第四話:直属斥候は、居場所を自分の手で整える
あの日の夜、ユージーンと静かに言葉を交わしながら、二人のあいだにひとつの約束が生まれた。
「週末」とされる数日のあいだは、基本的にユージーンの家で過ごすことに決まった。静けさの戻る夕方から、次の出動前の朝までを、ふたりの時間にあてるように。
そのほかの日は、状況や都合に応じて、決めていけばいい。
たとえ団長の邸宅であっても、軍の宿舎こそが自分の所属先である以上、寝泊まりの届け出は必要とされる。
最初のうちは、毎週末ごとに外泊申請を出す手間があったが、ユージーンが「いずれ定型申請に切り替えよう」と提案してくれた。
それは、少しずつ、二人のあいだに「日常」が育っていくような──穏やかな合意だった。
初めての週末を迎える前日の夜、ユージーンはリシャにふと問いかけた。
「必要なものがあれば、部屋に少しずつ持ってきてもらって構わないよ」
けれど、リシャはその言葉に少し困って、そして静かに首を横に振った。
軍での生活に慣れすぎていた。
装備一式は当然、下着もタオルも、月のものの備えまでも、すべてが軍の支給品だった。
そうして生きてきた自分にとって、「私物」と呼べるものなど、数えるほどしかなかった。
「……あまり、持っていないんです。そういうもの」
リシャがそう告げると、ユージーンは一瞬だけまばたきをして、それから──何も言わず、優しく微笑んだ。
そして、こんな提案をくれた。
「じゃあ、来週から使うもの以外は……一緒に、揃えていこうか。
きみの好きなものを、きみの目で見て、選んでみてほしい」
その言葉に、胸の奥がふわりと温かくなった。
(……そうだ、自分で選んでも、いいんだ)
軍の生活では「与えられるもの」に慣れていた。
選ぶ機会がなかったわけではない。けれど、どこかで「必要最低限でいい」と思い込んでいた。
ユージーンは、きっとそれを知っていて──だから「一緒に」と言ってくれた。
報酬として受け取っていた給金も、ほとんど手をつけずにそのままにしていた。
それを使うことが、今ようやく意味を持ち始めている。
初めての「居場所づくり」に、心がどきどきと浮足立つ。
リシャが小さく頷いたとき、ユージーンはどこかほっとしたように、嬉しそうに笑った。
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──そして、外泊を決めてから迎える最初の朝。
約束していた待ち合わせの広場に着くと、ユージーンの姿がすぐに目に入った。
ユージーンは、私服姿だった。
淡い灰茶のシャツに、深い藍色のロングコートを羽織っている。
下は、皺ひとつない濃紺のスラックス。足元には、丁寧に磨かれた革靴が光っていた。
休日の装いでありながら、どこか軍務の延長のような整い方をしているのが、いかにもこの人らしい。
髪も、いつものようにきちんと整えてはいるが、任務の時よりは少しだけ崩れて見えて、それがどこか親しみやすい雰囲気を醸していた。
軍服の時よりもやわらかく見えるその姿に、少しだけ見惚れる。
朝の光を受けて、彼のシルエットがどこかやわらかく見える。
ふだん軍服の下で隠れている雰囲気が、今日だけは少しだけほどけていて──それが妙に、胸に残った。
一方のリシャはというと、私服というものを持っていない。
少しでも「くつろいで見えるように」と、制服の中でも比較的ラフな装いを選んで着てきた。
詰襟のない軽装の上衣に、動きやすい布地のズボン──肩章も外し、髪もいつもより整えてある。
軍支給のショートブーツに、ふくらはぎ丈の靴下を合わせ、全体としては地味だがきちんとした印象だった。
自分なりに「堅すぎない雰囲気」を意識したつもりで、鏡の前で何度も確認してきたのだった。
それでも、胸の中には小さな期待がある。
今日という日が、どんな一日になるのか──
少しの緊張と、あたたかな喜びを胸に、彼のもとへと向かった。
ユージーンもすぐにリシャに気づき、穏やかな表情で近づいてくる。
ごく短い挨拶を交わしたあと、ふと彼の視線がリシャの服装に向けられた。
「……工夫してくれたんだな」
やさしい声音でそう言われて、リシャは小さく瞬きした。
「制服でも、ずいぶん柔らかく見える。似合っている」
目の奥がくすぐったくなるような言葉だった。
俯きながら、リシャは少し照れたように答える。
「……ありがとうございます。私服を持っていないので、せめて。
ユージーンさんと並んで歩くとき、少しでも自然に、その……恋人らしく、見えたらいいなと思って……」
言い終えるころには、ほんのりと頬が熱を帯びていた。
そのとき、不意にあたたかいものが手の甲に触れる。
──ユージーンが、手を握っていた。
「……っ」
驚きに、声は出なかった。
けれど視線が合うと、ユージーンはすぐに気づいて、少し眉を下げた。
「……すまない。何も言わずに。繋いでいいか、先に聞くべきだったな」
謝るようなトーンだったけれど、どこか不安げでもあった。
リシャはすぐに、首を横に振った。
「……嬉しいです。ユージーンさんと、こうして手を繋いで歩けるの。……いつでも、繋ぎたいくらいですから」
素直な気持ちだった。
言葉にしてしまえば、ほんの一言でしかないのに。
胸の奥で、静かに波紋が広がっていく。
ユージーンは、少し驚いたように目を瞬かせて──それから、心底ほっとしたような笑みを浮かべた。
その手のぬくもりが、少しだけ強くなる。
今日は、ずっとこのままでいようと──リシャは静かに、そう思った。
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街は、朝の光に包まれていた。
石畳に差し込む陽の色はやわらかく、まだ涼しげな空気を連れている。
騎士団本部からほど近い、王都中央区の一角。
古くから続く通りと、近年整備された並木道が交差するエリアには、衣料品から生活雑貨、書店、惣菜店まで、大小さまざまな店が立ち並んでいた。
今日ふたりが回る予定の店は、その全てが徒歩圏内にまとまっている。
「まずは衣料品店で私服を──そのあと、必要なものを無理のない範囲で見てまわろうか」と、ユージーンは事前に地図を描いてくれていた。
通りを歩きながら、彼は折に触れて店の外観や道順を教えてくれる。
リシャは頷きながら、それを一つひとつ覚えようと耳を傾けていた。
地図が読めることと、実際に土地勘を得ることはまったく別物だ。
彼の横を歩くことで、地面の質感や店のにおい、窓辺の花や飾りが、確かな記憶として胸に残っていく。
やがて、衣料品店の前に着くと、ユージーンが扉を軽く押し開けてくれた。
中は落ち着いた色合いの照明と、すっきりと整えられた服の棚が広がっていた。
軍の支給品とはまるで異なる、色と質感の世界。
リシャは、ほんの少しだけ息を呑んだ。
「焦らなくていい。ゆっくり見て、気になるものがあれば教えてくれ」
そう言って、ユージーンは少し離れた場所で控えてくれる。
リシャは店内をゆっくり歩きながら、布の手触りを確かめていく。
どれも、思っていたより柔らかくて軽かった。
はじめに手に取ったのは、袖に細かな刺繍が入った淡い水色のブラウスだった。
陽の光を透かすほど薄い布地で、肌にまとわりつく感じが想像できた。
(……きれいだけど、落ち着かないかも)
そうつぶやいて、そっと元の場所へ戻す。
次に目に留まったのは、リネンのロングスカート。
生成りの布に小さな花模様が散っていて、どこか懐かしさを感じる風合いだった。
けれど、自分がそれを着て歩く姿を思い浮かべてみても、うまく想像できなかった。
(……似合うかな、どうだろう)
そう思いながら、もう一度そっとたたみ直す。
その次に手を伸ばしかけたのは、柔らかなニットのチュニック。
手触りはとても心地よく、色合いも穏やかだったが、布の面積が少なく感じて少しだけ躊躇してしまった。
(温かそうだけど……私には、まだちょっと早いかも)
そう心の中でつぶやいて、再び棚へと戻した。
そんな中で、目に留まったのは一枚のシャツワンピースだった。
襟元と袖口にさりげない縫い込みがある、腰まわりにベルトがついた、淡いグレージュの一着。
軍の制服と似た丈と仕立て──でも、生地はずっとやさしい。
「……これ、着てみたいです」
差し出した服を見て、ユージーンがわずかに目を細めた。
「似合うと思う。試着室、空いてるみたいだ」
そう促されて、リシャは試着室のカーテンの奥へと入った。
着替えの手順はいつも通りなのに、なんだか少し手間取った。
襟元を整えながら、鏡の中の自分と目が合う。
──不思議な感じがする。
生地が柔らかくて、でも背筋は自然に伸びた。
これは、自分のために選んだ、自分の服だ。
カーテンをそっと開けると、ユージーンがこちらを見ていた。
そして、微笑む。
「よく似合ってる。落ち着いた色も、きみに合ってるな」
視線がやさしくて、リシャは思わず小さく俯いた。
会計の前に、店員に制服を畳んで紙袋に詰めてもらい、リシャはシャツワンピースに袖を通したまま店を出ることにした。
淡いグレージュの生地は軽やかで、動きに合わせて静かに揺れる。足元にはそのまま履いていた軍支給のショートブーツ。
意外にも、ワンピースの丈感と質感にすっと馴染み、全体の印象が悪くない気がした。
思っていたより、違和感がない──いや、むしろ少し、おしゃれに見えるかもしれない。
そんなことを思う自分に、リシャは内心少し驚いていた。
リシャが財布を手にしようとしたとき、ユージーンが自然に歩を進め、先に店員へと差し出す仕草を見せた。
「あの、私が払います」
リシャは、少し息を整えてから言葉を続けた。
「居場所の準備を、自分の意思で、自分のお金でやってみたいんです」
その言葉に、ユージーンは一瞬だけ目を伏せ──やがて、ゆっくりと頷いた。
「……確かに、その通りだな。じゃあ、任せる。ここで待っているよ」
尊重されたことが、少しだけくすぐったく、そして嬉しかった。
会計を終えると、店の外は少し風が通っていた。
袋を受け取ると、二人の手が、また自然に重なる。最初のときより、もう少ししっかりと。
そのまま少し歩き出してから、ユージーンが、ちらりとリシャの横顔に視線を向けた。
そして、ほんの一拍の間を置いて、少しだけ息をつくように言った。
「……悪い意味じゃない。けど、今のきみをちょっと直視できないかもしれない」
リシャがきょとんと目を見開くと、ユージーンは少しだけ目を逸らして、言葉を継いだ。
「新鮮すぎて、眩しく見える。似合ってるってことだよ」
その声音は、普段よりわずかに柔らかく、どこか照れた響きを帯びていた。
いつもの軍装とは違う──ほんの少しだけ特別に見えるその姿を、彼は心から肯定していた。
リシャの頬が、知らず熱を帯びる。
思わず俯きかけた視線を、繋いだ手のぬくもりがそっと支えていた。
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次に向かったのは、衣料品店の奥に併設された、日常着や寝間着、肌着などを扱う静かな区画だった。
入口近くには、柔らかな色合いの寝間着や部屋着が並び、その奥の一角に、下着と肌着が静かに並べられていた。
ユージーンは店員にひとこと声をかけ、リシャの視線を見て察すると「向こうにいるから」と小さく言い、視線を離した。
残されたリシャは、ゆっくりと棚に近づく。
──普段使っているのは、どれも軍の支給品。自分で選んだことなんて、一度もなかった。
でも今日は、違う。
女性の店員が「何かお探しですか?」と声をかけてくれる。その表情がとても穏やかで、リシャの緊張が少しほぐれる。
「……あの、どれがいいのか、よく分からなくて。一式が欲しいと思っているんですけど」
そう呟くと、店員は軽く微笑んで、肌触りや用途ごとにおすすめを案内してくれた。
「これは肌にやさしい素材ですよ」「こっちは重ね着にも向いています」「これからの時期におすすめですよ」
差し出された数枚を手に取り、そっと触れる。──柔らかい。支給品とまるで違う感触が、少しだけ胸を温かくした。
肌着類を選び終えたあとも、リシャはその場からすぐには離れなかった。
視線の先、隣の棚には小さな案内札とともに、ゆったりとした寝間着がいくつか並んでいる。
──ああ、そうだ。
これが無いと、またユージーンから借りることになる。
思い返すのは、数日前の夜。
彼の大きめのシャツに袖を通したまま、少しだけ落ち着かなかった寝入りの時間。
嫌ではなかったけれど──ちゃんと自分で用意したほうが、きっと心から安心できる。
リシャは、棚の前にそっと立ち、手を伸ばす。
最初に触れたのは、淡いピンク色の薄手のワンピースタイプ。
柔らかく、軽い。でも、自分には少し可愛らしすぎる気がして、すぐにそっと戻した。
次に見たのは、グレーの上下セット。
パンツはゆったり、上はボタン付きのトップスで、きちんと感がある。
悪くはない──けれど、生地が少し硬く感じられた。
三つ目。
ややくすんだ青みがかったベージュの、ふわりとしたトップスと七分丈のパンツ。
襟元に小さな装飾があしらわれていて、派手ではないのに、少しだけ華やかだった。
手のひらで布をなぞる。
──気持ちいい。これなら、よく眠れそう。
「……これにしよう」
つぶやくように決めて、リシャは肌着類とともに寝間着を抱えた。
不思議だった。ついさっきまで、どれを選べばいいかわからず戸惑っていたのに、今はその手に持つ重みが少しだけ、誇らしかった。
会計の前に、リシャは選んだものをそっと胸元に抱えたまま、少し離れた場所に立つユージーンのもとへ戻った。
彼はスマートに距離をとって待っていたが、リシャが来たことにすぐ気づき、優しく目を細める。
「決まったみたいだな」
「はい……寝間着も、一着だけ、ちゃんと選びました」
そう言って、控えめにその服を見せると、ユージーンは視線を落として品を確かめ、
静かに、でもどこか嬉しそうに頷いた。
「……いい選び方をしたな。色も、生地の感じも柔らかくて、ゆったりと休めそうだ」
「ありがとうございます。……ちゃんと、自分の服で眠れるのが、楽しみです」
そう答えると、ユージーンは口元にごく小さな笑みを浮かべた。
「それを着て眠れる場所が、きみにとって安心できるものになるように……私も、頑張るよ」
言葉の最後に、ほんのわずかに照れのような気配が混じったのがわかった。
リシャはそっと目を伏せ、うなずく。
──たぶん、言葉以上に、気持ちは届いていた。
会計を済ませて三軒目へ。向かったのは、生活雑貨を一通り扱う店だった。
小さなカゴを手にして入店したリシャは、ずらりと並ぶ商品に一瞬目を丸くした。
タオル、歯ブラシ、石けん、くし、綿棒──普段は共用の備品で済ませていた品々が、それぞれきちんと、整えられている。
「最初は、何が本当に必要なのか分からないと思う」
隣でユージーンが、リシャの様子を見ながら穏やかに言った。
「無理に選ばなくても、また来ればいい。今日はその“最初の一歩”だけでいいんだ」
──“最初の一歩”。
言葉が、胸に優しく届いた。
リシャは、そっと商品棚へ手を伸ばす。
好きな香りを──とまではいかない。でも、控えめで穏やかな香りの石けんを一つ。
くしは、手のひらに収まる小さなものを。タオルは、少し厚手で柔らかいものを一枚。
ほんの少しずつ、選ぶという感覚に身体が慣れていくのを感じながら、リシャは静かに、ひとつひとつカゴへと収めていった。
そして──ユージーンと目が合うと、どこか誇らしげに、微笑んでみせた。
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荷物が少しずつ増え、手提げ袋をいくつも抱えるころには、さすがに足取りも重くなっていた。
見慣れぬ私服の裾が少し風に揺れて、背中に心地よい疲労がまとわりつく。
「……そろそろ、一息入れようか」
そう声をかけたユージーンの顔を見上げると、彼の表情にもほんのりと疲れが滲んでいた。
リシャは頷き、ふたりで向かったのは、王都中央区の通りに面した一角。
石畳の歩道沿いにある、白い庇が印象的なカフェだった。
ガラス窓越しに見える店内は、どこか整然としていて──
リシャがいつも立ち寄るような、重厚な木製の椅子や穏やかで静かな雰囲気の喫茶店とは、ずいぶん雰囲気が違う。
壁際の棚には色とりどりの冊子が並び、黒とグレーを基調にした内装はどこか都会的で、ほどよく賑やかな会話が空気に浮かんでいた。
けれど──
リシャは、自分の手がまだユージーンと繋がれていることに気づいて、胸の奥がきゅっとなる。
(……こういう場所に、私服で、手を繋いで入るなんて)
普段なら、意識することのない視線の動きや歩幅の合わせ方が、今日はひとつひとつ特別だった。
少し背筋を伸ばすと、ユージーンが気づいたように小さく微笑む。
店内の窓際に並んだ席に案内されると、ふたりは向かい合って腰を下ろした。
リシャは手元にある紙袋をそっと整えながら、ユージーンと目を合わせる。
「……なんだか、今日はずっと新しいことばかりで、まだうまく整理がついてないです」
ふっと漏れた言葉に、ユージーンは「そうか」と短く返してから、グラスの水に指を添えた。
リシャは続けた。
「でも、服とか、日用品とか──いくつか見ていて、なんとなく『これ、落ち着くかも』って思えるものが、いくつかありました。
どうしてかは、うまく説明できないんですけど……。でも、選ぶって、ちょっと楽しいんですね」
そう言って笑ったリシャの頬には、ほんのりと朱がさしていた。
それは、さっきまでの買い物の中でも見られなかった、素直な顔だった。
ユージーンはしばらく彼女を見つめてから、やわらかな声音で返す。
「……そう思ってくれたなら、よかった。
『好き』とか『落ち着く』って、自分で見つけていくしかないけれど……
きみの中で、そういうものが増えていくのは、きっと大事なことなんだと思う」
リシャはその言葉を、胸の奥でそっと抱きしめた。
「……はい。これからも、探していきたいです。
ユージーンさんの家で過ごす時間の中で、少しずつ……ちゃんと、自分のものにしていけたらって思います」
ユージーンが頷いた。
その目はまっすぐで、リシャの言葉を、すこしもこぼさずに受け止めてくれているようだった。
そしてふたりは、湯気の立つカップに手を伸ばす。
穏やかな時間が、王都の喧騒からほんの少しだけ離れた窓辺に流れていた。




