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第六話:直属斥候は、呼び名にぬくもりを覚える

作戦会議室には、まだ早朝の冷たい空気がわずかに残っていた。

窓際の地図棚には巻物が整然と収められ、壁には先週の遠征結果を示す記録紙が並んでいる。

正面の長机を囲むように、ロルフ・ギルデン副官、ハールト・セズネ斥候、リシャの三人が座っていた。


次の任務は、西方の森境界線における新たな偵察行動。

魔獣の踏み荒らし痕とみられる区域の再調査が含まれている。リシャは斥候として先行し、ハールトが護衛を兼ねて随行する。ロルフは本隊指揮と記録管理を担う予定だ。


「アイゼル斥候、提出された経路案を再確認しよう。南東のくぼ地を経由する形になっていたが、積雪の影響が強いとなれば、遮蔽物の確認も必要だ」

ロルフは記録紙に目を落としながら、淡々と指示を進めていく。必要な情報は過不足なく、やり取りには無駄がない。


「はい。積雪の深さは前回より増しており、一部の獣道が使えない可能性があります。風向きと日照を考慮して、南東ルートの遮蔽条件を確認したうえで進行順を決定するつもりです」


リシャの回答に、ロルフがわずかに頷いた。

「では、付近の斜面角度も念のため調べておこう。転倒や滑落のリスクは避けたい」


「……そのルート、風が巻きやすくて音が乱れるかもしれません。——アイゼル斥候。俺の位置、少し後ろ寄りにしたほうがいいか?」

穏やかな声が差し込んだ。ハールトだった。体格の大きな青年だが、威圧感はなく、表情も柔らかい。装備の整備や後方確認を淡々とこなす姿勢は、任務中の信頼につながっている。


「そうですね。三列目よりやや後方で様子を見て、必要があれば現地で調整を」

「了解。……ま、アイゼル斥候の背中が見えてりゃ、俺はそれでいいって話だけどな」

ふと、少しだけ空気が緩んだ。リシャは小さく頷き、手元の地図を開きながら次の区画に視線を移す。


そのとき──。

ノックのあとに静かに扉が開き、黒藍の制服の男が一人、室内へと足を踏み入れた。


「……遅れてすまない。引き継ぎに手間取った」

ユージーンだった。いつもの落ち着いた声。だが、その一言だけで、リシャの胸の奥に淡い緊張が走る。

肩がわずかに強張るのを自覚しつつも、表情は変えない。


ユージーンは机の端に資料を置き、リシャの正面へと視線を向けた。

「打ち合わせは進んでいるようだな。アイゼル斥候、経路案の説明を」

「了解しました、まずはこちらの資料を」


リシャは背筋を伸ばし、用意していた内容を淡々と述べていく。彼の視線が自分に向いているだけで、胸が不自然に高鳴る。それでも、声はしっかりと出ていた。


資料を指しながら進行を続けると、ユージーンが静かに頷いた。

「現場の判断を信じる。……斥候としての判断力は、何よりの武器だからな」

わずかに目が合った。その一瞬だけ、ユージーンのまなざしが柔らかくなった気がして、リシャは少しだけ視線を下げてしまう。


「その他、装備や物資の確認は?」

ロルフが口を開き、事前調整はさらに続いていく。


──緊張と静かな高揚のなかで、それでもリシャは、斥候としての任務に集中していた。

どれだけ鼓動が速くなっても。顔を見つめてしまいたくなっても。

今はまだ、職務をまっとうするだけだ。


---


任務は、予定よりも半日早く終わった。

帰還後の装備点検と報告を手短に済ませ、隊舎での解散を告げられたとき、リシャは胸の奥で微かに安堵していた。

誰一人、負傷することなく戻れたこと。そして、今回も斥候としての責務を果たせたこと。


ロルフから淡々とした労いの言葉を受けたあと、リシャは小さく頭を下げ、隊舎の裏手に出た。

夕暮れ前の空にかかる雲は薄く、風は湿り気を帯びていたが、心なしか気温は和らいでいた。


遠征帰りの緊張が少しずつ解けていくのを感じながら、リシャは足を止める。

──まもなく、ユージーンが現れる。

事前に「任務後に少し寄りたい場所がある」とだけ告げられていた。問い返すことはせず、ただ「はい」と返した。今では、それだけで十分だった。


足音に振り返ると、背筋を伸ばしたユージーンの姿があった。

「待たせたな」

「いえ、今来たところです」

互いにそれ以上の言葉は交わさず、自然に歩き出す。


向かった先は、ふたりにとって馴染みになりつつある店──《レーヴェンの窓辺》。

入口の木枠には季節の花が飾られ、くすんだ白いカーテン越しに灯りが漏れている。


店内には、焼き麦や煮込み料理の温かな香りがほのかに漂っていた。

奥の席に腰を下ろすと、いつものように陶器のポットに入った白湯が運ばれてくる。

ふたりは静かにそれを口に含み、言葉少なにひと息をついた。


「今日の任務、お疲れさまでした」

「ああ。よくやってくれた、ありがとう。……リシャ」


ふいに名前を呼ばれて、リシャは少しだけ目を瞬かせた。

けれど今は、もう驚きはしなかった。


「ユージーンさんこそ、です」

口に出すと、言葉が自然に馴染んでいくのがわかる。

名前を呼び合うことが、少しずつ“ふたりのかたち”になり始めている──そんな、穏やかで温かい夜だった。


ほどなくして、注文していた料理が運ばれてくる。

リシャの前には、淡い黄色のソースがかかった鶏肉と根菜の煮込みが湯気を立てていた。

香草の香りがやわらかく立ちのぼり、疲れた胃にもやさしそうな一皿だ。


ユージーンが選んだのは、焼き麦の薄パイ包み。

外側の香ばしい生地の中に、ナッツと根菜、薄く刻まれた肉が詰められている。

ふわりと立つ香ばしい匂いが、食欲を刺激した。


「この薄パイ包み、ユージーンさんのお気に入りでしたよね」

「そうだ。ここへ来ると、つい頼んでしまう」

「……前におっしゃっていた、”遠征後の味”って、これだったんですね」

「疲れたあとの身体に、ほどよく沁みる。食べてみるといい」


そう言って、切り分けたひとつをそっと小皿へ移してくれる。

受け取るのが自然になったことに、リシャは自分でも気づいていた。

誰かと料理を分け合うという行為は、かつての自分にはなかった感覚だったのに。


小さく頷いて一口食べると、ぱりっとした生地の中から、しみじみとした滋味が舌に広がる。塩気もほどよく、重すぎない。


「……あ。……これ、ほんとに疲れたあとにちょうどいいですね……」

「だろう?」

ユージーンは、どこか満足そうに頷いた。


「きみも気に入ると思った」

その一言が、どうしようもなく嬉しかった。


「……ユージーンさんって、こういう包み焼き、よく選ばれますよね」

「そうか? ……そうかもしれないな」

返ってきた声音は落ち着いていたが、どこか照れが混じっているようにも聞こえた。


「中の具も、ナッツとか根菜が入ってると、いつも美味しそうに召し上がってて……」

自分で言いながら、リシャは少しだけ頬を染めた。


「最近、注文する前に、“あ、きっとこれ選ばれるんだろうな”って、なんとなくわかるようになってきました」

「……それはすごい。私の行動を読まれているらしい」

くすりと、ユージーンが笑う。


「気づかないうちに、見られていたようだ」

「いえ……見ようとしてたわけじゃなくて……でも、なんだか自然に覚えてしまっていて……」


言い淀んだリシャの言葉を、ユージーンは穏やかに受け止めた。

「私は、きみに覚えられるなら、悪くないと思っている」

その言葉に、リシャは目を瞬き──それから、少しだけ俯いて微笑んだ。

「……ありがとうございます」


胸の奥に、じんわりとした温かさが広がっていた。


---


帰宅後、寝間着に着替えて髪を軽く整えると、ランタンの明かりを絞った。

灯りが揺れるたび、部屋の壁が淡く色を変える。宿舎の一室という質素な空間のはずなのに、不思議と今日は、柔らかく見えた。


夕食の時間を思い返す。

焼き麦の薄パイ包みを前に、顔を見合わせて、名前を呼び合って──

そんな、どこかくすぐったいような時間が、当たり前のように流れていた。


「……いつの間に、こうなったんだろう」

ぼそりと呟いた声は、誰にも届かないまま消えていく。

休日や任務上がりに、ユージーンとふたりで食事をするのが自然になっていた。


日によって店は違うが、今夜のように《レーヴェンの窓辺》を訪れることが多い。落ち着いた空間で、香ばしい料理を前に、会話を交わす。

ただそれだけなのに、なぜだか、心の奥にじんわりと残るものがある。


ほんの半年前、第七団・前線指揮隊に配属されるまでは、そんな時間すら考えたことがなかった。

与えられた任務に集中し、与えられた携行食を口にし、与えられた寝床で身体を休める。それの繰り返し。


効率と目的だけを優先して、それ以外のことは、視界の外に置いていた。

「……あの頃の自分も、間違ってたわけじゃない。あの頃があったからこそ、今の私につながっている。けれど──」


今は、違う。

気づけば、食事の味を覚えている。

誰かの言葉を胸の中で反芻することがある。

眠る前に、こうして小さな感情を手のひらで撫でるように、見つめる時間が生まれた。


「変わった、んだな……私」

目を閉じると、ゆっくりと深呼吸が落ちてくる。

心がやわらかいと、眠りもやわらかくなる。


名前を呼ばれることが嬉しかったように、誰かと食事をすることが嬉しいと感じられるようになった。

そんなふうに、ひとつずつ、自分の世界が広がっていく。

それが、今のリシャには、とても嬉しい変化だった。


やがて、灯りがゆっくりと揺れて、静かに、深い眠りが降りてきた。

まぶたの裏に浮かぶのは、名前を呼ぶときの声と、それに応えたときの、ささやかだが温かい笑み。

眠りの中でさえ、それらはリシャの胸の奥をやわらかく揺らしていた。

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