第三話:直属斥候は、騎士団長の家で静かな朝を迎える
目を覚ますと、窓の外にはやわらかな朝の光が差していた。
客間の空気は静かで、昨夜のやりとりの余韻がまだ、胸の奥に微熱のように残っている。
ユージーンのシャツは寝間着としてはゆるくて、動くたびに布がふわりと揺れた。
肌に触れるたび、「これはユージーンさんのものだ」と思い出して、少しだけ胸が高鳴る。
(……夢じゃなかったんだ)
そう確かめるようにゆっくりと起き上がり、身支度を整える。
畳んだ寝間着を大事に抱え、部屋を出た。
廊下を抜けると、器の触れ合う音と、かすかに香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
台所の奥、まだ朝靄のような柔らかな光が差し込む空間に、ユージーンの姿があった。
私服の上に、深い色合いのエプロンを身につけている。布地は厚手で、質の良さが見て取れた。
彼は腕をまくり、手元の鍋の火加減を確認しているようだった。その動きは静かで、慣れている。
露わになった前腕の筋が目に入り、リシャはふいに視線を逸らしかける。
(……ユージーンさんが、台所に立ってる……)
まるで戦場とは別の顔を見たような不思議さと、私服の柔らかさが与える印象のちぐはぐさに、胸が妙にざわめいた。
とはいえ髪型は、いつも通りの整え方だった。額の一部に下ろされた前髪からは、まだ仕事の顔が覗いている。
だが──それでも。
今、彼は“私のために朝食を用意している”ということを、リシャの胸の奥がゆっくりと実感し始めていた。
「おはようございます」
小さな声で呼びかけると、ユージーンはすぐにこちらへと振り返った。
「おはよう。よく眠れたか?」
「はい、とても。寝間着……ありがとうございました」
「……ああ、洗面のかごの中に入れておいてもらえるか」
互いに短く言葉を交わすだけで、昨日からのつながりが自然とそこにある気がした。
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朝の光が差し込む居間の一角──ダイニングとして使われているらしい空間に、二人分の食事が静かに並べられた。
華美な装飾はないが、器のひとつひとつに清潔さと整えられた意志が感じられる。
スープ、軽く焼かれたパン、彩りのよい果物、そして湯気の立つ紅茶。
ひとつひとつが温かく、食卓に向けられた真摯さが伝わってくる。
ユージーンが淹れてくれた紅茶を手に取り、リシャは少し緊張しながら口に運んだ。
香りがふわりと鼻に抜けていく。優しい味で、芯からほどけるような温もりがあった。
(……おいしい)
口にした瞬間に広がる安堵感は、空腹を満たすだけのものではない。
きっと、心のどこかがゆっくりとほどけていくからだ。
果物に手を伸ばしたリシャは、ふと、己の現状に気づく。
(ユージーンさんの家で、朝ごはん……)
(泊まったんだ、私……。仕事じゃなくて、ふつうに──外泊……!)
一口食べた果物の甘さが、急に現実感を連れてくる。
わずかに動揺しながらも、なんとか言葉を探し出す。
「……あの、外泊のことなんですけど、届け出は──」
「──ああ、それについては説明しておく」
スプーンをそっと置いたユージーンは、変わらぬ落ち着いた声音でそう言った。
その視線はまっすぐで、穏やかな眼差しが妙に頼もしく感じられる。
「基本的に、軍宿舎に泊まらない夜がある場合は、『特例外泊届』を提出する決まりだ。
泊まった場所や理由、連絡先などを記録に残すためのものだが……」
ユージーンは、少しだけ間を置いて続ける。
「たとえば、ギルデン副官のように、事前に外部滞在先の許可を取っている隊員もいる。
既婚者や家族と暮らしている者などは、定型で処理されているからな」
リシャは黙ってうなずいた。
「君の場合は、初めての例になる。
提出そのものは簡単だが、副官経由での処理になるから、今日のうちに彼に渡してくれ」
「……わかりました。提出します」
「昨晩、私からも一報入れてある。内容は把握しているはずだ。
副官には“急な私的理由での一泊”という記録で処理するよう頼んである」
ユージーンの声音はあくまで穏やかだった。
それが報告であると同時に、咎めや監視の意図ではないことを、はっきりと伝えてくれている。
「特段、理由を深く聞かれることはないはずだが、気になるなら私に回すよう言ってもいい」
その一言に、リシャの肩の力がふっと抜けていくのが自分でもわかった。
ちゃんと、自分が守られている。
今も、これからも──その感覚ごと、静かに包み込まれていく。
リシャは、もう一度深くうなずいた。
「ありがとうございます。……ユージーンさん」
照れくささが混じった声に、ユージーンはわずかに口元を緩めた。
「……紅茶、足りてるか?」
「えっ、あ、はい。大丈夫です」
どこかぎこちない会話が、むしろ心地よく感じられる。
ふたりの朝は、まだ始まったばかりだった。
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提出の朝、リシャは食後の温かな空気のなかで、外泊届の用紙を鞄に滑り込ませていた。
一度宿舎に戻るために玄関へ向かおうとしたとき、ユージーンの声が、ふと背後から届く。
「……ギルデン副官は、詮索や私情を挟まない男だよ。安心していい」
その言い方は、どこか淡々としていて、それでいてリシャを気遣うやわらかさが含まれていた。
「もし気がかりなことがあるなら、今のうちに私に訊いてもらって構わない」
振り返ると、ユージーンはコートの襟を整えながらこちらを見ていた。
表情に迷いはなく、軍務と私事の線引きをきっちりと守っていることが、言葉より先に伝わってくる。
「……いえ、大丈夫です。副官殿がそういう方だと、ユージーンさんが言ってくださるなら」
リシャがそう答えると、ユージーンは小さく頷いた。
「彼は、私よりよほど柔軟で常識的だ。──万が一、何かを問われた場合は、私の判断での宿泊だったと伝えればいい。君の口から説明する必要はない」
それはまるで、余計なものを背負わせまいとする配慮のようだった。
(……本当に、この人は)
思わず胸の内で呟いたリシャは、それでもどこか、その冷静な気遣いに救われる。
「ありがとうございます。──行ってきます」
「気をつけて」
その一言とともに、ユージーンは扉を開けて送り出してくれた。
冷気が頬をなでる中、リシャは背筋をのばして歩き出す。
その手の中には、軍規に則った一枚の用紙が握られていた。
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手続き用紙を手に、リシャは執務棟の副官席を訪ねた。
朝の喧騒もひと段落した頃合い、ロルフはいつものように端正な書類整理を進めていた。
灰がかった茶の髪は短く整えられ、金縁の眼鏡越しの視線は静かに紙面を追っている。
その横顔には、どこか穏やかで、話しかける側の緊張をほぐすようなやさしさがあった。
「……ギルデン副官。外泊の申請、提出に来ました」
そう言って差し出すリシャに、ロルフは一瞥のあと、穏やかな笑みを浮かべる。
「確認する。──昨日の夜分、宿舎に戻っていなかった件だな」
「はい。ヴァルクナー団長宅への滞在として、団長からも処理内容を聞いています」
「……ああ、そうか」
短く返したロルフは、用紙を一読したのち、さらりと署名を加えた。
手慣れた筆運びで控えを取ると、静かに書類棚へと収める。その動作ひとつにも、几帳面な性格がにじんでいる。
「初めてだと、少し緊張するな?」
その一言に、リシャは思わず瞬きをした。
「……はい。まだ、こういう届けを出すことにも、慣れていなくて」
「真面目だな、君は。大丈夫だ。届けを出している限り、詮索したり咎める者は誰もいない。むしろ正しい」
ふっと目元を緩めたロルフは、冗談めかして続けた。
「私も昔は、当時恋人だった妻の家に通い詰めていた頃があった。夜ごと通っていたのに外泊届だけは忘れなかったから、同僚に“副官殿は夜勤続きで家に帰れないらしい”と勘違いしていてね。
朝礼で気を遣われたときには、何とも居心地が悪かったよ」
「……そういうことも、あるんですね」
リシャの口元が、すこしだけゆるむ。
「“外に大切な人がいる兵士”は珍しくない。だが届けを出すかどうかで、備え方は変わる。……そのあたりは、団長がよく心得ている」
淡々とした言葉の奥に、どこか信頼の色がにじんでいた。
ロルフは最後に、控えの紙をリシャに返す。
書類の端をまっすぐ揃え、丁寧に半歩こちらへ滑らせるようにして──指が触れないように、自然な距離感で。
「控えは手元に。次に提出が必要なときは、この番号を記しておけばよい。──ようこそ、第二の居場所へ」
リシャはその言葉を胸にしまいながら、深く頭を下げた。
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任務終わりに《レーヴェンの窓辺》に着く頃には、昨夜の雨が嘘のように晴れた空が広がっていた。
遠くの雲の端がかすかに金色を帯びていて、夕陽が街の屋根を静かに照らしている。
一日の任務を終えたあとの食事は、外の喧騒から少しだけ切り離されたような、穏やかな時間だった。
夕食を終えた二人は、店を出て並んで歩いた。あてもなく歩く帰り道。気がつけば、人気のない石畳の道沿いにぽつんと設けられた小さな木製のベンチに、ふたり並んで腰掛けていた。
ほんの少し迷ってから、リシャは口を開いた。
「……副官に、書類を渡しました。特に詮索もなく、すぐに処理されると思います」
ユージーンは、軽く頷いた。
「そうか。問題がなかったなら良かった」
「はい……」
そこで言葉を切りかけたが、躊躇いを押しのけるように、リシャは続けた。
「……はっきりとは言われませんでしたが、なんというか……いろいろと、理解されている気がしました。
ユージーンさんと……私の仲について」
「──ギルデン副官は、そういうことに、無駄な言葉を添えないところがある。ありがたい人物だ」
その返答のやさしさに、リシャの肩の力がすっと抜けていく。
目を伏せたままそう告げると、頬に淡く熱がにじむのがわかった。
ユージーンはしばし黙って、目線を少しだけ下げるように俯いた。
彼の横顔が陰ったように見えたことで、リシャの胸が少しだけざわめく。
その静けさの中で、ユージーンはふいに口を開く。
「……昨夜は、突然のことだったからな。君のために何かを整える時間も、心の準備もなかった」
そして、少しだけ姿勢を正しながら、彼は続けた。
「恋仲になった時から、考えていたんだが──私の家は、君が心置きなく休んでもらえる場所に使ってもらいたいと思っている」
「……え?」
驚いたように問い返すと、ユージーンはリシャを見つめたまま、落ち着いた口調で続ける。
「客間も、君の部屋として自由に使って構わない。
家の鍵も……準備が出来たらいずれ渡そうと考えている。君の居場所として、そう在れるように」
「……居場所……」
その言葉が、深く響く。
「それから、居間や書斎にある書類や書籍、資料の類も、もしかしたら君の役に立つものがあるかもしれない。書斎のものは一部、閲覧に制限があるが──それ以外なら、好きに見て構わない」
まっすぐに告げられたその言葉が、リシャの胸に静かに落ちていった。
(私に、“居場所”を……?)
こみ上げてきた感情に抗えず、ふいに視界が滲んだ。
ふと、脳裏をよぎったのは、スラムでのかつての夜だった。
冷たい石の床に、濡れた毛布を這わせて──それでも眠らなきゃ、明日が来なかった。
腹の虫が鳴く音すらうるさく感じて、身を縮めて、じっと朝を待つ。
誰にも気づかれないように、誰にも見つからないように、息を殺して震えていた。
……あれが、当たり前だった。そうして生き延びるしか、なかった。
声を上げることも、期待することも、いつしか忘れていた。
けれど今、目の前にいるこの人は──そんな自分に、「いていい」と言ってくれた。
喉の奥が詰まり、思わず瞬きを繰り返す。
涙は、気づけば頬を伝っていた。
「……ユージーンさん……」
低く、揺れる声でその名を呼ぶと、再びぽたりと涙が落ちた。
慌てて指で拭うが、すぐにまた、視界がにじんでしまう。
ユージーンが、彼女の手にそっと触れた。その手は、変わらずあたたかく、優しい温度を宿していた。
「……抱きしめてもいいか?」
低く、静かに尋ねられたその一言に、リシャは顔を上げる。
「……服が、汚れます」
震えそうになる声を押し留めながら、苦笑のように付け加えると──
ユージーンは何も言わず、そっと彼女を胸元へと引き寄せた。
そのぬくもりに包まれて、リシャは目を閉じた。
涙はなおも、静かに落ちていた。
声にはならずとも、確かなものが胸の奥で波打っていた。
「……これから二人で、きみの居場所を一緒に作っていこう」
低く穏やかな声が、頭上から降ってくる。
リシャはその言葉を、心の奥で受け止めた。
そして、ゆっくりと──小さく、けれど確かに、微笑んだ。