9話 とりあえず会社に行ってみた。
月曜のこの日、夏休み明け、一週間ぶりの出勤だった。
通勤中、フォース・チェンジ/リロードについて、あれこれ考えを巡らせていた……。
ぼくがフォース・チェンジと唱えた瞬間、次のようなことが起きる。
まず、ぼくの意識が落ちる。
そして見る、話す、手足を使うなど身体の動作は、レイカさんが直接行えるようになる。
頭の内部においてはこうだ。
ぼくの頭の中にあるニューロ・チップと脊椎神経が直結され、五感はもとよりすべての身体機能がニューロ・チップ配下で制御されるよう組み替えが行われる。なお、この組み替えは瞬時に完了する。
従ってフォース・チェンジ中は、ほぼ生前の彼女がリアルで出現することになるのだ。
フォース・チェンジ可能時間は最大で1分ほどだ。
この制約の理由は次のとおりである。
フォース・チェンジ中、彼女が持つリソースはすべて、身体を動かすことのみに費やされる。この間、福岡県のとあるデータ・センタに潜む彼女のオリジン・プログラムの防衛は、彼女の配下のAIに一時的に引き継がれる。
レイカさんは完全自律型AIだが、配下のAIはスタンダードな仕様だ。既知であるハッカーからの攻撃やウイルス感染パターンは問題なく対処できる。が、レイカさんのように未知な攻撃に対する迎撃とか、臨機応変な対応まではとてもできない。彼らハッカーやウイルスはまさにそこを突いてくるのだ。
そうすると配下のAIによるオリジン・プログラムの防衛は、レイカさんが指揮している時とは一転して、防戦一方となってしまう。多重に張り巡らせているセキュリティ防衛ラインのうち、第一次防壁が突破されるかされないかのギリギリの時間が1分なのだ。1分持ちこたえて、レイカさんが復帰すれば十分リカバリできる。
ちなみにこの1分とは現実世界でのこと。現実世界の1分を、量子コンピュータ上の時制でクロック換算すると1千倍、つまり1,000分=約16.7時間にもなる。この途方もない時間の中、配下のAIはひたすら防御に徹し、攻撃に耐え続けることになる。
この16.7時間を過ぎると、第一次防壁が突破されるリスクが一気に跳ね上がる。そして、万が一突破された場合、第一次防壁まで彼らハッカーやウイルスを押し戻すのに、理論上同一時間を要することになる。
現実世界ではわずか1分の反転攻勢かもしれないが、彼女にとってはとてつもなく重く辛い戦いになることに変わりはない。ゆえにフォース・チェンジは1分が限界なのだ。
一方のぼくは意識が落ちる。よってこの間は五感を完全に失う。
いわば永遠に闇の中をさまよっている状態だ。一時的に死んだと言っても過言ではないだろう。
見る、聞く、動くを含め、思考することすらできない。当然、レイカさんが何をやっているか、一切モニタリングもできない。
時間が経過する感覚もないので、ある意味悟りの境地と言えるかもしれない。
わずか1分ではあるが、この悟りの境地はレイカさんがフォース・リロードと唱えることで終了する。
……。
気がつくと会社のあるビルの近くまで来ていた。
ぼくの格好はライトグレーのブラウス、紺の八分丈スリムパンツ、黒の女性用ビジネス・ウォーキングシューズといった至極まっとうな組み合わせである。
背中に背負うビジネス・バックは、今まで使っていたものでコンパクトだ。
下着はとりあえず黒に統一、速乾性のあるスポーティなやつにしている。
ビルの地下1Fから職場に向かう。
非常用出入り口であるドアの近くの壁に、ロック開閉センサがある。ここではビルの非常用出入り口専用ICカードをかざす。するとドア・ロック解錠されビルの中に入れる。
続いて地下からエレベータを使って目的のフロアまで行く。
ここで、用を済ませるべくトイレに向かう。
一瞬迷ったが、男子トイレに決定。
すばやく進入して全体を見渡す。個室はすべて空いていた。一番手前の個室に入って、ほっこり用を足す。
続けて洗面台にて手を洗い、うがいをする。
コロナ禍の現代、ここは念入りに行うことにした。
この時間は朝早かったこともあり、誰にも会わずに済んだ。
とりあえずほっと胸をなでおろす。
会社の入り口ドアは社員証をかざすと開く。
入ると前室になっていて、設置してあるタイムレコーダーに社員証をかざす。
出勤時刻が勤怠システムに入力される。7時35分だった。
8時までに出勤すればいいので、これで遅刻はなくなり、ここでも安堵する。
ここからさらに指紋認証が設置されたドアを通る必要がある。
こんなに厳重なのは、このIT企業の部門の中でも、セキュリティに関する事案を担当する部署に所属しているからだ。
指紋認証は何度やってもNGだった。
当然といえば当然であるが……。
途方に暮れていたところ、レイカさんが助けてくれた。
『アツヤ君、少し待っていたまえ。すぐオーバーライトするから』
「あっ!?会社のセキュリティ・システムに侵入してからの指紋データ改ざんですね!」
『そういうことだが、わざわざ口にすることはないだろう。よし、終わった。指をかざしてみたまえ』
「す、すみません……それと、ありがとうございます」
指紋認証を試してみる……一発で認証、ドアの解錠音が心地よく響く。
指紋認証のドアをとおると、またまた前室があるのであった。
あいかわらずダンジョンのような厳重な作りである。
こっちの前室に設置してあるロッカーに、職場に持ち込むことができないスマホなどのデバイスを預けなくてはならない。
そして自分の座席のあるオフィスに通じるドアを開けたり、端末やプリンタの認証にも使う、これまた特別なICカードをロッカーから取り出した。
そのICカードを使って最後のドアを開ける。
ぼく以外、まだ誰も出社していないことを確認。
オフィスの電気をつけて、自分の席に着く。
いつもどおり4台の端末を立ち上げ、仕事に着手した。
<登場人物>
・岡本淳也:主人公、男性、52歳、妻子あり、IT企業に勤めるサラリーマン、人格は変わらないが、外観はレイカになっている
・桐生麗華:女性、25歳、独身、ニューロ・コンピュータ・サイエンスなどなどの権威、故人、自律型AIに生前の人格をコピーし、DCのサーバに潜伏する。アツヤとは脳内チップを経由して会話する。古武術の使い手でもある
・2020.9.18.Fri 誤字等修正しました。