醒めぬ夢もなく性欲はまたいつか
二日目前半
結局、いつも通りに僕は眠りに落ちて、そしてそのまま、当然のように朝になって、僕は目を覚ました。
メイン機能の一つをしばらく発揮していない目覚まし時計は、八時過ぎくらいを指している。
長期休暇中の起床としては早い方だが、眠い訳ではない。
何か軽く朝ご飯でも残っているだろうか、と目をこすりながら身体を起こす。
パソコンラックの横の押入に、自然と視線が向かった。
――昨夜、信じ難いことに、あの押入から突然女の子が現れた。彼女は自分を、僕が買ったオナホそのものだと言った。
何故か、人間の姿になれてしまったのだ、と。
誰も居ないはずだった押入の中から出てきて、彼女は言った。
そしてその後、アクシデントで彼女を押し倒してしまったり、見た目からは想像できない、彼女の意外な一面を見たりして……結局僕は、買ったばかりのオナホを使うこともなく、眠った。
それは確かに経験したことであるはずだし、明確に記憶が残っているのに、余りにも非現実的すぎて、一晩経った今では、それが夢としか思えない。
僕はたまらず、立ち上がって、押入の前に立った。中にまた彼女が居れば、それはもう、昨日のことが夢ではなかったということを示す明らかで確かな証拠となる。
しかし、中に入っているのが、オナホを仕舞った段ボール箱だけであるなら――――昨日のことは夢であった可能性が、僅かに浮上してくる。
押入の戸に指を引っかけて、僕は少しだけ心の準備を整えた。
開かないままなら、中にはどちらの可能性も残ったまま……なんてことを、言っている場合ではない。
鬼が出るか、蛇が出るか。
ぐっと指先に力を込めると、経年劣化でガタついた戸が、すっ、すすっと少しだけ開いた。
暗い押入に、光が差し込んでいく。向こう側から見るこの光は、どういう風に見えるのだろうかと、僕は少しだけそんなことを考えた。
――中に在ったのは、段ボール箱だけだった。 いや正確には、元からこの押入の住人であった、我が家の色んな物も入ってはいるが、しかし、どちらにせよ人が隠れる隙などありはしない。
「やっぱり、夢だったのかな……」
あんな夢を見たとしたら、僕も相当来るところまで来たという感じだ。青春の、いや思春期の末期症状、とでも表現しようか。
無事に普通の大人になることはできるのだろうか、と一抹の不安を覚えながら、僕は未使用のオナホが入っているはずの段ボールを持ち上げる。
「……開いてる?」
そして、段ボールの放つ違和感に気付いた。
僕は昨日、このオナホが届いてすぐ、開封もしないままで、この押入に放り込んだ筈だ。
使うべきときになったら開けようと思って入れて、そしてその使うべきの為の準備をしていたら、彼女が現れた。
それが記憶の中での昨日の『夢』の出来事だ。
昨日のことが夢だったとしても、或いは本当にあったことだとしても、段ボールが開いている理由は見つからない。
僕は頭に疑問符を浮かべたまま、その段ボールを一旦ベッドに置いて、そして恐る恐る蓋を開ける。
「こっちも開いてる!」
段ボールの中身が震動などで勝手に動かないようにする為の固定ラップが、剥がれていた。
そしてそれに固定されていた、オナホの外装は、ごく当たり前のように、そこに在る。
それは、僕の疑問符の数をより増やしてし
まう事実だ。
「アイツ、もしや泥棒だったのか? いや、でも……」
もし、もしもだが、昨日押入から現れた彼女が、一度は可能性として思い浮かべたように、泥棒であったとしたら。
何らかの未知なる手段によって押入に侵入した彼女は、ガラクタに紛れて後生大事そうに置かれた新品の段ボールに気付いて、金目の物を期待して開封した。
だから箱やラップが開いていた、ということではないだろう。
その中身も盗まれていないし、仮に盗む価値がないと判断されたのなら、ここまで丁寧に戻す必要もない。
では、何故。
何故、箱やラップが開けられていて、中身はほぼ変わらないままなのか。
その謎を解くカギを探すべく、僕は、固定ラップの穴から手を入れて、オナホの箱を取り出した。
「やっぱり開いてる……でも、中身はそのままだ」
持ち上げてすぐに、中身があることを感じさせるずっしりとした重み。箱の蓋に貼られたセロハンテープは、しかし切られていたというのに。
「オナホはある、な」
念のため、中身を確認。ここにも開封跡があって、そしてしっかりと、女の子などではなく、肌色の筒のような物体が一つ納められていた。
「夢か……夢、だったのか」
改めて、僕は当然であろう事実を口に出してみた。何故、こんなものが女の子になって僕の前に現れる夢など見てしまったのだろう。
オナホという物に、一年間も憧れ続けた反動だろうか。
誰かに聞いてもらいたくなるような不思議な体験ではあるが、誰にも話したくなくなるような内容だ。
こういうのは、早めに忘れる方が吉だろう。
ちょっとした特別な記憶は、日常の普遍性の維持の為には排除されるべき不適存在なのだ。
「まぁ、また夜、かな」
折角取り出したとはいえ、流石に寝起きの今にこのオナホを使用する気にはなれない。
それにもし十分な性欲があったとしても、こういうオナホは片づけが厄介らしい。だから、使ってすぐに処理をするためには、深夜こっそり、というのが一番だろう。
「……空しい」
そんなことを論理立て、順序立てて考えていくと、脳の活性化と同時に僕自身の存在というものについての再考の必要性も感じる。
自慰行為について真剣に考える……それは悪いことではないだろうが、しかし、今はその時ではない。
僕はオナホの箱を元通りに片づけて、押入を閉めた。春休みはまだ、半分が終わったところだった。