽布の向こうから声が飛んできた。
「……ちょっと女子ぃ~、そのへんにしておいてあげな~。かわいそうだって」
くぐもった声は、ハールトのものだった。おおらかな調子ながら、どこか苦笑まじりのやさしさがあった。
「うわ、聞かれてた」
レイナが肩をすくめ、サラはいたずらが見つかった子どものように笑った。
隅では、カルムが何も言わず、手元の装備を黙々と整えている。その姿に誰も突っ込みを入れないのは、そういう人物だと全員が知っているからだった。
やがて笑いは落ち着き、眠りにつく者、交代で見張りに立つ者へと静かに時間が流れていく。
リシャは、自分でも驚くほど心があたたかいことに気づいていた。
この仲間たちの中で、自分の居場所が少しずつできていく──そんな感覚に、そっと胸を撫で下ろした。




