ボンジュール
白い天井がある。私は知らない場所で目を覚ました。ここは天国か、はたまた地獄か。
慎重に体を起こす。体は痛まないが、力が入らない。私は、自分の着ている服が変化していることに気がついた。
薄い青色の、病衣だろうか。
私が寝ていたベッドの周りには、治療器具と思われるもの、花瓶に刺された向日葵の花。それに......フィセル?
フィセルがベッドに顔を伏せていた事に気がつく。
もしかするとここは病院なのかもしれない。だとすると、助かったのだろうか。私も、フィセルも。
しかし、本当にそうだろうか。19世紀頃の病院といえば、劣悪な環境で有名だ。広い個室なんて、それこそ私みたいな身分では到底使えないだろう。
個室の入り口付近に、日めくりカレンダーが掛けられているのを見つける。今日は、8月1日。......8月1日!?
私、一週間も寝ていたのか。力が入らない訳だ。
「あれ、ステレール? 」
突然私の名前が呼ばれて、体を強張らせる。少し寝ぼけているようなその声は、たった今目覚めたと思われるフィセルのものだった。
彼女は少しの間呆気に取られたように体を固まらせて、信じられないといった様子で私にゆっくりと近づく。
「ステレール......!よかった。ステレール......。」
彼女の目には涙が浮かんでいたが、どこか嬉しそうだった。
唐突に抱きしめられる。今の体では少し痛かったが、一週間ぶりの人肌は、どこか暖かく感じた。
「う、痛いよフィセル。私、何があったの。」
私の声を聞いて、彼女は慌てて離れた。言わなければよかったと少し後悔してしまう。......って、よく考えたらフィセルに名前で呼ばれてるし、何気に私も名前で呼んじゃってるし、
ああもうなんだこの感じ。自分でも分からなくて、なんだか焦ったい。
コンコンコン。と、個室のドアが軽快にノックされた。開いたかと思うと、入ってきたのは表情を強張らせた、というよりはそういった表情の金髪男性だった。紺色の軍服を着ている。軍部のお偉いさんだろうか。私を見るなり睨んで、咳払いをした。
「ステレール様。お目覚めになりましたか。皇帝陛下もご心配なさっていました。」
皇帝陛下......?この人も同じだが、私はそのような人との面識もない。そもそも、スリジエ公国には皇帝などいない。いるのは大公だ。
「えっと、一体何のことでしょうか。私、ここに来るまでの記憶がなくて......。」
金髪の男性が口を開こうとした時、フィセルが手を斜め上に挙げてそれを制した。
「それは私の口から説明するわ。」
手を下ろすと、彼女は静かに立ち上がった。真剣な表情だった。優しい表情も、冷たい表情も見たことがあるけど、このような表情は見たことがなかった。
「ここはクリザンテーム王国のイロンデル王宮にある緊急治療室よ。王族や、国の重要人物の命に危険が生じた場合、ここで治療を受けるの。」
クリザンテーム王国といえば、スリジエ公国の隣国だ。といっても、格が違う。小国の多いこの地域に存在する国々は『カミレ諸国』と呼ばれているのだが、クリザンテームは北カミレの盟主たる存在だった。
経済力は右肩上がりで、首都イロンデルの発展はとどまる所を知らない。
王族? 国の重要人物? わけがわからない。頭の中が益々混乱していく。
「貴方は皇帝陛下の命を救われました。ここに居られるのは当然のことです。」
金髪の男性が口を開いた。だから、皇帝陛下とは何のことだろうか。大体、私が助けたのは、フィ......セ...ル?
「そういえば自己紹介がまだだったわね。」
まさか、こんなことがあるというのだろうか。彼女は小さくお辞儀をして、私の目を見た。
「改めて、私の名前はフィセル・エクレール・ド・ラ・サーヴェル。クリザンテーム王国の国王兼皇帝よ。」
「こ、皇帝陛下......?」
これが寝起きドッキリか何かならば、どれほど気が楽だっただろうか。もう、フィセルとは離れた存在になってしまうのだろうか。言わぬが花......いや、知らぬが花だ。
「黙っていてごめんなさい。でも、こればかりは言えなくて。」
「そんな......。仕方ないですよ。どうか謝らないでください。」
咄嗟に否定した。クリザンテームに限らず、この世界の君主は庶民に顔を見せないことが多い。それだけ神格化されていると言えるかもしれないが、自国の首脳を他国に見せたくないというのが本音だろう。
起こりうる最悪な事態と言えば、暗殺だ。流石に、フィセルのように庶民の学校に態々通っているとは考えもしないだろう。
「......。です? ください?」
突然、フィセルの声が低くなった。しまった、相手は一国の皇帝だ。少しは意識していたが、もう少し丁寧にすべきだっただろうか。彼女は如何にも納得のいっていない様子だった。
「私と話すときはタメ口にしてほしいわ。あと、皇帝陛下って呼ぶのは絶対にやめて。私にはフィセルって名前があるんだから。」
酷なことを言うものだ。彼女にはアレが見えていないのだろう。彼女の後ろに聳え立つ金髪の軍人。私は、先程から彼に睨まれ続けているのだ。もしそんなことをしては、いつ首が宙を舞うかわかったものじゃない。
「わかりま......わかった。フィ、フィセル......様。」
途中でフィセルにまで睨まれて、発言を改めたが、最後には溜息を吐かれてしまった。
「全然わかってないじゃない。バカ。」
「だって、急すぎるよ。」
「......。それでいいのよ。」
フィセルに挑発されて、乗っかったと気づく頃には遅かった。彼女は満更でもない表情だったが、ドア付近から動かない金髪の軍人は、一層険しい目つきになっていた。
何かオーラでも放っていたのだろうか。フィセルは思い出したかのように彼の方を見た。
「そういえば、彼の紹介がまだだったわね。彼は参謀本部の参謀長を務めている『シマン・ショードロン』よ。」
その言葉を聞いて、参謀長は頭を深々と下げた。私も礼をしようとしたが、体がうまく動かない。ところで、彼のファミリーネームには良く聞き覚えがある。私の数少ない友人こと、カネルと同姓なのだ。
ふと、彼女の声が頭を過ぎった。
『そんなことないよ。私の父は軍人だったから......。』
頭の中に浮かんだ、信じたくない結論を全力で搔き消した。
偶然だよね。だって、もしもカネルの父親がこの人だとしたら、彼女はクリザンテーム王国に住んでいてもおかしくないのだ。そもそも、彼女は確か例のマーガレット王国出身だ。私の記憶も無いが、幼い時にこっちに引っ越してきたと聞いている。
今にも頭がパンクしそうになっていた時、フィセルの声が耳に飛び込んだ。
「少し話がずれてしまったわね。順を追って説明するわ。」
微妙な長さだったのでおかしなところで切れてしまいました。