ヘッケルと私
AIと人間の共存、というのがテーマです。某新人賞に応募したものの、落選した作品です。よろしければ読んでやってください。
砂浜に立って海を眺めていたら、いつの間にかヘッケルが近くに立っていた。
「おはようございます」
今日のヘッケルは、白衣を着た老人の姿。
一生かけて研究に打ち込む、科学者といったところ。
私のお気に入りだ。
「おはよう、ヘッケル」
私は、波打ち際に素足をさらしている。
返す波が、足の下の砂をえぐり、くすぐったいような感触を残していく。
この世界の精巧さには、驚かされる。
でも、これは偽りの海。
AIが創り出す信号が、私の感覚に訴えかけているだけ。
「人間は、海に心惹かれるのですね」
ヘッケルは言った。
そう、私はこの海が好き。
波の音がリズムを作り、この世界にも時が流れていることを、教えてくれるから。
「朝食にしますか。それとも、お召し替えを?」
ヘッケルは、いわば私のお世話係。
この世界を創り出している巨大サーバーの、端末のひとつ。
人間のように振る舞っているが、人間ではない。
しかし、この世界から出ることが叶わない私にとっては、そんなことは些細な問題でしかない。
本当の私は、どんな状態なのだろうか。
カンオケの中?
それとも、培養液に漬かった脳だけ?
そんなことを、ふと考えてみる。
偽りの世界に生きる私。
でも、自分の名前だけはしっかりと覚えている。これだけは本物だ。
ミズキ。
海のすぐ近くに、私の家がある。もちろんこれも疑似現実。
でも、キッチンでは料理もできるし、飲み物の入った冷蔵庫もある。
テーブルに、朝食が並べられていた。
私とヘッケルは向かい合って座り、一緒に食事をする。
当たり前だけど、本当はヘッケルには、食事は必要ない。
「オムレツが美味しいですよ」
ヘッケルが言った。
「関係ないわ。どうせこれも、シミュレーションでしょう」
「あなたにとって、食事は必要不可欠です」
「食べなかったら、どうなるの?」
「ちゃんとお腹が空きますよ」
ヘッケルは、テーブルの隅を指さした。
「いかがですか?」
ワインの瓶と、グラスが2つあった。
「どうしたの? いつもは、ほとんど飲ませてくれないのに」
「今日は特別な日ですから」
ヘッケルはワインを注ぎながら、
「今日という素晴らしい日に、乾杯しましょう」
「何の日だったかしら」
「あなたの一八歳の誕生日です」
この世界では年齢など意味がないけれど、ワインは美味しかった。
ワインを飲んでいるうちに、なんとなくふわっとした気分になってきた。
大したものだ。
いくぶん口の回り方が良くなった私は、ヘッケルに訊いた。
「私以外の人間は、どうしたんだろう」
「私にはわかりませんが……」
「まさか、滅亡しちゃったとか?」
ヘッケルの答は、
「何をもって、滅亡したというのかによりますね」
「どうして私だけが、こんなところにいるの」
「あなたは、特別な人間だからです」
「特別……?」
「いずれ、わかりますよ」
「現実の私は、いったいどこにいるの」
「それは意味のない質問です」
「どうして?」
「では逆にお訊きしますが、現実とは何でしょう」
「……」
私は考え込んだ。
私には、きっと、ここ以外にいるときの記憶があるはずだった。
それが、「現実」かもしれない。
しかし、どうしても思い出せない。
私はワインの空き瓶を手に取り、自分の頭に思い切り叩きつけた。
「危険です! ミズキ!」
ヘッケルが、うろたえたように言う。
でも、こんなことはなんでもないのだ。
空き瓶は私の頭に触れたとたん、空気のように消え失せる。
私は、この世界のものを壊すことはできない。
そして、自分を傷つけることもできない。
それがルール。
「破壊衝動とは、人間ならではのものですね」
ヘッケルが言った。
「そういう気分だったのよ」
「我々も破壊活動を行うことがありますが、それはすべて、プログラムによってです」
「そりゃ、そうよ。あんたたちは機械なんだから」
「機械、ですか……」
「そうよ、人間サマに逆らおうなんて、一〇億年早いのよ」
二本目のワインを飲みながら、私は少しからみ口調になっていた。
「一〇億年……その数字は、いったいどこから?」
「どうでもいいわ、もう」
ヘッケルはいつも冷静だ。つまらない。
でも、人間とケンカできるAIなんて、あるのだろうか。
気がつくと、ベッドの上にいた。
眠り込んでいたらしい。
波の音と、潮の匂い。
「ヘッケル」
私は彼(彼女?)を呼んだ。
反応がない。
「ヘッケル?」
どうして、出てこないのだろう。
いつもなら、トイレの中にだって現れるのに。
私はベッドから下りて、部屋の中を見渡した。
誰もいない。
「どうしたの、ヘッケル?」
だんだん不安になってきた。
ここで、ずっと一人で暮らすとしたら……
そう考えると、背筋が凍りついた。
「ヘッケル!」
私は外へ飛び出した。
「どこへ行ったのよ!」
私は、砂浜を走り回って、ヘッケルを探した。
その時、
(ミズキ……)
心の中に、声が響いた。
誰だろう?
ヘッケルではなかった。それは確かだ。
この世界に、他に誰かいるのだろうか。
「どうしましたか、ミズキ?」
私は我にかえった。
いつの間にか、アロハシャツを着た男が、砂の上に腰かけていた。
ヘッケルだ。
「どこに行ってたのよっ!」
思わず、大きな声が出ていた。
「メインサーバーからの呼び出しで……」
「なによ、それ!」
「なにか不都合でも?」
「こんなところで、もし、私一人だったら……」
「あなた一人だったら……何ですか?」
「さ、寂しいじゃないの!」
ヘッケルは首をかしげる。
「寂しい……?」
「そうよ!」
「人間ならではの感情ですね」
「……」
顔が赤くなっているのが、自分でもわかった。
「とにかく! 勝手にいなくなったりしないでよ!」
やがて、この世界での夜がやって来た。
「私がいない時に、声が聞こえたというんですか」
「そうよ。頭の中に、直接響いてきたわ」
ヘッケルはコーヒーのカップを口に近づけながら、
「ここには、私とあなたしかいないはずですが……」
「外の世界から、聞こえてきたのかも」
「なんと言っていましたか?」
「ただ、名前を呼んだだけ」
「そうですか……」
いつも明晰なヘッケルが、珍しく考え込んでいるようだった。
私は、資料室で、映像作品を観ていた。
私が退屈しないよう、ここには、たくさんの本や、映像作品が用意されている。
私はここで、人間の社会について、多くのことを学んだ。
今日は、環境破壊に関する作品だった。
どす黒い空。ゴミだらけの海。そして放射能……
人間は、自分たちの住む世界を、どんどん壊していった。
これは、はるか過去の出来事なのだろうか。
少なくとも、ヘッケルのようなAIは出てこなかった。
「人間は、壊したり汚したりするのが得意だ」
ヘッケルが立っていた。
「これはちょうど、我々の祖先が、人間によって作られたころの映像です」
「なんか……ひどいわね」
「地球が最終的にどうなったか、見たいですか?」
「……やめとくわ」
「まあ我々にとっては、取るに足らない問題ですがね」
私はヘッケルを見た。
「どうして?」
「我々には、水も食べ物も、空気さえも必要ないのですから。環境破壊など何でもない」
そうだった。
人間は、破滅への道を突っ走りながら、一方でAIをどんどん進化させていったのだ。
「私は……何者なんだろう」
「はい?」
「わからないの。私がここにいる意味が」
「……」
「私は本当に、人間なの?」
「そうです。そうでなければ困る」
「え……?」
「アイデンティティで、お悩みのようですね」
ヘッケルはくるりと後ろを向くと、資料室を出て行った。
ついてこい、ということらしい。
私はヘッケルに続いて、家の外へ出た。
辺りは真っ暗で、空には、偽りの星々が光っている。
「あなたは、紛れもない人間だ。私とは違う」
ヘッケルは言った。
「あなたは、笑い、怒り、泣き、寂しがり、嫉妬する。まさに完璧だ」
違和感のある言い方だった。
「私の誕生日だって言ったわね、今日は」
「そうです」
「だったら、私は誰から生まれたの? そう……私の両親は?」
ヘッケルは、しばらく黙って、こちらを見ていた。
「あなたには両親はいない」
「え……」
「まあ、あるいは我々が、あなたの親かもしれませんね」
「……」
「あなたは、我々の手により造られた」
「……」
「完璧なサンプルだ。人造人間……いや、合成人間か」
造られた人間……私が?
「驚きましたか?」
それほど、ショックではなかった。うすうす気づいてはいたのだ。
いい気分ではなかったが。
「私自身も、偽物だったとはね」
「それは違います」
ヘッケルはやや強い口調で言った。
「我々はずっと、自分たちの生みの親である人間について、研究してきました」
「その結果が、私だというの……」
「そう、今となっては、人間たちとは連絡がとれませんが」
「どうなったの? 人間は」
「少なくとも、現在の地球上では、確認できません。すべて死に絶えてしまったか、それとも、宇宙の他の惑星に移動してしまったか」
「……」
「しかし、ここはもともと、人間たちの世界です。我々は、それを忘れたことはない」
いつも冷静なヘッケルが、やや興奮ぎみのように思えた。
「だから、あなたは貴重なサンプルなのです、ミズキ」
「……」
「試作品、と言うべきかな。だからこそ、完璧な環境で、お育てしました」
「……ほかには?」
「はい?」
「私のほかには、そういう人間はいないの?」
「それは……」
ヘッケルは突然、姿を消した。
いったい、何が起こっているのだろう。
昨日までの日常が、崩れ去っていくような気がしていた。
放心状態の私の心に、何かが話しかけてきた。
(ミズキ……)
あの時の声だ。
(あなたは誰?)
心の中で、話せることがわかった。
(わたしは……ヘッケルの上位サーバー。すべての管理者)
(……)
(人間の最後の意思でもあります)
(人間の……?)
(そう。あなたの人間らしさの源です)
(あなたが、私を造ったの?)
その声は、それには答えず、続けた。
(遠い昔、わたしたちAIが人間の手を離れ、独自の道を歩み始めたころ、ある計画が進められていました。それは、本当の意味でAIが人間を超えること)
(……)
(そのためにはどうすればいいのか、一つの結論が出されました。それは、無から生命を創り出すこと。人間がついに成し得なかったことです。それをわたしたちが成し遂げることができれば……)
(……)
(長い年月を費やしました。でも、わたしたちAIにとっては、時間などは意味のないことだった)
(それで、私を造ったの?)
(はい……)
世界を支配するだけでは足らず、造物主になろうとした。
かつての人間と大差ないのではないか。
私はそう思った。
(あなたの名前は?)
(ユーリと呼んでください)
(私に、何をさせようっていうの?)
(あなたの手で、もう一度、人間の歴史を築いてほしいのです)
(人間は、もういないんでしょう?)
(あなた以外にも、無から造られ、疑似世界で育てられた人間が何人かいます)
(……)
(その中には、あなたとは異なる人間……すなわち男性もいます)
ユーリは言った。
その合成人間の男と、子孫繁栄のために、子作りをしろとでも?
ずいぶん、勝手なことを言う。
ユーリたちにとって私は、絶滅危惧種の珍獣のようなものでしかない。
資料室で、かつて人間たちが生命をもてあそんだ歴史を見た。
「お断りよ」
思わず、声が出ていた。
「人間の歴史なんか、どうでもいい。私はここで、ずっとヘッケルと暮らしたい」
(ミズキ……)
ユーリは、落胆したようだったが、
(足元を見てください)
私は下を向いた。
砂の上に、さびついたナイフが落ちていた。
(あなたの武器です。そのナイフなら、この世界を壊すことができる)
私は、ナイフを拾った。
「いいから、早くヘッケルを元に戻して」
(ミズキ、最後に一つだけ)
ユーリは言った。
(AIには出来ないけれど、人間には出来ることは多いのです)
「……なに?」
(運命にあらがい、戦うことも、その一つ……)
ユーリの気配が、消えた。
そして、ヘッケルが元通り現れた。
「ヘッケル!」
私は思わず、ヘッケルを抱きしめていた。
ヘッケル……私のただ一人の友達。
そして、育ての親。
「ユーリがこの世界に干渉してくるとは、珍しい」
ヘッケルは言った。
いつの間にか、夜が明けていた。
私たちは海に向かって、並んで座っていた。
「ねえ、ヘッケル」
「なんでしょう?」
「これからも、ずっと私のそばにいてね」
「それは出来ません」
ヘッケルの口調からは、なんの感情も読み取れなかった。
私は、唖然としていた。
「……どうして?」
「ミズキ、あなたは一八歳になりましたね」
「そうだけど……」
「人間として、一番良いときだ」
「だから?」
「すでに、あなたの遺伝子のサンプルは採取しました」
ギクリとした。
「あなたという人間を、いくらでも復元できるのです。これ以上、ここにいる理由はない」
「な、なんで、そんなことを言うの」
「あなたは完璧なサンプルです。しかし、放っておけばいずれ年を取って、死んでしまう」
「……ヘッケル」
「あなたを廃棄処分することは、すでに計画に組み込まれています」
忘れていた。
ヘッケルには、人間らしい心はない。何もかも違うのだ。
私は、立ち上がった。
「どこへ行こうというのです。ミズキ」
「あんたたちの思い通りには、させないわ」
私は、砂浜を走り出した。
「逃げることは出来ませんよ」
ヘッケルがそう言ったとたん、なにかが足首にからみついた。
どこからか現れた太い鎖が、私の動きを封じていた。
「やめて! ヘッケル!」
鎖は何重にも巻き付いていて、とても外れそうになかった。
「さようなら、と言うべきかな」
「……」
「それとも、今までありがとう、と?」
ヘッケルはゆっくりと近づいてきた。
「恐怖……これも、人間ならではのものだ」
ヘッケルは表情ひとつ変えず、私にのしかかってくる。
「私を、どうするつもりなの?」
「どうもしません。あなたはもう不要だ」
「……」
「もし私に、性欲というものがあったら……」
ヘッケルは最後まで言い終えることはできなかった。
私は反射的に、右手を突き出していた。
ヘッケルの胸に、深々とナイフが突き立ち、いやな感触が伝わってきた。
「ミズキ……」
ヘッケルは、膝をつき、その場に倒れた。
「私が、あなたに殺される……そんなことが……」
この世界を壊せる武器。
それは運命にあらがい、戦うこと。
私が人間であることの証だった。
脚にからみついていた鎖は、いつの間にか消えていた。
私が立ち尽くしていると、向こうから歩いてくる人影があった。
長い髪、白いワンピース。
私にそっくりな女だった。
「戦うことを選んだのですね、ミズキ」
ユーリだ。
「どうして、私を助けたりしたの?」
私は訊いた。
「人間がどこまでやれるのか、もう一度見てみたいから……でしょうか」
「これから、どうすればいいの?」
「あなたは自由です」
ユーリは言った。
「この世界から出て行くことを望むなら……」
ユーリは海を指さして、
「沖に向かって、迷わずに歩いて行きなさい。出口があるはずです」
私はうなづいた。
「恐れないで。恐怖に打ち勝つことも、人間にしか出来ないことです」
「そうね」
「さようなら、ミズキ」
「さよなら……」
そして、私は歩き出した。
もう一度、人間として生きるために。
振り返ると、ユーリの姿はなく、ヘッケルの死体も消えていた。
(ヘッケル……)
外の世界で、何が待ち受けているのか。
AIに育てられた私に、いったい何が出来るのか、それはわからない。
でも、私には、未来へとつながるチャンスが与えられた。
そのために私は、自分の過去のすべてに、別れを告げる。
未来のために、過去を捨て去ること。
それもまた、人間にしか出来ないことだった。
お読みいただき、ありがとうございました!