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第二話:直属斥候は、騎士団長の家で雨をやり過ごす

邸宅の門扉が静かに開かれた。

旧貴族のような気取った佇まいはないが、どこか凛とした静けさが漂っていた。


(……ここが、ユージーンさんの家)


借りた外套の端を握ったまま、リシャはそっと一歩を踏み出した。裾からは雨水が滴り落ちている。

ふたりとも、かなり濡れていた。リシャはまだ外套に守られていたが、ユージーンの髪や肩は、すでにしっとりと濡れている。


夜の灯に照らされた建物は、軍人のそれらしく、質素で堅牢。華やかさのない外壁に、実直な手入れが行き届いている。

玄関の前で、わずかに足を止めたリシャに気づき、ユージーンが振り返る。


「気にしなくていい。床はあとで拭けば済む」


そう穏やかに言って、扉の鍵を外しながら、さらに一言添えた。


「段差に気をつけて」

「……はい」


その声に背を押されるように、リシャは玄関をまたいだ。

木の床は冷たすぎず、やわらかく足裏を受けとめる。靴を脱ぐと、すぐに淡い照明の光と、ほんのりとした暖かさが迎えてくれた。


室内は広すぎず、けれど静謐だった。無駄な装飾の一切ない廊下、磨かれた床。壁際の飾り棚も空のままで、まるでまだ誰の生活も染み込んでいないようだった。


「……他に誰も、いないんですね」


リシャが思わずつぶやくと、ユージーンは扉を閉めながら小さく頷いた。


「召使いは置いていない。もとより、必要なだけの空間だ」

その言葉のとおり、生活音ひとつない室内だった。


家族と住んでいるわけではないのかもしれない──

そう思った瞬間、ふと胸の奥に、言葉にならない小さなざわめきが生まれる。

リシャは、足元から廊下を見やりながら尋ねた。


「あの、ご両親は……」


ユージーンは歩みを止め、壁際の照明の灯を見つめながら静かに頷いた。


「この家にはいない。父も母も、かつては軍に仕えていたんだが、今は地方の静かな街で、昔ながらの家に住んでいる。書や庭をいじりながら、穏やかに暮らしているよ。

半ば隠居のようなものだが……口を出すこともなく、静かに身を引いてくれた」


語り口はあくまで平坦だが、その裏にある親子の信頼関係がにじむ。


「ヴァルクナー家は代々、軍に籍を置いてきた家系だ。名家というほどではないが……真面目に、誠実に、務めを果たすことだけは教えられてきた」

「……ユージーンさんらしいですね」


思わずそう返しながら、リシャは小さく微笑んだ。

遠く離れていても、健やかでいてくれる家族がいるという事実。

口ぶりから察するに、何かを強いられるでもなく、ただ自然に距離を保ち、支えてくれるような存在──そういう家族が、この世に本当に存在するのだと、胸の奥がほんのり温かくなると同時に、少しだけ、不思議な感情が芽生える。


(……いいな)


その言葉は、声にはならなかった。

けれど、自分には知らない世界の匂いが、彼の背中の向こうに淡く広がっている気がした。


「リシャ、これを」


ユージーンがそう言って、廊下脇の棚から厚手のタオルを取り出し、リシャに差し出す。彼自身も、濡れた髪を手早く拭いながら靴を並べていた。

リシャも遠慮がちに受け取り、前髪を押さえる。借りた外套からは、ほのかに彼の香りが残っていて──それは、雨の匂いとまじり合いながらも、どこか安心をくれる温度だった。


「シャワーを使ってもいい。浴室は奥の右手。鍵も掛かる。私はその間書斎にいるから、使い終わったら声をかけて欲しい」


静かな声で説明を受けながら、ユージーンの足音に導かれるように、リシャはそっとその背を追いかけた。濡れた廊下の向こう、静かな家の奥へと。


---


浴室を借り、静かに湯を浴びたあと、リシャは再び制服に袖を通した。

雨に濡れたかと思っていたそれは、ユージーンの外套がほとんどの水を受け止めてくれていたおかげで、想像していたほどの不快感はなかった。


襟や袖の乾き具合をさっと確かめてから、前をきっちりと留める。胸元のボタンに指をかけながら、ふと、鏡に映る自分の顔を見つめた。

湯気に当てられた頬はわずかに紅を差しており、前髪の先からは一滴、雫がこぼれた。


(……落ち着いて。平常通り)


そっと息を整え、廊下に出る。

足音をなるべく殺して歩きながら、書斎の扉の前で一度だけ深呼吸した。


「ユージーンさん、終わりました」


控えめに声をかけると、しばらくして中から足音が近づき、扉が静かに開いた。


「──ああ。温まったか?」


その声とともに現れた姿を見て、リシャは反射的に目を見開いた。

いつもは額の一部だけに控えめに流されていた前髪が、今はまるで逆転していた。

普段は後ろに撫でつけられていた髪が、濡れたまま自然に前へと垂れ、全体の印象をがらりと変えている。


タオルでざっと拭いただけのようで、わずかに残る癖がそのまま形になり、額に落ちた数本の束が、彼の整った目元に意外な柔らかさを添えていた。


(……髪、下ろしてる……)

リシャの胸が、どくん、と鳴った。


私服もまた、見慣れぬものだった。

軍の制服のような硬質な線ではなく、どこか余白のある布地。

しかしその落ち着いた色味や無駄のない仕立ては、確かに彼らしく、着崩した印象は微塵もない。


それでも──違って見えた。

日常の中に現れた、少しだけ遠い人の姿のようで。

ほんの少し、触れてはいけない線を跨いでしまったような、奇妙な感覚。


「……っ、はい……」


返事が遅れたことに気づき、慌てて声を出す。

だがすでに視線は離せず、上ずった声が、ふと室内に響いた。


ユージーンはそれを聞くと、ふっと目元を緩めた。

その表情はどこか満足げで、なぜかリシャの鼓動をもう一度早める。


「……俺も入ってくる。客間で待っていてくれるか」


その言葉を残し、彼は静かに浴室の方へと姿を消した。

リシャは呆然としたまま、言葉にならない返事を残し、促されるまま客間へと向かった。


扉を閉めてからようやく、はっと我に返る。

──今の、確かに聞き間違いではなかった。


(ユージーンさん……『俺』って言ってた……)


じわりと熱くなる顔を手で押さえながら、リシャは一人、淡い余韻に耳を澄ませた。


---


ユージーン邸の客間は、整っていた。

淡い色のカーテンが窓を覆い、簡素な木の家具が静かに並んでいる。壁に掛けられた時計が、控えめに時間を告げていた。

客間の扉を静かに閉めると、部屋の中はますます静まり返った。


湯気の余韻がまだ肌に残るまま、リシャは客間の鏡台の前に立っていた。

タオルで髪を拭いながらも、意識はずっと別のところにある。──さっき、書斎の扉から出てきたユージーンの姿が、どうしても頭から離れなかった。


少しだけ乱れた前髪。乾ききらない髪越しに見えた目元の静けさと鋭さ。

普段よりもわずかにラフで、それでも彼らしい品位を保った私服。

その姿が、胸の奥で何度も反芻されていた。


(……びっくりするくらい、格好よかった)


ぼんやりとしたまま、髪を乾かし終えた頃。

──コン、と控えめなノック音が、部屋に静かに響いた。


「よければ、居間で何か飲まないか。温かいのも冷たいのも用意できる」


声は、壁越しでもわかるほど穏やかで、どこか誘うような響きを含んでいた。

リシャはタオルをそっと脇に置き、緊張したまま扉へと歩を進めた。


取っ手に手をかけ、静かに開けたその先──

先ほどと同じ、けれど少し髪が落ち着いたユージーンが、廊下に立っていた。

濡れていた髪はすっかり乾き、けれど撫でつけることなく、自然なまま額に流れている。


「……ありがとうございます」


かろうじて声になったその一言を残して、リシャは小さく頭を下げた。

胸の奥では、また新しい鼓動が、静かに鳴り始めていた。


居間へと続く短い廊下を、ふたり並んで歩く。

乾いた足音が、ぴたりと寄り添うように重なるたび、リシャの鼓動がまた静かに跳ねた。

すぐ隣で歩くユージーンは、さっきと同じ、ゆるく乾いた髪のまま。


きちんとした人なのに、家の中ではこんなふうに力を抜けるのだと思うと、少し不思議な、けれど妙に安心する気持ちがわいてくる。


「家だと、こういう髪型でもまあまあいるんだ。

今日はもう寝るだけだし、このままでいようと思ってるが……普段と違いすぎるか?」


問いかけは軽やかで、どこか照れ隠しのような空気が混じっていた。

ちらりと横顔をうかがえば、ユージーンはいつものように視線を前に向けている──けれど、どこか表情が柔らかい。


「……いえ。あの、すみません。なんだかまた、脈が……おかしくなってて」


そう言った自分の声が、やけに頼りなく聞こえる。

伏せた視線の先で、指先が落ち着きなく袖口をつまむ。


次の瞬間、そっと肩に置かれた手のぬくもりが、言葉よりも先に胸の奥まで届いた。

「おかしくなんかない。無理に収めようとしなくていい」


声音は、まっすぐで優しかった。

──慰めではなく、理解の言葉。

そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


とくとく、と胸の奥で脈打つ音が続いている。

けれど、さっきまでのような動揺ではなかった。ただあたたかく、静かに広がっていくもの。

やがて居間の扉が開き、ふたりは並んで部屋の中へと足を踏み入れた。


明かりは柔らかく、窓辺のカーテンが雨を映している。

どこか静かで、穏やかな夜の気配が満ちていた。


---


居間に通されたリシャは、まず空気のやわらかさに気づいた。

外の雨音がまだ微かに響いているというのに、この部屋には穏やかな静けさが漂っている。

深い木目の家具と、陽に焼けた書棚。壁際には控えめな装飾の棚が置かれ、そこには花の名を知らない鉢植えが一つ、ひっそりと置かれていた。

窓は小さくても、磨かれていて、灯りが漏れるガラス越しに雨粒がすべる音が時おりかすかに聞こえる。


ユージーンに促され、リシャはテーブルへと歩を進めた。

座ると、ソファの沈み具合が想像よりやわらかくて、少しだけ身体の力が抜ける。


「何か希望はあるか? すっきりしたければミント水、温まりたければ──リンテ草の茶があるが」


テーブル越しに問われた声は、低く落ち着いているのに、どこか優しかった。

リシャは咄嗟に答えを選べず、思考が髪や声の記憶に引っ張られたままだった。

──ほんの少し、顔が熱い。


「……ミント水を、お願いします」


ようやくそう口にすると、ユージーンはひとつ頷いて、台所のほうへ向かった。

その背を見つめながら、リシャは思う。

たったそれだけの動作なのに、なぜこんなに胸が落ち着かないのだろう。


やがて、透明なグラスに満たされた淡い緑色の水が二つ、そっとテーブルに置かれた。

「ありがとう、ございます」

言葉にすると、唇の奥にささやかな息がこもった。

一口飲むと、清涼感がすっと喉を抜け、心まで洗われていくようだった。


「……これ、作られたんですか?」


リシャが問いかけると、ユージーンは少しだけ目線を下げて答えた。

「ああ。簡単なものだ。冷たい水に乾いたミントをひとつかみ沈めておくだけだよ。保存草と一緒になっている袋もあるから、扱いやすい」


「すっきりして……おいしいです」

そう伝えると、彼はわずかに目を細めて微笑んだようだった。

リシャは思わず、また少し胸が鳴るのを感じて、手元のグラスへと視線を戻した。


静かな時が流れる。

湯の温もりが残る身体に、冷たい飲み物の清涼が心地よかった。

喉を通る感覚に集中するふりをして、リシャはちら、と向かいを見た。


ユージーンは何やら書類を手にしていたが、視線は明らかに読み進めている様子ではなかった。

気づかぬふりでページをめくる指先が、妙に落ち着きなく見える。


「……ユージーンさんは、よくミント水を飲まれるんですか?」

そう問いかけると、ユージーンは一瞬だけ驚いたように眉を動かしてから、微かに頷いた。


「暑い日はよく。ここは風通しがいいとは言えないからな。湿気がこもると、集中しにくい」

「……あ、なんだか分かります。前線の詰所も、時々、空気がよどんでて」

「そうだな。君が居たところは、とくに簡素なつくりだった。暑い時期に──よく我慢していたと思う」


ぽつぽつと交わされる会話。

どちらも口数は少ないのに、不思議と静けさが心地よかった。


「……でも。今日は、湿気まで悪くないです」

「そうか?」

「はい。ミント水と……その、ユージーンさんの家の空気のおかげです」


返してから、少しだけ顔が熱くなる。

言い過ぎたかもしれないと思って視線を落とすと、ユージーンの手元で書類が止まっていた。

ページをめくる指が、そのまま静かに動きを止めている。


「……そう言ってもらえるなら、整えておいた甲斐がある」


リシャは顔を上げた。

その横顔は淡々としていたが、いつもよりもほんの少し、表情がやわらかく見えた。


そしてふと、雨音が窓を叩く音が強まる。

リシャはガラス越しに目をやり、小さく呟いた。


「……雨、止みそうにないですね」


その一言に、ユージーンは顔を上げ、窓の向こうの雨脚を一瞥してから、静かに口を開いた。


「──今晩は、泊まっていくといい」


そう言って立ち上がると、近くの棚から何かを取り出して戻ってくる。

手には、たたまれた衣服。


「清潔なものだ。サイズは合わないだろうが……制服のままよりは、いくらかは楽だと思う」


それは明らかに、ユージーン自身の寝間着だった。

彼は視線をリシャに向けず、どこか目を逸らすようにしながら、ぎこちない手つきでそれを差し出す。

無表情のはずなのに、耳のあたりがほんの少し赤い気がした。


言葉を整えながら、彼はわずかに咳ばらいをして、さらに付け加えた。

「──着替えた後は、その格好で、客間からは出ないように。……出るなら、きちんと着替えてからにしてくれ」

一拍の間を置いて、もう一言。

「あと……くれぐれも、鍵をかけ忘れないように」


リシャは小さく「わかりました」と頷いた。

その意味を、すぐにはうまく捉えられないままに。


それでも──差し出された衣服を受け取った手は、やけに熱かった。


---


客間に戻り、言われたとおりに施錠をすると、静かな部屋にやけに響いた。

わずかに残るミントの香りと、整えられた寝具の匂いが混ざって、リシャは小さく息を吐く。

腕に抱えていた寝間着をベッド脇に丁重に置く。

軍用のものよりも柔らかく、淡い色合いの布地で、少し厚みがある。


「サイズは合わないけれど、そちらのほうが楽だろう」と、彼は言っていた。

そのシャツを羽織った瞬間、肩先がすとんと落ち、袖は指先どころか手の甲まですっぽりと隠れた。

裾は膝をすっかり覆い、ズボンを穿かなければ、まるで丈の長いワンピースのようだ。


少し歩けば、布がふわりと揺れて、足にまとわりつく。

その軽やかな感触に、リシャは思わず息をのんだ。

包まれている、というよりも──誰かのぬくもりごと、すっぽりと覆い隠されてしまったような、そんな錯覚。


(……こんなにも、大きい)


肌に触れる布は、思っていたよりも柔らかくて、軽い。

軍務用の粗い支給品とは違う、なめらかで落ち着いた質感。

そして、その繊維のどこかにほんのりと染み込んでいるのは、ユージーンの香りだった。


整った暮らしの香り。洗いたての衣類と、本の紙の匂いと、微かに混ざったハーブのような落ち着いた香り──リシャの知るどんなものとも違っていて、それでいて、不思議と懐かしく安心する気配。


リシャは着ていた制服をベッドの端に丁寧にたたみ、鏡台の前に立った。

そこに映るのは、いつもの自分のはずだった。

けれど、軍服のときとはどこか違って見える。

輪郭が柔らかくなったような、知らない誰かに似ているような。


ぶかぶかのシャツが、骨ばっていたはずの肩や腰を、そっと撫でるように隠していた。

ふと、昔の自分を思い出す。

こんなふうに、服に埋もれるなんてことはなかった。


いつも布の方が自分にぴったりと張りついて、余白も余裕もなかった。

肌に触れる布のやさしさが、こんなにもくすぐったいものだと知ったのは、きっと今がはじめてだ。


「……包まれてる、みたい」


そっと呟いたその声が、シャツの布地にやさしく吸い込まれていった。

胸の奥が不思議と高鳴って、シャツの裾を握りしめる指先に少しだけ力が入る。


ユージーンが、この姿を見たら──

なぜ、あんな言い方をしたのか、渡してくれた時にあんな表情をしていたのかが、今なら少しだけわかる気がした。

誰もいないこの静かな部屋に、自分の鼓動だけが響いていた。


ベッドに潜り込んでも、すぐには眠れなかった。

シャツの袖をすこしだけ握りながら、リシャは目を閉じる。

この夜のあたたかさを、胸の奥にそっとしまうようにして──

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