chapter1 三猿
タクシーが止まった場所は、こじんまりとはしているけれど敷居が高そうな小料理屋。
「坊ちゃんが女性を連れて来ると聞いて驚きましたよ」
「その呼び方はもう止めて下さいよ」
カウンターとテーブル席が3席。
大将と呼ばれる男性ともう1人中に男性がいて
「親父達には内緒にしてね」
「坊ちゃん。それだけじゃあ隙だらけですよ?」
「そうですよ。今日は10時からお客様を受け入れるようにしておきましたから」
年はお母さんと同じぐらいに感じるけど小奇麗で上品な女性が1人。
年と言葉使いに気を使わなければいけない事以外にも、紹介がないと入れないお店と聞いて
背筋だけじゃなく手を置く場所まで気を使った。
「緊張しなくても大丈夫だよ。他に誰も来ないようにしてくれたらしいから」
「お食事は楽しく食べた方が美味しいですからね〜」
大将の目の前のカウンター席に案内された私に笑顔で話しかけてくれるけれど
逆に丁寧な返事の仕方が判らず。緊張感から解放される事はなかった。
「水だと口の中に残るから、まずはコレを飲むんだよ」
食前酒から始まり、相葉さんは料理1つ1つを食べ方まで丁寧に教えてくれる。
きっと美味しいのだろうけど、味なんて判らない。
そんな私を見かねてか。
「悪いけど、先に出してくれる?」
相葉さんが女将さんに何かを頼んだ。
そう言われて大将が出してくれたのはキレイに盛り付けられたお造り。
「美味しい!」
「やっと声が出ましたか?」
「すごく美味しい」
「食べた事がないみたいだな」
「ない!何かお刺身じゃないみたい」
「坊ちゃんにアナタの為に用意するように言われたんですよ」
相葉さんにお刺身が大好物っていつ言ったのか。
YUIちゃんには手紙で書いたけど相葉さんには言ってないはず。
「美味しい刺身を食べさせたい人がいると言われて、毎日市場に通って選び抜きましたから私も喜んで頂けて光栄ですよ」
「こう言っちゃ申し訳ないですが、娘がいたらこうやって喜んでくれたのかなって私も何か嬉しくなちゃッたわ」
女将さんの言達の言葉に、相葉さんも笑顔がこぼれ
「美味しそうに食べる子でしょ?」
場違いな私の存在でギクシャクした空間が、癒しの空間に変わっていった。
「もう少し切ってくれる?白いご飯でももらおうか?」
「石楠花の花の炊き込みご飯を用意してますけど?」
「じゃあ。両方彼女に」
他のお客さんが居ない事が、相葉さんの緊張も癒してくれたのか。
普通は料理が全部で終り、希望があればお食事といってご飯と汁物が出るらしいけど
順番違いな高級お刺身定食になってしまった料理を
美味しく頂く私を優しく見つめながら笑ってる。
「またいらっしゃる時は、お2人だけにしますからね」
「気を使わせてスイマセンね」
「いいえ!どうせ坊ちゃんの事だから」
女将さんは何でも相葉さんをお見通しなのかもしれない。
「細かく言われてきたんでしょ?」
ココに来るまでの間に
注意事項を聞かされてた事までも
その場にいたかのように話し出した。
「そういう男はフラレますよ?」
「僕もそう思います」
女将さんの口攻撃に遭いながら参った顔をする相葉さんが可愛い。
「女将さんには敵いませんね」
「坊ちゃんとは生まれた頃からのお付き合いですからね」
相葉さんが生まれる前からお父さんと深い交流があって
今でも多い時は週1回。
少なくても月に1回やって来るらしい。
うちのお父さんにそういう関係ってあるのかな・・・
きっと親戚以外にはナイと思う。
兄弟姉妹。
血縁関係でもなく会社の同僚でも友人でもないのに何十年という揺ぎ無い関係。
この店に入って私から初めて会話が出た。
「答えはお店の中にありますよ」
揺ぎ無い関係のですか?
「そうだね。さて何処だと思いますか?」
相葉さんは知ってる?
「いや?初めて聞いた。」
何かプレゼントされた物とか?
「いいえ?この店を開店させる時に、場所よりも早く準備したのよ」
場所よりも早く
「そう言えば、この話をしたのって坊ちゃんのお父様ぐらいだったね」
「オヤジだけ?」
「そう。正解したらお父様だけだったのが一気に3人になるのね」
花瓶でもない。
お皿でもない。
一体何だろう・・・
ソレは小さなお店の中を見渡す私の目に映った。
「見ざる・・・」
言わざる・聞かざる・・・
「正解!」
「え?あのサルが何?」
「このお店を作るきっかけになった置物なのよ」
人は誰でも誰かに聞いて欲しい事がある。
でも、話してしまったその誰かによっては自分が不幸になったり苦悩する事もある。
「嬉しい事は妬まれて」
人の幸せは妬まれ
人の不幸は喜ばれる。
少しの悩みは色を付けられ悲劇へと別の人へと伝わり
「どれが真実か判らなくなる」
色を付けられた悲劇の方がリアルで聞く者をひきつけ
本当のちっぽけで些細な真実は消滅してしまう。
「ちょっとした事さえも命取りになりかねないですからね」
私が不思議な顔をしたのかもしれない。
「判りやすく言うと例えば好きな人がいて。その人に誰かが嘘をついて彼が怒ってしまう」
女将さんの言葉に一瞬ビクッとした。
「どんなに真実を言ったって彼は嘘を信じて」
例えばには聞こえない。
知ってるかと思った。
「彼に深く傷を付けられるとしたら誰かに聞いてもらいたいでしょ?」
「でも、それを言う相手によってはより悲惨な方向へ向く」
「悲惨な方向?」
「良い方向へ行ったのなら、聞いた人達も良い方向へ行けば良いけど」
「良いけど?」
「もし、その人達は良い方向へ行かなかったら」
「行かなかったら?」
「妬まれる」
「妬まれる?」
「そう。だから私達3人はサルになるの」
どんなちっぽけな事でも親身にはなれないかもしれないし
力にはなれないけど聞いてあげる事はできる。
でも、喋った事で相手が不安になったり疑心暗鬼にならないように
「見ざる・言わざる・聞かざるって事ですか」
相葉さんが口を開いた。
「そうね。大変といえば大変だけど簡単と言えば簡単な事」
「だから僕は無意識のうちにココに来たのかな」
私にはまだよく意味が判らないけど、素に戻ってる顔の相葉さんは確信してる。
「嫁入り前の娘にこの言葉の意味を教え込む国もあってね」
日本にある何処かの神社にあるのは知っていたけれど
中国やエジプトにも同じ意味を持つ言葉や像がある事を初めて知った。
思った事を口に出す事だけが良い事じゃない。
見たままを話す事だけが正しい訳じゃない。
聞かない事が良い事もある。
そこまで聞かされても私には判らない。
聞いてみたい。
「それで幸せですか?」
相葉さんの顔が一瞬変わったのを感じたけど聞きたい。
「いいのよ。私は教えてくれる人がいなかったからね。もっと早く知ってればって思ってるからね」
止まる時間の中で女将さんは笑顔で答えた。
「今は幸せよ」
「三猿になってから?」
「そうよ」
「でも、不安とかそういう事を聞きたいって思いませんか?」
「聞かない方がイイって感じたりした時ってない?」
「でも、聞いて良かったって思う時しか」
「まだない?」
「ない?」
「きっとこれからいろいろな事があると思う。その時に思い出してくれればイイ」
「思い出す」
「そう。女の方でも男の方でもない。いつも最後に傷つくのは思いが強い方」
「思いが強い方」
「自分が本当に幸せになりたいって思うなら、話す相手はその人を知らない人にしなさい」
「知らない人」
「まあ、坊ちゃんなら永遠に変わらないと思うけどね」
「誉められてる気がしないんですけど?」
「誉めてなんかいませんから」
笑い合う4人が不思議。
何が面白いのか。
笑えるのか。
きっと私には一生関係がない判らない話。
サルになれなんて言われたってなりたくなんかない。
親友の夏美に話して結果は思うようには行かなかったけど良かったと思ってる。
見たもの全てを思ったままを正直に話して、不安な時は全て聞く。
これが揺ぎ無い愛情の確認であって関係であり
この人達は何か特別な不幸な事があって為らざる得なかっただけ。
きっと真実から逃げてるだけ。
そう思いながら席を立った私は
「お父様には一生言いませんから」
「また来てくださいね。優奈さん」
女将さんに名前を言われて驚いた。
「今度イイ魚が入ったら電話してください」
4人の視線が私に何か言葉を要求している。
気の聞いた言葉を言わなければいけないのだろうけど
「ご馳走様でした」と深々と頭を下げる事しか出来なかった。
「俺が名前言ったの聞いてたんじゃない?」
女将さんが私の名前を知ってた事を相葉さんはそう言った。
「仁美もだけど、水商売の女っていうのは人の名前は聞かなくても会話の何処かで確認してるもんだよ」
何時・何処で誰と来て何を喋って
何を食べたり好き好んだか。
今頃ノートに書き留めているらしい。
そういう努力で次回会った際にお客を喜ばしたり満足させられるという商売人の業を知った。
「美味しかった?」
「すごく美味しかったです。」
「お腹は満足?」
「すっごい幸せ」
「じゃあ、今からお仕置きだな」
「お仕置き?」
「幸せですか?って聞いてはイケナイ事だって判らなかった?」
何か企んだ笑顔の相葉さんがタクシーの運転手に道を指定していく。
繁華街は繁華街でもイカガワシイ店が立ち並ぶ通りでタクシーが止まった。
「どこに行くんですか?」
「教えません」
「じゃあ、行きません!」
「大丈夫だよ。単なる飲み屋だから」
その言葉よりその笑顔に騙されて着いて行ったビルの中。
単なる飲み屋だと言っていたのに。
相葉さん流とでも言うのだろうか。
女将さんの優しい言い方では判らない私にも判りやすいと思ったのか。
私が生きた17年間の中でその店は1番手厳しい場所だった。