第一話:騎士団長と新任斥候は、互いの事をまだ知らない
前線拠点の中でも一際簡素な棟に、リシャ・アイゼルは静かに立っていた。
木製の廊下は踏むたびに軋み、小さな窓からは、戦地の空に近い鈍い光が差している。装飾の一切ない建物に、贅肉のない命令系統。見上げた天井は低く、迷い込む余白はどこにもなかった。
この拠点が「王都騎士団・第七団 前線指揮隊」、リシャの新たな配属先だ。
騎士団──かつての名残をとどめつつも、王都直属の武装部隊として現在も各地の実戦を担っている。団や隊によって任務の性格は異なり、都市の防衛や治安維持にあたる部門もあれば、郊外で魔獣との交戦を主とする戦闘部隊もある。
リシャが配属されるのは、後者だった。
常駐する兵士の数は少ない。誰もが素早く、そして黙って動いている。その動線に乱れはなく、まるで無音の機械のようだった。
袖に七本線の刺繍が入った軍服は、支給されたものより少し余る。
首筋がのぞくほどに短く整えられた髪は、陽の色を褪せさせたようなくすんだ金。風に触れた毛先が頬のあたりでわずかに揺れ、ささやかな動きを生んでいる。
その瞳は、彩度を抑えた緑。落ち着いた光をたたえながら空間を射抜くその視線には、痩身の輪郭と相まってどこか幼さが残るが、所作に迷いや怯えはなかった。
案内役の兵が一言だけ、緊張した面持ちで言った。
「団長が、こちらで待機をと」
ドアの向こうに団長。つまり、この部隊を束ねる指揮官、ユージーン・ヴァルクナー。
その名は知っていた。ほんの数回だけど、配属前に名前を聞いていたから。直接会うのは初めてだった。
──扉をノックし、中に入る。
狭い執務室には、軍机と、書類をまとめた小棚がひとつ。
簡素で、実用一点張りの空間。そこに立つ男の背は高く、肩幅が広い。
黒の気配を帯びた鈍い灰色の髪は、額から後ろへと丁寧に流されていた。乾いた指先で撫でつけたような硬質の毛並みが、生え際をなぞるように整えられている。額にかかる数筋は意図されたように横へ流れ、静かな輪郭を描いていた。
光を受ければ、毛先は磨かれた鉛のように鈍く光を返す。
瞳は熱のない淡い蒼鉄色。視線の濃度は浅いが、動きを測る瞬間にはわずかに瞳孔が絞られていた。
魔導銃は帯びていたが、今は両手が空いている。
「きみが、リシャ・アイゼルだな」
初めて聞く声。低く、明瞭だが、抑制された硬さがある。
「はい、本日付で配属になりました」
リシャは姿勢を正して応じる。
男──ユージーンは彼女をまっすぐに見た。
その視線にはためらいがない。見下ろすでも、探るでもなく、ただ「観察する」という意志があった。
その体格と視線の強さは、周囲が緊張する理由になりそうだ、とリシャは思う。
(大柄で、威圧感はある。でも)
それ以上の感情は、湧いてこなかった。怖いとも、嫌だとも。ただ、「こういう人物なんだろう」と思っただけだ。
「マリナ・クライン衛生兵から推薦があった。記録は確認済みだ」
その名を出された瞬間だけ、リシャの背筋がわずかに緩む。
マリナ姉。リシャが唯一、そう呼んでいる人。彼女が見つけてくれなければ自分はここにはいなかった。リシャにとっての恩人にあたる女性。
「本日から前線指揮隊所属となる。
前線の維持と魔獣領域の監視が主な任務だ。地形や魔獣の出没状況を継続的に記録し、王都軍本部への報告と対応判断の基礎とする。
初任務は偵察班への随行。十五分後、装備を整えて合流しろ」
「了解です」
それだけ言って、ユージーンは机の上の書類に視線を戻した。
それが「解散」の合図であることは、説明されなくても分かった。
リシャはひとつ礼をして、部屋を後にする。
扉を閉めたあと、小さく息を吐いた。
(大丈夫、自分にやれることを、ただこなすだけ)
⸻
偵察任務は、三人一組。
隊の構成は日によって変わるらしいが、今回はリシャのほか、年上の斥候がふたりいた。連携については最初に軽く口頭で説明があった程度だが、それでも道中動きはぶつからず、声をかけ合わずとも連携は取れていた。
無駄が嫌われる部隊なのだと、すぐに察した。
目的地までは低地を抜け、崖沿いを進むルート。
岩肌は風で削られ、不規則な斜面と枯れ草が歩を阻む。リシャは足音を最小限に抑えながら先頭を取った。風向きと、土の乾き具合、遠くで鳥が飛び立った方向──必要な情報はすべて足元と空気が教えてくれる。
今回の目的は、崖沿いの獣道の安定確認と、魔獣の痕跡がないかの事前調査。
“もしもの侵入”を未然に防ぐための、地味だが重要な任務だった。
「……迂回します。右側の崖下、吹き下ろし強めです。踏み込みに難あり」
ひそやかな声で伝えると、後ろの斥候が頷くだけで応じた。
それで十分だった。報告というより、判断の提示。確認のための声ではなく、進行の選択肢。
足場の変化とともに陣形が少しずつ変わる。途中、小型の魔獣らしき痕跡を確認し、迂回判断を下したのもリシャだった。報告と記録だけを手短に済ませ、それ以上のやりとりはしなかった。
(……このまま、迂回ルートを一巡すれば終わる)
そう思った矢先、気配が変わった。
風が止まった。
音がなくなった──のではなく、音が“潜った”ような、異様な静けさ。
次の瞬間、木立の陰から魔獣が一体、飛び出した。
「左、上!」
先に声を発したのは同行の斥候だった。だが動いたのはリシャのほうが早い。
一瞬の反応で斜面を滑り降り、隙間に体を滑り込ませる。斥候のひとりがよろめいたのを目視で確認、反対側へ囮のように走り抜け、魔獣の注意を引きつける。魔導銃に手をかけながら、狙いの間を待った。
そのとき、後方から一閃。
別方向から飛び込んできた光弾が、魔獣の肩口を正確に撃ち抜いた。
撃ったのは、ユージーンだった。
最初から一定距離を保って後方支援に入っていたユージーンが、状況を見極めて放った一撃だった。
任務中、あえて指示を挟まず部隊の自主判断を見ていたことに、彼らの誰もまだ気づいていなかった。
魔獣は呻き、動きが鈍った。
リシャは即座に射線を取り直し、地を蹴った。視線と動線のわずかな隙間から、魔獣の額を射抜く。
衝撃で膝が崩れ、獣の巨体が倒れ込んだのを確認したときには、すでに銃口を下ろしていた。
無駄はなかった。正確な連携でもなければ、命令もなかった。だが、結果はそれを超えていた。
任務は完了。誰も大きな怪我はなく、報告と共に拠点へと帰還した。
帰還途中、誰も口を開かなかった。
無言の行軍。その静けさは不快でも、重苦しくもない。ただ、必要な情報がすでに共有されていただけ。
──自分の動きは、最適だったか。
リシャは歩きながら、その一点だけを静かに反芻する。
その背後、隊列の少し後方を歩くユージーンが、リシャを見ていたことに、彼女はまだ気づいていない。
⸻
任務から戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
前線拠点の外縁に並ぶ一列の水場で、リシャは装備の手入れをしていた。手袋を外し、魔導銃の残熱を確認し、擦れのあった箇所を布で丁寧に拭う。身じたくを整えるのも、報告と同じく任務の一部だ。
すぐ隣に誰かが来たことには、気配で気づいていた。
「……帰還報告、出した?」
聞き慣れた、少し砕けた声だった。
「はい。先ほど」
振り向かず答えると、マリナ・クライン衛生兵が彼女の隣にしゃがみ込んできた。軍医の制服は所々に薬剤の染みがあるが、所作はどこか優雅で慣れている。
「異常なし、ね。傷もない」
「かすり程度です。処置済みです」
「……だよね。報告書にも書いてあった。びっくりしたの、同行したの、斥候の先輩たちの方だったらしいじゃない。あなたがあそこまで前に出ると思ってなかったって」
リシャは小さく瞬きし、手の動きを止めなかった。
「危険性はありましたが……結果的に、接触時間は最短だったと思います」
「さすがの判断ね」
マリナが穏やかに微笑む。
「食堂、寄った? 軽くでも食べてきなさいね。朝ほとんど食べてなかったでしょ?」
「……はい」
正直、空腹感はまだ無い。やや間を置いて返した声は、わずかにこもっていた。
マリナも察したようで少し困ったように笑った。
しばらくして、拠点の通路を別方向から足音が近づいてきた。
リシャが立ち上がるより少し早く、ユージーンの姿が通路の向こうに現れる。
ふたりの視線が一瞬だけ交差した。
ユージーンは立ち止まらず、こちらへ視線を向けたまま静かに歩き続ける。
「──アイゼル斥候、よく動いていた」
それだけを、低く、明確に。足を止めずに言い残す。
「……ありがとうございます」
リシャの返答もまた、短く簡潔だった。頭を下げたあと、ユージーンの背はすぐに通路の先へと消えていった。
「……あの団長が、褒めるなんて」
マリナが小さく驚く。リシャは返事をせず、手に持っていた布をもう一度丁寧に折りたたんだ。
(任務中に気持ちを揺らすと、命取りになる──誰かに教えられたわけじゃない。生き残ってきた中で、そう思い知った)
それなのに、不思議と心に残った。言葉ではなく、温度のようなものが──ほんのわずかに感じられた気がした。
リシャは、それが何なのか分からないまま、胸の奥で静かにしまおうとしていた。
⸻
その少し後、とある机上には簡潔な報告書が一通置かれていた。
書き手の名は、ユージーン・ヴァルクナー。
《リシャ・アイゼル斥候、情報処理に長け、判断の優先順位も妥当。状況把握と初動判断が早く、危機下における対応は冷静かつ的確。》
《随行任務中、明確な指示なしでも意図を汲み取る動きが見られ、連携能力も高い。身体能力は並以上。後日任務にて個別行動下での判断力を再評価予定》