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第四話:直属斥候は、言葉ひとつで心が揺れることを知る

陽の傾きが早くなり、夕方の冷え込みが肌に触れる季節。

夕食の時刻、拠点の食堂には、いつも通りのざわめきが広がっていた。


配膳口から立ちのぼる湯気、陶器の音、控えめな話し声。

その一角、壁際のテーブル席に三人の姿があった。

リシャと、第七団の隊員ふたり。

一人は副斥候のレイナ・グリース。もう一人は、支援任務に就いているサラ・メレルだった。


「今日の煮込み、いつもより味がしっかりしてる気がする」

「んー、たぶんだけど、保存食の塩加減、強めなやつ使ってるかもねえ」

そんな会話のなかで、リシャは少し遅れてスプーンを持ち上げる。

話題に乗れないわけではない。ただ、まだ反応のタイミングが難しい。


「アイゼルさん、気になるならそれ、試してみます?」

サラが小皿を差し出す。リシャは一瞬だけ目を丸くし、それから控えめに頷いた。

「……いただきます」

小さく遠慮がち、けれど二人には伝わる声で答える。


少し前まで、こんなふうに誰かと自然に食事を囲むことは考えられなかった。

けれど今は、穏やかな声と湯気に包まれながら、少しずつ何かが変わっていくのをリシャ自身も感じていた。


──ユージーンと食事の席を囲んだのは、すでに三度目になる。

同じ窓辺の店だけではなく、任務の帰路にふと立ち寄った別の店もあった。

会話は多くはなかった。けれど、そこにある静けさが──今のリシャにとっては、とても心地よかった。


---


そんな三人の様子を、少し離れた場所から見つめる視線がある。

ユージーン・ヴァルクナーは、食堂奥の通路脇で足を止めていた。

目立たぬ位置、気配を消した立ち姿。


視線の先には、落ち着いて食事を取るリシャの横顔。

話すことに慣れていない口元、けれどその輪から外れようとはしない姿勢。

彼女の“慣れない頑張り”が、誰よりも静かに伝わってくる。


気がつくと、ユージーンの隣にそっと立つ人影があった。

「ヴァルクナー団長」

声の主はマリナ・クライン。

彼女もまた、少しだけ周囲の気配から離れた位置に立っていた。


「リシャのこと、ありがとうございます」

マリナの声は穏やかだった。


それは軍医としての礼ではなく、もっと個人的な、静かな感謝の気持ちだった。

「この前……彼女からお土産をもらって。

味がどうとか、よくわからないって言いながら、でも“おいしかったから”って。

……彼女にとっては、大きな一歩だったんだと思います」

ユージーンはわずかに目を伏せ、黙って聞いていた。


「最近、少しずつ変わってきています。食堂にいる時間が増えて、任務以外でも人とも話すようになって」

しばしの沈黙が流れる。


「ああ……アイゼル斥候があんなふうに周囲と話しているのを、私も初めて見る。

……変化のきっかけになれたのだとしたら、こちらとしても光栄だ」


静かな言葉。

だが、その声の奥には、確かに抑えきれない熱が滲んでいた。

名を呼ぶにはまだ早く、気持ちを口にするには尚早。けれど、眼差しに宿る感情は隠しきれないほど、そこにあった。


マリナはそれに気づいたが、何も言わず、ごく自然に微笑んで言葉を添える。

「これからも、よろしくお願いしますね。団長」


ユージーンの視線が、再びリシャのほうへと戻る。

遠く、輪の中でスプーンを口に運びながら、リシャは何かに小さく笑っていた。

その笑みを、誰よりも大切に思っている自分に──

ユージーンは、もう気づいていた。


「……心得ている。ありがとう」

ひとつ、静かに頷くと、彼はその場を離れていった。


リシャは、それにはまったく気づかないまま。

笑顔のまま、もう一口スプーンを口に運んでいた。


---


夜、団区の外れにある《カモミール亭》。

小道に面した石造りの建物には、つる性の植物が絡み、木製の看板には控えめな文字とカモミールの小花が描かれている。

灯に照らされた店先からは、かすかにハーブと温かなスパイスの香りが漂っていた。


店内に入ると、木の温もりを感じる造りで、天井はやや低め。棚にはドライハーブの束や陶器のキャニスターが並び、どこか家庭的な落ち着きを感じさせる。

照明は控えめで、蜜蝋のランプが小さなテーブルを淡く照らしていた。


ふたりが案内された席は、窓辺から少し離れた奥の角。

壁際には古い書架が置かれ、料理の合間に手に取れるよう小冊子や詩集が並べられている。


席につくと、温かいハーブ水──ローズマリーと柑橘を軽く煮出したものが供された。

すっきりした香りとわずかな酸味が、疲れをやさしくほぐしてくれる。


リシャはそっと香りを吸い込み、ふっと目を細めた。

「……落ち着きますね」


メニューを開くと、そこには香草を主役にした品が並んでいた。

蒸し料理や豆の煮込み、季節の根菜を使った小皿料理、香草オイルを使った焼き菓子。

飲み物も、焙煎麦に香りを足したものや果実とハーブを合わせた温かいお茶が揃っている。


「私は……この蒸し皿、試してみたいです。山芋と百合根の蒸し合わせ」

「では、私は麦と栗の壺蒸しにしよう」

「あと……前菜をひとつ。きのことハーブの包み焼き、どうでしょう」

「いいな。取り分けよう」


注文を終えると、ふたりは改めてカップを手に取り、温かな香りを静かに味わった。

料理が運ばれてくるまでのあいだ、ふたりの会話は穏やかに続いた。


「……この香り、どこか懐かしいような気がします」

「幼い頃に嗅いだことがあるのかもしれないな。香りは、記憶に深く残るものだから」

「どこで嗅いだのかは全然覚えていないけど……でも、好きな香りです」

「なら、それで十分だ」


やがて料理が運ばれ、立ちのぼる湯気にふたりは自然と表情を和らげた。


「……いただきます」

リシャが山芋と百合根をひと口含み、そっと息をついた。

「豆とは違うけど、これもホクホクしてます。香りも穏やかで、優しい感じです」


ユージーンも壺蒸しの栗を口に運び、しばし味わってから静かに頷く。

「……確かに。柔らかさの中に、どこか芯がある。ひとりで食べていたら気づけなかったかもしれない」

「それ、ちょっと嬉しいです」

「……だから、言葉にしておく。言葉にしないと伝えられないからな」

ほんの小さく目元をゆるめるユージーン。


「……それ、最近すごく実感してます」

「前よりも話すようになったから?」

「はい。まだ苦手ですけど……少しずつ。任務中ならすぐに言葉が出てくるんですけど」


言葉を交わしながら、料理は静かに減っていく。

食後、店主が気を利かせてメニューを再度置いていったとき、リシャがそっと手を伸ばした。


メニューの写真を指差しながら、おずおずとユージーンに問いかける。

「……その、ハーブティー、もう一杯だけ頼んでもいいですか」

「もちろん。……気に入ったのか?」


ユージーンの言葉にリシャは少し俯き、指先でメニューの端をなぞりながら言葉を探すように話し始めた。

「……ええと、その……香りが好きだから、って言うつもりだったんですが……」

ユージーンは黙って続きを待っている。


その静けさに背中を押されるように、リシャはそっと言葉を継いだ。

「……もう少しだけ、何というか、その……まだこの時間が続いてほしかったんです」

言ってしまってから、胸の奥がわずかに熱くなった。


その直後、ユージーンの動きが、ふと止まった。

手を置いたままのカップも、そのまま動かない。視線も逸らさず、ただ沈黙が落ちる。

数秒──いや、もっと長く感じる沈黙。


(……そんなに、変だったかな)


気まずさとは違う、どこか言葉にできない間が流れている。

息を呑んだような気配が、静かに空気を震わせた。

リシャは目を伏せ、無意識に指先をきゅっと握りしめる。


そんなとき、ようやく──


「……リシャ」


ユージーンの、低くやわらかな声が、自分の名を呼んだ。

まるで、ひとつひとつの音に意味を込めるような、静かな呼びかけだった。


リシャが弾かれたように顔を上げた。

頬が一気に熱を帯び、じわりと紅潮していくのを感じる。

次の瞬間、感情の勢いに押されるように、言葉が飛び出した。


「──っ、今……団長、私の名前……!」


一呼吸。少し間を置いて、ユージーンが言葉を継いだ。


「……少し前から、きみのことを名前で呼んでみたいと、そう思っていた。

ただ、それと職務の線引きは、きちんと守るつもりだ。任務中はこれまで通り──」


リシャは言葉を待たずに言葉を返す。

「今、初めて名前を呼ばれて、すごく……すごく嬉しいって思いました。

今までこんなこと無くて、自分でも……その、どうしてかはわからないんですが……

もう一度……私の名前、呼んでもらえますか?」


ユージーンはその勢いに驚き、一度軽く咳払いをしてからもう一度「では……リシャ」と呼んだ。

リシャは、頬にまだ残る熱を隠さずに「はい」とうれしそうに笑った。

新たな呼び方。それは、ふたりにとって特別な何かが、静かに変わり始めた証だった。


---


夜、宿舎の個室。

湯を浴び、髪を軽く拭きながら鏡の前に立つ。

制服を脱ぎ、ゆったりとした寝間着に着替えながら、リシャは今日の出来事を思い返していた。


(団長が、私の名前を呼んでくれた)


自分の名前なんて、ただの個人を識別する記号だと思っていた。

マリナと出会う前は、血のつながった誰かにすら、ろくに名前を呼ばれた記憶がなかった。


『リシャ』

ぎこちなく、けれど確かに呼ばれた、自分の名前。

ユージーンの、低くて、温かな──安心する声。


目を閉じて、心の中で何度も何度も反芻する。

自分の名前が、澄み切った夜空の星のように、きらきらと瞬いているように思えた。

タオルを棚に戻し、鏡をじっと見つめた。

そこに映るのは、なぜか目が冴えている自分。


そして、ふと──

「……ユージーン、さん」

小さく、ほとんど聞き取れないほどの声でつぶやいてみた。


その瞬間、自分の声に驚いて、反射的に手で口を塞ぐ。

頬が一気に熱を帯びていた。脈が驚くほどにうるさく感じる。


(──っ、これは、何?)


声にしてみたら、思った以上に、意味を持ってしまった。

名前に「さん」をつけただけ。ただそれを言葉として発しただけ。

ただ、それだけのはずなのに。鼓動の早さが収まらない。


(名前を口にしただけなのに──どうして?)


鏡の中で、戸惑いに揺れた顔をした自分と目が合った。

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