【2話】胸騒ぎと悪寒
今まさに街へ足を踏み入れようと右足を浮かせた瞬間、不意にイェガーの腕が思い切り後方へ引かれた。
あまりの唐突な事に、イェガーは少しばかり体制を崩しながらも、その掴まれた腕を咄嗟に叩き落とした。それでは終わらず、叩き落とした腕を今度はこちらから掴み上げ、自身の肩に勢い良く引き寄せる。
すると襲撃者の身体がふわりと浮いて、そのまま背中を地に強打する形で投げ落とされた。あまりの衝撃に 「ぎゃっ」 と短い悲鳴を上げる相手は、予想外にもまだ15にも満たないであろう幼さの残る1人の少年であった。
急な不意打ちを受け、一瞬呆気に取られていたグリーだったが、相手の姿を目視するなり、直様心配そうに眉を下げて相手の傍に駆け寄った。
背中を強打した事で一瞬息が止まったらしく、少年は苦しそうにも咳き込んでいる。そんな彼に、グリーは肩を貸し背中をさすってやった。
「大丈夫か? すまない。怪我はないか?」
初めこそ涙をいっぱいに溜め、怯えた表情をしていた彼だったが、グリーの優しい声を聞くなり肩の力を抜いて 「大丈夫です」 と答えてみせた。
しかし彼は、急に顔を青ざめさせ、左腕で溢れんばかりの涙をゴシゴシと勢いよく拭い始めた。
それだけでは終わらず、どうしたことか少年はグリーの手を払い除け、その場に激しく両の手をついて頭を下げた。その様子をただ見守ることしか出来ずにいた2人は、驚いて顔を見合わせる。
「きっ急な御無礼っ、た、たたた大変ししし、失礼致しましたっ! 僕……じゃなくてっ……わ、私はっぐぐぐ、グレノンド調査隊っ! 二等兵でありますっ!」
二等兵と名乗る彼は、その役職と年齢通り、まだ新米なのだろう。歯切れの悪い慣れない口調で、震えながら懸命に声を張り上げている。
そんな彼の様子に少し戸惑いはしたが、2人は互いの目を見て何かを察した様に静かに頷き、少年の言葉に耳を傾けた。
何故彼の意見を聞き入れようとしたのかと言うと、2人は彼がここに派遣されている調査隊である事を、名乗られずとも知っていたからだ。
というのも、実のところここに辿り着くまでにも隣国の紋章を掲げた、彼と同じ軍服姿の人物に既に出会っていたのだ。
しかし彼らは、長旅を経てまでこんな辺鄙な局地へわざわざ足を運んだ2人に対し、労いの言葉をかけるわけでもなく、ろくに挨拶すらしてこなかった。
終いには木陰でのんびりと読書をしたり、トランプを用いて賭け事をしたり、昼間から酒瓶を傾けて踊り明かしていたり、調査に赴く気すらないといった様子であった。
2人にとってはそんな彼らなど、ただ 『そこにいるだけ』 の人物にすぎず、ほんの少しも期待などしていなかったのだ。
しかし、今目の前にいるまだ若い1人の勇敢な少年はどうだろう。一心に何かを伝えようと、勇気を出して声を掛けて来ているではないか。
その勇敢たる行動に耳を傾けないというのは、至って不躾な対応ではないか。そう2人に思わせたのだ。
「落ち着いてくれ。ゆっくりで構わないよ」
緊張で震える相手の気を少しでも楽にさせてやろうと、グリーは柔らかな声色で静かに諭した。
しかしながら、彼にとっては心臓が飛び出す程の思いであろう。何を隠そうこの2人は 『総軍総司令官』 なのだ。自分とは桁違いにかけ離れた最高位の役職を掲げる人物を前にすれば、誰であっても恐縮するのは致し方ないことだった。
何か粗相が有り、報告なんぞされた日には簡単に首が飛ぶ。それをわかっていて、先輩たちは腫れ物に触れぬが如く彼らに近寄ろうとしないのだろう。
彼自身それを十分理解していた。だが、どうしても伝えなければいけないことがあったのだ。
ここに来るまでに何度も葛藤を繰り返した。何度も背を向けようとした。それ程までに悩み抜いた末、漸くついた決心を掲げて彼は今2人の目の前に立ち塞がったのだった。
しかしながら、実際のところ当の2人は、皆が思う様に役職を掲げて出しゃばるつもりなど毛頭なかった。極端に目に余るほどの邪魔をしない限り、多少雑に扱われようと、悪口を叩かれようと、気にも留めなかっただろう。
だと言うのに、それでも今目の前にいる若い少年は、至って真剣な眼差しを向けている。
ならばこちらもそれ相応の対応をせねばならない、とけじめをつけた2人は、焦らすこともせず静かに相手の言葉を待った。
「し、失礼を承知で、申し上げます……!」
真っ直ぐな瞳はまるで地獄でも見て来たかの様に、恐怖を滲ませ怯えきっている。そのあまりに凄まじい気迫に、さすがの2人も息を呑んだ。
鬼が出るか蛇が出るか、どんな事件を語ると言うのか、2人は彼の目を食い入る様に見つめた。
「こ、こここ、この先は、入ってはいけません……! あまりに、危険です……!!」
まだ落ち着かない様子の彼は、精一杯の思いを口にする。そのあまりにも漠然とした言葉に、思わずグリーとイェガーは顔を見合わせた。
相手の真剣な眼差しからどんな大きな言葉が出るか、と期待していたイェガーは呆れて言葉も出ない様だった。相手の気迫と言葉のギャップの激しい様に、思わずグリーはクスクスと笑った。
グリーはそのまま勇敢な彼の肩に手を置き、にこりと微笑んで見せる。
「心配してくれているのか。ありがとう。気持ちは受け取っておくよ。ただ、俺たちは仕事で来ているから、申し訳ないが行かないわけにもいかないんだ」
グリーは静かに立ち上がり、申し訳なさそうな顔をして 「無理はしないよ」 と言い残して門を跨いだ。
深いため息を吐くイェガーが、グリーの後ろに続いて少年に見向きもせずに門を越えていく。
まだ立ち上がることの出来ないままでいた少年は、そんな2人の後ろ姿をただただ悲しそうに見送った。
彼はまだ何か言いたげに口をパクパクとさせながら右手をいっぱいに前に出している。しかし先程振り絞った勇気はもう底をついてしまっていた。いくら叫ぼうと口を開いても肝心な言葉が喉奥に引っかかって出てこない。
あぁ、伝えなければ。この先に待ち受ける 『悪夢』 を……。
彼らを行かせては行けない。
胸騒ぎがざわざわと心を嫌に撫でる。そんな必死な思いも虚しく、伝えきれなかった己の愚かさを悔やむ様に、ボロボロと涙を流して地面を殴り付ける。声は、未だ出ないままだ。
「おい、お前! 何をしている!」
不意に後ろ手に聞こえた上司の声に顔を上げる。彼は相手の泣き顔を見るなりギョッとして、少し間を置いては何かを察した様に優しく相手の頭を撫でた。
差し詰め何か粗相でもして首が飛んだか…などと見当違いな解釈をしながら、相手に肩を貸し、元気を出せと言わんばかりにたわいない世間話なんぞを投げ掛けながらキャンプへと引き下がって行った。
ギギギ……と静かに鈍い音を立てて閉まっていく門に、気付きもしないまま……。
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一方その頃の2人はと言うと、少年のやるせない思いに気づく術もなく、実に軽快な足取りで街を徘徊していた。
錆びついた門を抜けてから、30分は歩いただろうか。目の前には噴水であったことを伺わせる大きな穴が出迎えた。周りは淡い土色の煉瓦で覆われており、所々風化の影響を受けて崩れていた。
「思っていたよりも綺麗な街だな」
グリーは辺りを見渡して呟く。噴水をぐるりと超えた先はメイン通りと思わしき広く長い一本道が続いていた。
左右をひしめき合う建築物は、大凡店舗だったのだろう。蜘蛛の巣や埃に塗れた陳列棚がひっそりと寂しく身構えている。
この街の建築物の殆どは、土壁を用いて建てられていた。簡易的な四角い形ではあるが、赤や黄色などの色鮮やかな染料を混ぜられた建物は、どれも目を十分に楽しませてくれる。
暑い気候のこの地では、日陰となる場所が大変重要になるのだろう。それを思わせる程にそこ彼処に日除テントが目立った。
どれも長年放置されていた影響を受けて、 色褪せていたり、穴が開いていたり、支えの木が折れていたりしていが、それでも十分に美しい光景であった。それは正に 『芸術』 とも呼べる程である。
まるで観光にでも来たかの様に目を輝かせるグリーの隣で、イェガーは小さくため息をついて首を横に振った。
「街路は大体あいつらが探索してんだろ。もっと奥の方に行くぞ」
呆れた様な様子のイェガーに気付くと、グリーは申し訳なさそうに眉を下げて笑ってみせた。
観光はここまでにして、仕事に移ろうとでも言わんばかりに鞄から資料を取り出して、ペラペラとページを捲る。送られてきた資料の中には、街の地図も記載されていたのだ。グリーは地図を眺めながら、うーんと首を傾げた。
「そうだな……。この奥となると、北の方角に住宅街、西の方角に畑地、東の方角に採掘場跡地か……。どこに行く?」
その問い掛けを聞くなり、イェガーは片手を口元にやり、少し俯いた。対するグリーはと言うと、既に行き先は決まっているとでも言いたげな期待に満ちた目で相手を見ていた。
別に意地悪をしている訳でも、出し惜しみしている訳でもないのだ。ただ単純に相手の意見が聞きたかった。
数秒という短い間を置いて、考え込んでいたイェガーが、パッと顔を上げてグリーを見た。
「住宅街はわざわざ行く必要もねぇし、畑地も今じゃ殆ど枯れてるらしいな。……なら、採掘場跡地一択だろ」
あぁ、そうだな と頷くグリーの顔は実にご満悦であった。行き先も、そう決めた理由もしっかり自分と同意見だったのだ。反論する必要もない。
2人は合意して東の方角に歩みを進め始めた。
初めの30分はちらほらと住宅であろう建物が散見していたが、更に先に進むにつれて建物は少なくなり、等々木々の生い茂る森に差し掛かった。
グリーはちらりと左手の腕時計を見てから、空を見上げた。時計の針は間もなく夕刻の4時を迎える。春になり、日が長くなり始めたといえど、そろそろ暗くなり始める頃合いだ。
「採掘場跡地の事なんだが…」
人が踏み入れることの無くなった森林地帯は獣道と化していた。そんな歩きづらい道を、足元に注意しながら慎重に進む道中、グリーがぽつりと呟く。
その声に気付くと、数歩先を進んでいたイェガーが振り向いて此方を見た。
「どうやらあまり探索されていないらしい。報告書も極端に少ないんだ。長らく使われていないから支柱が腐ってるかもしれないな。注意した方が良さそうだ」
あぁ、なるほど と返事を返しながら、イェガーは崩れ落ちた土砂の山を登った。
5m程はあっただろうか、小さな土砂の山頂に辿り着くと、ふぅ、と息を吐き辺りを見渡す。こうして見ると実に荒れ果てている。
山岳地帯と言うのは気候の変動が激しいのだ。カンカン照りかと思えば、突如としてスコールの如く激しい雨に見舞われる事もしばしばあった。その影響を受けて山が少しずつ削り取られ、大きな木が横倒しに覆い被さっていたり、土砂に道であった場所が埋め立てられていたりもした。
「随分荒れ果ててるからな。まぁ、ここまでくるのも一苦労だろうよ」
グリーの言葉に返答しながら、イェガーは目を細めてじっと前方を見やった。
遠くにぽっかりと空いた穴が見える。ここから歩いて15分程の距離だろうか。恐らくあれが採掘場跡地だろう。
後に到着したグリーもそれを見つけたらしく、2人は顔を見合わせてこくりと頷いた。
「入り口も土砂で潰されているかも知れないと思っていたが……。とりあえず問題なさそうでよかったよ」
採掘場跡地の目の前までやって来ると、その大きな洞穴を見上げてグリーが呟く。
中を覗いて見ると、所々採掘場を照らす電灯の明かりが消えており、足元はぼんやりと薄暗かった。何処からか水の滴る音も聞こえてくる。更に覗き込んでみても、奥は暗く先が見えない。イェガーは支柱や梁を丁寧にコンコンと叩いてみた。
「どっかから水が漏れてるな。この辺りは腐ってないみてぇだけど、こう暗いとよくわからねぇ。とりあえず近場だけ探索するか?」
梁や支柱が腐っていれば、少しの振動で崩れ落ちてくる危険性もある。そうなれば閉じ込められてしまうし、最悪の場合生き埋めだ。
安全第一と考えれば慎重にそれらを確認して歩く必要がある。暗い坑道の中で確認しながら歩くとなると、かなりの時間を要するだろう。
「今日は初日だし、少し偵察する程度で終わらせようか」
グリーはその意見に同意の言葉を伝えながら、鞄を開いた。その中から、いくつもの丸い飾りが施されたシルバーアクセサリーの様な物を取り出し、イェガーに手渡す。
2人はそのアクセサリーを両足に装着して、とんとん、と数回つま先で軽く地面を小突いた。一見おしゃれなアンクレットにも見えるこれは、同僚の発明家である 『スカイ』 が作り上げた小型の懐中電灯なのだ。
いくつか取り付けられた丸い飾りには小さなLEDが仕込まれており、足元から先をほんのりと照らしてくれる。ランタンでは片手が塞がってしまうし、ヘッドライトは荷物になるので、簡易電灯としてはかなり重宝されている。
しかしながらその明かりは、洞窟探索においては少し心許ない。夜道を歩く際、足元の段差に気付ける程度だ。それでも今回は簡単な調査で済ませる予定だったので、足元程度の範囲さえ分かればそれでよかった。
2人はコンコン、と支柱を叩き水を含んでいないか確認しながら奥へ進んでいった。
幸いにも坑道は全てが真暗闇という訳ではなかった。所々散り散りではあるが生きた電灯がほんのりと行き先を照らしている。パタパタと蛾の羽ばたく音や、水の滴る音が坑道内を響き渡る。
2人はなるたけ足音を立てぬ様、慎重に足を運んだ。足元に注意を置いているのはもちろんの事だが、音と言うのは振動を送るのだ。その微かな振動で急に山が崩れ落ちることだって十分に考え得る。
ゆっくりと、しかし着実に奥へ足を運んでいた2人だったが、その足はぴたりと動きを止めて見せた。
「……分かれ道か。どうする? 二手に別れるか?」
目の前に立ちはだかる分岐を見て、イェガーは眉を顰めグリーに問いかけた。辺りは暗く、表情まで見て取れなかったが、恐らくグリーは少し難しい顔をしている様だった。
どうするべきかと悩んでいるのだろう。しかし直ぐに相手のぼんやりと浮かぶ影が、頷いた様に見えた。
「うん。そうだな。でも、もうそろそろ暗くなる頃だから、あまり奥には進むなよ? 1時間後にまたここで落ち合おう」
1時間と聞き、イェガーは自身の左腕を見た。目を細めれば微かに時計の針が読める。
今は17時30分を指している。1時間後の18時30分といえば、外はもう暗くなっているだろう。
相手の意見にこくり頷き、了解 と告げると、イェガーは左奥の坑道に足を進めた
「イェガー! 今日は下見だけだぞ!」
不意に後ろから聞こえた相手の念を押す声に、イェガーはムッとした様に眉をしかめて、「わかってる!」 と返答した。
その言葉お聞くと満足いったのか、クスクスと意地悪な笑い声が聞こえたものなので、馬鹿にしやがってとでも言いたげに、イェガーは舌打ちをして返した。