第42話 新しい生活
「僕はこの数日間、君の主治医と一緒に治療に当たらせてもらっていたんだ。それで、気分はどうかな?」
主治医の女性医師から、彼がこの漣総合病院の跡取り息子で優秀な研修医であることはすでに聞いている。
竜胆の幼馴染で、鈴にとっては一学年上の先輩といえど、十二の神々のひとりだ。鈴は主治医を前にした時以上に緊張しつつ、こくこくと頷く。
「おかげさまで、とてもいいです」
「良かった。午後の検査次第では、明後日にも退院できそうだ。竜胆もそのつもりで準備しておいてくれるかい?」
「わかった。狭霧家の者に手配しておく」
竜胆は頷き、制服の胸元から白い紙切れを一枚取り出すと、ふっと息を吹きかける。それはすぐに美しい蝶の形をとり、ひらりと羽を一度羽ばたかせてから隠形した。
「式だなんて、君は今どき古典的だな。スマホで連絡すれば簡単でいいだろうに」
「式の方がスマホより早くて確実に話が通る」
「まあ、それは確かに。ただのメッセージより、若様の神気で作られた式に突然顕現された方が、誰だって背筋が伸びるからね」
湖月と竜胆の会話の中にスマホが出てきたこともそうだが、目の前で紙きれが美しい蝶になったことに鈴は驚き、目を丸める。
(式って、いろいろな形があるんだ)
日菜子が別室にいる鈴になにか命令する時には、いつも人形の式が飛んできていた。
「式とは、人形のものだけではないのですね」
「それは人の子の使う式に過ぎない。十二の神々の式は大抵決まった四季折々の虫や鳥、小動物の形を取る。あれは〈青龍〉の俺にしか使役できない式だ」
「眷属も、だいたい主人たる神と同系統の式を飛ばすかな。竜胆の家は蝶で、うちはシマエナガだよ」
「なるほど……」
(それじゃあ竜胆様から連絡がある時は、さっきの美しい蝶の式がくると覚えておいたらいいのかな)
鈴は窓の外へ飛んで行った式の姿を思い浮かべながら、神世や十二の神々について自分の知らないことが多そうだと、退院後の生活がちょっぴり不安になったのだった。
◇◇◇
二日後。漣総合病院を無事に退院した鈴は、竜胆とともに狭霧家の本家へと向かうことになった。
暦はすでに五月下旬。
青く澄み渡る空の下、街路樹は青々と茂っており、初夏を感じる熱を含んだ風が肌を撫でる。
そんな中、病院のアプローチ前にある車寄せに停まったのは、漆黒のなめらかなボディが堅牢な印象を与える見るからに高級そうなクラシックカーで、鈴は思わず「ひえっ」と小さな悲鳴をあげた。
(神世にも、車って走ってるんだ……)
勝手な想像で、高貴な風格を漂わせる馬車などが走っているイメージをしていた。
漣総合病院もきらびやかで、ロビー内に大きな滝と鳥居がある現代的な病院だったが、どうやら『神世は神域であり現世と同じ物質世界である』というのは言葉通りらしい。
「この車は、現世と同じものなんですか?」
「さあ。現世には『巫女選定の儀』以外で降りたことがないから厳密にはわからないが、この車は現世製だと聞いたな。もしも車に興味があるのなら、本邸に他のものも数台所有しているから見てみるといい」
今後はあまり車に乗る機会はないかもしれないが、と竜胆は言う。
神世の主要の場所には『百花の滝』のように神聖な霊力を帯びた滝と、その存在を示す鳥居が目印の『境界の滝』があり、大抵の場合そこをくぐり抜けることで繋がっている場所に移動できる。
しかし、今から向かう狭霧邸は個人所有の邸宅。『境界の滝』も敷地内にあるため、狭霧家の当主に認められた者か、特定の機関の権限を持つ者しか移動できない。
鈴はまだ狭霧家の当主から佩玉――狭霧の家紋が彫られている特別な神気を帯びた玉飾りをもらっていないので、車で直接向かうことになる。
竜胆はそう説明しながら後部座席のドアを開き、「どうぞ」と鈴を車内へエスコートした。
鈴は「おじゃまします」と小さく告げて、革張りのシートにどきどきしながら座る。
車での移動なんて、使用人用の小さな車で、百花女学院の寮から春宮家のあいだを往復した経験しかない。
鈴は緊張して、借りてきた猫のようにカチコチに背筋を伸ばす。
そんな鈴の隣の座席におもむろに乗り込んだ竜胆は、「出してくれ」と慣れた様子で運転手に命じていた。
「かしこまりました。……お嬢様、シートベルトをお締めください」
「はい、かしこまりましたっ」
バックミラーを確認した運転手が告げた言葉に、反射的に春宮家の最下級層の使用人としての返事が口から飛び出す。
思わずと言った様子でふふっと運転手が優しげに吹き出す中、竜胆は鈴に身体を寄せ、シートベルトを締めてやる。
「……君がかしこまらなくていい。今日から君は、狭霧家の大切な番様だ。もっと堂々としていて構わない」
「わ、わかりました」
そう返事をしたものの、すでに『お嬢様』と呼ばれただけで気が動転している鈴である。
(堂々とするだなんて)
鈴にはそうできる自信が、まったくなかったのだった。




