境界を越える
ある日、カリストは外国語の教科書やら参考書を抱えてイオに付きまとっていた。
「ねぇねぇ、ねえってば~♪」
「なんなのよっ!? 鬱陶しいっ!?」
「えとねぇ……外国語のお勉強、教えてほしいんだけど……?」
もう何度も聞かされた言葉だ。今までも事あるごと(つまりテストの点が悪かったとき)にカリストはイオに外国語を教えてくれとせがむのだが、カリストの集中力の無さといったら人知を遙かに超越しており、結局は中途半端に終わってしまうのである。
「教えてあげるのもやぶさかじゃないんだけど、あんたさ……いっつも途中で変なハナシし始めて、ウヤムヤになっちゃうじゃないっ!?」
もっとも、そのハナシに乗ってしまうイオにも問題はあった。実際問題、カリストに勉強なんかを教えるよりも、一緒にお喋りする方が楽しい。
「んう……そなんだけど、ちょと、今度は、ちゃあんと勉強したいんだよねぇ……」
「仕方ない、じゃあ真面目にやるなら教えてあげる……もしまた変なハナシ始めたら、もう二度と教えてあげないわよっ? 判った?」
「あ~、えと、わっちゅわなご~? あぃるめきんはぺん……かなっ?」
「まあ、発音に問題はあるけど、いちおう正解……じゃあここは?」
「えと、んう・・・えと・・・」
イオに示された問題を前にアタマを抱えて悩み始めるカリスト。いつもより随分と真剣に、一生懸命に取り組んでいるように見える。
「あんたさ、珍しく真剣よね? 何かあったの? 今さらテストで赤点取って猛勉強するとは思えないし」
「えへへ~♪ ちょとねぇ」
「何なのよ? 言いなさいよっ? 気持ち悪い」
「えとねぇ……」
問題集から顔を上げたカリストは、少しモジモジと話し始める。
「わたしねぇ、お医者さんになるって決めたんだよねぇ」
「は?」
思わず耳を疑うイオ。カリストが進路に迷っているのは判っていたが、なぜ医者なのか? 確かにカリストが前々から漠然と考えている「困っている人を助けるような仕事」ではあるが、カリストが医学に興味があったとは聞いたこともなかったし、特に適性があるような気もしない。強いて挙げれば小児科医やマニアックな臨床医とかだろうか?
「医者? あんたがねえ……何の医者?」
「えとねぇ、外科か内科のお医者さんになりたいんだよねぇ……看護士さんでもイイんだけど、やっぱしお医者さんのがカッコイイよね~♪」
「医者の大半が内科か外科だと思うけど……つまり普通のお医者さんになりたいわけ?」
イオはまったく興味はなかったが、学園の大学部には立派な大学病院や各種の医学部がある……かなり狭き門らしいが、医学部に進学できれば十中八九は医師免許を取れるだろう。今から一生懸命に勉強すれば何とかなるかもしれない。
「でも、なんで外国語なわけ? まあ、お医者になるんだったら外国語くらいペラペラ話せた方がイイような気はするけど……」
「だって外国でお仕事するんだから、じょうずく喋れないと大変だよねぇ?」
「は?? 外国??」
いよいよカリストの言っていることが判らない。何故に外国で医療活動をする必要があるのだろうか? いよいよ混乱するイオにカリストは優しく微笑みかけて、ハナシを続ける。
「外国にはずっと戦争とか続いてる国、たくさんあるんだって……干ばつとかで食べ物が無いとか、ちっちゃな子供が予防接種とか受けれなくって死んじゃったりとか……」
「そうね……ニュースとかでもよく見るけど……まさか?」
「先生に聞いたんだけど、そゆ国ってお医者さん少ないんだって。だから、他の国のお医者さんが、お薬とかお注射とか持って助けに行くんだって」
カリストは珍しく熱っぽい口調で懸命に語っているが、イオはアタマを振る。
「えっ!? いや……ちょっと待ちなさいよ! だからってあんたが行く必要は全然ないわよ? そういう活動をする医師って経験も豊富で技術があって、それに……その、度胸っていうか、その……死ぬかもしれないって覚悟して行くんじゃないの!? 実際にそういう事件や事故もニュースで見たわ」
息苦しい程に蒸し暑い密林の中、周囲を飛び交うマラリア蚊と銃弾を必死で避けながら、血と泥と汗にまみれて報われない医療活動に没頭する女医カリストの姿を想像して、思わず目眩を感じるイオ。どうしてカリストにそんなことをさせなくてはならないのか!
「あんた、死んじゃうかもしれないのよ?」
「そなんだよねぇ……わたしだって、死んじゃうのとかイヤだし、だから、わたしがお医者さんになる前に、戦争とかがなくなればイイんだけど……」
「そ、そうよ! この世から戦争がなくなれば、怪我人も減るし、たくさんの子供も助かるし、食べ物も安全に輸送できるし、現地の人だって平和な生活ができるようになるし、そうなれば疫病の対策も予防接種もできるようになるから大丈夫よ」
「……そしたら、わたし、お医者さんにならなくってもだいじょぶかなっ?」
なんだかカリストの論点がズレてきている気がしたが、言葉尻を持って構わず続けるイオ。
「そ、そう! だから、まず世界中から戦争を無くすことが大事なのよ! 戦争反対!」
「そだよねっ! 戦争が無くなるよに頑張ろ~♪」
それからカリストは我に返って真顔で訊く。
「えと、そいじゃ、わたしってば、もう外国語のお勉強しなくてもイイのかなっ?」