表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/32

幕間:直属斥候は、騎士団長とともに恩人へと報せを届ける

勤務明けの、夕刻手前。

補給棟から少し離れた裏通路に、まだ柔らかな陽が差し込んでいた。

風は穏やかで、兵舎から洩れる喧噪も遠い。

リシャは、その静けさのなかでひとつ深く息を吸った。


傍らには、ユージーンがいる。

並んで歩いていた足が止まると、彼は軽く顎を動かして前方を示した。


「……今、ちょうど出てきたな」

視線の先には、マリナの姿。

補給班の報告書を抱え、腕を回すようにして軽く伸びをしている。

その仕草に、リシャの心がすこしだけ波立った。


「……本当に、今でいいんでしょうか」

「彼女の予定は確認してある。“今夜なら都合がいい”と返ってきた」

「……はい」


リシャは、一瞬だけユージーンの顔を見た。

彼の目は変わらず静かで、けれどその奥には、小さな光が宿っているようだった。


事前にふたりで話し合って決めていたこと。誰よりも先に、マリナに報告しようと。

だから、いま、この瞬間がそのタイミング。

リシャは、小さくうなずくと、ひとつだけ息を整えて歩を進めた。


「……マリナ姉」

声をかけるその瞬間が、妙に遠く感じた。


マリナはすぐにこちらを振り向き、笑顔を浮かべる。

「ん? リシャ? どうしたの、こんなとこで……あっ、ヴァルクナー団長も」

少しだけ驚いたように目を見開きつつも、すぐに笑みに戻る。

その穏やかさに、リシャの胸の奥がやわらかくほどけていくようだった。


「今夜、少しだけお時間いただけませんか」

「今夜?」

「はい。お食事を、ご一緒にと思っていて。場所も静かで……奥に落ち着いた席のあるお店で」

「なるほど……えっと、リシャとふたりで?」

「いえ、団長もご一緒に、三人で。お伝えしたいことがあるので……」


リシャの声は、最後だけ少しだけ震えていた。

けれど、マリナはすぐに頷いた。


「わかった。ちょうど今夜は早く上がれるから、向かうね。場所は?」

「《レーヴェンの窓辺》という店です。裏通りに入ってすぐのところで……」

「ああ、落ち着いた感じの店だよね。前から気になってた」


そう言ったマリナの声に、リシャは小さく頷く。

「いいよ。場所はわかった。ちょっと遅れるかもしれないけど、向かうね」

微笑のなかに、マリナらしい温かさがにじむ。


そして、ほんの少しだけ首を傾けて——

「……ふたりと一緒にご飯だなんて、なんだか嬉しい。じゃあ、また後ほど」


マリナの背中を見送りながら、リシャはとなりに立つユージーンを一度だけ見た。

「……ちゃんと、言えました」

「……ああ」

ユージーンの声は低く、けれどわずかにあたたかさが滲んでいた。


---


日が落ち、拠点の外灯がぽつりぽつりと灯りはじめる頃。

リシャとユージーンは、表通りを避けた裏路地を歩いていた。

人気の少ないその道は、陽が沈むとぐっと静まり返る。けれど、ふたりの歩みは淡々と揃っていた。


目的の店は、その奥にある。《レーヴェンの窓辺》。

木造の扉と低い軒先が、外からの視線を遮るように佇んでいる。

看板は、飾り気のない手書きの文字。だが、その控えめな雰囲気のなかに、どこか迎え入れてくれる空気があった。


リシャは、静かに扉に手をかける。

古びた蝶番が、軋み音とともに開いた。小さな鈴が音を立てる。

カウンターの奥から、店主がこちらに気づき、軽く頷いた。


奥の壁際、背もたれの高い四人掛けの席に案内されたふたりは、立ち止まったまま、さりげなく視線を交わした。

いつもどおり、ユージーンの向かいにリシャが座ろうとしたそのとき、ユージーンが小さく声を落とす。


「リシャ、正面はクライン隊員に」

リシャは一瞬きょとんとして、けれどすぐに彼の意図を察した。

「……あ」


ユージーンは、静かに補足するように続ける。

「きみの報告を、一番に正面で受け止めるべき人だから。きちんと、伝えよう」

その声音には、余計な熱はなく、いつもの彼らしい誠実さだけがあった。

リシャは、ごく小さく頷いて、そっと椅子を引いた。

入口に背を向ける位置に腰を下ろす。正面には、マリナのための空席。


彼女が現れたとき、その視線を正面からまっすぐ受け止められるように——

それは、ただの座席の選び方ではなく、ささやかだけれど大切な姿勢だった。

隣にユージーンが腰を下ろし、布メニューをリシャの前に滑らせる。

ふたりの間に言葉はなかったが、空気はすでに整っていた。


「……マリナ姉、まだですね」

リシャが小さく呟く。ユージーンは、ゆっくりと頷いた。

「時間通りだ。すぐ来る」

リシャは、自分の鼓動がいつもより大きく響いているのを感じていた。


椅子に腰かけると同時に、白湯が入った陶器のポットが静かに置かれる。

リシャは、ポットから湯を注ぎながら、手元に視線を落とす。


──なにもかもが、穏やかで静かだ。

けれどその静けさが、かえって緊張を際立たせていた。


ふっと、扉が控えめに開く。小さな鈴の音。

リシャが顔を上げると、マリナの姿がそこにあった。

コートを軽く押さえながら、店内を見回す。

こちらに気づいた瞬間、彼女の口元に笑みが浮かぶ。


「おまたせ。道、ちょっと混んでて」

その声はいつもと変わらず、あたたかかった。


マリナは、音を立てないようにしてゆっくりと席に着く。

三人の距離が整う。

背もたれに深く身を預けたユージーンは、カップに注がれた白湯にそっと手を伸ばす。


何も語らず、ただ「始まり」を待つように。

空気は、もう整っている。

あとは、言葉を届ければいい。


---


白豆と塩漬け肉の壺煮をひとつに、焙煎麦湯を人数分。

栗の花蜜ケーキを三等分できるように、店主へと静かに伝えた。


静かな準備の時間の中で、布メニューを閉じたマリナが、ゆっくりと視線を向けて——

「ふたりが揃って時間をつくってくれたこと、それだけで嬉しいよ」

笑みは、どこまでもあたたかかった。


隣に座るユージーンは、言葉を挟まない。

ただ、静かにリシャのタイミングを待ってくれている。

沈黙は長くなかった。


「……マリナ姉」

呼びかけたその声に、マリナはすぐに顔を上げ、いつものように穏やかな眼差しを向ける。


リシャは、言葉を探しながら、ほんの一瞬だけ隣を見る。

ユージーンと視線が合う。

何も言わない。けれど、そのまなざしは、明らかに「続けて」と告げていた。


「……その。あの、わたしたち——」


リシャの膝の上に置かれた手に、そっともうひとつの手が重なる。

ユージーンのものだ。

強くもなく、軽くもなく、ただ支えるように添えられたそれに、リシャは小さく息を吸った。


「私たち……その、正式に、そういう関係になりました。

交際というか……まだ、恋仲というのも、まだ慣れていないんですけど」


言い切った瞬間、背筋の奥までしんとするような静寂が流れた。

マリナは、驚いた様子も見せず、ただその言葉を静かに受け止めている。

──怖くはなかったが、それでも、リシャはどこか不安だった。


言葉にしたあと、ようやくマリナがふわりと微笑む。


「……うん、ずっと、そうなるんだろうなって、思ってたよ」

「……え?」


ぽかんとした声が漏れる。

マリナはふっと笑ったあと、肩の力を抜くようにして言葉を続けた。


「なんていうか、あの目を見たら、ね。お互いの。

……隠してるつもりだったかもしれないけど、目元にちゃんと出てたよ、やわらかい熱みたいなものが」


リシャが思わず息を詰めると、マリナは茶目っ気を込めた声で付け加えた。


「だからね、あえて聞かずにいたの。私にできるのは、ふたりをちゃんと見て、必要ならそっと背中を押すことくらいだと思ってたから」

一瞬だけ目を伏せたマリナが、すぐにまた顔を上げ、あたたかな目で言う。


「……こうして報告してくれたこと、嬉しいよ。リシャも、団長も、ありがとう」

そして、リシャに向かって一言——

「おめでとう、リシャ」


静かに、けれど確かな声だった。その優しい響きが嬉しくて、少しだけ涙がにじみそうになるのをぐっと堪える。


「……ありがとうございます、マリナ姉」

心からの感謝を込めて、マリナに伝えた。


続いて、ユージーンがその言葉を引き継ぐように口を開いた。

「……私からも、クライン隊員に礼を。彼女と共にあることを、許してくれてありがとう」

その言葉に、マリナの目がほんの少しだけ潤んだのを、リシャは見逃さなかった。


店主が出してくれた温かな料理を三人でつつきながら、取り留めのない会話が自然と交わされていく。

近くの路地にできた新しい花屋の話や、休憩時間に見かけた猫の話、

マリナが最近読んだという薬草に関する手記の話など——

どれも、勤務からは少し離れた、穏やかな暮らしのにおいを運んでくるものだった。


リシャは気づけば、頬を緩めながらマリナの言葉に返していた。

ユージーンも、ふとした合間に短く言葉を添える。

マリナの笑い声が、それに柔らかく重なる。


湯気の向こうで揺れるその時間は、どこにも力が入っておらず、けれど温かかった。

それはきっと、特別ではなく「これから何度も訪れるもの」なのだと、リシャは思った。


恋仲になったことを、誰かに伝えたのは、これが初めてだった。

けれどその初めてが、こうして日常の延長として迎えられたこと——

それはリシャにとって、少しだけ自分を肯定できる、小さな証のように思えた。


---


帰り道の石畳に、小さく靴音を響かせながら歩いていた。

吐く息がうっすらと白くなるほどではないけれど、日が落ちたあとの風は、肌に触れると少しだけ冷たい。

けれど不思議と、それが心地よかった。まるで昼間の温もりを、夜がそっと抱きしめているようで。


──マリナ・クラインは今、《レーヴェンの窓辺》からの帰り道にいた。


リシャとユージーンから交際の報告を聞いたとき、特別な驚きはなかった。

『そうだろうな』と思っていたことを、『そうなんです』と静かに聞かせてもらえただけ。


でも、目の前のリシャの声は震えていて、隣のユージーンが寄り添う仕草が、あまりにも自然で。

それだけで、なんだか泣きそうになってしまった。


この席に呼ばれたとき、直感はあった。

ふたり揃って呼びにきた時点で、そういう報告なんだとわかっていた。


ふたりが、誰かに“初めて共有する”ということに、自分を選んでくれたこと。

それだけで、十分すぎるほど嬉しかった。


リシャは、最初に配属されたときから「実務」しか見ていない子だった。


自分の身体にさえ頓着せず、当時は、栄養の偏りでようやく来た初潮にも戸惑うばかりで──

その手当をマリナがした時も、「すみません、手を煩わせて」とだけ小さく言っていた。


ごはんは“食事”じゃなくて、必要最低限の“燃料補給”。

服は“着るもの”というより“制服の一部”。

そんなふうに、何もかもに意味を持たせず、ただ与えられた任務をこなすことだけが彼女にとっての生活だった。


その子が、今は食後に甘いものを選ぶようになった。

誰にも頼まれてないのに、自分から“誰かと向き合う時間”を作っている。

それが、どれだけ大きな変化か。たぶん、本人だけがまだ気づいていない。


ユージーンは、言葉が少ない。でもそのぶん、本当に言葉を選ぶ人だと思う。

『彼女と共にあることを、許してくれてありがとう』

たぶん、この一言に至るまでに、何百通りもの“どう言うべきか”を考えたんだろうなと思った。

“共にある”なんて、簡単には言えない。


でも、この人の口から出たなら、本当にそうなんだろうと信じられる。


リシャは、肩の力を抜いたときがいちばん良い顔をする。


だから、今日のこの日が、あの子の背中を少しでも軽くできていたら、それでいいと思う。


ふたりで生きていくのは、簡単じゃない。それでも、隣にいてくれる人を見つけたなら、きっと、それだけで明日はちょっとやわらかくなる。


湯気の立つカップの向こうで、いつか見たことのない表情をふたりがしていた。


ああ、と思う。

このふたり、ちゃんと“ふたりでひとつの生活”を始めている。


マリナはそれを、誰よりも先に知れて、少しだけ誇らしかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ