第七話:直属斥候は、変わりゆく輪郭に気付く
空は澄んでいるのに、指先の感覚だけが少しずつ削られていくようだった。
乾いた風が頬をなぞるたび、皮膚の奥にひやりとした感覚が残る。吐く息は細く白く、すぐに宙に溶けて消えた。
ユージーンが別任務で不在のため、この日の任務は少人数で行う簡易的なものだった。定点の確認と記録、補給物資の設置。危険性は低く、構成も穏やかだった。
リシャは、慎重に茂みを踏み分けながら前進していた。隊列の少し前に立ち、地形を確かめる。
その途中、伸びた枝の一本が外套の裾に引っかかった。ぱしりと乾いた音がして、わずかに布が引かれた感覚があったが、進行を妨げるほどではなく、リシャは歩を止めずにいた。
違和感は一瞬。寒さと空気の張りつめた静けさの中では、ささやかな痛みなど容易にかき消えてしまう。
任務は問題なく終わり、陽が傾きかける頃には、前線拠点へと戻っていた。
いつものように荷を解き、室内着に着替えようとして、リシャは手を止める。
上衣を脱いだ拍子に、腹部に引きつれるような感覚が走った。
シャツをまくると、脇腹に沿って赤く擦れた痕が浮いている。布越しに枝で引かれたのか、軽い擦過傷。出血はしていないが、触れれば軽い痛みがある。
(……任務中か)
枝に引っかかった瞬間を、ようやく思い出す。
そのときは気にも留めなかったのに。痛みの軽さか、それとも、寒さで感覚が鈍っていたせいか。
「着替えのときに気づくくらいなら、たいしたことはない、か……」
ぽつりと独りごちて、目を細める。
ただ、その視線の先──擦り傷の周囲、やや色づいた皮膚のやわらかさが、どこか以前と違って見えた。
(……?)
極端に痩せていた頃よりも、わずかに体の線が丸くなったような、そんな気がした。
それが悪いこととは思わない。ただ、少しだけ不思議だった。
念のため、医務室に寄っておくべきだと判断する。
マリナなら、何か気づいても──必要なことだけを、適切に伝えてくれるだろう。
それは、ほんの少しだけ頼もしさを感じる存在への信頼だった。
静かに外套を手に取り、もう一度、シャツの裾を直す。
指先はまだ、外気に触れていた余韻で少しだけ冷たかった。
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医務室は、いつもと変わらず静かだった。
小さな窓から差し込む陽の光が、白く塗られた壁を淡く照らしている。
換気のために少し開いた窓からは、微かに薬草と石鹸の香りが混じった空気が流れ込んでいた。
診療台の上、リシャはシャツの裾を腰のあたりまでたくし上げ、無言でマリナの処置を受けていた。
腹部に薄く残る擦過傷。赤くなった皮膚の上をマリナの指が丁寧に滑っていく。
「痛みは?」
「ほとんどありません。着替えのときに少し気付いた程度です」
応じる声は平坦だった。過不足のない、報告そのもの。
マリナは少し眉を寄せながらも、何も言わずに消毒液を含ませたガーゼを手に取った。
リシャの身体には、今回のような小さな傷跡のほかに、いくつかの痕が残っている。
肩口に薄く刻まれた切創痕、脇腹に沿って斜めに走る古い縫合の跡、膝裏のやや赤みの残る火傷痕──いずれも過去の任務で負ったものだ。
特に感情を挟むでもなく、彼女はそれを「記録のようなもの」として受け止めている。
マリナはふと、手を止めた。
黙ってリシャの体を見つめたあと、思いついたように呟く。
「……なんだか、少し変わったかも」
「変わった、とは?」
「うん、なんていうか……少しだけ、体つきが柔らかくなってきた気がするの」
リシャは小さく瞬きをした。
「前より、腰回りとか、肩のラインとか。線がやわらかくなってる感じ。女性らしくっていうか」
「……そうですか?」
ふと、着替えのときに見た自分の腹の線が、少しだけやわらかく見えた記憶がよみがえる。
だがその違和感を肯定するには、まだ少し、実感が薄かった。
マリナは苦笑して、さらりと続ける。
「まあ、もともとが細すぎたんだよ。まだ全然痩せてるくらいだけど、今くらいの体型なら、むしろ安心かな」
「今のままでも……動きに支障はありません」
「うん、知ってる。でもね、体って正直だから。ちゃんと栄養とって、ちゃんと眠って。今の生活がリシャにとって合ってる証拠だよ」
そう言って、マリナは最後のガーゼをそっと貼りつけた。
リシャは、ただ「ありがとうございます」と静かに頭を下げた。
服を整えながら、どこか遠くを見るように目を伏せる。
(女性らしい……)
その言葉が、胸のどこかに、ひっかかるように残った。
彼女にとって、体格とはただの「機能」だった。
──小柄な方が、音を立てずに動ける。
──隠れる場所を選ばない。影に紛れやすい。
だからこれでいい。これでなければ、ここまで来られなかった。
そう思ってきた。
けれど──今のこの身体も、否定するほど悪くはない気がした。
マリナの言葉を信じるなら、「無理をしなくていい」生活の中で、自然と変わってきたもの。
それは、初めて「人とともに過ごす」環境のなかで得た、ごくささやかな変化なのかもしれない。
リシャは何も言わず、ただ小さく息をついた。
その変化を──一度、受け止めてみようと思った。
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湯気が静かに立ちのぼる浴室の中。
石造りの壁に囲まれた小さな個室の湯船に、リシャは膝を抱えて静かに浸かっていた。
音は少ない。耳に届くのは、水面をゆらす自分の動きと、湯の跳ねる小さな音だけ。
身体を休めるというよりは、温もりに沈み込むような感覚だった。
(……女性らしく、なってきた)
マリナの言葉が、ふと脳裏によみがえる。
誰かにとっては気にも留めないような一言だったのかもしれない。
でも、リシャにとっては──その言葉の意味を、まだうまく掴みきれていなかった。
彼女はそっと、自分の肩口に目を落とす。
細く引き締まった腕。任務で鍛えられた筋肉の上に、うっすらとやわらかさが滲んでいる。
手を伸ばせば、胸部や腹部、腰のあたりにも、どこか以前より丸みがあることに気づく。
とくに胸元──かつては骨ばかりで、手を当てればすぐに肋のかたちがわかった場所が、いまはわずかにふくらみを帯びていた。
脈打つような変化ではない。でも確かに、少しずつ、何かが宿りはじめている。
ふと、湯の中から肩を出し、濡れた髪を手でかき上げる。その指先が、首筋のあたりまで伸びた髪先に触れた。
(……もう、肩に届きそう)
刈り込みすぎない短さに整えてきた後ろ髪が、いつの間にか、任務服の襟に触れそうな長さになっている。
これまでは、動きやすさと手入れの簡便さを優先し、必要なときは自分で切り、あるいはマリナに頼んで整えてもらっていた。でも今は──少しだけ、伸ばしてみようかな、と思っている自分がいる。
深い理由があるわけじゃない。ただ、鏡越しに映る自分が、前よりほんの少し、柔らかく見えた気がしたから、何となく……そうしてみたくなってしまった。
(……変わってきてる、のか)
思えば、初めてマリナに拾われたとき、自分の身体はもっと尖っていた。
食事も眠りも足りていなかった頃──生きるための最短距離を選びつづけていた身体。
今のこの身体は、あの頃とは違う。
穏やかで、余白があって、誰かの隣にいても構わないような──そんな形をしている。
(……悪くないかもしれない)
そう思った瞬間だった。
ふいに、隣に佇むユージーンの姿が脳裏に浮かんだ。
制服の上からでもはっきりとわかる、均整の取れた体格。
無駄のない筋肉と、重みのある肩の広さ。
腕が動くだけで、その内側に秘められた力が想像できてしまう。
──もし、そんな彼に包んでもらえたら。
──自分の身体なんて、きっと、すっぽりと収まってしまう。
想像した瞬間、胸が跳ねた。
「っ……!!」
あわてて湯の中で身を縮め、顔を押さえる。
耳まで熱くなっているのが分かった。
(私、何考えてるの……!)
目をぎゅっとつむる。
なのに、目の奥に浮かぶ彼の姿が消えない。
あの夜、名前を呼ばれたときの声。すれ違った時に感じた清涼なハーブに似た香り。
視線、温度、背の高さ、手の大きさ──
思い出すだけで心臓が暴れ出しそうになる。
(……っ、また、心臓が……!!)
湯の熱なのか、それとも中からこみ上げてくる何かのせいなのか、判別がつかない。
じんわりとのぼせる感覚に抗うように、浴槽の縁に額を押しつけた。
心臓の鼓動は落ち着かず、けれどリシャはそのまま、顔を隠したまま、小さくつぶやいた。
「……もう……ばか……」
その声だけが、浴室にふわりと溶けていった。