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第一話:直属斥候は、前線の仲間たちと任務に臨む

肌をかすめる風がやわらぎはじめ、外套を羽織らずとも動きやすい季節になっていた。

空気の匂いが少し変わり、通路の影にも新しい光の角度が生まれている。


第七団・前線指揮隊の兵舎内。

朝の通達を終え、リシャは軽く喉を潤すと、すでに自分の任務経路を確認していた。

本日は、旧監視塔の周辺に残された補給物資の調査と、未確認領域の地図補正。

昨晩の局地戦による地形の変化を踏まえた、即日対応の索敵任務だった。


「アイゼル斥候、例の報告、朝礼前に提出してあったよな」

「はい、ギルデン副官。報告書は第二観測棟の簡易記録と照合済みです」

「流石だ。助かるよ」

ロルフ・ギルデン副官へと報告を返し、手早く書類をまとめて次の準備へと移る。


配属から半年以上が経っていた。

かつては「突然団長直属になった、得体の知れない女」として、リシャと距離を取る古参も少なくなかった。

その中の一人でもあった、隣に控えていた歩哨担当の古参兵に、小さく合図を送る。


彼女よりひと回り以上も年上のその男は、以前は何かにつけて「団長直属の肩書きだけでは務まらん」と小言をこぼしていた人物だった。

だが今、彼はわずかに顎を引いて言った。


「……了解。あんたがそう言うなら、間違いねえってことなんだろうよ、直属殿」

短く、しかし確かに返されたその声には、迷いがなかった。


──判断の裏づけを聞かれることもなくなった。

かつての任務では、立ち位置ひとつ指示するにも、必ず「理由は?」と聞き返された。

配置図を渡しても、現場に着いてから再度説明を求められるのが常だった。

それが今では、ひとつ頷くだけで、動線が滑らかにつながっていく。


リシャは小さく息を吐き、ほんのわずかだけ、肩の力を抜いた。


(……不信のままなら、こんなふうに背を預けてくれるはずがない)

そんな実感が、胸の奥に静かに灯る。


---


その日の任務では、ユージーンの指示で別班に同行していた女性隊員──副斥候のレイナ・グリースが、ユージーンと淡々と状況確認を行っていた。

表情を崩すことなく、必要な言葉だけで報告と指示を交わす姿は、いかにも軍務らしいやりとりだった。


冷静に判断を下す彼と、それを簡潔に補佐するレイナ。無駄のない動きと私情を挟まぬ姿勢は、どこかユージーンに通じるものがあり、リシャは密かに“理想的な副斥候”だと思っていた。

一方で、任務外では年相応の砕けた口調で仲間と軽口を交わすこともあり、その切り替えの巧さもまた、彼女への信頼の理由だった。


昼休憩には食堂で顔を合わせることも多く、気づけば自然と同じ席につくようになっていた。

メンバーの入れ替わりがあるとはいえ、同性・異性を問わず、たまにユージーンも含めて数人で過ごす昼食の時間。

言葉少なながらも距離感のうまいレイナは、リシャにとって数少ない“話しやすい先輩”の一人だった。


その後、行動班の進路にて、リシャ達もユージーン班と合流し、必要な処置を迅速に整えた。

仲間の動きを読み、遮蔽物を探し、相手の動線を封じる。

リシャの指先が発した手信号を見たロルフが、ほんのわずかに頷いた。


ユージーンが手の中の遠距離連携を目的とした軍用魔導短杖に力を込める。

先端の通信用端子が淡く反応し、指示は無音で副官の受信具へと転送された。


すべてが、刹那だった。

隊は誰一人傷を負わず、当初の想定よりも早く索敵範囲の確認を終えた。


報告の準備に移るユージーン。

その背を支えるように周囲の処理を行うレイナ、受信具から受けた報告を周囲に端的に伝えるロルフ、そして、少し後方で最終確認をするリシャ。

それぞれの場所で、必要な動きをしているだけ。


──誰かと比べたり、混ざり合おうとはせず、ただ、信頼して任せる。必要なときは、迷いなく動く。

そういう距離感の中に、リシャは立っていた。

そして、その日常が、ほんの少しだけ心地よいと感じている自分がいることにも、気づいていた。


任務終了の号令がかかると、隊員たちは手早く装備をまとめ、荷運びの段取りや報告の整理に動き出した。

ユージーンは他班の副官と進行状況を詰めており、リシャも最後の周辺確認のために歩哨のひとりと軽いやりとりを交わしている。


その合間──

空の一角に、わずかな灰色が混じっていた。

風向きが変わったことに気づいた者はほとんどおらず、空を仰ぐ余裕もないまま、撤収作業は淡々と進んでいく。


「……雲、ちょっと重くなってきたか?」

たった一人、荷運びの隊員がふと呟いたが、誰にも届かず、声はそのまま曇り空へ溶けていった。


---


任務の余韻が、まだ腕や背中の芯に残っていた。

その日の動きは複雑だったが、全体としては滞りなく終えられたといってよかった。

いつものように、彼と軽く食事をとることになり、ふたりは宿舎近くの喧騒を避けるようにして、一軒の小さな店に足を向けた。


古びた街並みの一角。

外壁に蔦の這う、低い屋根のその店は、静かな雰囲気をまとっていた。

夕暮れの気配が滲む窓辺に、小ぶりなランタンが灯っている。

兵舎とは違う温度の食事に、リシャの心と体はゆるやかに緩んでいた。


けれど──外に出ると、空気は一変していた。


「……あ」


ぽつり、と頬に落ちたのは、水の粒だった。

見上げると、空はすっかり曇っている。

気づけば風も湿り気を帯び、足元の石畳に、じわじわと濃い色が広がっていく。


「急ごう」


ユージーンの声に頷き、ふたりは並んで歩き出した。

だが、角をひとつ曲がったあたりで、雨脚が急に強まった。

さっきまでの静けさが嘘のように、冷たい粒が容赦なく肩を打つ。

リシャが足を止めかけた、そのときだった。


ふわ、と視界が暗くなる。

ユージーンの外套が、彼女の肩を包んでいた。


「……!」


驚きに、小さく息を呑む。

布の内側にこもる熱と、かすかに鼻先をかすめたのは、彼の香りだった。

普段の整った所作や冷静な声とは違う、まるで肌越しに伝わってくる気配──そのすべてが胸をくすぐり、頬が勝手に紅潮してしまう。


「もう少し歩けば、雨を避けられる場所がある」


一瞬、意味が掴めずに見返すと、彼の目が静かにこちらを捉えていた。


「……私の家だ。近くにある。

きみにとってはさほど困ることではないかもしれないが……この雨では、さすがに放っておけない」


言葉を選ぶように、丁寧に。

けれど、その声音には一点の迷いもなかった。


「もちろん、客間を使ってもらう。鍵も掛けられる。……特別な意味はない。

この雨の中、濡れたまま宿舎まで戻るのは、現実的とは思えない」


ユージーンの眼差しは、いつも通りの落ち着いたものだった。

命令でも、誘いでもない。ただ、守るべきものに手を差し伸べる人の目をしていた。

リシャは唇を結び、頷く。


(……少しだけ。寄って、雨がやむのを待つだけ)

冷えた髪の先を払いながら、彼の後を追う足取りは、なぜか心許ないほど軽かった。

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