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第二話:新任斥候は、騎士団長に試されている

その朝、リシャは通常より一時間早く指令書を受け取っていた。

任務名は「東方境界の偵察および路線確認」。周辺の地形変動によって一部ルートの再調査が必要になったらしい。補足文には「単独斥候による探索を推奨」と明記されている。


一読して、静かに息を吐いた。

(……単独。ついに来たか)


初任務からすでに三度、彼女は斥候として複数人の小隊に加わり、交替制の偵察任務を無難にこなしてきた。いずれも特筆すべき混乱はなく、魔獣の遭遇時には即座の回避誘導と位置情報の伝達を冷静に行った。

報告の中に、大げさな功績の記載はなかった。

だが、結果として「すべてが計画通りに進んだ」ことこそ、リシャという斥候の力量を物語っていた。


──そして今回は、初めての“単独任務”。

信頼と評価があるからこその抜擢であることは、理解していた。

ただ同時に、それが「再検証」でもあることもわかっていた。


(偶然じゃない。たぶん、試されている)

やるしかない。リシャは肩の力を抜き、手早く準備を始めた。


斥候装備一式。旧版と新調された簡易地図の二枚重ねを手帳に留め、魔導通信具を予備とあわせて二つ用意。軽装靴、短剣、補助弓、懐に非常食と止血包帯。髪は結わず、邪魔にならぬ程度に耳へとかけてまとめる。


そこへ、マリナが扉の隙間からそっと顔を出した。

「おはよう。……早いのね、今日は」


リシャは頷き、報告書の控えを見せる。

「境界沿いの再偵察です。東側の迂回路。単独で」


マリナは紙に目を落とし、微かに眉を寄せた。

「単独……。また急な任命ね。前回の分も、まだ報告整理が終わってないのに」

「たぶん、これまでの動きが“偶然じゃないか”を見たいんだと思います」

静かに言いながら、リシャ自身の中にも割り切れない感触が残っていた。


初任務、二度目、三度目。いずれも淡々とこなしたつもりだった。

だがその都度、背後から向けられるユージーンの視線には、少しずつ違いがあった気がする。驚き、静観、そして──今回。


思考を遮るように、控えめなノック音が部屋に響いた。リシャが「どうぞ」と応じると、扉がすっと開く。

ユージーンが、出立前に自ら足を運んできた。


「出立前に、少しだけ」

軍装の整ったユージーンが静かに立っていた。

そのまなざしは、真っ直ぐリシャを見ている。


「今回の任務、私が後方から随行する。指示は不要。連絡が必要な場合以外、自由に動け」

「……了解、しました」


返事をしながら、リシャの内心はかすかに揺れた。

(……どうして、団長が)


これまでの任務では、彼が随行するなど一度もなかった。必要な連絡や指示は、部下を介して十分にこなされていたはずだ。

にもかかわらず、今回はわざわざ「自由に動け」と告げにきた。


何を意図しているのか。

問いは喉まで上がったが、言葉にはならなかった。

ユージーンはそれ以上なにも言わず、一礼だけを残して去っていった。


その背中を、リシャはつい目で追った。

(監視……? 確認……?)

胸の奥に、なんとも言えない感触が残る。


マリナが心配そうに見つめる中、リシャは背負い袋の紐を締め直す。

その手のひらには、かすかな汗が滲んでいた。


---


陽が高くなる少し前、東の境界沿いをリシャは静かに歩いていた。

空は晴れ、湿った風が草をなでるように流れていく。まだ朝靄の残る森の中で、足音を吸収する軽靴が地面を柔らかく踏みしめる。背後に人の気配はあるが、声はない。


ユージーンが随行していることを、リシャは明確に意識していた。

しかし彼は距離を取り、あくまで“存在を示すだけ”に徹しているようだった。


(……自由に動け、か)


出立前の言葉を思い出しながら、リシャは前方の地形を確認する。旧地図と照合し、崩落のあったとされる区画を確認。枯れかけた斜面と、僅かな踏み跡が続く谷筋。風が一方向から流れてくるのは、地形が少し開けている証拠だ。


斥候としての思考が、淡々と脳内で組み上がっていく。


これまでの任務でも、同様だった。複数人での偵察でも、ほとんど声を交わさずに連携できた。必要最小限の合図、的確な行動、報告書に残らない範囲の些細な判断。


だが──今回は、ほんの少しだけ、違った。


(……妙に意識に残る)


気配そのものは希薄だ。動作音も息遣いもない。けれど背後から射抜かれるような、ユージーンの鋭い視線だけが時折、肌に触れてくる。

あの距離にいながら、あの気配で、なぜ「見られている」とわかってしまうのか。

気配が異質だ。沈黙の奥にある観察の意志が、リシャの感覚を微かに揺らした。


無言のまま、視線を前へ戻す。

谷を越え、くぼ地に出ると、あたりの空気がすっと冷たくなる気配があった。

木々の葉がざわついたわけでもない。獣の鳴き声が聞こえたわけでもない。

ただ、自然の中にあるべき“音”のいくつかが、少しだけ、消えているような、そんな感覚。


(……何か、ある)


リシャは静かに膝をつき、耳を澄ませた。

小柄な身体が木の根にすっぽり収まり、影の中へと溶ける。


風が通る音、遠雷のような反響、そして──微かに残る踏み跡。人間のものではない。魔獣特有の重心の傾いた足取り。しかもそれは、比較的新しい。


リシャは振り返らない。手だけで、後方ユージーンに合図を送る。

警戒、停止、静音。わずか三つの指示を、手短に伝える。

すぐに足音が消えた。後ろでユージーンが立ち止まったのを気配で知る。

これでいい。必要なことは、言葉にしなくていい。


(来るなら、ここだ)

矢を一本、手の内で確認。


狙いは射線ではない。タイミングと影の取り方だ。

この先の小さな斜面の上、わずかに葉が揺れた。


音は、まだしない。

けれど、身体が動いていた。


矢をつがえる。息を潜める。

瞬間、風向きが変わった。

リシャは、一歩踏み出した。


---


風が変わった。森の気配が、一瞬だけ凍る。

そのわずかな変化に、リシャの身体が先に動いた。

風ではない──聞こえたのは、踏み鳴らされなかった足音と、湿った空気の歪み。


(……来る)

手だけで、再度合図を送る。斜面下、潜伏。


足元を蹴って斜面の脇を無音で駆け上がる。木を支点に反転し、落ち葉の陰に身を滑り込ませた。

全身で風景に溶け込みながら、影として動き、小柄な体を枝の隙間にしならせて敵の死角へと回り込む。


視界に捉えたのは、腐れ落ちた毛皮と膨れた腹──こちらへと匂いをたどる魔獣。

(もう一歩)

矢をつがえ、跳びかかる動作に合わせて鼻先へ射ち込む。

わずかな躊躇の隙に、斜面を滑って短剣を抜き──喉元へ、一閃。

鋭い音とともに、魔獣の動きが止まった。瞳孔と呼吸の停止をすぐさま確認する。


矢を回収し、短剣の血を拭い、後方の位置へ目線を向けると、ユージーンの視線が真っ直ぐにこちらを捉えていた。

そのまなざしに、リシャの胸が一瞬だけざわつく。


驚きや称賛とは違う。

ただ、静かに圧倒されているような、深い沈黙を湛えた視線だった。


(……今の、視線は……?)


思考が一瞬だけ乱れた。

リシャはそれをごまかすように、いつも通りの声で告げる。


「……異常なし。一体、仕留めました」

声は平静。抑揚も、表情も変えない。


その言葉を聞いたはずのユージーンが──なぜかすぐには返事をしなかった。

はっと気づいたような素振りを見せたかと思うと、小さく「……ああ」とだけ漏らしたような声が届いた。


思考が追いついていないような、反射のような声だった。

いつもなら、即座に「よくやった」か、「確認済みだ」と返されるはずだったのに。


不思議に思いながら背を向ける。

そのまま前を向いて進みながら、リシャはほんの少しだけ俯いた。

(……今の視線、どういう意味だったんだろう)


---


任務は、その後何事もなく終わった。

斥候の役目は“調べて、伝える”こと。地形の確認、獣道の更新、魔獣の痕跡の有無。すべてを記録し、帰還後に提出する。


拠点へ戻る道すがら、ユージーンは一言も発しなかった。

それはいつものことだったはずなのに──今回は、少しだけ違って感じられた。

気まずい沈黙ではない。特に埋める必要のない空白。

それでも、リシャは何度か視線を向けそうになり、そのたびに前を向き直した。


斜陽が長く伸びる道を歩く。

森の中で身を潜めていた時よりも、足取りが重たく感じるのはなぜだろう。任務は成功した。何の問題もなかった。


けれど──

(……言葉にできない)

胸のどこかに、ずっと残っているあの視線。あの間。息を呑む音。遅れた返事。それの何が引っかかっているのか、リシャ自身もまだ掴めない。


拠点が見えてきたところで、ユージーンがようやく足を止めた。

「報告は、明日で構わない。整理を終えてからでいい。今日はゆっくり休むといい」


それだけを言って、背を向ける。

歩き去ろうとしたその背中が、ふと、止まった。

振り返らないまま、ほんの少しだけ声の調子を落として言った。


「──次も、頼む」

静かな、けれど確かな一言だった。


リシャはすぐには返事をしなかった。

声にしようとして、止め、代わりに軽く敬礼だけを送る。

ユージーンはそれを見ることなく、すでに歩き出していた。


夕陽が、遠ざかる背を淡く染める。

リシャはその場に残り、しばらくその色だけを見つめながら、報告書に書く内容をぼんやり考える。


魔獣を一体、仕留めたこと。地形図とのズレが二箇所あったこと。気配の薄い獣道が、新たに一本見つかったこと。

けれど──

(今日のことは、全部、書ききれない)


胸の奥に残ったざらつきを、リシャはまだ言葉にできなかった。


---


その夜、執務室には静かな気配が満ちていた。

帳が落ち、部屋を照らすのはランプひとつ。

机の上に置かれた資料の束から、一枚の個人記録書を、ユージーン・ヴァルクナーは指先で引き抜いた。


リシャ・アイゼル──

一月足らずですっかり見慣れた名が、書類の上部に記されている。


何度か目を通したはずなのに、今日は視線がそこで止まった。

指先が微かに揺れた。そこに記された経歴の字面が、やけに重く感じられる。


『王都のスラム出身。幼少期に独自入手した魔導銃にて整備・射撃技術を習得。

魔獣騒動時、即興の援護射撃を行ったことで衛生部門マリナ・クライン隊員に発見され、保護・特例採用に至る──』


正規の課程を経ていない。

教官の評価も訓練成績も、どこにもない。

それでもこの数年、実地任務の記録は途切れていなかった。


思い返す。初任務の夜──

言葉を交わすこともなく、背後の気配だけで動きを察知してきた斥候。

小柄な影が、ひるまず魔獣に対峙し、こちらの一歩先で危機を処理した瞬間。


あのとき、自分は何を感じたんだったか。

「……未熟だったのは、こちらのほうだな」

つぶやいた声が、紙面に落ちる。


手元に視線を戻せば、書類の端がわずかに折れている。

何度も繰り返し触れてしまったせいだろう。

自分の肩にも届かないほどの背丈──

頭ひとつ分は軽く小さいその身体が、どれほどの場数を踏んできたのか。

どれほどの緊張と、孤独を、黙って飲み込んできたのか──


書類から目を離し、ペンを取る。

いつも通りの筆致。いつも通りの構成。

ただ、文末の余白だけが、妙に広く感じられた。


記し終えると、ユージーンは一度だけ書類を見つめ、無言で席を立つ。

静かに閉じられた扉の向こうに、書類だけがぽつりと残された。


---


【斥候任務報告/随行補記】

斥候:リシャ・アイゼル


単独行動による境界偵察任務を完遂。目的地までの経路確認、地図修正二箇所、魔獣一体の排除を含む

《情報処理に長け、判断の優先順位も妥当。状況把握と初動判断が早く、危機下における対応は冷静かつ的確。》

《随行中、明確な指示なしでも意図を汲み取る動きが見られ、連携能力も高い。身体能力は並以上。》

《実地観察により、先任斥候に比して不足なく、現地判断においては一部優越を認める。》


──以上を踏まえ、当該人員については、次回任務より「団長直属斥候」としての運用を試験的に開始する。

状況を見て、正式配属への検討に移行可。


王都騎士団・第七団所属 団長

ユージーン・ヴァルクナー

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