【1話】平凡が崩れるまでのカウントダウン
いつも通りの幸せは、突如として音もなく崩れ去っていく。昨日の同じ時には望みもしなかった事だ。
ただ穏やかに流れる時間が、いつしか感覚を鈍らせていく。長い悪夢を見ていたかのように、きっとこの時間が 『当たり前』 に続くのだろうとすら思わせる程に。
あぁ、そうか。
自分はただ、臭いものに蓋をしていただけだったのだ。
あぁ、そうか。
自分はただ、何者でもない 『誰か』 のふりをしていただけなのだ。
どこで間違えたのだろう?
―― 産まれた時点で間違いだったのだ ――
何がいけなかったのだろう?
―― 平凡を望んだ事がいけなかったのだ ――
自分の声とは違う、誰かがそう言った。
――――――――――――
生暖かい春の風が頬を撫でる。昨日の晩は小雨でも降っていたのだろうか。初々しい若葉からは少し篭った緑の心地よい香りが漂っている。
青年はガタガタと揺れる馬車の荷台に、そっと肩を預け目を瞑っていた。溢れんばかりの温かな陽を浴びて、日々の仕事の忙しいことなど忘れてしまえと言わんばかりに、心地よい惰眠に身を包んだ。
しかし、そんな心地いい時間にも限りがあった。そっと肩に添えられた手の圧と、耳元で聞こえた囁き声に応えるように、ゆっくりと思い瞼を開いた。
「イェガー。そろそろ着くぞ」
温かな春の日差しに劣らんばかりの温かく柔らかな笑みを浮かべて、1人の男が青年の肩を揺する。
青年の名は 『イェガー』 と言った。
髪は短くつんつんと逆立てられた金色で、どこか気怠げに見えるジト目は左右で色が異なる。右は深い青色をしており、左は燃える様に赤い。
ビシッとシワのない黒のベストを身に纏った彼は、ぼんやりと陽の眩しい事に目をしぱしぱと瞬かせる。
いつも忙しなく責務を全うしている彼が、こんなにも熟睡するのは珍しい事だった。
例えば3日3晩寝ずに仕事をこなそうとも、たった3時間足らずの睡眠だけで、彼は通常通り業務をこなす事ができるのだ。
それは春の温かな風に抱かれた心地よさからだったのか、それともすぐ隣に、もっとも信頼を寄せている人物が居てくれた安心感からだったのか、さしずめ未だぼんやり霞む脳みそでは、到底答えなど出そうにない。
それを察したかの様に、イェガーは考える事を辞め背を逸らして大きく伸びをした。長旅で凝り切った首をこきこきと鳴らしてほぐし、辺りを見渡す。
「お前が居眠りなんて珍しいな。よく眠れたか?」
まるで物珍しいものを見るかの様に、クスクスと男は笑った。この穏やかな表情を浮かべる彼の名は 『グリー』 といった。
深い緑の髪は、先端を逆立てて丁寧にセットされている。ぱっちりとした二重の彼の目もまた、左右で色が異なっていた。
イェガーと同じく右が青、左が赤だ。それもその筈で、何を隠そう彼らは双子なのだ。目の色や背格好がよく似ている。しかしながら彼らは顔立ちこそ似ているものの、雰囲気はまるで違った。
イェガーは機嫌の悪そうな近寄り難いオーラを醸し出しているが、グリーは人当たりの良さそうな穏やかな笑みを浮かべている。
「あぁ……」
イェガーは自身を見て笑う相手に向かって、嫌な顔もせず恥ずかしげも無く、小さくこくりと頷いて見せた。そういえば、間も無く目的地に着くとグリーが言っていた。
それを思い返せば、イェガーはゆるりと前方に視線を向けてみた。なるほど確かに峠を越えた先には目的地である街の風貌がうすらと伺えた。
その影を見るなり、まるで今目的を思い出したかの様に、イェガーは自身の荷物の中から100ページに及ぶであろう紙の束を引っ張り出して、ペラペラとめくり返した。
「今回の仕事はなかなかに骨が折れそうだな」
書類をめくるイェガーの目前では、グリーが困ったとでも言いたげな笑みを浮かべていた。相手の言葉を聞くなりイェガーは、仕事の内容を再確認するかの様に書類を指でなぞって見せた。
普段使いのコピー用紙よりも厚手で上質なその書類の初めには、隣国の紋章を象った判が押されている。この数ページに及ぶ紙の束は、今回彼らに与えられた任務を記した報告書であった。
今回の旅路の目的から、現在に至るまでの経緯、それに対して行った対策や被害報告など、文面だけでなく、写真を合わせて綺麗にまとめ上げられている。
「どうだろうな。調査隊が無能なだけかもしれねぇだろ」
書類を読み進めながら、イェガーは気怠げに眉を顰めて悪態をつく。誰に聞かれる訳でも無かったが、相手がそんな事を言うものなので、呆れて首を傾げながらグリーはため息を吐いた。
「お前はまったく……。あまり自分の物差しで物事を測るなよ」
それでも相手はこれっぽっちも聞く耳を立てやしないので、諦めた様にグリーは静かに上体を傾け、イェガーの持つ書類にゆっくりと目を落とした。
現在の問題点が何であるかなんて、正直どうだっていい。それでも目的地までまだ暫く時間が掛かるので、暇を潰す感覚で2人はたわい無い口論を交えた。
あれやこれやと話し合っている内に、大きな馬車は馬の鳴き声と共に動きを止めた。十分に荷台の揺れが止まるのを待ち、イェガーが先に荷物を抱えて地面に降り立った。
早々に降り立つイェガーに気を取られる事もなく、グリーは実に自分のペースで荷台を見渡してからゆったりと後に続いた。
長時間馬車に揺られた身体は、腕を回すだけでコキコキと音を鳴らす程度には凝り固まっていた。2人は軽いストレッチをしながら、ふと前方に視線を向けた。
そこには、4人は眠れるであろう大きさの薄青いテントが5張り程、円を描くように張られていた。
そのテントの前には折り畳み式の軽いプラスチックで出来た深緑色のキャンプテーブルが4つと、同じく軽いプラスチック製の簡易椅子が16個、右や左と統一性もなく雑に並べられている。
食べ終えた食器は片される事なく重ねられ、テーブルには食べかすであろう屑がちらほらと散見された。
「ありえねぇ……」
派手な見た目に似合わず、イェガーは几帳面なのだ。彼にとってその光景はあまりにも理解し難いものだった様だ。
眉間に皺を寄せ、荒れたテーブルを睨み付けている。静かな怒りを沸々と浮かべる彼とは正反対に、落ち着いた表情のグリーがふふっとその横で笑った。
「まぁそう言うなよ。忙しいんだろ」
グリー自身、別に整理整頓が苦手な訳ではないし、汚いよりは綺麗な環境の方がもちろん好ましいと思うたちではあるが、そこまで怒りが込み上げる程気になる訳でもなかった。
「それにしても限度があるだろ」
未だ冷めやらぬ怒りを、イェガーは鋭い目付きに込める。グリーはそんな彼を宥める様に肩をぽんぽんと叩いて笑った。お気楽な相手に調子が狂うとでも言う様に、イェガーは深くため息を吐いて歩き始めた。
ここは、母国から馬車を走らせ5日の先にある、隣国・ 『ミレニア』 の調査地だ。
何故彼らがそんな隣国の寂しく荒れ果てた調査地区に足を運んだかと言うと、数日前至急の委託調査依頼が国直々から送り届けられたからだった。馬車で2人が確認していた書物に刻まれた紋様が何よりの証拠である。
本来であれば国内で起きた問題は国内で解決するものであるのだが、見ての通り調査が難航しており、決定的な改善案すら出されぬまま事態が大きくなって行く一方で、苦情が絶えず、頭を悩まされた末、抱えきれなくなり、やむを得ず委託依頼を申し出たのだった。
委託依頼と言っても簡単なものでは無い。仕事の相手は互いに国であるのだから、相手としても委託資金は大きなものであったし、こちらとしても生半可な成果では信頼を落としかねない。
信頼を落とせば貿易の制限や輸入費用などに直接影響を及ぼす事になるので、内容はさておき、今回の任務はあまりにも大きく重要な任務なのだ。
調査依頼というと、本来小隊程度の軽い人員で行われることが一般的であるのだが、そのいった理由もあり、今回彼ら2人の様な有能な重役が駆り出されることとなったのだ。
そんなにも重大な調査依頼の内容とは一体どういったものかというと 『行方不明者の失踪理由について』 である。
事の発端は半年ほど前の事だ。まだ寒く雪の残る時期に、山賊共が次々と謎の失踪を遂げた。
1ヶ月のうちに失踪者は10名を超え、不審に思った政府が10名程度の小さな調査隊を派遣したのだった。しかしそんか彼らも1人を残して皆疾走してしまった。その際、残された1人は怯え切った表情でこう報告している。
『皆、気が触れて消えてしまった――……』
その証言に、ただ事では無いと判断した国は、更に調査隊員を増員して送り込んだ。しかし、その度数名の行方不明者を出すだけで、決定的な証言も取れず、現在に至るのだった。
「はぁ……。さっさと調査始めようぜ」
イェガーはすっかり気を落とした様子で、がしがしと頭を掻いて歩みを進めた。こんな荒れた地に長居はしたく無いとでも言うのか、まるで片付けを強要された子供の様に不貞腐れた仕草をとる相手を見て、グリーはまたくすくすと笑った。
「お前の事だから掃除でも始めるかと思ったよ」
実の兄であるグリーにとって、この環境をイェガーが嫌がる事など初めからわかっていたのだ。
予想通りの反応に思わず笑みが漏れてしまう。「誰がするか!」 と怒るイェガーの表情を、やや暫くの間楽しんではおちょくった。
しかしイェガーから譲り受けた資料に目を通すや否や、直ぐに仕事の顔をして、少し緊張感のある真面目な目付きで当たりを見渡した。
「まずは街に行こうか」
顎に手を置き、少しばかり考え込む仕草を取ってみせたグリーが、パッと顔を上げてイェガーを見た。いつしか同じ様に真面目な顔つきをしていたイェガーは、一言 「了解」 と告げて足を進める。
キャンプのテーブルを抜け、テントを越えて、300m程歩みを進めると、寂れた鉄製の門が2人を出迎えた。
風が吹くたび、ぎしぎしと音を鳴らすその門は、元の色などわからない程にたくさんの錆で覆われている。所々鉄が折れ、鋭利な先端が四方八方を向く始末だ。
そんな痛々しい風貌を眺めていると、ふと門の脇にぶら下がる薄汚れた看板に目が止まった。恐らくこの街の名が刻まれていたのであろうが、長い間放置されたそれは、すっかり掠れて読む事も難しい状態だった。
「随分荒んでんな」
イェガーはその錆びついた門を見上げてぽつりと呟く。かくいうここは、昔鉱石や特産物の売買で栄えた小さくも活気ある街だった。
長い年月において鉱石は取り尽くされ、山岳地帯特有の気候の変動に押し負けた特産品も、すっかり枯れ果ててしまった。収入源を失った街からは1人、また1人と離れて行き、今では当時の雰囲気を残しながらも、ゴーストタウンとなり果てた場所なのだ。
「まぁ、長らく放置されていたようだし仕方ないだろ」
グリーもまた、門を見上げて呟く。
普通、ここまで建築物が綺麗に保管された場所には、山賊なんぞがアジトを設け、拠点として置くことが多いのだが、本当に人っ子1人見当たらない。
それもそうだ。何分半年で理由も分からず50以上の行方不明者を出しているのだから、どうしても断れない理由でも無い限り、近付く命知らずな輩などまずいないだろう。
「確か、人を惑わすモンスターがいる、だったか……」
道中読み耽っていた書物の一節を思い返しながら、グリーは訝しげに眉を潜めて呟いた。イェガーもまた静かにその一節を思い返す。
確かそこに書かれた内容の一部に、行方不明者について、という項目があったはずだ。それによると、隣国が出した調査隊は5ヶ月で80名。その内無事に帰還した調査隊員は20名だそうだ。
そこから数ページは行方不明になった隊員の情報が記載されていたはずだが、イェガーはその部分をすっかり読み飛ばしてしまった為、思い出せなかった。
資料によれば行方不明者だけではなく、死者も出ているらしかった。それを語る帰還者の報告書が、リスト表の後ろにいくつか張り出されていた。
ペラペラと飛ばし読みした程度だが、その報告内容は三者三様で、あまりにも大きく異なっていたのを覚えている。確か大きな大蛇に飲まれただとか、子供の霊に殺されただとか、急にストライキを起こしただとか、皆それぞれ統一性のないものだった。
その報告書の1つに、グリーが呟いた一節が記されていた。何故か妙に気になってしっかりと読み進めたので記憶に残っている。
『人を惑わすモンスターについて』 と評されたそれには、この様に記されていた。
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―― 人を惑わすモンスターについて ――
グレノンド調査隊二等兵:シダ・ウィング
・調査場所:アナザラ跡地
・調査期間:34日
・調査隊員数:15人
・疾走者数:1人
――――――――――――
○月○日:人を惑わすモンスターと遭遇。
→隊員1人が奇襲を受け、
強大な力を前に殺害された。
・正体:不明
・動機:不明
・現在:消息不明
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その報告書の隅には別の筆跡で追記が書かれていた。詳細不明の為信憑性に欠ける、という様な内容だったと思う。
それは恐らく政府側のコメントなのだろう。差し詰め帰還者の精神が崩壊して妄想上の事柄を報告しているとでも思ったのか、どの報告書にも信憑性がないと言う類の文言が記載されていた。
「あんな報告書に何の意味があるんだよ」
あまりにも参考にならない事に呆れて、イェガーはそこで読むのを辞めてしまったのだ。それでもグリーはじっくりとその書物を何度も読み返していた。
「幻覚を見せる類の毒物か……それとも本当にクリーチャーの仕業なのか……報告内容に何か共通点はないだろうか」
彼はいつも、どんなに幼稚じみた物事であっても、例え万人が嘘だと否定する様な事柄であっても、決して匙を投げたりしない。
いつだってこうして真っ直ぐ問題に向き合って解決策を見出そうとする。
真剣に悩む相手の顔を見て、イェガーは呆れた様に眉を顰めた。グリーが万人の意見を取り入れ、答えを導くタイプだとしたら、イェガーは百聞一見にしかずと言った行動派なのだ。相手の事を信頼し、尊敬していると言えど、違えた感性は理解出来ない。
「嘘か本当かもわからない、ましてや会ったことも話したこともねぇ他人の意見なんて、いくら読んでも答えが出るとは思えないけどな」
時間の無駄だと一蹴するや否や、イェガーは今まさに読み返そうとするグリーの手の内から書物を取り上げた。
あまりに急な事に、一瞬驚いた様に目を丸めたが、それでもグリーは気を悪くするでもなく、やんわりと微笑んで見せた。
一般的には、自身が真剣に悩んでいる最中、この様に自分勝手に物事を遮断され、ましてや書類すら奪い取られたものなら、怒りを露わにしてもなんら可笑しくはないのだが、それでもグリーは微笑んで見せたのだった。
それはグリーの意思が弱いだとか、イェガーに頭が上がらないだとか、そんなちっぽけな事ではない。
双子として長い間同じ時を同じ様に歩んできた相手の気持ちなど、言葉にせずとも理解出来た。
もちろんイェガーの今の言動に悪意がない事も、自分を否定した訳ではないことも、手にとる様にわかるのだ。
「ふふ、わかったよ。なら今日は少し周りを偵察して見ようか」
グリーは詰まらなさそうな顔をするイェガーを見て、柔らかな笑顔を浮かべたまま静かにそう提案した。
イェガーはその提案に、漸く自分の意見を取り入れる気になったのかとでも言わんばかりにパッと表情を明るませ(と、言っても見た目では殆ど判別が付かない程度なのだが)静かに頷いた。
「ただ、山岳地帯は日の暮も早いし、あくまで軽く、だぞ?」
イェガーのその打って変わった態度に少し心配になったのか、グリーは幼い子を諭す母親の様に優しくそう言い聞かせる。
子供扱いされた事が癪だったのか、イェガーはまた不機嫌に眉を顰めて 「わかってる」 と答えた。その様子が微笑ましいとでも言わんばかりに、グリーはまたクスクスと笑って錆び付いた門に手を掛ける。