第五話:直属斥候は、騎士団長の名を呼びたい
「アイゼル斥候、この書類を物資管理課へ」
「了解しました」
ユージーンから書類を受け取ると、リシャは即座に足を動かした。廊下を素早く駆け抜ける。任務中は、いつも通り──のはずだった。
急に思い出してしまう。
あの夜、ユージーンが自分の名を呼んでくれたときのこと。自分も呼ぼうとしたが、急に胸がおかしくなってしまったこと。
(……いけない。今は職務中)
心の中に差し込んだ熱を払うように、そっと首を振る。
業務用通路を抜け、物資管理課の受付口に到着すると、係官にきびきびと説明を行う。
「第七団・前線指揮隊からの提出書類です。今回の補給品リストは備品分と衛生物資に分かれています。確認をお願いいたします」
「確かに。備品は倉庫B、衛生物資はD。問題ありません」
淡々と交わすやりとりは、誰が見ても「仕事ができる斥候」そのものだった。
けれど──
パタン、と扉を閉めたその瞬間。リシャは深く息を吐いた。
いつもの任務。いつもの動き。
ただ、ほんの少し。背後に気配があるだけで心臓が跳ねてしまったり、廊下ですれ違う隊員がつけていたハーブの香油が、あの夜の香りを思い起こさせてしまう。
「香りは、記憶に深く残るものだから」──ユージーンの言葉を、今ごろになって噛みしめている自分がいた。
(……ユージーン、さん)
思い出しただけで、またあの動悸だ。
リシャは胸を押さえ、誰もいない廊下の角でそっと呼吸を整える。
大丈夫──誰にも見られていない。
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その日も、作戦室はいつもと変わらぬ空気に包まれていた。
報告書が積まれ、壁の地図には補給路と巡回路が赤線で引かれている。
定例の巡回や書類処理、些細な申請の承認──変わらぬ日常。変わらぬ任務。
……けれど、リシャの心の中は、相変わらず揺らいだままだ。
書類をひとまとめにすると、歩を進める。
「団長、前線A区画の更新図面、こちらに──」
言いかけて、ふと足が止まった。
ユージーンがすぐ傍に立っていた。
その制服の袖から、微かに漂う香り──
あの夜、カモミール亭で感じた、清涼なハーブの気配と似ていた。
(……っ、あの夜のことを、いま思い出すなんて)
少しだけ早口になってしまった自分を隠すように、淡々と手渡す。
「……提出いたします」
視線は合わせられなかった。
彼の返答も、業務的な調子だった。
作戦室を出て、書類棚へと向かう途中、ふと背中に視線を感じた気がした。
「……何かあったのか?」
静かな問いかけが後ろから落ち、心臓が、ひとつ跳ねた。
リシャは振り返り、すぐに答えた。
「……いえ。提出書類には、何もありません」
口調を変えず、表情も動かさないよう気をつけた、つもりだったが。
余計な事を口走ってしまったかもしれない。
「……そうか、何かあったら報告するように」
「了解しました」
一礼し、背中を向ける。
……報告、してみてもいいのだろうか。
リシャの中だけでは制御できなくなってきている気がしている。
ユージーンなら、呆れたりはしない、気がする。……だからこそ、少しだけ話したくなった。
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夜の帰り道。
任務を終えたあと、必要な連絡事項だけを交わして解散となり、それぞれの帰路についたはずだった。
けれどリシャは、まっすぐ宿舎に戻ることができなかった。
歩き慣れたはずの道が、今日は妙に遠く感じる。
気づけば足が止まっていた。視線の先には、ゆっくりと歩いていくユージーンの背。
「……団長」
声をかけた瞬間、心臓が跳ねた。
ユージーンが振り返る。その顔を直視できず、リシャは視線をそらしたまま言葉を探す。
「あの、報告が。その……個人的な事なのですが」
リシャの様子に気付き、ユージーンは少し歩いた先のベンチを指差した。
人気はほとんど無い、ここでなら落ち着いて伝えられるかもしれない。
二人並んでベンチに座る。ユージーンは黙ってリシャの言葉を待っていてくれている。
「すみません……たぶん、これから意味のわからないことを言ってしまうと思います」
思ったより声が震えてしまった。それでも、止まらなかった。
「このあいだ、団長に名前を呼ばれて、本当に嬉しかったんです。
それまで、自分の名前なんて、ただの記号だと思っていました。
でも……団長に呼ばれて、初めて──自分の名前が、とても輝いて感じたんです」
自分でも、こんなふうに言葉が出てくるとは思わなかった。
胸の奥から何かがこぼれていくような感覚。
「それで……私も、団長のこと……ユー……っ、名前で呼んでみたいと思ったんです。
でも、いざ声に出そうとすると……おかしくなってしまって。
声も上手く出せないし、胸が苦しいし、脈まですごく早くなってしまって……」
気づけば、両手を握りしめていた。
言い終えても、顔を上げることができなかった。
沈黙が落ちる。
夜の空気は冷たいはずなのに、頬が驚くほど熱い。
──そのとき。
「……話してくれてありがとう」
声は低く、穏やかだった。
けれどその呼吸の端に、ほんのわずかな間があった。
一拍おいて、言葉が続く。
「そんなふうに思ってくれていたことが、もう……十分すぎるくらいだ」
ユージーンはまっすぐ前を見たまま、少しだけ口元に微笑を滲ませた。
「どう呼ぶか、どうして呼べないかに、答えなんて要らない。……それは、きみのものだから」
小さな吐息が夜に溶けていく。
「きみが名前を呼んでくれる日が来たら──私は、ちゃんとそこにいる」
言葉にならないものが、胸にこみ上げる。
「……すみません」
ユージーンは小さく目を細め、ほんの一拍、視線をリシャに預けた。
「謝る必要なんてない。……私にとっては、それだけで十分だ、リシャ」
名前を呼ばれたその声が、痛いほど優しかった。
けれど、その優しさに救われたのも、また確かだった。
「ユージ……っ、……はあ、団長もその……、名前を読んでくれたとき、緊張しましたか?」
「緊張というか……正直言うと、抑えていたものが勝手に溢れてしまった感じではあった」
「…………そうなんですか?」
リシャはぽかんと顔を上げ、小さく笑った。ユージーンも、それに応じるように穏やかに微笑を返す。
わずかに重かった胸の奥が、少しずつほぐれていく。
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そのまま、ふたり並んで歩き出す。
夜道は静かで、街灯の光が石畳を淡く照らしていた。隊舎のある方向へと歩を進めながら、リシャはさっきまでの緊張が和らいでいることに気づいた。
ふとした話の流れで、ユージーンが今日の巡回ルートの改善点を軽く口にする。
「明日、後半の隊を南側から回すように調整しようかと思っている。斥候の視認範囲を活かせば、もう少し……」
「──はい、ユージーンさん」
何気なく、自然に返事をした。
すぐ隣で、ユージーンの足音が止まった。
リシャも一拍遅れて立ち止まる。けれど、ユージーンのほうを見上げた瞬間、彼の目が大きく見開かれていた。
「……今、名前を」
「えっ?」
「呼んでくれていた」
リシャの目がぱちぱちと瞬く。数秒の沈黙ののち、じわじわと頬が赤く染まっていく。
「あ……!」
手を口元に当てて、顔をそむけた。
(気が緩んでた……!)
なのに、隣からくる視線が、なんだか妙に期待を含んでいて。
リシャがちらりと横目でユージーンを見ると、彼は努めて無表情を保っている──のだけれど、その目だけが、少しだけそわそわしてるように見えてしまった。
(……呼ばれたいって、思ってる?)
気づいた瞬間、胸がぎゅっと掴まれたような衝撃が走った。
その目に答えたいと思い、一度深呼吸をしたあと、口を開く。
「ユージーン、さん」
今度は、はっきりと目を見て。
彼の名前を、ちゃんと自分の意思で。
思わず、ふたりで顔を見合わせて笑っていた。
ふいに零れた、小さな達成感と、心の奥から滲むような安堵。
「……たしかに、これは忘れられなくなるな。名前を呼ばれるって、こんなにも響くものなのか……」
少しだけ照れたように眉尻を緩めたユージーンの言葉に、リシャの胸がまたきゅっと音を立てた。
「……っ、同じ、なんですね……」
安心と嬉しさがないまぜになったような声で、リシャはぽつりと呟いた。
それだけで、自分の気持ちがちゃんと伝わっていたことが嬉しくて、視線を落としながらそっと笑みをこぼす。
その横顔を、ユージーンは静かに見守っていた。