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第六話:直属斥候は、鍵の重みを胸に抱く

夜が明け、柔らかな陽の光がカーテン越しに差し込む。鳥の声が遠くから聞こえ、静かな朝が訪れていた。


リシャはベッドの上で小さく伸びをしたあと、ふと手を止めた。今日、何を着よう。

昨日買った、落ち着いた色のワンピースか、それとも初めてこの家に来たときの軍の制服か。

まだ慣れない空間の中で、どちらがふさわしいのか分からず、指先で布をそっとなぞる。


けれど昨日──あの店で、自分の目で選んだ一着だった。

ユージーンの「似合う」という言葉が、頬を熱く染めたあの瞬間も、まだ胸に残っている。


「昨日も着たけど……」

つぶやきながらもう一度布に触れ、その柔らかさに背中を押される。

──やっぱり、今日もこれがいい。


そう思って、リシャは静かにワンピースを手に取った。

着替えが終わる頃、台所の方から小さな物音が聞こえた。


覗いてみると、エプロン姿のユージーンが、朝食の準備に取りかかろうとしていた。淡い色の布が肩にかけられ、袖が丁寧にまくり上げられている。


「おはようございます」


部屋を出て台所に立つユージーンに声をかけると、振り向いた彼がすぐに「おはよう」と返してくれる。

その声色は、昨夜と変わらず穏やかで──まるで、こうして並ぶ朝が、ずっと続いたらいいと小さく思った。


リシャはふと、台所のまわりに目をやった。

昨日と同じように、サラダ用の野菜が水をくぐらせたあと、籠に入れられている。


「野菜、昨日みたいに……ちぎってもいいですか?」

尋ねると、ユージーンは嬉しそうに頷いた。

「助かる。よろしく頼むよ」


手を洗って袖を軽くまくり、野菜に指をかける。

ちぎる動作はまだぎこちないけれど、昨日よりはほんの少しだけ手が慣れてきた気がして、リシャの心も静かに落ち着いていった。


ちょうど一皿分が整ったころ、ユージーンがふわりと鼻を動かし、オーブンの方へと目を向けた。

「パンも、焼き上がったようだ」

言いながら、ユージーンがオーブンの扉をそっと開ける。

ふわっと漂う香ばしい匂いが、台所に温かさを広げた。


リシャもそばに寄り、焼きたてのパンを器に受け取って並べていく。

手渡すたびに、互いの指先がふと触れ合い、ちょっとした熱を残した。


二人でテーブルに並んで座り、静かな朝食が始まった。

しばらくして、不意に居間の奥から低い電子音が何度かに分けて鳴り響く。

ユージーンが少しだけ眉を寄せ、立ち上がる。


「失礼。そのまま食べていてくれて構わない」

そう言って席を離れ、書斎へ向かっていった。


リシャは一人、手を止めかけたが、少しだけペースを緩めて再びスプーンを手に取った。


温かいスープの味を舌の上で転がしながら、さっきの彼の声を思い出す。

ほんの少し、申し訳なさそうだった。

——本当は、今日もゆっくり過ごしたかったのかもしれない。


「すまない。午後から、急遽対応が必要になった」

ほどなくしてユージーンが戻ってくると、その表情は明らかに残念そうで、どこかしおれているようにも見えた。


「はい、大丈夫です」


団長だし、こういう事もあるだろう。今日も、この先も。そうリシャは思った。

食事を終え、ふたりで食器を片付ける。

食器を洗って、拭いて、棚に戻す——そんな当たり前の作業が、妙に名残惜しく感じられた。


「今日はこの家で自由に過ごしてくれても、どこか外出していても構わない。夕方には戻ると思うから、昼食は近くの店で済ませてもらえると助かる」


そう言ってユージーンが立ち上がると、リシャに向かって手を差し出した。


「こちらへ」


案内されたのは、奥まった一室。ユージーンの書斎だった。

開かれた扉の先には、整然とした重厚な机と、壁一面に並んだ書類棚や本棚が広がっていた。

どれもよく手入れされており、用途に応じて分類されているのがひと目でわかる。


室内の一角、淡い光に照らされたルームランプのそばには、金属製の重たい扉がついた棚があった。

そこだけが、明らかに厳重に管理されていることを示していて、リシャは思わず小さく目を見張った。


「その一角以外はすべて、リシャが見ても問題ない。

興味があるものがあれば、部屋や居間で読んでいて構わないよ」


丁寧に説明された言葉に、胸がじんわりと熱くなる。信頼されていること、居場所の一部に迎え入れられたようなその感覚が、心の奥でゆっくりと広がっていった。

リシャは顔を上げ、柔らかな声で言った。


「……ありがとうございます」

少しだけ頬が熱を帯びていたが、その笑顔は、まっすぐにユージーンへと向けられていた。


---


書斎の一角、整然と並ぶ書類棚の奥で、ユージーンは引き出しから何かを取り出していた。

「リシャ、これを」


言われてそっと手のひらを差し出す。乗せられたのは、銀色の──見慣れない鍵だった。

「この家の合鍵だ。リシャ用として、先週のうちに作ってもらっておいた」

そう静かに言って差し出されたそれは、ひんやりとした金属の重さとともに、確かな「居場所」の証のように感じられた。


(……鍵だ。本当に、私の)


胸の奥にじわりと広がるあたたかさが、指の先まで滲みそうになって、思わず下を向く。

嬉しさがこみあげてきて、でも涙までは流したくなくて、唇を噛んでこらえた。


少しして、ユージーンの外出の時間が来た。

玄関先に立つその背には、いつもの整った制服。けれど、表情だけは──少し、いつもと違っていた。


扉の前に立ちながら、どこか惜しむようにこちらを見るその目に、リシャはふっと気づく。

眉がわずかに下がり、前髪の先までどことなく萎れて、名残惜しそうに見えた。


(……ユージーンさん、思っていたより──)

急に胸がきゅうっと締めつけられるような気がして、何かをしてあげたくなる。


「ユージーンさん」

小さな声で呼びかけて、リシャは両腕を大きく広げた。ほんの少しの迷いも、恥じらいも、そのときにはなかった。


「……行ってらっしゃい。っ、その……帰り、待っていますから」

声が震えてしまったのは、気持ちが強すぎたせいかもしれない。

次の瞬間、ユージーンは歩み寄って、迷いなく彼女を抱きしめ──リシャは思わず目を見開いた。


「ああ、ああ……! 行ってくる。終わったらすぐに帰ってくるから」


彼の腕が、自分をぎゅうぎゅうと包み込んでくる。その圧に、嬉しさも息苦しさもごちゃ混ぜになって──声が漏れた。


「ユ、ユージーンさん、苦しい……」

「! す、すまない……!」


慌てて腕をほどくと、彼は気遣うようにリシャの肩を優しくさすってくれた。

その大きな手のひらが、まだ少しだけ震えていたのを、リシャは見逃さなかった。


扉が静かに閉まり、音が遠ざかる。

リシャはその場にしばらく立ち尽くし、自分の腕で自分を包むように、そっとぬくもりをなぞった。

──あたたかくて、どこまでも優しい、彼のぬくもり。


---


扉が閉まる音がしても、リシャはしばらくその場から動けなかった。手のひらの中で、合鍵がひんやりとした体温を主張している。


小さく深呼吸をして、リシャはようやく足を動かした。せっかくだから、と自分の意思で家の中を歩いてみることにした。あの人が整えてくれた“住まい”を、自分の足で確かめるように。


まずは、玄関から続く居間へ。


陽の光を受けて、木の床は柔らかな光沢を帯びていた。そこに置かれたソファやテーブルも、派手さはないが上質で、どこか「静かな余裕」のようなものを感じさせた。昨日の夜、ふたりでお茶を飲んだ場所だ。思い出が、静かに積もっていく。


隣接するダイニングとキッチンへ進むと、料理の香りがまだ空気にほんのりと残っていた。清潔に整えられた台所は、鍋や器具の位置までも整然としていて、持ち主の几帳面さがにじんでいた。調味料の並べ方にも無駄がない。けれど、きっちりしすぎず、どこか温かい。昨日、あの人の背を見ていた場所。


廊下に出て、客間の前を通り過ぎる。今、リシャが使わせてもらっている部屋。まだ「自分の部屋」という実感は薄いが、服や荷物が少しずつ置かれていくうちに、きっとそうなっていくのだろう。


その向かいの扉に手をかけると、中はユージーンの寝室だった。

ベッドは軍用とは比べものにならないほど広く、シーツやブランケットは丁寧に整えられていた。淡い色の寝具に日差しが差し込み、静かで穏やかな空気が満ちている。


──ふと、かすかにユージーンの香りがした気がして、リシャは顔がぶわりと熱くなるのを感じた。

(ここで、ユージーンさん……寝てるんだ)


枕元で髪を少し乱しながら、静かに眠る姿が脳裏に浮かぶ。

寝息のリズムまで想像してしまい、どうしてか少しだけ、呼吸が浅くなった。

いけないことをしているわけじゃないのに。目を伏せ、そっと扉を閉めた。


その先には洗面台。白磁の器具と、金属の蛇口。すでに整えておいた石けんや櫛が並び、少しだけ“自分の生活”がにじんでいた。


続いて浴室──風呂場に向かう。昨日使ったばかりの場所。石造りの浴槽は温かみのある色合いで、壁にはほんのりと蒸気の名残がある。


その隣にあったのは、お手洗い。水音の響かないように配慮された造りと、匂いのない清潔さに、この家の細やかな気遣いが現れているようだった。


さらに奥──廊下の突き当たりにある書斎の扉の前で、リシャは立ち止まった。

今朝、ユージーンに案内され、閲覧の許可をもらった場所。重厚な木製の扉は閉じられたままだが、その向こうにある空気は、どこか他の部屋とは違う緊張感を湛えている。仕事の空間──それでも、「覗いていい」と言われたのは、信頼の証なのだろう。


(……ちゃんと、大事にしないと)


誰もいない家の中で、胸の内にそっと小さく誓いを立てながら、リシャはその場でひとり、鍵を握った拳を握りしめた。


---


ユージーンの書斎には、思っていた以上に多くの書物が並んでいた。報告書や戦術資料の類はもちろん、地図、戦地の気候や地形についてまとめられた専門書、あるいは偵察任務に関わる記録集なども見つかった。リシャは数冊を選び、自室──今は“自分の部屋”になった客間──へと持ち込んだ。


机に広げ、静かにページをめくる。活字を追う時間は心を落ち着かせてくれる。気づけば昼を過ぎ、外の光も少し傾き始めていた。


(……食べてなかったな)

昔から、空腹のまま過ごすことには慣れていた。けれど、ユージーンが知ったら、きっと悲しむ──そんな思いが胸に差した。


鍵と財布を手に、リシャは外へ出た。初めて自分の手で家の鍵をかける。その小さな音が、不思議と心に残る。

(……この家を守ってるんだ、私が、この鍵で)


近くの道を歩き、小さな食堂で昼食をとる。素朴な味が優しくて、ゆっくりと味わう。

帰り道も、少しだけ遠回りしてから戻る。扉の前、鍵を回す手に気持ちがこみ上げた。


(ただいま、って──言いたくなるな)

カチリと鍵を回す。その手元の感触が、自分の居場所を確かにしてくれる気がして、リシャの胸はまたひとつ、やわらかく光った。


本に夢中になっていたせいか、窓の外がすっかり朱に染まりかけていたことに気づいたのは、玄関の鍵が回る小さな音を耳にした瞬間だった。

ぱたん、と本を閉じて立ち上がり、廊下へ出る。


扉が開かれると、そこには見慣れたはずの姿──けれど少し疲れの滲んだ表情のユージーンが立っていた。だが、リシャの姿を見つけた途端、その顔がふっと柔らいだ。


「……ただいま、リシャ」

その声音に、一日ぶりの温もりが宿る。


「おかえりなさい、ユージーンさん。お疲れ様でした」

「──ああ、疲れた……」


その言葉に重なるように、ふたりは自然と両腕を広げた。まるで約束していたかのように、互いの体が引き寄せられていく。

ぎゅう、と優しい力で抱きしめられる。ユージーンの体温が、服越しにじんわりと伝わってくる。

髪に指が触れる気配。ゆっくりと梳いてくれるその仕草が、ひどく心地よくて、リシャはそっと目を閉じた。


(……もしかして、髪を触るの、好きなのかな)

ふとそんなことを思いながら、身体を少しだけユージーンへと預け、その存在に意識を預ける。


ユージーンからは、ほんのりと汗の混じった外の匂い。そして、彼そのものの、どこか清々しい香り。そのどれもが、安心感と共にリシャを包み込んだ。

そっと彼の背中を撫でると、頭の上のあたりから長く深い息がひとつ落ちてきた。

その気配に、リシャの胸もまた、やわらかくほどけていった。


食後の食器を片づけ、灯りを落とした室内は、ゆるやかな温もりに包まれていた。

今日もまた、ユージーンが作ってくれた食事をふたりで囲み、ささやかな会話を交わしながら時間が流れた。

その後、居間でもう少しだけ言葉を交わし、交互に湯に浸かって身体を温め、おやすみの挨拶とともに自然と抱きしめ合った。


自室で横になったリシャは、そっと目を閉じる。

明日は週の始まり。また任務が始まる。

けれど不思議と、憂うような気持ちはなかった。


やるべきことがある日々。その合間に、帰れる居場所ができたこと。

それだけで、こんなにも心が前を向けるのだと、今夜あらためて知った。


リシャは、少しだけ唇をゆるめて、深く息を吐いた。

明日も、ちゃんと頑張れる──そう思いながら、穏やかな眠りに身をゆだねていった。

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