つれない俺のメイドさん、元気ですか?
※ひだまりのねこ様主催「つれないメイド」企画参加作品です。
段ボールもすべて運び出した何もない床の上。
秋の陽射しだけがある。
荷物の無くなった団地の部屋を見回して、俺は大きく息を吐いた。
開け放したベランダのガラス戸からは、まどろんだような電車の音。
秋の晴れた空気がすべてを柔らかくしている。
ただひとりの表情をのぞいて。
「苫子さん、最後なんだからもう少し愛想よくしてよ」
絣の着物の上に、膝まで隠れる長さの白い割烹着を着た白髪の老女。
彼女は、俺のメイドさんだ。
今日が雇用最終日だけど。
「引っ越し業者に愛想よくしてどうするんですか」
「少しは荷物を丁寧に扱ってくれるかもよ」
「職業意識が低い業者ですね」
ぴしりと俺の言葉を切り捨てる。
いつものことだ。
「それよりも、紅茶を召し上がるんですよね?」
「うん。頼むよ」
「それでは今お持ちしますので。
お待ちください」
両手を前にそろえてから、すっとお辞儀をする。苫子さんの綺麗な姿勢と所作。
これを見るのも最後か。
俺は涙で滲みそうになる目を誤魔化すため、ガラス戸の方を向いた。
今から10年前。
長年に渡って街の弁護士として活躍していた堂島先生の元で、新人の頃から働いていた俺は急に自分の事務所を持つことになった。
「久遠くん、ちょっとそろそろ独立しなよ」
「なんでですか?!」
「あと半年でボク、死ぬみたいなんだ」
「はああ?!」
突然の堂島先生の余命宣言。
癌が見つかって、このままだと半年で死ぬと言われたらしい。
事務所はこのまま居抜きで息子に譲るとのことだが、街の人をお客さんにしていた堂島先生と違って、息子は企業相手でやっているらしい。
「ちょっと新しく雇う余裕はないみたいなんだ。で、久遠くん、君もいい年なんだから事務所構えなよ」
「そんな簡単に…」
「今抱えている案件は、ボクと息子でちゃんとやるけど、その後はもうできないから。お客さんたち、行き場がなくなっちゃう」
にこにこと笑う堂島先生に、そう言われてしまうと断れなかった。
突然の事務所開設。
場所が無い。
困った俺は、弁護士になってからずっと住んでいた団地の隣の部屋が空いたので、そのまま借りた。
司法修習生時代から仲の良い弁護士仲間には、爆笑された。
「お前、団地お抱えの弁護士かよ!」
「しかも非公認だな!」
「うるさい!一番、堂島先生の事務所から近いし、場所の説明が楽だったんだよ!」
「だからって、団地の2階に…!ぶははは!」
団地の顧客がついていいなと言われたが、全然そんなことはなかった。
あまりに近すぎる弁護士事務所は敬遠されるらしい。
ポツポツと堂島先生の事務所時代からのお客さんが来てくれるだけだった。
そんな無名の弁護士事務所として、初めて来る客を迎える時、良い印象を与えるためには綺麗な部屋は必須だ。
しかし、事務員と俺は掃除が壊滅的に下手だった。
時々、事務員の彼女がバイトとして掃除してくれていたが、(いつの間にか)臨月のため来られなくなった。
じわじわと汚くなる事務所。
結婚を迫られていたのに、いつの間にか他の男の子どもを身籠もっていた彼女にフラれてメンタルボロボロの事務員。
カオスすぎる。
少しでもマシになれば。
藁にもすがる思いで、掃除をすることにしたあの日。
団地の中にある掲示板に、A4サイズの紙が貼ってあった。
そこには美しい筆の字で、
『メイド致します』
と書いてあった。
邪な気持ちが3パーセントくらいあったが、単純にハウスキーパーが欲しかった。
掃除道具をホームセンターで買い込んで、大荷物でのたのたと歩いていた。そんな時にこの貼り紙を見つけたのだった。
運命だと思った。
しかも、その紙に書かれている団地の部屋番号は、俺の事務所の真上。
行くしかない。
顔は覚えていないが、上の階の住人は問題を起こしたことがない良識的な人たちだったはず。
挨拶くらいはしていたと思う。
住んで長い団地への信頼度と、切羽詰まった状況に後押しをされて、俺は掃除道具を抱えたまま、その部屋を訪れた。
古ぼけたインターホンの音を鳴らす。
ドキドキとしながら、扉が開くのを待った。
そして、無機質な金属の扉を開けたのは、着物姿の女性だった。
ぴしっとした人だな、というのが第一印象。
その第一印象そのままで、苫子さんはどこまでも、ぴしっとしていた。
「わかりました。下の階でしたら通いやすいです。
お話を伺う限り、雑役女中ですね」
「え?」
「メイド・オブ・オールワークス。つまり、ひとりでなんでもやるメイドです」
「あ、はい。その通りです」
「事務所とご自宅と、両方ですか?」
「はい。できれば」
「わかりました。では、事務所とご自宅の掃除をしましょう」
「え、でも今日は日曜日で」
「明日からお客様がいらっしゃるのでしょう?それなら今日やるべきです」
「はい」
ぴかぴかに磨き込まれた古い箪笥と、テーブル。それに白磁のティーカップに注がれた紅茶。
塵ひとつない苫子さんの部屋。
それは苫子さんそのものと言えるくらい、ぴしっとした部屋だった。
今、苫子さんはその部屋に紅茶をとりに行っている。
それが、俺のメイドとしての、最後のお仕事。
苫子さんがメイドとして、俺のところで働いてくれた10年間、色々なことがあった。
綺麗な事務所になって、お客さんが増えたり。
苫子さん経由で、団地の住人が仕事の依頼をするようになったり。
離婚裁判で揉めた相手方の依頼者が、事務所に怒鳴り込んできたのを、苫子さんがなだめたり。
新しく雇った事務員が、俺の彼女になるように、実は苫子さんが仲を取り持ってくれていたり。
堂島先生の最期の日々を、苫子さんの美味しい紅茶が支えてくれたり。
色々なことが、あった。
「せめて、苫子さんの喜寿まで祝いたかった……」
ボロボロと流れてしまいそうな涙を堪えて、思わず呟くと、床の上にお盆を置いた苫子さんが呆れたように答える。
「いつまで働かせる気ですか」
「だって……」
「古希を祝ってもらえましたし、充分です。それに77歳まで働いていたら、久遠先生の奥様に姑扱いされてしまいます」
「もう養母でいいじゃん……」
「嫌ですよ、こんな手のかかる養子」
「つれないなぁ……」
苫子さんが70を迎えた頃、弁護士事務所を移転することになった。
弁護士業が上手くいっていたこともあるが、団地が老朽化のため、取り壊すことが決まったからだった。
団地の住民は、新しくできるマンションに入居することができるらしいが、部屋は小さくなる。
今までの部屋の間取りでぎりぎりだったのに、これ以上狭い部屋で弁護士事務所を続けることは難しい。
それに一度引っ越し先を見つけて、またここに戻るのは、費用がかかり過ぎると苫子さんに反対された。
「きちんと場所を決めなさい」
「でも、それだと苫子さん、メイドとして働きに来てくれないよね?」
「もう私も引退しても良い年齢です。
……引っ越しと同時に、契約を終わらせてください」
「嫌だ!」
どんな裁判でも慌てふためくこともなくなっていた俺が、この時だけは髪を振り乱して、取り乱して、苫子さんにすがった。
いなくならないで。
ずっと俺のメイドとして、いて欲しい。
泣き喚く俺を、苫子さんはいつものように、1杯の紅茶で沈静化させた。
「何事も、終わりがあると、覚悟を決められていたじゃありませんか」
それは、堂島先生が危篤になったと電話が来た時。
「その終わりをきちんと、心に受け止められてこそ、その終わりが久遠先生の中で生きるのだと、仰ってたじゃありませんか」
それは、堂島先生の火葬が終わるのを待っていた時。
いつでも、苫子さんは、俺のそばにいてくれた。
いつも、表情を崩すことなく。
「……なんで、苫子さん、メイドになったの?」
俯いたまま、苫子さんに問う。
会話を終わらせたくなくて。
「ここに来る前に、家政婦をしていたんです。それなりに大きなお家の。
でも、結局は経営破綻をして、おひとりになった旦那さまは体を壊してしまって。
行き着いたのが、私の住む団地でした。
そこで、最後の1年をお世話させていただきました。
施設に入られることになって、私の次の勤め先が工場のパートだと知った時、旦那さまがおっしゃったのです。」
『苫子くんは、この仕事が向いていると思うよ。でもなぁ、家政婦っていうイメージじゃないんだ。
そうだな、メイド。
うん、メイドさんの方が合ってる』
訥々と、かつての主人の言葉を紡ぐ苫子さん。
それだけで、どれほど大事な主人だったのかが分かる。
「そう仰ってくださったので……」
ため息のように言って、言葉を閉じる。
「それで、メイドに?」
「はい。その後、旦那さまがすぐに亡くなられて。何か、遺言のように思えて、団地の事務所に頼んで、貼り紙をさせていただいたのです。
まさか、本当に申し込みがあるとは思いませんでした」
ふふふ、と、苫子さんが笑う声が聞こえた。
珍しい。
これは、苫子さんが笑う顔を見ることができる。
そう、思ったけれど。
俺の目は、もう歪んだ苫子さんしか見えなくなっていた。
ぱたぱたと、掃除をしたばかりの床に落ちる。
苫子さんが、行ってしまう。
団地から引っ越す場所の住所は、教えてくれなかった。
「苫子さん…」
喉に涙が張り付いて、声が出ない。
目元を袖で拭う。
顔を上げると。
くしゃっと、顔を歪めて笑う苫子さんが、いた。
「とても、かけがえのない10年間でした。
ここで、メイドとして、働けて」
苫子さんはそこまで言うと、ぽろぽろと涙をこぼした。
俺は、それを見て、また涙を流した。
お互いに、何も言わずに、ただ泣いていた。
それを紅茶のような色の秋の光が、ずっと照らしていた。
冷めた紅茶を飲み干して、別れたあの日から数ヶ月後。
年賀状代わりに届いたエアメールで、苫子さんがイギリスへ旅行に出ていることを知った。
『こちらでメイドとして自分に足りないものを学びたいと思います』
同封された写真には、豪華なティーセットを前にして、真顔で、
『I'm just kidding!』
と書かれたカードを掲げた苫子さんのバストショット。
「分かりにくい!」
俺は笑いながら、苫子さんの手紙に書かれたリターンアドレス宛に手紙を書き出した。
『つれない俺のメイドさん、元気ですか?』




