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第八話:直属斥候は、騎士団長に触れる許可を願う

廊下を歩く足音が、ひとつ余分に聞こえるだけで、どうしてこんなに神経が尖るのだろう。

斥候としての感覚とは、また別のものだった。


ユージーンと並んで歩く。その事実だけで、リシャの背筋は妙に伸びてしまう。

任務中だ。書類を回収して、配置確認に回るだけ。それだけのはずだったのに。


「配置図、先に確保しておいてくれて助かった」


彼の声が、すぐ近くで響いた。落ち着いた、低くやわらかな声。

何度も聞いてきたはずなのに、最近、耳の奥にまで届くように感じてしまう。


「っ、はい」

小さく返したつもりが、変に引きつった声になっていた。

ユージーンの視線はこちらに向いていない。それだけが、救いだった。


(……また、こんなふうに。いつも通りでいたいのに)


気を抜くと、無意識にユージーンの横顔を見てしまう。

肩幅が広くて、動きに無駄がない。いつ見ても軍人らしく整っていて、手入れの行き届いた襟元からは、あの夜感じた清涼な香りすら思い出しそうになる。


(あのとき、想像してしまった。……包まれてしまいたい、なんて)


考えるだけで、また胸が熱くなる。

触れたいと思っている──それは、事実だ。けれど、触れてしまったらどうなるのか。どうなってしまうのか。

考えるだけで、呼吸が浅くなる。


「……アイゼル斥候?」

突然、呼ばれてリシャは一瞬跳ねたように肩を揺らした。

咄嗟に顔を向けると、ユージーンが不思議そうに首を傾げていた。


「すみません、ちょっと考えごとを……」

咄嗟にそう答える。ユージーンは何も言わず、一歩だけ歩を緩めて彼女に並び直した。

ただそれだけの動作が、なぜか体温を跳ね上げる。


(こんな距離、何度もあったのに)


今は違う。今は、勝手に心が揺れる。

いっそ一歩、二歩と後ろに下がってしまえたら、どんなに楽かと思った。


「図面室まで、もう少しだ。……急がなくていい」

ユージーンはそう言って、前を向いたまま歩き出した。

その横顔を見ないようにと意識しながら、リシャは言葉を飲み込む。


(……触れたいって、思ってる。最近、よく)

(手を伸ばしたい、とか。……あの声のするところに、もう少しだけ近づきたい、とか)


揺れる鼓動をごまかすように、図面の束を握る手に、ぎゅっと力を込めた。


---


図面の整理を終えたリシャが、最後の確認をしていると、

背後の足音に気づいた。

振り返ると、ユージーンがいた。


もうすっかり聞き慣れた、彼の歩き方。

けれど今日は、胸の奥が強く反応した。


──落ち着いて。いつもどおりに。


そう言い聞かせるも、手の先がわずかに震えているのが、自分でもわかる。

彼と目が合うまえに、それをごまかすように頭を下げた。


「団長……少しだけ、お時間をいただいてもいいですか」

その声は、普段の報告のような硬さとは違っていた。

ためらいが混じっていて、それでいて、何かを決意したような響きがあった。


ユージーンは、ほんの一瞬だけ間を置いてから、静かに頷いた。

「勤務が終わってから、少し時間を取ろう」

それだけを言って、彼は再び目の前の書類に視線を戻した。

リシャも、それ以上は何も言わずに、その場を離れた。


──そして、夜。

騎士団の一日の任務がすべて終わり、隊舎にもようやく静けさが戻った頃。


リシャは指定された場所へ向かっていた。

街灯の明かりもまばらな、市街地の外れ。

普段は人通りのない石畳の広場。その先には、人気のない小さな遊歩道が続いている。


そこに、ユージーンは既に立っていた。

暗がりのなかでも、彼の立ち姿はすぐに見分けがついた。

背筋を伸ばし、静かに辺りを見渡すように立っていた。

リシャが近づくと、ユージーンは彼女の気配に気づいて、ゆっくりと振り向いた。


「……こちらでいいか?」

「はい。ありがとうございます」


ふたりの間に、風が通り抜ける。

さきほどより気温が下がっているはずなのに、頬の熱はなかなか引いてくれなかった。

リシャは、何から話していいか分からず、しばらく口を閉ざしていた。


けれど──

「……ユージーンさん」

少しだけ首をすくめるようにして、ようやく声を出す。


「最近、自分でも、よく分からなくなることがあって」

「分からなくなる?」

「はい。……少し前まで、任務をこなすこと以外のことは、余計なことみたいに思っていたんです、今思い返すと」


そこで一度、言葉が詰まった。

ユージーンは、それを遮ることなく、ただ黙って聞いてくれていた。


「でも……。ここに配属されて。ユージーンさんの指揮下で動くようになって。一緒に、過ごすようになってきて……

ここしばらく、気づくとユージーンさんのことを見ていたり、考えたりしてしまうんです。

……もっと声を聞きたいとか、手を伸ばしたい、とか。声のする方に、もう少しだけ近づきたい、とか」


最後のほうは、ほとんど囁くような声だった。

リシャは顔を伏せたまま、それでも言葉をやめなかった。


「自分でもどうしてそんな気持ちになるのか分からないのに、止められなくて……。

最近だと、ユージーンさんに、触れてみたいと思うようになって。だんだんとそれが……すごく、強くなってきてしまって……」


言いながら、自分が何を口にしているのか、やっと実感が追いついてきて。

心臓が喉までせり上がってくる。


「……すみません。突然こんなこと」

最後の言葉は、掠れていた。


リシャの打ち明けを聞き終えても、ユージーンはしばらく何も言わなかった。

それは、いつもの思慮深い沈黙というより──固まっていた。

呼吸の仕方を、一瞬、忘れてしまったくらいには、ユージーンにとって衝撃だった。


数秒後、彼は丁寧に息を吸い、ゆっくりと吐く。

目を逸らさないまま、まっすぐにリシャを見て、返す。


「……それは、私がずっと抑えてきた感情に、とても近い」

低く、慎重に選ばれた声。


「正直、今の言葉は……予想していなかった。

だが……嬉しくないはずがない」

その目に浮かぶのは、困惑でも驚きでもなく、ただ深い喜びだった。


「リシャ。私は、きみのそういう気持ちを、大切にしたい」

彼は、一歩だけ近づいた。

けれど、手は伸ばさない。触れたいと思いながらも、自制する一歩だった。


「ただ……今のままでは、きっと曖昧すぎて……互いに、道を間違えてしまうかもしれない」

言葉を切って、そっと視線を落とす。そして、再びリシャを見て。


「だから、関係に“形”が必要だと思ってる。名前でも、呼び方でもいい。

でも、きみが私に気持ちを向けてくれるのなら──“名前”をつけたい」

静かな決意と、微かに揺れる想いが、その声に滲んでいた。


---


リシャは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

呼吸が少し浅くなる。けれど、不思議と怖くはなかった。

ゆっくりと頷く。


「……あの、名前があるほうが……安心する気がして」


言葉にしながら、なぜか少し恥ずかしくなる。

それでも、気持ちは嘘じゃなかった。


「今はまだ、よくわからないんです。

どういう形が正しいのかも、何をどうしていくのが“普通”なのかも……」

「でも」


そこから先の言葉は、自分でも少し驚くほど、はっきりと出てきた。


「ちゃんと、欲しいって思いました。

“名前”とか、“形”とか……そういうの、ユージーンさんとの間に、ちゃんと欲しいって」


そう言ったあと、ふと息を止める。

自分の中の何かが変わりつつあると、うっすら気づいている。

リシャは、顔を上げてまっすぐ見た。


「ユージーンさんに……もっと近づくには、どうしたらいいですか?」

その問いかけは、どこか頼るようで、でも自分の足で踏み出すような響きを持っていた。


目を見つめる。これまでの全部が込めた、ユージーンと共に歩むための言葉だった。

不安と、戸惑いと、そして少しずつ育ってきた感情と。

知らず知らずのうちに、彼の隣に立つことを望むようになっていた、自分の心全部。


ユージーンは、驚いたように瞬きをした。

けれどすぐに、目を細めて、微笑んでくれる。

その優しさに触れた瞬間、リシャの中で何かがほどけた気がした。


---


静かに、夜風が揺れた。

それはまるで、ふたりの間に張り詰めていたものを優しくほどくようだった。


ユージーンは、リシャの問いに答えるまでに、わずかに時間を置いた。

けれど、その視線は揺るがなかった。

真っ直ぐに、リシャだけを見ていた。


「リシャ」

呼ばれた名前に、胸の奥がびくりと震えた。

名前を呼ぶ声が、今までのどれよりもまっすぐで、迷いのない響きだった。


リシャは、ほんの少し目を見開いたまま、彼を見返す。

光が足りないこの場所でも、その視線がこちらを向いているのが分かった。

名前のあとに続く言葉を、彼が探していることも。


「私は……きみのことを、特別だと思っている。

仕事で信頼している。それはもちろんだ。けれど、それだけじゃない。

きみの声も、動き方も、その背中も。……全部を、ずっと見ていた。

近くにいてくれることが、いつの間にか……当たり前になっていた」


そのひとつひとつが、

リシャの中に積み重なってきた日々と、静かに重なっていく。


胸の奥が、じんと熱くなる。

けれど、ユージーンの言葉はまだ続いた。


「もし、きみが私に近づきたいと思ってくれるなら──」

一拍の、優しい間。

「私のほうから、きみと恋仲になりたいと、言ってもいいか」


リシャは、まばたきもできずに彼を見つめていた。

鼓動の音が、やけに大きく響いていた。頬がふわりと熱を帯びた気がした。


でも、すぐに。

「……はい!」

小さな声だったけれど、はっきりと。リシャはしっかりと、頷いた。


その瞬間、ユージーンがすこしだけ、目を見開く。そして、それはすぐに、静かな微笑みへと変わった。

その優しい表情を見たとき、リシャはようやく気がついた。


自分はきっとずっと前から、この人に惹かれていた。

信頼の奥にある熱に、気づかないふりをしていただけだったのだと。


---


返事のあと、ふたりのあいだには静かな間が流れていた。

告白は交わされた。関係にも、名前がついた。

けれどそれ以上の言葉は、どちらからもすぐには出なかった。

無理もない。今まで築いてきた距離を、急に飛び越えすぎないように。

変わったことを、丁寧に確かめ合うように——そんな歩き方だった。


並んで歩く。肩が触れるほどには寄っていない。

けれど、いつもよりほんの少し近いその距離が、心の答え合わせのようだった。


(……名前がついた今なら……もう少しだけ、近づいてもいい)

リシャは足元を見ながら、唇を結ぶ。


深く息を吸い、そっと呼びかけた。

「……あの、ユージーンさん」

名前を呼ぶと、すぐに隣の気配がこちらを向いた。


けれどリシャは、目を合わせないまま、手元を見つめた。

「その……すこしだけ、手……つないでも、いいですか?」

声に出した途端、耳の奥が熱を持つ。


けれど、沈黙は長く続かなかった。

「……もちろんだ」


次の瞬間、指先にふれたのは確かな温もり。手が重なる。絡めるのではなく、優しく包むように。

リシャは、息を呑んだ。

「……あたたかい……」


ユージーンの親指の付け根を無意識に撫でると、かすかに手が揺れたのがわかった。

「…………今のはくすぐったかった」

「っ、ごめんなさい」

バツが悪そうに、何かを堪えるようにユージーンが呟くのを見て、じんわりと胸がいっぱいになる。


それでも、心の奥では別の感情が芽生えはじめていた。

(あたたかい……でも、もう少し)


その想いが、じわじわともうひとつのおねだりに変わっていく。

街灯の少ない路地を選び、ふたりは夜の静けさへと身を委ねる。

誰にも見られない、ふたりだけの時間。


「……ユージーンさん」

何度目かの呼びかけ。けれど、いちばん勇気が必要だった。

ユージーンは立ち止まり、リシャのほうへ視線を向ける。


「その……少しだけ、お願いがあって。……包んでもらえませんか。ユージーンさんの、からだで」

声が震えていた。でも、しっかり届くように、最後まで言えた。


ユージーンは一瞬だけ黙り、それから短く、しかし確かな声で答える。

「……わかった」


手が引かれる。

次の瞬間、リシャはふわりとその腕の中に抱き寄せられていた。

肩を包まれ、背中にはあたたかい手のひら。呼吸の音がすぐそばにある。


それは、ただの接触ではなかった。

寒い夜にそっと掛けられる毛布のように、温もりがじんわりと皮膚を越えて、心にまで届いてくる。


リシャは目を閉じた。

(あたたかい……)

(でも、それだけじゃない。……ちゃんと、大切にされている)


胸元に触れる自分の呼吸。重なるように感じる鼓動。

(……もう少し、このままでいたい)


しばらくの間、ふたりはそのまま動かなかった。

風が服を揺らす音だけが静かに響いていた。

ユージーンの腕の中では、まるで別の時間が流れているようだった。


やがて、リシャはそっと口を開く。

「……ありがとうございました」


ユージーンの手が、背をなぞるように一度だけ動いた。

それが返事の代わりだった。


静かに腕が解かれる。

けれど、そこにあった温度は、リシャの中に確かに残っていた。


---


歩き出した帰り道。並んで歩くその一歩ごとに、何かが穏やかに変わっていく気がした。

けれど、不思議と怖くなかった。


沈黙があった。でもその沈黙すら、今はやさしくて、心地よく感じられる。

やがて、リシャは小さく息を吸い、ゆっくりとことばを整えながら口を開いた。


「……その。さっきの、あの時間……すごく、幸せでした」

自分で言葉にして、少し照れくさくなる。

でも、それは偽りのない感情だった。


胸の奥に、あたたかさが残っている。

それは、ただ手をつないだだけでは届かない場所にまで沁みていた。


「……名前がついて、よかったです」

ふたりの関係に。

“恋人”という、たったひとつの名前。

それがあるだけで、手をつなげる。抱きしめてもらえる。

そんなささやかな日常が、失われないものとして確かに感じられる。


隣を歩くユージーンは、わずかに目を伏せていたあと、すぐに静かに頷く。

「私も、そう思っている」

その短い返事が、とてもまっすぐだったから。リシャは自然に、笑みを浮かべていた。


けれどその笑顔の奥に、小さな不安がまだ残っていた。

さっきまでのぬくもりが濃かったぶん、自分ばかりが求めていたような気がして。

そっと問いかけてみる。


「……ユージーンさんも、私に……触れたいと思ってくれたこと、ありますか?」

自分の声が小さく揺れていたのが分かった。


けれど、ユージーンは迷いなく応える。

「ある」

その言葉に、リシャの胸がじんわりとあたたかくなる。


「さっきのように手に触れたいとも思っていたし……」

少し間を置いてから、彼は続けた。

「……抱きしめたいとも、思っていた」

「頬や唇にも、……触れてみたいと」

視線を少しだけそらしながらの言葉だったけれど、その想いはまっすぐ伝わってきた。


リシャの胸に、くすぐったさと安堵が混ざった何かがひろがっていく。

「……私だけじゃ、なかったんですね」

ふっと、笑みがこぼれる。声は少し揺れていたけれど、心は穏やかだった。


ユージーンもまた、微かに笑った。

そして、真剣な声で問いかける。


「リシャ。私からも……触れたいと思ったときには、伝えてもいいだろうか」

その言葉は、まるでこれからを始めるための合図のようだった。


リシャは、ためらいなく頷く。

「はい。うれしいです……すごく」

その一言が、ふたりにとっての合図になった。


温もりは、これからも何度でも交わされる。

そのたびに、ことばも添えて。

夜は深まっていたけれど、ふたりの歩みはもう迷わず進んでいけるところまで来ていた。


---


ふたりの歩みは、静かに並んでいた。

まだ手はつないだまま。少しだけ照れくさくて、けれど、温かかった。

街路の灯が遠ざかるたびに、世界が静かになっていく。

人通りのない小道に入り、足元の石畳を踏みしめる音だけが響いた。


そのとき──リシャはふと、空気の質が変わったことに気づいた。

肌を刺すようだった冷えが、どこかやわらいでいる。

頬に当たる風が、ほんの少しだけ、丸みを帯びていた。


(……あ)

言葉にはしないまま、けれど、わかった。季節が──変わろうとしている。

長く凍っていたものが、ゆっくりと、ほどけはじめている。それはきっと、心も同じだった。

もう、独りで背負わなくていい。誰かの隣を歩くことが、こんなにも穏やかで、嬉しいものだなんて。


リシャはそっと隣を見た。ユージーンは、変わらぬ歩幅で、黙って隣を歩いている。

けれどその瞳には、確かに灯りがあった。自分に向けられた、たったひとつの光が。

その温もりを胸に、リシャはそっと、もう一度手を握り直した。


夜の空気が、ほんの少しだけやわらかくなっていた。

それは──季節が動き出す前の、静かな予兆だった。

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