幕間:騎士団長は、直属斥候を想いながら夜を越える
※ユージーン視点です
夜は静かだった。
それはまるで、この一日の喧騒が嘘のように。
壁際のランプだけを灯した書斎には、僅かな紙の匂いと、インクの香りが漂っている。日中は戦術図や報告書に埋もれるこの部屋も、今はようやくその役目を終えたように、深い呼吸を許していた。
ユージーン・ヴァルクナーは、ペンを持つ手をふと止めた。
手元にあったのは、ごく簡単な日報と定例報告書だったが、すでに大半は処理済みだ。残っているのは、明日提出予定の些末な記録——だが、その小さな空白に、心のどこかが引き寄せられてしまう。
静寂に包まれた空間で、思い出すのは彼女の姿だった。
斥候、リシャ・アイゼル。
直属の部下であり、職務上はあくまで冷静に対するべき存在である。だが、もうそれだけでは収まらなくなっていることを、自分は認めざるを得なかった。
窓の外には、遠く街の灯りが滲んでいる。今ごろ、彼女は兵舎の一室で眠っているだろうかと、つい考えてしまう自分がいる。そう思うたびに、この静けさの中に、ふいに彼女の面影が差し込んでくるようだった。
——きっかけは、一つの携行食。
彼女に、せめて少しでも良いものをと、差し入れを渡した。そのときの、驚いたように見開かれた彼女の目。ほんの一瞬だが、光が宿ったように思えた。
そしてそれ以降——
食べることを少しずつ覚えていった。
「何だかすごく、色んな味」
「肉が口の中でじゅわじゅわします」
「豆とは違うけど、ホクホクしてます」
初めて口にする食材や調理法に、目を輝かせて感想を述べるその様子は、まるで季節の芽吹きを見るようだった。任務をこなす普段の彼女からは想像のできない擬音まじりの感想がまた可笑しく、けれどたまらなく愛おしい。
——あの頃から、私はもう、彼女を愛おしく思っていたのだろう。
ユージーンは、息を吐いた。知らず笑みが漏れていたことに気づき、軽く頬に手を添える。
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それからも、彼女と食事を共にした。
無言が苦ではない相手だった。
けれど、彼女のほうからぽつりとこぼす言葉が、回を重ねるごとに少しずつ変化していった。
「好きです……このお店。また、来たいです」
「まだこの時間が続いてほしかったんです」
──たったそれだけの言葉に、胸が高鳴る自分を、情けないと思った。
けれど同時に、抗えなかった。
「好きです」という響きが、自分自身に向けられたものではないとわかっていながら、ほんの一瞬でも錯覚してしまった。
まるで、彼女の中に芽生えた好意の兆しを、自分勝手に受け取ってしまったような気がして、慌てて表情を整えた。
……悟られていなかったと、今でも思える自信はない。
それでも、「まだこの時間が続いてほしい」という一言には、違う意味が宿っていた。
──自分と、もっと一緒にいたい。
その気持ちが、確かに彼女の声ににじんでいた。
不意に名を呼んでしまったのは、理性の欠片が崩れたからではない。
彼女が、自分と同じ場所に心を置いてくれたと感じた瞬間、そのよろこびに胸を満たされ、自然と呼んでしまった──それだけだった。
時間をかけるつもりだった。
急がず、慎重に、彼女の歩幅に合わせて。
けれど、あのとき。
名前を呼ばれた彼女が、まるで宝物を手にした子どものように目を輝かせたのを見た瞬間──
その未来を、少しだけ手繰り寄せてもいいのかもしれないと、思ってしまったのだ。
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自分が彼女の名を呼ぶと、決まって、頬をわずかに染めながら返事をしてくれる。
そのささやかな反応が、どうしようもなく嬉しかった。
彼女が喜ぶのであれば、名などいくらでも呼びたいと思った。心から、何度でも。
それからしばらくして、勤務中にふと視線を向けた先で、彼女が自分を見ていたことがあった。
けれど、目が合うとそっと視線を逸らし、「なんでもありません」と言葉を濁す。
ほんの少しだけ、後ろめたそうな目をして。
無理に引き出そうとは思わなかった。
それが仕事上の悩みか、個人的なものか、今はまだ判断できなかったし、
何より──彼女が言葉にできるまで、こちらが焦らすわけにはいかないと思った。
だから、あのときはただ「何かあれば報告するように」とだけ伝えた。
それ以上は踏み込まなかった。けれど──
もしかしたら、それがほんのわずかでも、彼女の背を押したのかもしれない。
ある夜、「個人的な報告がある」と、彼女のほうから声がかかった。
拳をぎゅっと握りしめて、俯いたままの姿。
その目の奥に宿るのは、恐れではなく、決意だった。
彼女のほうから、勇気を出してくれた。
だから、自分もその覚悟に応えると決めた。
人通りのない静かなベンチへと案内する。
──そして、彼女は言った。
「私も、団長のこと、名前で呼んでみたいと思ったんです」
震える声で、けれどまっすぐに。
「声も上手く出せないし、胸が苦しいし、脈まですごく早くなってしまって……」
そう打ち明けた彼女の言葉に、自分はもう平静ではいられなかった。
胸の内で、何かがせり上がる。
これは、まるで──
(……愛の告白ではないか)
けれど、自分の感情をぶつけ返すには、まだ早すぎる。
彼女は混乱していた。思いを整理する途中だった。
だから、「気持ちはとても嬉しい」「呼んでくれるのであれば、私はいつでもそばにいる」とだけ告げるにとどめた。
それで良かったのだと思う。
彼女は、はにかみながらも、その言葉を受け入れてくれた。
「団長も、自分を名前で呼ぶときに緊張したのか」と訊かれ、少しだけ迷った末に正直に答えた。
「……正直、抑えていたものが勝手に溢れてしまった感じではあった」
それを聞いた彼女は、ぽかんとした顔でこちらを見たかと思えば、ふふっと小さく笑った。
その笑顔が、緊張の糸がゆるやかに解かれた合図だったのかもしれない。
そして、帰り道──
「はい、ユージーンさん」
彼女はあまりにも自然な響きで、自分の名を呼んだ。一瞬、耳を疑ったほどに。
立ち止まり、思わず彼女のほうを見やる。
「……今、名前を呼んでくれていた」
事実を確認しただけなのに、彼女はみるみるうちに顔を真っ赤にした。
両手で口元を覆い、ぷいと横を向く。
その姿が、どうしようもなく愛らしかった。
欲が出たのは、そのときだったのかもしれない。
──どうせなら、彼女の意志で、もう一度呼ばれたい。
そんな願望が、態度に出てしまっていたのだろう。
彼女は自分の目を見つめ、静かに、そして確かに言った。
「ユージーン、さん」
たったそれだけの言葉に、胸が、どくんと音を立てて鳴った。
あのとき、彼女が見せた笑顔。
心の底から、ようやく届いたという安堵と、小さな達成感に満ちたその顔。
ようやく手を伸ばして、触れられた──そんな、満ち足りた空気がそこにあった。
自分が名を呼んだとき、彼女があんなにも喜んでくれた理由が、今ならわかる。
たった一言が、どれほど深く心に響くのか。
彼女がそれを教えてくれた。
---
──その日の任務は、早くに終わった。
風が冷たく、吐く息は白く溶け、金属の留め具が指先をかじるような空気。
空の色は淡く、街の屋根には前夜の名残がわずかに積もっていた。
彼女が「この天気、あのあったかいスープが合いそうですね」と言ったことを思い出しながら、上着の襟を立てて歩く。
些細なひと言にも心を和らげられてしまう自分に、思わず頬が緩んだ──その直後だった。
男子更衣区画の奥、通路の向こうから、数人の話し声が漏れ聞こえてきた。
「……思ったより、あったんだよ」
「は? 何が」
「いや……アイゼル隊員の、あれ。胸」
「……あの、狼みたいな斥候か? 痩せっぽちでいつもダンマリ決め込んでる」
「それそれ。この前、外套脱いだ瞬間、偶然見えちゃってさ……ちゃんと、あったんだって」
「へぇ……ちゃんと”女”なんだな。いいじゃん」
──その言葉の端々に、血が滲むような怒りと嫌悪が沸き上がった。
声に聞き覚えはあるが、直属の隊員ではない。
前線拠点を頻繁に出入りしている他部隊の若い兵だろう。
それにしても──
彼女の何を、見ていたというのだ。
辛い境遇のなかどれだけの努力を経て、どれだけ少しずつ、あの身体を育んできたと思っている。
食が細い彼女がようやく美味しさを覚え、少しずつ、自分から食べたいと願うようになったことを。
そんな過程の先にようやく現れた、ささやかな変化を──
見下すように、品性のない口ぶりで、踏み荒らすような言葉で。
込み上げるものを抑えながら、足音を強く響かせ、わざとらしく咳払いをした。
瞬間、話し声が止まる。
その沈黙の中、ゆっくりと言葉を落とす。
「勤務区画での私語は慎め。特に、同じ任務に就く隊員を品評するような発言は──騎士の名を汚す行為だと心得ろ」
冷たい声だった。
怒りはあからさまに出さず、ただ淡々と。だが、剣よりも鋭く。
振り返った数人の顔が、見る間に蒼白になっていく。
「……申し訳ありません……!!」
若い隊員たちは揃って頭を下げ、必死に謝罪の言葉を繰り返した。
だが、自分の心はすでにそこにはなかった。
無言でその場を立ち去る。
扉を開けて外へ出ると、冷気が顔を刺すように流れ込んだ。
それがかえって、熱くなった内側を静かに冷ましていく。
あの子の何を──
誰よりも間近で見てきた自分にすら、いまだにすべてはわからないというのに。
理解もせず、敬意も払わず、安易な言葉で彼女を測ろうとするな。
どれほど細く小さなその変化が、どれほど重い意味を持つか。
それを知る者だけが、口にすべきだと──心の底から、そう思った。
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名前を呼び合うようになってから、いくつかの月日が流れた。
日々の任務の合間に差し込む小さな穏やかさに、互いの存在が自然と溶け込むようになったころ——
ふとした瞬間に、彼女の視線が揺れていることに気づいた。
明らかに何かを思い悩んでいる。
勤務中、上官として声をかけると、彼女はまるで驚かされた猫のように肩を跳ねさせ、大げさなほどに頬を染めた。
潤んだような瞳。
普段は抑えられている感情が、ふいにこぼれ出している。
その顔に浮かんでいた色香に、自分でも驚くほど強く心を掴まれた。
そして、あの日耳にした若い隊員たちの言葉が、不意に脳裏をよぎる——
すぐに振り払うように拳を握った。彼女は誰よりも、懸命に生きているのだ。
その姿を、他人の下卑た言葉で汚されることが、ただ許せなかった。
問いかけには「考えごとをしていただけです」と目を逸らされたが、明らかに何かを抱えていた。
その夜、彼女はそっと言った。
「団長……少しだけ、お時間をいただいてもいいですか」
図面の整理が終わったタイミングだった。
表情を見る限り、それは明らかに個人的な話だと察せられた。
勤務後、ふたりきりの空間に落ち着いた頃——
彼女は、目を伏せたまま言葉を紡いだ。
「最近だと、ユージーンさんに、触れてみたいと思うようになって。……だんだんとそれが、すごく強くなってきてしまって……」
自分を抱きしめるように腕を組んだまま、戸惑いながらも、熱を帯びた視線を向けてくる。
その言葉のすべてが、あまりに無防備で、まっすぐだった。
彼女の中で、情緒というものがこんなにも深く育っていたことに気づかされ、ユージーンは静かに息を呑んだ。
もう、目を背けることはできなかった。
もう、彼女の気持ちに、自分も答えなければならない。
「……それは、私がずっと抑えてきた感情に、とても近い」
穏やかに、けれど言葉にこめた熱が伝わるように告げる。
ただ、続けてこうも伝えた。
今のまま、曖昧なままに互いを求めれば、どこかで道を間違えてしまうかもしれない、と。
すると彼女は、ほんの少しだけ不安げに眉を寄せた。
「……普通が、わからなくて。でも、名前があるほうが、安心できる気がするんです」
彼女なりに探した、まっすぐな答えだった。
どんな返事よりも、心に染みる言葉だった。
だから、ユージーンもようやく——その思いを言葉にした。
「私のほうから、君と恋仲になりたいと、言ってもいいか」
彼女は、笑顔を浮かべながら、はっきりとした声で応えてくれた。
そのとき浮かべた笑顔は、これまで見たどの笑顔よりも、やわらかく、美しかった。
それだけで、報われた気がした。
この手を差し伸べてよかったと、心から思えた瞬間だった。
その帰り道、彼女は何度か迷うように歩幅を揃えながら、ふいに声を落とすように言った。
「……あの、手を……繋いでも、いいですか?」
控えめで、それでいて確かな願い。
思わず胸があたたかくなる。彼女は、ずっとそうしたいと思っていてくれたのだろう。
勿論、とそう穏やかに答えて、彼女の小さな手をそっと包むように握った。
肌の薄さや、細さばかりが気になっていたかつての面影は、もうそこにはない。
その手から伝わるぬくもりに、言葉では形容できないほどの幸福がじんわりと胸に広がる。
「……あたたかい……」
彼女がぽつりとこぼした言葉に、内心まで染み入るような響きを感じる。
それだけでもう、息を呑むほど愛おしい。
だがその直後——
彼女の親指が、そっとこちらの手の付け根を撫でるように動いた。
まったく悪気などない、無邪気な仕草だった。
それでも、背筋を走るようなぞわりとした欲の感覚に、瞬時に息を詰まらせる。
「…………今のは、くすぐったかった」
なんとか言葉を繋いだが、それだけが限界だった。
だというのに、彼女はその言葉をまるで喜びに変えてしまったかのように、目を輝かせて見上げてくる。
何が彼女の心に触れたのかはわからなかったが、その無邪気さがむしろたまらなく照れくさい。
しばらく、繋いだ手のぬくもりを互いに確かめながら並んで歩いていたときだった。
彼女がまた、ほんの小さく、けれど勇気を込めた声で囁いた。
「包んでもらえませんか。ユージーンさんの……からだで」
思わず足が止まる。
彼女の願いは、どこまでも真っすぐで、嘘がなくて——
だからこそ、慎重に受け止めたくなる。
「……わかった」
手を軽く引き寄せ、彼女の体に負担がかからぬよう気を配りながら、そっと胸元に抱き寄せる。
その肩の細さも、体温の高さも、すべてが掌に伝わってくる。
彼女は目を閉じ、微笑みながらその胸にすっぽりと収まっていた。
その姿を見ているだけで、胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じた。
深く息を吸い込んだ。
今、自分の腕の中に、心から大切にしたいと思える存在がいる。
——その現実が、何よりも幸せだった。
---
静かに、椅子の背にもたれて、ユージーンはゆっくりと息を吐いた。
書斎の灯りは、温かなまま静かに揺れている。
いつの間にか夜は深まり、窓の外には遠く街の灯りが滲んでいた。
人通りの絶えた路地のどこかで、誰かの靴音が淡く響いている気がする。
——あのとき、手を伸ばしてよかった。
すべての言葉も、沈黙も、歩み寄りも。
ひとつでも欠けていれば、きっと今はなかった。
それらすべてが繋がって、
彼女はいま、自分の隣で、心から笑ってくれるようになった。
ここまでは、互いに歩いて辿り着いた場所。
けれど——これからは。
思わず、口元に笑みが浮かぶ。
彼女を、この家に迎える日も——もう、遠くはないだろう。
彼女が望むなら。
ただ笑っていられる時間を、安心して過ごせる場所として。
ここを、そのひとつにしてもらえたなら、それだけで——
そんな未来を思い描くことさえ、今は心から嬉しいと思えた。
静かな夜の中で、自分の中に芽生えていた感情の輪郭が、ようやく明確になっていくのを感じていた。
ただの上官ではなく、見守る者としてでもなく──彼女の人生に、もっと深く関わっていく覚悟。
公私の境を厳格に守ってきた自分の殻が、いま、少しずつ綻び始めている。
「……さて。俺も、腹を括らないとな」
ぽつりと洩らした声は、灯りの揺れる静かな部屋に、柔らかく溶けていく。
ユージーンは、最後にそっとランプの灯を落とした。
夜は、静かに深く、彼の決意を包んでいった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第二章は今回のお話で完結となります。
現在、最終章となる第三章を執筆中です。
次回の更新は【6月22日(土)の21:00】を予定しております。 ※7/1追記:日曜日でした……
以降は完結まで、なるべく毎日更新していければと思っております。
引き続き、リシャとユージーンの歩みを、そっと見守っていただけたら嬉しいです。