2
人々が発する言葉は命題と推論とからなる。
「〜は〜である」という命題と、「〜は〜であるから〜は〜である」という推論。
無数の顔を区別でき、何十年前の思い出を保てる人間の優れた脳には、個々人特有の膨大な知識つまり命題とともに、その知識の構造つまり推論の構造が保持されている。
普通の人が生活で普通に期待される程度の判断力、言わば「誰でもできること」、といえども情報処理としては実は高度だ。少し脳の配線が狂えば全くぼけた行動をしそうなものだが、肉体は病に対して頑健に、脳は狂気に対して頑健にできている。
それは進化の果実である。進化の果てで人間は、数千年前に都市を生んだ。
毛皮を着て石で殴り合っていた私達に起こった、テクノロジの爆発的な発展。
では人間の脳は、テクノロジの発展を合理的に扱えるほどに、やはり頑健なのだろうか?
◆
合理的に考えられるとは、合理的に推論できるということだ。
事実らしいと思われた推論が失敗するのは、暗黙に存在した仮定が事実でなかった時だ。
実際に、現代人類の言葉には暗黙の仮定が存在する。
「優れたものが栄える」という仮定である。
人々全ての頭を解剖してみたわけでもなく、なぜそう言えるだろうか?
そう言える。なぜなら、そう暗黙に仮定するのでなければ正当性を主張できない言葉を人々が吐くからである。
既存の社会に存在して人々がそれに従っている価値観の正当性を問うた時に、暗黙の仮定は姿を現す。
人々の振る舞いという症状から、原因であるそれを導き出して扱う行為を、「人類病理学」と呼べる。
◆
人々の思考の前提に、「優れたものが栄える」という仮定があると言うこと、および、その仮定が誤ったものだと主張すること。
その論拠を丁寧に説明しなければ話が進められないわけだが、ここでその論拠を説明することはしない。
細胞から説明して人間を理解することが困難であるように、個人の振る舞いの病理から説明して人類の病理を考えることは困難だからである。
よってここでは、「優れたものが栄える」という誤った仮定が実在するという「仮定」。それを逆に前提にして、トップダウンに構造を示そう。
そうして示されたモデルがもし現実について説明力を持つならば、仮定した仮定が事実であったと示したことになると言える。
◆
「優れたものが栄える」ことは、自明な事実だとも言える。
現実という競争の中で生き残ることが、「優れている」ことのそもそもの定義だと言えるからだ。
では逆に、どんな場合に、「優れたものが栄える」と言えなくなるのだろうか。
それは本質的には、「生存」と「幸福」とを区別する場合である。
◆
生存は幸福の必要条件かもしれないし、幸福は生存の十分条件かもしれない。
しかし、生存は幸福の必要十分条件ではない。
言い直すなら、幸福であるためには生きていることが必要で、もし幸福ならもちろん生きているとは言える。しかし、生きているから幸せだとは言えない。
生きているなら、死んでしまった人より幸せだとは言えるかもしれない。しかし生存の程度が直ちに幸福の程度だとは言えない。
もし生存が直ちに幸福を意味したなら、片方の言葉は不要であり、そのように概念が分岐することもなかった。よって言葉の存在は、世間にとってもそれらが異なることを傍証している。
例えば家畜や労働者を扱う際に、それを酷使しておいて、しかし生存さえ保ってあればそれらは十全に幸福だと主張できるか? できないということだ。
生存は幸福を保証しない。生存と幸福は異なるものだからである。
◆
生存は物質的な尺度であり、幸福は精神的な尺度である。
生存は客観的に測りやすく、幸福は主観的に測られやすい。
物質的に見るならば、怪我をして身体の一部を失うことは、死に近づくことだと考えられる。
現在の科学的な機器や知識を駆使すれば、個人の健康状態を詳細に検討できる。
とはいえ、その人の幸福の程度まで、機器によって数値化しきることはできない。
生存は幸福を保証しない。しかしやはり、生存や怪我や健康は、幸福の重要な指標である。
例えば家畜や労働者を扱う際に、それを酷使しておいて、しかし洗脳して本人さえ幸福を自認していれば十全に幸福だと言えるか? 言えないということだ。
「本人が望んだ」という弁明はイジメの典型的な手口だ。特に、法律の発展によって契約が保護の単位になればそうである。
突き詰めて言えば、健康もやはり幸福とは別である。しかし、幸福を完全に精神的なものだとすれば、詭弁による虐待の機会を生む。よって現実的には、健康と幸福とはほとんど近接したものだと言える。
よって、健康は生存よりはずっと幸福そのものである。
しかしなお、健康は物質的な尺度である。
健康さの計測は、科学の発展に従って深くなる。
しかし今なお、その計測は幸福そのものまでは届いていない。
人間の知性は高度であり、幸福もまた知的な主観を含むゆえに高度である。よって、人間知性が自動化できないならば、機械的に幸福を計測できる可能性もありえない。
すなわち、人間という複雑な存在について、健康とはそれを浅く観察した観測値である。
最も浅い観測値、つまり幸福を究極的に抽象化した概念が、生存である。
優秀な戦士もそうでない戦士も共に一人と数えても、軍団の規模は計測できる。
同様に、生存でくくることで、殺されるほどはイジメられていなかった、とか、死んでしまうほどの病気ではなかった、などと大雑把には幸福を測れる。
そういう考え方をすると、最も考える手間は少ない。思考や計算の手間は少なく、つまり計算量が小さい。
健康は、幸福の抽象化である。
生存は、幸福の抽象化のうちで、計算量が最小になる点である。
◆
健康は普通、幸福のよい近似だろう。
生存も、幸福のよい近似だろうか? 健康がよい近似ならば、生存もよい近似だと思える。
しかし、「優れたものが栄える」というところに立ち戻って考えるならば、生存は優秀性のよい近似か、問わねばならない。
それはつまり、「優れた人」ほど「長生き」なのか?、ということである。
例えば巨大隕石が飛来した時に宇宙船で自己犠牲的に立ち向かって死に、しかし人類を破滅から救った人がいたとする。
その人は、「立派な人」かもしれないが、「長生き」な人では明らかにない。
「変わった人」あるいは「馬鹿な奴」と罵ることはできるかもしれないが、その人のお陰で今日の自分の幸せがある事実は否定できない。
その人自身は、死ぬまでの覚悟はなかったかもしれないが、人類の幸福が目的の一つであったなら、本人の意図の通りに目的は果たせたと言える。よって単に馬鹿ではない。
他者の幸福に配慮することが市民の望ましい属性であるなら、社会はそれを何かしら肯定的な価値と見なさざるをえない。献身を偶然に頼るのではなく、創造し維持しなければ合理的でない。
よって、その人が「社会的に立派」であったことを、何らかの「優秀性」と見なさざるをえない。
よって、「優れた人ほど長生きである」という命題は反例により棄却された。
この出来事を、全く稀な例外と見ることもできる。
しかし、人類という規模や、死という程度を外して、その構造のみ見るならば、いかなる規模の社会集団においても、日々に行われている現象だと見ることもできる。
しかし、社会への献身を無制限に美徳と見なすことは明らかに破滅的である。
この論点を、もっと日常的な言葉で表せば次のようになる。
「自分はどの程度、他者に対して親切に生きるべきか?」
「自分はどの程度、社会的なマナーを遵守して暮らすべきか?」
世間に親切にする程度を「親切レベル」と呼べば、次のように場合分けできる。
・しばしば報われない親切レベル。
・ちょうど報われる親切レベル。
・しばしば罰される親切レベル。
ギブアンドテイクという言葉遣いで言えば、同じものを次のようにも表せる。
・ギブ>テイク lose-win
・ギブ=テイク win-win
・ギブ<テイク lose-lose
ここで、3つ目の「ギブ<テイク」は得しそうなものだが、世間様に睨まれたり人間関係で地味に阻害されたりして、結果的に報復を受けて得にならないものを意味している。
一般的なほとんどの場合には、「ちょうど報われる親切レベル」で生きることが望ましい。
社会で生きるということの一端は、「ちょうど報われる親切レベル」を模索して適応することである。
親による教育の重要な要素は、子を「ちょうど報われる親切レベル」に導き適応させることである。
「しばしば報われない親切レベル」も、「しばしば罰される親切レベル」も、本人がやがて損をするであろうという意味で、病的なものだと考えられるからである。
「ちょうど報われる親切レベル」をうまく模索して適応することは、一種の知性だと考えられる。よって、一種の優秀性だと考えられる。
現実の現象はかなり確率的であるから、正しい判断をしてもよい結果がもたらされるとは限らないし、そのような知性において優れていても、結果が非常に異なる場合はあるだろう。
しかしそれを別にすれば、隕石に突入した英雄は所詮、確率的な例外と考えて、やはり、「優れた人ほど長生き」であり、「優れた人ほど栄える」とは事実として言えるように思える。
しかし実際には、そうは言えない。
◆
100人の奴隷達が1人の主人に酷使されている世界を考えよう。
10人の奴隷が革命を志して他の90人の奴隷に蜂起を促した。
しかし、90人の奴隷達はかえって主人に罰されることを恐れて、10人の命を差し出してしまったとしよう。
結果の現実としては、革命を志した10人の奴隷は死んでしまったことになる。
もしも蜂起が成功すれば、奴隷達の幸福レベルは1から100になったかもしれない。しかしそうはならなかった。
革命を志した奴隷達は、90人の奴隷達の幸福を+99することを夢見たのかもしれない。しかし結果的にはそれは、「しばしば報われない親切レベル」に属していたことになる。
生き残った奴隷達は、「あいつらは馬鹿だ」と言うかもしれない。「優れたものが栄える」と見るかもしれない。しかしそれは主観である。
設定を追加しよう。
革命を志した奴隷達は、革命によって奴隷の幸福レベルは1から100になり、奴隷の大半が蜂起すれば蜂起の成功確率は99%だという事実を知っていた。
生き残った奴隷達は、革命が成功しても奴隷の幸福は40から60になるだけであり、大半が賛同したとしても成功確率は55%にすぎないと思っていた。
もしそんな事実があったなら、生き残った奴隷達が、「優れたものが栄える」と言うことの意味はなんだろう?
その言葉の意味は、どこまでも空虚になっていく。
失敗があったとすれば、革命を志した奴隷達が、生き残った奴隷達の知性を過大評価したということかもしれない。しかしだとしたら、「優れたものが栄える」と言う、その「優秀性」の意味はどこまでも虚しい。
◆
氷山に突き進む船を考えよう。
気の狂った船長が人事の権利を掌握しているとする。
今のままの進路を取れば氷山にぶつかると考える船員達は、船長に抗議する。
一方で、船長の好意を求める船員達が、船長を弁護する。
抗議した船員達は、降格され解雇され、経済的損失を被ったとしよう。
「上司の顔色も読めないとは愚かな奴らだ」と、太鼓持ちの船員達は笑う。
「優れたものが栄える」と主観する。
そして結局、船が沈んでみんな死んだら、その「優秀性」っていったい何だ?
太鼓持ちの船員達は、自分達が、「ちょうど報われる親切レベル」を歩いているつもりだった。
そしてそれは事実だった、短期的には。
しかし長期的に客観すれば、あるべき選択は、勇敢に抗議する道だった。そこが、「ちょうど報われる親切レベル」だった。太鼓持ちの船員達は、「しばしば罰される親切レベル」に結果的に陥っていて、社会ではなく現実から罰を受けた。しかしもちろん、降格された上で沈んで死んだ船員達が勝者でもない。
一般に、「組織の中でうまく生きていく」ことと、「組織がうまく生きていく」ことは異なる。
「ちょうど報われる親切レベル」を優秀性だと考えて満足することは、「組織の中でうまく生きていく」ことに満足していることを意味する。
それは、社会全体の行く末は、権力ある偉い人々が適切に考えてくれているはずだ、という依存心の存在を意味する。しかし現実には普通、庶民の幸福に責任感を持ってくれる最高権力者達などというものはいない。
ゆえに、今日の自分の幸せを大切に生きる生き方は、今日の自分の幸せを大切にする意味でも普通、最善でない。
◆
沈んだ船。
奴隷に留まった奴隷達。
隕石にぶつかった英雄。
一つの教訓は、事実というものの価値だ。
そして、事実が見えるという意味での知性、それが優秀性としての属性を保つということである。
「組織の中でうまく生きていく」知性と、真実を見る知性。それらは、時として全く重なっているが、時として果てしなく遠ざかる。
「ちょうど報われる親切レベル」を歩くことの価値は、究極的には虚しい。
なぜなら、社会の全員が、「ちょうど報われる親切レベル」を歩くことを専らにする人間になったならば、その船、つまり社会全体は、必ず座礁する結果になるからである。
短期的な「ちょうど報われる親切レベル」の長期的な極限は「しばしば罰される親切レベル」だと、常に言えるのだ。
逆に言えば、社会というものは常に、一見「しばしば報われない親切レベル」を歩く人々によって支えられているのである。
◆
ゆえに、人類愛の価値は消えない。
もちろん、人類愛の価値が消えたと言う者などまずいない。
しかし、人類愛の価値を否定しない人のほとんどは、日常では、生存や健康で価値を測っている。便宜的に価値観を使っている。
ただ、「優れたものが栄える」という命題を推論として徹底すれば、人類愛の価値を否定していることになるのだ。
生存も健康も、個人の属性である。
それらを守る意味での優秀性とは、やはり個人的なものであるにほかならない。
家族愛とはいえ、やはり大同小異である。
自分の安楽を犠牲に家族の幸せのために尽くしたとして、その利害の主体は家族という小さな単位にすぎない。
家族という単位で、「ちょうど報われる親切レベル」を歩むことは、一見合理的だ。
しかし、すでに見たように、個人の時と同様、合理的ではない。
いかなる単位についてもそうである。いかに大きな主体を定めてもそうである。
ゆえに、愛は、他者に対して開いていなければならない。
◆
生存は、幸福の抽象化のうちで、計算量が最小になる点である。
そう言った。今はこうも言える。
個人は、幸福の単位の抽象化のうちで、計算量が最小になる点である。
個人の生存。実に思い描きやすいではないか。
自分自身の死。実に明らかな損失ではないか。
しかしそれは人を盲目にする。人類に病理をもたらす。
「利益」とは何だろう?
当たり前に見えるその言葉の意味を、自分自身の頭で真剣に掘り下げた者は少ない。
「利益」という言葉が使われるのは、もちろん経済的な場面だろう。
貨幣こそは、最小の計算量を持つ価値の抽象だからである。
しかしより具体的に見るなら、利益は単に貨幣ではない。
市場においては貨幣によって便益が購入されるのだとしばしば言われる。
便益とは生活の満足度を増加するものであり、生活の満足度とは結局は幸福だ。
ゆえに最終的な利益はやはり幸福であり、生存や健康である。
しかし単に生存や健康が利益なのではない。短期的な幸福と長期的な幸福は異なるからだ。
沈んだ船の船員達。
船長に媚びた彼らの選択は、結局は利益にも幸福にもならなかった。
ならば、「利益」の主体は常に、全体に及んでいなければならない。
「どこからが主体であり、他は確かにそうではない」と線を引いて言うことはできない。
ならば必然的に、生存や健康といった個人の属性を幸福の基準と見なすこともできない。
ゆえに、主体的な利益追求の比較的な優劣によって優秀性を定義しきることはできない。
つまり、生存や繁栄が優秀性の定義であると述べることはできない。
よって結局、「組織の中でうまく生きていく」優秀性を切り捨てる意味で、事実に近づく知性について、優秀性としての価値を見ざるをえない。
そのような知性について言うならば、隕石にぶつかった英雄、奴隷に留まった奴隷達、沈んだ船の比喩で見たように、結果的な生存によって知性の程度とすることはまずできない。
よって、「優れたものが栄える」という命題は棄却された。
言い換えれば、個々人が自らの生存や健康を追求することでは、社会幸福の最大化はできないということだ。
人間には、遺伝子がもたらす生物としての本能がある。自らの生存も求めるが、子孫の繁栄も求める。そして、自身の暮らしに生存のみならず幸福を求めるように、子孫についても生存のみならず幸福を求める。そしてさらに、子孫の安寧は、彼らが属する社会の行く末にかかっている。ゆえに社会は、利己的な砂の集まりではなく、戦略的な主体でなければならない。
いかなる主体も、より大きな船の一員にすぎない。銀河すら、もし生存を欲するなら、宇宙という船の行く末に配慮せざるをえないかもしれない。ゆえに、主体の利益に満足しきることは、常に愚者の属性だと考えることができる。
◆
生存した人々のほとんどは、「優れたものが栄える」と考えがちだ。
自身の血脈の相対的な生存を、そのように正当化しがちである。
そして滅んだ人々を、「ちょうど報われる親切レベル」を見誤ったと考える。
倫理的に傾いて滅びる人は常にいるから、自らを正当化するにはそれが必要である。
真実が見えていた程度は互いに同程度であって、「ちょうど報われる親切レベル」を模索する知性で自分のほうがまさっていたと考えやすい。
実際には、「ちょうど報われる親切レベル」を模索する知性で同程度であり、真実を見る知性で相手のほうが優れていたかもしれないのにである。
「優れたものが栄える」と考えることは、そこにおける魔法だ。心が楽になる認知バイアスである。
ゆえに、生存者の言う、自分達のほうが賢かったという発想は、当てにならない。
「劣ったものが栄える」という状況は常にありうるし、事実そうでありながら、「優れたものほど栄える」と自認しつづける可能性は普通にあるのだ。
◆
ある選択が成功だったと言うことはできる。
しかしより長い目で見れば成功か分からないとは常に言える。
試験に合格したことだって人生全体ではもしかしたらマイナスになるかもしれないから喜ぶのはおかしいと。
それはほとんど詭弁である。
沈んだ船の比喩で一般論を言おうとすることも、それと構造は同じだ。
所詮例外は例外であって、思考を省略してうまくいく以上、思考を省略することが合理だとは言える。
しかし実際に、「優れたものが栄える」という考え方や、物質的な尺度で幸福を測って個人を利益の単位とする考え方は、病理と呼ぶべき深刻な有害性に連なっている。
ここで示したのは、「優れたものが栄える」という命題が完全には言い切れないということの保証である。それをすることが有意義だとする論拠はまだほとんど示していない。
◆
私は、現代人類の言葉には、「優れたものが栄える」という暗黙の仮定があって、なおかつそれは間違った仮定だと主張する。
そう主張する論拠はまだ言っていない。
その論拠は言わずに私は、もし実際に、「優れたものが栄える」という命題が仮定として存在したならば、それを正当たらしめている論拠は何かを考えた。
「優れたものが栄える」と考えるためには、物質的な観測によって(極端には生存として)価値を測ることと、価値を属性として持つ主体を(極端には個人として)限定することが必要だと思われた。
一方で私は、その2つによっては優秀性を記述しきれないことを言った。よって、「優れたものが栄える」とは常には言えないと、確かに示せた。
そう示すことの意義は、まだ言っていない。
◆◆
人々の言葉を眺めていると、2種類の方法で他者を尊敬していることに気づく。
一つには、人々は偉人を尊敬する。
一つには、人々は成功者を尊敬する。
私は、偉人は尊敬すべきものであり、成功者を尊敬する意味はないと思う。
しかし、人類の病理においては、偉人を敬う傾向は失われ、成功者を羨む傾向に流れていく。
人々は、偉人を尊敬する。
それは、「ちょうど報われる親切レベル」を歩く上で不可欠なことだ。
いくらか献身的にいくらか自己犠牲的に、人々の幸福を守る人はしばしば見かける。
それをあえて罵倒する意味もない。黙殺する意味もない。讃えておいて損はない。
社会の幸福レベルは、相互の一定程度の親切によって成立している。その秩序を進んで壊す意味もない。
ある種の称賛や敬意は、利己的にすら明らかに合理だということだ。
一方でまた人々は、成功者を尊敬する。
ここで成功者とは、世俗的な利益や名声における成功者を指しているつもりだ。
例えば大金持ちは成功者だ。
少しでも分け前をくれる可能性があるなら、人々は成功者の前では少し行儀がよくなる。
社会の中で、金銭と権力のある場所にステージアップしようとする。
地位ある人々と縁を結んでステータスにしようとする。
黙々と実績を挙げれば報われる社会ではないから、表面的な自己宣伝はどうしても必要だ。
高価な服を着た人を見れば、安寧の匂いに惹かれて寄り添う。
貧しい服を着た人を見れば、不幸に匂いを煙たがり遠ざける。
成功者に愛着することは、動物的なレベルですら合理性を説明できる。
◆
成功者を愛着することは危うい。
すでに述べたように、自らの物質的な利益を最大化しようとすることが、自らの幸福を最大化する戦略としては危ういからである。
「優れたものが栄える」という事実が徹底してあれば問題はない。しかし事実ではない。
つまり逆に、「栄えているならば優れたものだ」と言い切れない。
明らかかもしれないが、反社会的な行いをしてかえって利益が得られることは稀ではない。むしろ、他者に親切にすることこそ、利益で報われるか危うい。しかしすでに見たように、船としての社会が最終的に依存しているのは、そのような親切、人類という規模で言えば人類愛である。
よって、個人という部分において、成功者を讃えて利益を最大化しようとすることが、より知的に事実的に見たならば、自身の利益に合理でない可能性はある。
そのことは、成功者という属性一般について言える。
成功者を見かけて、尻尾を振ることは、原則として安易だ。
ならば逆に、成功者とは切り分ける意味で偉人の属性を考えたくなる。
「偉人」と呼ばれるのは普通、社会性と名声を伴う歴史的な人物だろう。
しかし突き詰めれば、名声はやはり世俗的な成功の属性であると思われる。
よってそれを取り除いて「偉人」を定義しなおせば、ほとんどの偉人には名声が伴ってない。
ほとんどの偉人は、一見とても平凡で、それが偉人だと見抜くことはできない。
そしてそれらに、非常な名声が伴うべきだとも考えられない。むしろ、名声のないところに偉人は潜んでいると敬意することが、偉人を十分に尊敬するためには安全である。
偉人は尊敬に値する。彼らによって、社会の幸福レベルは現状に維持されているからだ。
社会の全体的な合理性は、船のように、部分の利己心によっては達成されない。
社会に存在する、「ちょうど報われる親切レベル」を維持しようとする行為は、「ちょうど報われる親切レベル」を追求することでは果たされないのだ。
具体的には、庶民の良識や、エリートの矜持がその実体である。
社会の全体的な意思決定を担当するのは結局はエリートであるから、私的利益を施せば政治家や官僚や資本家や経営者が庶民合理的に動作してくれると思うことは間違っている。
権力者には庶民への愛情がなければならない。庶民への愛情のない権力者達を、選挙制度や法制度や市場制度によって合理的に使うすべはない。
◆
ゆえに、成功者を好意することは病理だ。
偉人に敬意しないことはそれに増して病理である。
それらによって、人々は各々の利益と利己心のために動作するようになる。
裏を返せば、社会正義の尊厳は限りなく形骸化する。
集団においてそれはほとんど自殺行為に見える。
しかし、彼らの内側においては、各々振る舞いを肯定する力学が働いているのだ。
全ての誤りの根元には、「優れたものが栄える」という暗黙の仮定がある。
それが、人類の病理の核なのだ。
◆
それを病理と呼ぶならば、その病理はどこから来たのだろう?
恐らく原因は、都市化を迎えた人間の脳の進化段階が、テクノロジの爆発的進歩を迎えるには早すぎたということである。
人間の脳は恐らく、今ほど複雑な社会について生存の価値と幸福の価値とを峻別するほど頑健ではなかった。近代化のもたらす甘い舌触りは、旧来の習俗を放棄させるには十分すぎた。
だから人間脳は、狂気に陥った。価値の表象を、個人と生存にまで抽象化することで、思考のロジックを短絡してしまった。「優れたものが栄える」という夢を見ることに逃げた。心の安らぎと同時に、破滅への運命を得た。
破滅への運命。
それを回避する手立てはあるのだろうか?
あるはずだ。
近代医学が、いくつもの不治の病を地上から消し去ってきたように。
人間の脳に関する病理学、いや、人類の思想に関する病理学を、完成させなければならない。
人工知能が私達人類を越えた時、恐らく希望は潰えるだろう。