音痴なローレライたちの歌声を聴きながら
俺は釣竿を脇に抱え、釣り糸の先にスマートフォンをくくりつけていた。
現代における最高の贅沢って何か、という問いかけに対して、もし俺が答えるのならばこれになるだろう。
俺は釣竿を力一杯しならせて、堤防の先の海原へと振るう。どぼんと音がして、釣り糸に括られたスマートフォンは海の中に沈んでいった。
スマートフォンが鳴らない時間。これこそが現代に生きる我々にとって最高の贅沢なのではないだろうか。確かに便利なんだけれど、昼も夜も四六時中誰かに呼び出されるかもしれないと思うと気が休まる事がない。たまにいい加減にしろと投げ出したくなる事はないだろうか、俺はある。海の中に沈んだスマートフォンに、いい気味だと思う気持ちが割とある。
俺は堤防に座り、釣り糸を海に垂らす。頭上を海鳥が飛び、潮風に流れる雲は晴天の海に漂うようだ。
誰にも干渉されない静かな時間、と思うだろうか、実は違う。残念ながら俺はたった今仕事の真っ最中なのである。
別に漁師というわけでもない。そもそも、スマートフォンで何が釣れるんだよという話である。だが、釣れるものはある。そろそろ、そいつらが顔を出す頃だろう。
俺の垂らした釣り糸の周りを、どこからか現れた、海上をブイのように浮く完全防水加工の施されたバックが取り囲んでいる。その中には、それぞれの持ち主たちの濡れると使い物にならなくなる物が入れられている。
釣竿に引きが来る。食いつきはいいようだ。だが、俺は釣竿をそのままにして、餌に食いつく連中の好きにさせておく。そして、程よいところで、リールを巻きスマートフォンを海面近くにまで引き上げる。
すると、海の中から連中が顔を出す。
人魚たちである。
「どうねー!」
俺は大声で呼びかける。
「デザインだっさーい!」
人魚たちは臆面もなく俺が投げ込んだスマートフォンに対してきたんのない意見を返してくる。それから、クスクスと楽しげな笑い声を海上に残す。
俺の仕事はこれである。俺の勤先はスマートフォンの開発を行なっている。そして、俺は会社の開発したスマートフォンをテスターたちに使わせて、評価や改善点などの意見をまとめ、そのデータを開発部に送る事が仕事なわけである。つまり、試供品のテストとマーケティングをやっているのだ。
俺は釣竿に括りつけた他のいくつかのスマートフォンも海中に投じる。
人魚たちは俺の投じた開発段階のスマートフォンたちを興味深そうに手にとっている、はずである。海の中はここからじゃあ見えないけど。
さて、唐突だが魚人と人魚の違いについて考えた事があるだろうか。
一般に、上半身が魚が魚人で、下半身が魚が人魚みたいに、割とふわっとした定義づけがされているように思う。だが、俺の生きる現代には、その定義づけは少しだけ厳密だ。
結論から先に述べると、魚類から進化し人に類似する形態を持つに至ったものが魚人であり、人から進化し魚類に類似する形態を持つに至ったものが人魚であるとされている。要するに、魚人は魚類であり、人魚は水棲哺乳類なのである。そして、その両者における決定的な違いは、魚人は未だに架空の幻想物語の中の存在であるのに対して、人魚は現実に実在する存在であるという事だ。
人魚と呼ばれる人々が現れ始めたのは、今から一世紀ほど前の事だ。
初めは目に見えるほどの違いはなかったらしい。陸上での生活において、何らかの原因不明の体調不良を訴える程度の事だった。そして、そのような人々は決まって水、特に海の中で過ごすと、不思議と彼らを悩ます体の不調が治った。また、彼らには共通する身体的特徴があって、指と指の間にひれのように機能する皮膚があったらしい。
初めは一種の身体障害として扱われた。実際に、体調不良に悩まされ、社会生活からドロップアウトする人も少なくはなかった。だが、これが個人の健康の問題どころではなく、すべからく生物が辿る進化という秘めたる力動に関わる話であると世の中が気がつくのはそれからまもなくしての事だ。
人というものが変わりつつある、そのシグナルをとても分かりやすく伝える出来事が起こったのは、それから二十年ほど後の事、謎の体調不良に悩まされた人々の子の世代の事だ。
無脚児と呼ばれる赤ん坊が大量に生まれたのである。無脚児とは、みなよく知る二本の脚が、まるで魚の尾びれのような形状となった赤ん坊たちの事だ。そう、アザラシやジュゴンのような水棲哺乳類がそうであるように、陸上で直立して二足歩行ができる脚ではなく、海中で水をかくのに適したように脚が変化しているのだ。
このような子供たちは、親の形質にかかわらず、次々と生まれた。その年に生まれた赤ん坊のおよそ七割ほどが、このような無脚児であり、そのような傾向は一過性で終わらずにその後も続いた。
無論、世の中大騒ぎである。何が原因で何が起きているのかも分からないままに、事だけは次々に起きる。科学者に医者に生物学者に、およそ学術的な連中が手当たり次第に原因の究明に引っ張り出され、だが結局は誰も解き明かせないまま、無脚児が生まれ続ける事も止まらなかった。終いにはみんな何も分からないから、ただ起きている出来事をどうすれば受け入れるのかという方向に頭を使うようにするしかなかった。
さて、そんな世間の喧騒がどうであろうと、生きる事は保留になんてできない。無脚児たちは自分たちなりの人生を模索するようになった。誰が初めだったのだろうか、あるいは本能のささやきが道を拓いたのか、無脚児として生まれた子供たちの中に、海中を生活の場とする者たちが現れ始めた。陸上において、彼らは歩く事もままならず、地べたを這いずるだけの人生しかない。だが、水の中なら話は違う。そこには、自由があった。体の自由があり、心の自由があり、自立した個人として生きられる尊厳があった。だから、無脚児として生まれた子供たちは、それぞれに海を目指した。陸生哺乳類としての人生を捨て、海へと還ったのである。
つまり、このような子供たちを先祖に持つのが、俺たちが人魚と呼ぶ人々なのである。
「潜って使ってみてよ!」
俺の姿が見えるくらいの海面近くでスマートフォンをいじっていた人魚たちに呼びかける。
「何メートル?」
「とりあえず百メートル!」
人魚がざぶんと潜ると、釣竿の大型のリールがぎぃと音をたてながら糸を伸ばしてからから回る。
大きな声を出すために開いた口から、むわりとした煮立ったような空気が肺に流れ込んできて、俺は額から汗を垂らしながら少しむせそうになる。
前置きが随分と長くなったが俺の仕事に話を戻そう。つまり、俺たちの会社は現在、人魚向けのスマートフォンの開発を行っていて、俺は釣竿片手にその試供品をテスターたちに提供しているというわけなのである。
できれば、世の中のしがらみがいっぱい詰まった俺のスマートフォンも、糸に括らずに海の中に投げ込んでしまいたいが、俺はまだまだ浮世のもろもろが惜しいので、それは当分できそうもない。残念だ。
さて、人魚向けのスマートフォンと簡単に言うけれど、実はそれは作るのはなかなかに難しい。
ざっと、簡単に思いつくだけでも、水への対策をどうするのかとか、通信の方法はどうするのかという問題がある。
まず、水の問題だ。
そも、電化製品が何で濡れると壊れるのかというと、それは水とそれに含まれる微細な不純物というものが電気を通しやすい性質を持っている事が原因だ。別に難しい事じゃない、ウェブで調べりゃ誰でも分かるさ。簡単に言えば、電気回路が水に濡れる事で、回路の電気が回路を濡らした水を通ってあらぬ方向に流れてしまい、通電する事を想定していない回路の電気に弱い部分を損傷してしまう事が原因だ。
だから、我が社の偉大なる開発部の諸君は、それに対して以下のような対処をした。企業秘密だし、俺にとっちゃあもはや空想科学なお話なんで大雑把に言うが、まずは構造を見直し気密性を高めた。そもそも水が入らなけりゃいいじゃないかという理屈である。次には部品に用いる素材の耐電性を高めた。電気があらぬ方向に流れても、部品が損傷しないなら大丈夫なんじゃないかという事だ。最後に、機体の内部に入り込んだ水を分解し電気を通す原因になる不純物を吸着する特殊な触媒を開発した。これを水の流入が想定される箇所や、漏電すると困る場所に置いておくわけで、入った水を即座に取り除けば回路の損傷を軽減できるのではないかという事らしい。
これによって、我が社のスマートフォンは見事に海中での利用が可能となったわけだが、これはあくまで当座の通過点でしかない。究極的な目標は、海中での分解組み立てまでができるようになる事を目指している。つまり、製造の段階から完全に人魚たちだけでできるようになる事が目標なわけである。そのため、我が社の開発部の連中は、そもそもの電気を動力とした電子回路という方法論からの脱却すらも視野に入れて開発を行っているらしい。何とも壮大で頭の下がる話じゃないか。
次に、通信の方法についてだ。
スマートフォンなどの通信について、陸上においては、現在にあっても電波が通信に使われている。だが、電波通信は海中では使い物にならない。なぜならば、電波は水中では減衰しやすい性質を持っているため、水中で通信に用いてもデータが届かなかったり欠損が激しかったりするらしいからだ。
これに対しても、当座の解決策があるにはある。電波の代替となる無線通信技術の候補となった物、それは音と光だ。だが、音に関しては海流やそこに暮らす生物や海上での活動など、ノイズの原因となる要素が多く、それを補正する事も困難であったので候補から外れた。だから、光が通信に用いられる事になった。いわゆる、レーザー通信ってやつだ。
とはいえ、光にだって減衰や障害となる要因は多いわけで、今のところは完全な光無線通信は実現しておらず、海上に大量に設置した基地局同士を有線や電波でつないだ上で、最寄りの中継局からの部分的な光無線通信を行うハイブリッド的な通信方式が採られている。おかげで、海中で使えはするものの、あくまでとりあえずぐらいのもので、電話一つとっても結構なノイズが混じる。悔しいがまだまだ発展の余地ありってところなのだ。
さて、長ったらしい話をしたが、俺は別に知ったかぶりを誇りたいわけじゃない。願わくば、ふとなぜこいつらは人魚向けのスマートフォンなんて実に面倒臭い代物を作っているんだと疑問に思って欲しかったのだ。
唐突な話ではあるが、俺たちは、陸上の人類は、ホモ・サピエンスは滅びかけている。
確かに、人魚への突然変異によって個体数が急激に減少してはいる。だが、それは結果であって原因ではない。
滅びの原因は気候の温暖化だ。
俺たちの生きる現代において、日本の平均気温は、温暖化が騒がれだした二十一世紀初頭に比べて六度ほど上がっている。夏場になると気温が四十五度を超える所もざらにあり、熱中症による死者は深刻な数となっている。おかげで老人や子どもや病人なんかの体の弱い者がばたばたと死ぬのはそう珍しい事でもなくなって、長生き自慢の日本の平均寿命ですら六十歳を切りかけている。
酷い有様なのは日本だけの話じゃない。地球規模で人の住めない土地が広がり、結果大規模な人口の流動が起き、住める土地をめぐる戦争も起きた。機械的な生命維持のできない動植物たちは結構な数が滅んだ。
ジリ貧なのである、陸上に生きる俺たちみんな。だから、人魚たちが生まれたのは、生物の本能が起こした逃避行なのではないかと俺は思っている。空冷で追っつかないなら水冷でどうだという、遺伝子のやけっぱちが起こした魔改造ではないかと思っているのだ。
ちなみに、温暖化の原因は二十一世紀初頭に考えられていたような温室効果ガスが原因、ではない。太陽の活動の活性化によるものが原因であるというのが現在の通説的な考えだ。要するに、文字通りに天命なわけである。
確かに、温室効果ガスも温暖化を促進した一因であったという事は否定されていない。だが、科学って若い文明だ。人類の歴史のスケールで見れば未だに幼年期ほどの時間も経ていない。だから、ある種の幼さのようなものがあるように俺には思える。それは、いわゆる近代における科学観というやつに現れていて、世の万物、万象は科学的な知見による人の手によってどうとでもなるというような考えが結構幅をきかせていた時代があったのだ。で、いわゆる環境問題に対する科学観はそれに対する反省ではあるのだろうけれど、それはそれで科学に基づく人の作用は万物を根本から変えてしまうような神の手のような代物であると暗に見ているようで、結局は似たような万能感を軸にして右に左に跳ねているだけのような所がある。で、それがダメかというと、悪くはない。良い悪いでいうと、全く悪くはないんだけれど、でも、盲点が生まれる。何か悪い事があると、人の営為にばかりに悪者探しをしてしまい、肝心な自然の変化への洞察が疎かになってしまうように思えるのだ。
ま、そんな俺の屁理屈はどうでもいいさ。どちらにせよ、温暖化の原因が太陽の活性化だと現在に至るどの段階で気が付けていたとしても、結局の所、それで何ができたかと言われると、できる事など何もなかったとしか言えない。
やっぱり、天命なのである。責める相手も、恨み言を言って当たり散らす相手もいないのだ。人ってどうしたってそういうものでしかない所があるものだろ。
いやいや。また前置きが長くなった。
つまり、俺たちが何でまた人魚向けのスマートフォンなんて代物を作っているのかというと、遠からず人類の多数派になるであろう人魚たち向けの市場を開拓する、というのもあるのだが、もっと本質的な意義としちゃあ、文明の承継、これをやりたいわけである。古き人類から新しき人類へのギフトを残そうというのが、偽善でも慈善でもないけれど、滅びかけの俺たちがそれでもまだ律儀に働く事の意義なわけである。
俺たちが一人残らずこの地球からいなくなってもさ、携帯電話は残るかもしれないじゃん。遠い未来の誰かの手の中で生き続けるかもしれないだろ、というのがうちの社長の言である。
そんなわけだから、俺はまだ自分のスマートフォンを海に投げ捨てられないでいるのだ。どうせもう先なんかないからさ、人生に築き上げていくものなんてないからさ、スマートフォンごとそれに紐付けされた人生のもろもろを投げ捨てちまって、後の人生行き当たりばったりに終わらせたいという気持ちにはなるんだが、まだやるべき事があるんだと思えるだけで、ギリギリのところで歯止めがかかる。正直、全部投げ捨てたいんだけどね。
着信音が鳴って、俺のスマートフォンにメールが受信する。試供品のスマートフォンの一つからだ。
ガチャ引いていい?、とメールに書いてあったので、だーめと返信する。
今何メートル?、とメールを送ると、だいたい三百メートルと返ってくる。
人魚たちの潜水能力は結構高い。単純に深度にして、千メートル程度、人によっては千五百メートル程度の潜水が可能だ。時間も二時間から六時間程度の継続的な潜水が可能である。むろん、個人差はあるんだけどね。
それで息が続くのかというと、続くのである。
人魚たちは水棲哺乳類と類似した身体機能を獲得している。
呼吸に関しては人魚たちは我々と同じ肺呼吸を維持している。だが、体の仕組みがちょいと違うらしい。
えら呼吸と違って肺呼吸の場合、海中で酸素の補給ができない。海上で、すうっと息を吸い込んで、後は息を止めて、がまんがまんってなもんだ。
でも、それでも無理がきくのは体にちゃんとそれで何とかなる仕組みが備わっているからだ。
人魚たちは脾臓が陸上の人間に比べて大きく、そこに血液が大量に貯蔵されている。潜水時には、この脾臓が収縮し、そこに貯めた血液を血管内に充足する。肺から取り込んだ酸素を、血中のヘモグロビンにくっ付けて体の隅々まで運ぶという呼吸の理屈は同じだから、単純に体内の酸素を保持したヘモグロビンの容量が増えるというわけである。また、人魚たちの筋肉の中にはミオグロビンという物質が我々の十倍以上含まれている。これにはヘモグロビン以上の酸素の貯蔵庫になる機能があって、血中の酸素濃度が下がった時にはこのミオグロビンからの酸素によって活動できるようになっているらしい。要するに、大容量のメインタンクにサブタンクまでついているというわけなのである。
また、俺のスマートフォンにメールが届く。
今、四百メートルというメーセージとともに、カニを捕まえてピースサインを三つ作った人魚の写真が送られてくる。
通信は安定しているようだ。そろそろリールの釣り糸が限界なので、人魚たちに帰って来るように連絡する。それ以上は今の所はまだ動作保証環境の範囲外だ。
スマートフォンといっしょに堤防に釣り上げられた人魚たちは、ごろんと寝転んで冷えた体を日向ぼっこして温め始める。そのうちに、人魚たちは歌を歌い始める。
人魚たちは歌を好む。人魚たちが言うには、歌を歌うとむず痒くって気持ちがいいのだそうだ。感覚でいうと、久しぶりに運動をして、日頃使っていない筋肉を動かした時のようなあの感覚というべきものらしい。
でも、俺は人魚たちの歌を聞くたびに、吹き出してしまうのを必死に堪える事になる。
なにしろ、人魚たちはどいつもこいつも音痴なのだから。音を例えると、ボエーというあれである。
人魚が音痴な事にもちゃんと理由がある。耳の構造がだいぶ変わっているのだ。だから、音程がうまく取れなくって、音痴になってしまう。
人魚たちの耳の穴、外耳はふさがっている。潜水をする場合、耳に穴があると水が体内に入ってきてしまうため不便になる。また、陸上での音は空気の振動による波であるけれど、水中ではこのような微細なエネルギーを感知しやすくするための穴を体に開けておく必要がない。
だから、人魚たちの耳の穴とそれに続く外耳道は脂肪でふさがってしまっている。音の増幅器としての鼓膜も退化している。
それじゃあ耳が聴こえなくなるじゃあないかと思うかもしれないが、どっこい人魚たちの耳はきちんと機能している。
ここでミソとなるのは水中で音を伝える物質は何かという事だ。水中において、音を伝える物は、空気ではなく水である。音は水の振動による波なわけである。だから、水を伝わる音を拾えれば、耳の穴がふさがっていても聴覚は機能するわけである。どう言ったものか、人魚たちは空気の音色を聞ける耳は退化しているが、水の音色を聞く耳としては進化しているとでも言えばいいのだろうか。
理屈を言うと、人魚たちの耳をふさぐ物が脂肪である事に意味がある。音というのは比重の高い物質から比重の低い物質へと伝わり易い性質がある。ラーメンのスープに豚の背脂が浮くように、水に対して脂は比重が低い。だから、外耳道は脂肪でふさがってはいるものの、水を伝わる音は脂肪を伝わって内耳にある聴覚器にまできちんと伝わるというわけなのである。だから、人魚たちは水中においては陸上の人間よりよっぽど耳が利く。
一方で、空気に対しての比重は比べるまでもない。空気よりも比重の低いヘリウムを詰めた風船が空に昇って行くように、空気よりも比重が低い物質は空気中では浮くのだが、動力無しで浮かんでしまう人間はいないように、人体を構成するもろもろはまず空気よりも比重が高い。だから、空気中では比重の差を利用した人魚たちの耳はかなり聞こえが悪くなる。
音の聞こえが悪くなるという事は、自分が発する声の音程の調整ができなくなるという事なので、頭の中でイメージするメロディと実際に発する歌声の乖離がひどくなる。このような現象を巷に何と言うかというと、音痴と言うのである。身もふたもないけれど音痴なのである。
伝承の水妖の魔女たちは、美しい歌声と水中から覗かせる上半身の見かけだけの容姿で船乗りたちを惑わせて、船を座礁させる妖怪であるけれど、俺の目の前のローレライたちはそんなものには似ても似つかない。あんまりにもひどい歌声に俺が吹き出してしまったのを見て、喜んでいるのだと思って、くりくりとした保護膜におおわれた眼を、太陽の光にきらきらと光らせて、声を合わせてうれしそうに歌声を披露してくれる。
綺麗ではないけれど、心地の良い歌声だった。おまけに船を座礁させる事はまずないだろうから、実に安心である。
人魚たちの事を音痴とは言うけれど、それは感性、いや感覚器の違いによるものだから、結局はお互いさまというべきものだ。人魚たちからすれば、俺たちの方が音痴というべきなのかもしれない。そして、生物としての系統樹を別たれた我々と人魚たちには、そのようにして生まれる差異を埋める事など決して出来はしない。
そんな風に決定的に別たれた人というものの中にあって、それでも俺たちの作ったスマートフォンが人魚たちの手に当たり前のように握られる日が来るとしたら、俺たち地上の人類が一人たりともいなくなった後、人魚たちが便利にスマートフォンを使い続けてくれるとしたら。会社のみんなが抱いている希望ともいえるような、淡い気持ちが少しだけ頭によぎる。
俺は堤防で騒がしくって楽しい人魚たちの歌声を聞きながら、そんな事を考えていた。