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(仮)やまと  作者: 田中 彰
戦禍
59/88

一葉落ちて、秋を知る

 城内は思いのほか平穏とした雰囲気が漂っていた。侍女や官吏の顔にも焦りの色は窺えない。


田冀(でんき)は将兵の統括をする為、ここまで追従していた兵も連れて兵舎に向かう。田丘(でんきゅう)も王城の警備を兼ねて、城門で留まることにした。



彼らは別れの際、異口同音で「お役目を無事に果たされますよう」と告げて、深々と首を垂れながら拱手を交わした。






 田英(でんえい)は一先ず、沐浴で戦の汚れを落とした。それから軽く食事をとって、ようやく後宮に足を踏み入れる。



女官たちは整然と列を組み、主である田英を慇懃に迎え入れた。その先には葵色の艶やかな衣を纏った女性が麗らかに微笑んでいる。彼の愛妻、玉鈴(ぎょくれい)だ。






「よくぞご無事で。お帰りを心よりお待ち申し上げておりました」



そう言って身を屈めた玉鈴を、田英はすぐに起こし上げてやる。すると、彼女の大きな瞳には涙が浮かび、色白の頬も血色を佩びていた。



仲睦まじい夫婦の再会に、侍女たちも声を上げて喜びを露にする。中には感極まって袖で涙を拭う者まで居たほどだ。





「お前の顔を見たかった」



田英は穏やかな低声で話しかけて、自分の顔を仰ぎ見る玉鈴の頬に優しく手を当てた。すると、彼女もそれに応えるようにたおやかな笑顔を綻ばせる。




「私も貴方に会いたかった」



玉鈴の耳障りの良い嬌声を聞いて、田英の胸中では幸福感と罪悪感が混在していた。そこには敗戦によって鬱々と塞ぎ込む、もう一人の田英が佇んでいた。



叔父の田鵬(でんほう)を始め、数多の将兵がヤマトとの戦いで死んでいった。大碓に至っては、その生死すらもはっきりとはしていない。


それにも関らず、自分はおめおめと逃げ落ちて、無駄飯を食らい、妻との会話を喜びとしている。妻子や愛する人にも会えず、戦場で亡くなった者たちはどう思うだろうか。



ここまで辿り着くまでの三日間、彼の苦悩が止むことはなく、自分自身の心を傷つけずにはいられなかった。


そのうちに、両鬢(りょうびん)は一気に白くなって、眉間の皺も深く刻まれている。富士の宮を発つ前とは、十年ほど年月を重ねたかのように老け込んでいたのだ。






 玉鈴は華奢な指で夫の髪をゆっくりと撫でてやる。彼女も田英のそんな性分を十分に理解している。表の顔とはまさに対照的だ。


何でもひとりで背負い込んでしまうような、生真面目で融通の利かない人間である。


誰にも心を打ち明けることができず、孤独を住処にして弱い心が傷つかないよう生きてきた。大碓という親友に時を経て出会うまでは。





玉鈴の頬を涙が伝う。両腕を田英の背に回して包み込むように抱き留めた。



「もういいの。貴方だけが苦しむことはないわ」



優しい口調で語りかけられて、胸の奥で凝り固まっていたものがゆっくりと解れていく。まるで、彼女の体温が氷塊を溶かすかのように。



田英の目にも自然と涙が一杯に浮かんだ。柔らかな肌触りと心安らぐ匂い。呼吸をするごとに、何かがすっと抜けていくような感覚に浸った。





「痛みや悲しみもふたりで分かち合いましょう。だって、私たちは夫婦なのですから」



それに「ああ」とだけ答えた田英も、気がつけば小さな身体を優しく包み込んでいた。感極まった侍女たちも、次々と膝を屈して「私たちもお支え致します」と唱和する。



皆の思いを嬉しく思って、顔を見合わせたふたりは同様に相好を崩した。





「一緒に御苑の方へ参りませんか?」



玉鈴はゆったりと微笑んで誘うと、田英も「俺もそうしたいと思っていた」と頬を緩ませて頷いてみせる。ふたりは身を寄せ合いながら歩んでいく。



それを侍女たちは両脇に身を屈して見送った。これまで堪えていた涙は大粒の滴となって、彼女たちの頬を伝う。


田英と玉鈴の姿が見えなくなるまで、誰一人として首を上げようとしなかった。



皆が知っていたのだ。御苑こそが歴代の王と徐福(じょふく)を祀る東瀛廟(とうえいびょう)へと唯一通じる入り口であるということを。



国が滅ぶとき、王は必ず廟を焼き払い、己が罪を始祖に詫びて自刃すべし。これは、大陸より渡来した始祖の定めた第一の法である。まさに、その時が訪れたのだ。







 石畳の回廊に沿って、灯火の温かな光が点々と輝いていた。湖面に映り込んだ世界にも、同じような光が灯っている。



田英と玉鈴は寄り添いながら、幻想的な趣のある御苑をゆっくりとした歩調で進む。一歩一歩を踏みしめるように、しっかりとした足取りで楼閣まで歩いた。





「ここで婚礼を挙げた日のことを覚えておいでですか?」



玉鈴は静かに足を止めて、伏せ目がちにそう訊ねた。



遠くを見つめるように目を細めて「もちろんだとも」と答えた田英は、少し気恥ずかしそうに頬を赤らめながら首筋を掻いた。



「君はまだ歳も若かったのに、俺なんかよりもずっと確りしていたな」



「そんなことはありません。本当は緊張のあまり、一度だって貴方の目を見ることもできなかったわ」



そう言って、ころころと笑う玉鈴に、田英も婚礼のときのことを思い起こして同様に笑った。それから少しして、彼女の両手を優しく握った。


向かい合わせとなったふたりは、暫くは何も語らず、お互いの目をずっと見つめ合う。





「こんな情けない俺を、お前は文句も言わず支え続けてくれた」



「私こそ、至らない妻で申し訳ありませんでした」



素直な言葉を交して、また静けさが戻る。北風がそよぎ、玉鈴の袖を靡かせる。灯火も揺らいで、ふたりの顔に陰が差した。





「君と出逢えて、俺は誰より幸せだった」



「私も貴方と出逢えて、誰より幸せでした」



それ以上の言葉は要らなかった。田英と玉鈴は手を携えたまま、瞳だけをじっと見つめ合った。手のひらから伝わる温かさを、少しも逃さないように触れる。



彼女の円らな瞳から溢れた涙が、滴となって田英の手にこぼれ落ちる。一つ、また一つと。肌に触れる度、愛おしく想う気持ちが熱くなって胸中を掻き毟った。






 田英は意を決して「ありがとう」と呟き、そっと玉鈴の手を離した。そして、毅然とした面持ちで彼女の脇をすり抜ける。



余韻のように視界の中で残った袖を、玉鈴は捉まえようと細い指を伸ばす。その指先を掠める衣の感触。そして、愛しい夫の残り香が頬を撫ぜた。



考える間もなく、玉鈴は田英の影を追って振り向く。ひと言を、別れを告げようとした瞬間、その胸に鈍い音をたてて飛刀が突き刺さった。



(かす)んでいく瞳に、振り返ってくれた愛しい人の顔が鮮明に映り込んだ。その腕に抱かれて、穏やかな陽だまりに包まれているかのような心地だ。彼女の花顔には、自然と笑みが浮かぶ。





「玉鈴!」



そして、愛しい声が名前を呼んでくれる。それがどれほど心を和ますことか。彼女は幸福に身を任せて、ゆっくりと目を閉じた。


愛する夫は、最期まで聞いていたかったその声を耳に届けてくれる。玉鈴は心の中で親愛を込めて、優しく語りかける。私の方こそ、ありがとう、と。







 間髪入れず、何本もの匕首や飛刀が田英を目掛けて襲いかかる。身を翻して袖で払いながら、玉鈴をそっと床に横たわらせた。


そして、腰に差した宝剣を抜いて、暗器が飛んできた方向に鋭い眼差しをくべる。



湖水を挟んだ回廊に、黒い影が幾つも(うごめ)いていた。どうやら敵の狙いは田英だったようで、楼閣の周囲を取り巻いているのだ。



少しでも早く手を離しさえしていれば、玉鈴を死なせるようなことはなかったかもしれない。なんて自分勝手で愚かな人間だ。


田英の胸中で激しい自責の念が渦巻いて、噛み締めた歯は唇をずたずたに切り裂いた。





「この場に居合わせたことが、女にとっては運の尽きよ」



矮小な影から、下劣な笑声が響く。その影は湖水に浮く岩の上で腰を掛けていた。


細い手足に、ずんぐりむっくりな身体。頭は鞠のように丸く、頭皮は禿げ上がってむき出しだ。目は隻眼で、片目はひん剥いたように円を描いている。




「斉王さまよ。申し訳ないが、その細首は儂が貰い受ける」



そう言って、けたけたと下劣な笑い声を響かせる小男に、田英は明確な殺意を抱いた。





「そうそう。騒ぎ立てる奴が居ては邪魔臭い故、先に始末しておいた」



小男が笑いながら告げると、周りの影が楼閣に向けて何かを投じた。すると、田英の足元で幾つもの物体が転がる。


それはなんと、後宮で見送ってくれた侍女たちの首だった。恐怖に(おのの)いた表情は、残酷に首を刎ねられたことをまざまざと訴えていた。



田英はそれを目の当たりにして、身体を打ち振るわせた。これほど悪辣なことがあるだろうか。侍女たちは何も抗う術も持たず、それに対して非道なまでの仕打ちである。





「貴様の名は?」



震える声で問いかけると、小男はすっと立ち上がって長剣を抜いた。



祖別(おおちわけ)と申す。常世に逝かれても、お忘れなされぬよう」



長剣は頭上に掲げられて、灯火の光を浴びれば狂気の閃きを放つ。


そして、それは一瞬のうちに振り下ろされた。黒い影が躍り出ると、楼閣に向かって無数の吹き矢や匕首を颯と投じた。



田英は袖を翻して避けつつ、腰に差していた木製の鞭も手に取った。四方八方から次々と迫る凶刃。


それに対して何を考えてか、桃の木で出来た鞭を勢いよく振り上げた。その瞬間、周囲に鈍い音が幾つも木霊する。



田英を仕留めたと思い込んだ祖別は、分かりきった結果に目を向けることなく、大笑を響かせながら小躍りをする。湖水に浮かぶ小さな岩の上で、器用に跳ね回っていた。





「何をそんなに嬉しがっている」



不意に、死んだはずの田英の低声が耳に届く。祖別が半信半疑で薄明かりの灯った楼閣に目を移せば、田英は一つも傷を負うことなく、毅然とした面持ちで屹立していた。





「なぜ死んでおらぬ!」



予期せぬ結果に、そう呟いて配下の尖兵たちの顔を窺った。手を下した当の彼らも、怪訝な顔つきで呆けていた。目の前で起こったことが受け入れられないかのように。



利き手には木製の鞭、左手には宝剣を携えて、藍色の袖と結わえた黒髪が風に靡く。


くっきりとした眉には力を湛え、大きい瞳の双眸は灯火を反射して鋭い閃きを放つ。そんな王の威風を眼前にして、取り巻く尖兵たちも、思わず固唾を飲んだ。






 僅かばかりの沈黙が続いて、祖別の「かかれ!」という咆哮によって、凍りついていた空気が一挙に動き始める。



幾つもの影が回廊の石畳を強かに蹴った。尖兵たちは長剣を抜いて、田英に斬りかかる。


造形美に溢れた石造りの噴水を足蹴にして、三人の尖兵が楼閣の中へと飛び込んだ。叩きつけるように長剣が閃き、田英はそれを両手に携えた宝剣と鞭で受ける。



尖兵たちも目の前の現実に驚けば、祖別も遠目ながら驚愕せざるを得ない。


宝剣はともかく、しなやかな木製の鞭は、鉄製の長剣と打ち合ったのにも関らず、寸断するどころか甲高い剣戟を響かせたのだ。



今度は田英がそれを颯と揮い、尖兵が長剣で受ければ、忽ちのうちに長剣の方がいとも簡単に断ち切られてしまった。


その尖兵は避ける暇もなく、脳天に鞭の痛烈な一撃を受ける。当然ながら、大した外傷を受けることもなく、ただ眩暈(めまい)がしてよろめくだけだ。



それを見ていた祖別は、長剣を両断したことには一様に驚きを示したが、剣の方が脆くなっていたのだろうと思いなおして一笑に附す。



だが間もなく、鞭を受けた尖兵は膝から崩れ落ちるように倒れ込んで、白目を剥いたまま絶命した。


鞭で殴られただけの兵がどうして死んでしまったのか、田英が常人離れした怪力の持ち主でない限り、誰にも説明はつかなかった。







 田英は残った二人にも鞭を揮い、収拾のつかなくなっていたところで胸や背中に一撃をくわえた。彼らも先ほど死んだ尖兵と同様に、激しい痛みだけは全身を駆け巡った。


けれど、やはり大した傷はない。気を取り直して、長剣を翳そうとした瞬間だった。二人ともが昏倒して、そのまま絶命するに至った。



欄干を蹴って楼閣から躍り出た田英に、再び無数の凶刃が襲いかかる。ひとたび鞭を揮えば、足元の湖水は激しく舞い上がり、飛刀や匕首は旋風に巻かれて力なく湖面に落ちる。



田英は袖を翻しながら、身軽にも岩を足場として飛び交う。向かいの回廊まで渡って着地したところ、困惑した尖兵たちも我を忘れて奮然と斬りかかった。幾つもの白刃が閃き、剣戟もけたたましく鳴り響く。



鞭が唸りを上げて肢体を捉えれば、尖兵は瞬く間に落命する。切れ味の鋭い宝剣も敵を薙ぎ払って鮮血を舞わせた。







 祖別や尖兵からすると、面妖な鞭の力を幾度も見せつけられているのだから、その不可解な威力を受け入れるより他にない。


暗器は全く通用せず、まともに対峙しても鉄製の長剣が圧し折られるだけ。現状の打開策が一向に見当たらなかった。



二十人ほど居た尖兵は、あっという間に半分以下になっている。祖別は先に玉鈴を殺してしまったことを酷く後悔していた。



あれほど仲睦まじく愛し合っていた夫婦であれば、人質として使うこともできただろう。妻の死によって絶望で打ちひしがれた田英を、なぶり殺しにしようとしたことが却って浅慮となってしまったようだ。



今になって、それを考えたところで致し方ない。斉王田英の首級は、この戦いにおいて一番の殊勲となる。


その功労を鑑みれば、大王より東国一帯を治める権限を授かったとしてもおかしくはないくらいなのだ。輝かしい未来が眼前に転がっているというのだから、それをみすみす逃す馬鹿もいないであろう。



祖別はそう思い至って、汗ばんだ手のひらで力強く長剣の柄を握り締めた。頬を緩ませて、くつくつと不気味に笑った。儂ならできる。儂が東国の王となるのだ。



身を屈めた祖別は、足場の岩を蹴って宙を舞う。小柄な肢体は鞠のように飛び跳ねて、あっという間に田英との距離を縮めた。



懐に忍ばせた五本の匕首を取って、何回かに分けて颯と放った。暗闇の中で狂気めいた白刃が滑空する。



その間も何人かの尖兵と剣を交えていただけに、彼の襲来は田英にとって虚を突かれたかたちとなった。主の行動に合わせて、周りで様子を窺っていた尖兵も飛び掛ってくる。


強烈な威力を誇る鞭といえども、これでは余りに多勢に無勢である。瞬く間に旗色が悪くなって、劣勢へと追い込まれていった。








 田英は敵との距離を置くように、後ろへ後ろへと下がらざるを得ない。祖別や尖兵の猛攻に、いよいよ追い込まれていった。



飛び交う匕首は頬を掠め、長剣の切っ先が幾度も首筋を襲う。衣服に血が滲んで、四肢の踏ん張りも疲労によって利かなくなっている。



袖を払って敵の視界を遮り、樹幹を足場に柳の木を必死に駆け上るが、隠密を得手とする尖兵にとっては訳ないことだ。


枝を掴んで身軽によじ登ってくる。足元から飛刀が迫り、眼前には歪んだ笑みが綻んでいた。



襲いかかる長剣の閃きをどうにか避けて、田英は石畳の上に飛び降りた。どんどんと追い込まれていく田英の背後には壁が、三方は黒い影が妖しく揺らめいている。もう後はない。



田英は暗澹たる思いで、覚悟を決めるときがきたことを悟った。戦に勝つことも適わず、玉鈴や侍女たちの仇さえ討てない。


更には、始祖の掲げた法も成し遂げることもできなさそうだ。そんな自分の身を恥じ入るばかりである。



誰にも負けない力が欲しい。田英の胸中では絶望に打ちひしがれながら、様々な思いが去来した。





「では、その首級を頂こう」



祖別が醜悪な笑みを浮かべて迫り来る。田英は息を潜めて、その一瞬だけを待ち望んでいた。この仇敵だけは刺し違えてでも殺してやる。怨恨の情火が胸で激しく燃え上がった。



ゆっくりとした歩調で、ひたひたと歩み寄ってくるのを、あともう少し。あとちょっと。あと一歩。今だ!



田英は左手に握った宝剣で、我武者羅に刺突を繰り出した。鞭で易々と死なせるよりも、激痛に悶えながら苦しめばいい。そう考えて宝剣を選択したのである。



だが、けたたましい金属音と共に火花が辺りを照らす。会心の一手も長剣によって弾かれてしまった。


祖別は田英の漲った殺気に、端から気付いていたようだ。宝剣は手から離れて、石畳の上で旋回しながら滑っていく。



それを呆然と見送っていた田英の脳裏では、とある言葉が激しく強烈に反響した。それはまるで、暗雲の中を稲妻が(ほとばし)ったかのようだった。






『俺に力を!』



右手に握った鞭から突風が吹き出す。そして、先の方から小刻みに震え出した。袖は舞い、髪も靡く。突然の異変に、祖別は隻眼をひん剥いて驚きを露にした。







 全てが、一瞬の出来事だったのかもしれない。振り下ろされた長剣は、鞭に触れると木っ端微塵に砕け散る。その破片はきらきらと宙を舞って宝石のように彩った。



自然と上がった右手は、手に握った鞭を祖別の禿げ上がった頭に叩きつけた。物々しい破裂音が周囲に響き渡り、祖別の脳漿と頭蓋骨は見る影もなく四散する。


頭部だけではない。鞭の勢いは止まることなく、鞠のような肢体まで鈍い音を伴って真っ二つに引き裂いたのだ。



祖別は悲鳴を上げることもなく、無惨な亡骸を晒していた。配下の尖兵たちは眼前で起こったことを飲み込めずに、ただただ唖然としたまま呆けている。それは鞭を揮った田英も同じ思いで見つめていた。



手に携えた鞭に目を遣ると、根元からぷつりと折れて灰のように白くなっている。





打神鞭(だしんべん)が……」



田英がそう呟いていたところ、急に宮廷の方が騒がしくなる。田冀と田丘が近衛兵を引き連れて御苑へと飛び込んできたのだ。






「王をお守りしろ!」



田冀の大喝を受けて、腕の立つ近衛兵が闖入者(ちんにゅうしゃ)を退けていく。血気盛んな田丘も刀剣を閃かせて、敵を次々と薙ぎ払う。


尖兵たちは首魁が討ち取られたことで、先ほどまでの協調性を失い散り散りとなって逃げ惑うばかりだ。



そうなってしまえば、もはや田兄弟と近衛兵の敵ではない。気がつけば殆どの者が斬り伏せられて亡骸と変わり果てた。





「後宮の侍女たちが惨殺されていると聞き、もしやと思い駆けつけて参りました」



田冀が身を屈して言ったことに、田英は何も答えることなく、拾い上げた宝剣を鞘に収めた。





「すでに、敵が後宮まで入り込んでいようとは。これは警備を怠った私に責がございます!」



田丘も膝を屈して首を垂れる。並んで叩頭するふたりに、田英は心此処にあらずといった様子で目もくれない。


ただ真っ暗な空を見上げて「侍女の遺体を楼閣に運んでやれ」と、消え入りそうな声で指示を出した。







 田冀と田丘は首を傾げながらも、近衛兵を遣って命令通りに侍女の首のない遺体を楼閣に並べてやった。


そこには彼女たちの頭部と、見目麗しい佳人の遺体も横たわっている。着飾った衣装から鑑みるに、ただの侍女ではないようだ。



ふたりは守衛の任を勤めていることが多く、生前の玉鈴との面識はないに等しいくらいだった。


それ故に、飛刀の突き立てられた遺体が誰のものなのか、どれだけ考えてみても分かるはずがなかったのである。





「こちらの女性は?」



田冀が声をひそめて田英に訊ねれば、



「玉鈴という」と、澄み切った声で答えが返ってくる。



それに対して、田冀と田丘は愕然とした。斉国の将軍が王妃の名前を知らないはずもない。このように変わり果てた姿で、相まみえることになろうとは。



田英は膝を屈して、蒼白となった妻の顔をじっと見つめていた。そっと頬を撫ぜ、髪を優しく擦ってやる。田兄弟は膝を屈して哀悼の意を述べる。





「楼閣に油を巻いておけ。玉鈴も侍女と一緒であれば、寂しいこともなかろう」



田兄弟はそれに答えることなく、近衛兵に目配せで指示を出した。



「俺もすぐに逝く。それまでの間、皆で待っていてくれ」



澄み渡るような低声で囁き、ゆっくりと唇を重ねた。凍りついたかのように、冷たい感覚が伝わってくる。


田英の穏やかな眼差しから、一縷の涙が溢れた。それは煌きながら玉鈴の頬に落ちて、穢れのない柔肌を濡らした。





「お役目までの道中、我々もお供致したく存じます」



敵の急襲があっては一大事と、田兄弟が主の身を危ぶんでそう申し出れば、それに追従して、尖兵を退けた二十名近くの近衛兵も同行を願い出た。



田英は少し思い悩んだものの、打神鞭を失ったこともあって心許なく思い、渋々ながら彼らの申し出を承諾することにした。







 田英の指示で、楼閣に火が放たれた。すぐに燃え上がった炎は湖面を明るく照らしている。灰は宙を舞って、北風と戯れる。まるで、女性のか細い指がたおやかに手招きをしているかのようにも思えた。



煌々とした灯火を前に、田英はどうしても、玉鈴の麗しい笑顔を思い浮かべずにはいられなかった。


これまで当たり前のようにあったものが、音もなく崩れ去っていく。彼の心のうちには、途方もない虚無感しか残されていなかった。









 その頃、大極宮では今後の方針について、主だった重臣たちが喧々諤々の論戦を繰り広げていた。一方は城門を閉ざして徹底抗戦を望み、もう一方は無血開城を主張した。



議論の中心は、徐福の血を受け継ぐ宗家、丞相に次ぐ官職にあった太師(たいし)徐達(じょたつ)である。年齢は五十歳ほど。


貫禄に満ちた佇まいで恰幅の良い人柄であり、誰もが人の良さは認めるところであった。



しかしながら、才覚はそれに似つかわしくない程に凡庸であって、この難局においても狼狽するばかりで何一つ決められずにいたのである。





「ここに進軍している軍勢は五千ほど。堅牢な城壁をもってすれば、討ち払えない数ではなかろう!」



徹底抗戦派の重臣が激昂しながら声を荒げれば、



「始めのうちは勝てたとしても、次々に押し寄せてくるのであれば結果は見えている。無用な戦いをしてむざむざ殺されることもあるまい」と、全面降伏派の官吏は口を揃えて抗弁する。



すると、血気盛んな武官たちが「己の保身を図ってか!」などの罵声を浴びせたりと、大極宮の中は騒然として、収拾のつかない状況となっていた。



議論が出尽くしたところで、これといった結論まで辿り着くこともない。無駄に時間が過ぎていくだけで、ヤマトの軍勢は目と鼻の先にまで迫っていた。



決定権を持つ徐達はといえば、右往左往するばかりで「そうかもしれぬ」やら「そういう考えもあるな」と思考までぐらついていた。


彼のそんな曖昧な態度は、皆を一様に苛立たせていく一方だ。







 論戦もいよいよ行き詰っていたところ、突如として大極宮で大仰な笑声が響き渡った。


声のする方へ皆が振り向けば、大碓(おおうす)に抱えられた徐光(じょこう)の姿がそこにあった。門の外には水鶏(くいな)(なお)の姿もみえる。



顔面はいつにも増して蒼白で、薄い唇やすっと伸びた目には死相が漂っている。太腿と腹部には布がきつく巻きつけられていて、血の色がじわりと滲んでいた。






「なんと愚かしいことか!」



徐光は笑い声を交えながら、懸命に張り上げた声で叫んだ。これまで一度も声を荒げたことのなかった優男がである。


彼の身体を案じて、駆け寄ろうとした重臣も驚きの余りに足を止めた。




「亡国の臣となった諸兄らは、これからの未来を見据えるべきでしょう」



徐光は大碓の支えを遠慮して、そう言いながら残された力でふらふらと歩き出す。


すれ違いざまに鋭い眼差しを重臣たちに送って、上座で眉をひそめていた徐達の前まで進み出た。それからゆっくりと膝を屈して、何度も叩頭する。





「徐太師、父や兄弟を戦で失った民に、これ以上の苦難を与えてはなりません。何卒、慈悲深いご英断を!」



命を賭しての進言にも、抗戦派は「若造風情が何を言うか!」と声を荒げたが、親族の徐達は考え込むように顎鬚を扱いていた。



「貴方さまが斉王や田鵬さまに代わり、斉の民の未来をお守り下さいませ!」



「ううむ……」



大極宮が静寂に包まれる中、それでも徐達は結論を出さずにいる。端で成り行きを見守っているつもりでいた大碓も、遂には業を煮やしてずかずかと進み出た。


そして、徐光の横で同様に身を屈めると、敢然たる視線を徐達にぶつける。







「一枚の葉が散るのを目にすれば、人は秋の訪れを知ることでしょう。今となっては葉も枯れ果て、樹木には枝が残るだけとなりました」



「それは、冬の季節が訪れたということであろう」



大碓が言うことに、徐達は眉をひそめて答えた。切羽詰った状況であるにも関らず、大碓はどういう訳か季節の話題を切り出したのだ。重臣や官吏たちも奮然と怒号を響かせた。



ただ、息も絶え絶えとなった徐光だけは、大碓の隠された真意を推し量ることができたようだ。すぐに「静まり下され!」と死力を振り絞って沈静させる。





「この国をそうするおつもりですか?」



大碓は声を低めて訊ねた。重臣たちの中には真意に気付き始めた者もいたが、凡庸な徐達は未だに理解できずにいる。



今度は徐光が血を含んだ咳払いをした後、真摯な面持ちで問い掛ける。






「斉を支えてきた丞相や安日比古という大きな葉は、すでに散ってしまったということです。大勢は決しました。この期に及んで、全ての葉を散らす必要がございましょうか?」



大極殿は静寂に包まれた。誰も声を発さず、揃えたように視線を伏せた。戦うことを選んで意地をみせたところで、そこに何の意味があるのだろうか。



それを理解した抗戦派の者たちも、天井を仰ぎ見て長嘆した。それ以上の論説は無用の長物だということをようやく悟ったのだ。






「なるほど。二人の言いたい事はよく分かった」



徐達も大きく頷いて、一度は賛同したかのように思えたが、すぐに顔を曇らせて溜息をついた。それから暗澹とした面持ちを浮かべて、



「降伏してしまえば、斉の民はヤマトの奴婢として辛酸を舐める羽目となろう」と、何とも悲しそうに呟く。



彼は卓抜した才腕は持ち合わせていないものの、恩情と仁徳の心は斉国において比類なきものだった。重臣たちが凡庸な徐達を尊重する所以(ゆえん)となっていた。






「徐太師の代理として、私が交渉を務めて参りましょう」



徐光が拱手して申し出ると、重臣たちは口々に議論を始めた。怪我人に国の命運を託して良いものか。


だが、徐光の才覚は誰もが認めるところである。最終的には権限者の判断に委ねることにした。



徐達も少し思い悩んで、顔面蒼白の徐光をじっと見据えた。





「一任しても良いか?」



「ご下命とあらば、一命を賭して励みます」



言葉そのままに、徐光の余命は幾ばくもない。彼自身がそのことを誰よりも分かっていた。だからこそ、生きた証をどういう容でも残しておきたかったのかもしれない。その衝動だけが彼を突き動かしていた。





「では、お主に任せよう」



徐達がそう言うと、大碓と徐光は改めて拱手を交わした。重臣たちも膝を屈して決定事項に恭順する姿勢を示した。斉の民の命運は、徐光の双肩に圧し掛かったかたちとなったのである。








 大碓はそれからすぐに志那戸辺(しなとべ)を探したが、どこにも彼女の姿はなかった。重臣の一人から牙城に残ったことを知らされて、愕然とせざるを得なかった。



その徐光はといえば、これも定められた運命なのだと受け入れたように微笑んだ。


蒼白の顔に笑みを湛えて「大碓殿は大碓殿の思いを遂げて下さい」と、そう言って、大碓の背中を押す。





「斉王は福慈(ふじ)山の中腹にある霊廟へと向かっておられるはず」



「霊廟?」



大碓は怪訝な面持ちで首を傾げる。





「国が滅ぶとき、廟を焼き払って、己が罪を始祖に詫びて自刃すべし」



「どういう……」



それは詩歌のような美しい調べだった。大碓はそればかりが気になって、文言の意味をすぐには読み解くことができずにいた。


だが、次第に頭の中で理解が進むにつれて、驚愕する余り焦燥感に駆られていく。






「国が滅ぶとき、そのときの王は霊廟を焼き払って死ななければならないのか?」



「立国のときより、そう決まっております」



整然と告げた徐光に、大碓は疑いの目をぶつけた。どうして田英が死ななくてはならないのか、一向に理解できなかったからだ。


常識的に鑑みれば、亡国の王が生き長らえた戦いなど皆無に等しい。



学問に精通している大碓も、それは重々知っていたことではあったが、友のことともなれば常識など度外視せずにはいられなかったのだ。






「それで良いのか?」



「しきたり故、致し方ござらぬ」



ふっと息を吐き出した徐光に、大碓は真摯な眼差しを向ける。





「貴方にも田英に伝えたいことがあるはずだ」



「大碓殿から伝えておいて下され。私の心には、いつも友人たる王の姿があった、と」



徐光は蒼白な顔でそう言って、ゆっくりと踵を返す。その華奢な双肩には、富士の宮に住まう万民の命が託されていた。


己の使命を全うしなくてはならない立場にある。私事よりも(おおやけ)に生きる。それこそ彼が最期に見せる官吏としての生き様なのだ。





「徐光殿!」



大碓は居た堪れなくなって、不意に彼の名前を呼んだ。振り返った徐光は、柔らかな目で微笑みながら、



「今度は私の療養を兼ねて、共に温泉へと参りましょうか」と悠々とした口調で語りかける。



「それはいい。田英も誘って絶対に行こう!」



大碓も無理して作った笑みでそれに答えた。叶うことのない願望に、残酷な現実は胸を締め付けて激痛を走らせる。






「それは楽しい一日となることでしょうな」



徐光は毅然な面持ちで言って、しっかりとした足取りで大極宮を後にした。重臣たちもそれに続いて去っていく。


あと僅かばかりすれば、ヤマトの軍勢が雲霞(うんか)の如く押し寄せてくるであろう。彼らはそれと一世一代の大勝負に挑もうとしていた。







 彼らが大極宮から出たのを見計らってから、大碓は門外に控えていた水鶏と直を手招きした。二人は何かあったのかと心配になって、すぐに駆け寄ってくる。



大まかな事情を聞いた直は、暫く口を閉ざした。その様子に、水鶏も心配そうな面持ちで彼女の横顔を一瞥する。



ややあって、直は唐突に強い眼差しを大碓に向ける。何を言い出してもおかしくない状況にあって、彼女の裏表のない気性は怖ろしくも思えた。





「彼を追うんでしょう?」



大碓の胸中ではこれからどうするかなど、すでに決まりきったことだった。黙ったまま首を頷かせてみせる。



「やっぱりね」とそう言って、直は屈託のない笑みを覗かせた。



「ウチも玉鈴さまのことが心配だったの」



「確かに、それもそうだ」



大碓は玉鈴のことまで気を回せなかったのだが、さすがに同性というだけあって、直は夫に実直な玉鈴の身を案じたのだ。





「すぐ後宮に向かおう」



「そうね」



大碓と直は連れ添って後宮に向かう。意見を聞かれなかった水鶏も、その後に膨れ面で続く。








 後宮に踏み入れた三人は、凄惨たる光景に固唾を飲み込んだ。廊下や壁はおびただしい鮮血で朱に染まっていたのだ。その場に遺体は一つもない。


ただ、飛び散った血痕を目で追うだけで、幾多もの人間がこの場で殺されたことが窺い知れた。



水鶏はしゃがみ込んで指でなぞる。そして、指先についた赤い液体を嗅いだ。鉄の錆びたような臭い。それは間違いなく人間の血であった。





「死体がないとは、一体どういうことだ」



眉をしかめて首を傾げる水鶏に、大碓と直は一抹の不安を覚えた。



「とにかく、生き残っている者がいないか探してみよう」



直がそう言って、三人は手分けしながら後宮の中を探した。けれど、誰一人として見つけることができなかった。



「侍女や女官が一人もいないなんて。やっぱり何かあったんだわ」



「ここまで敵の手が及んだのか。それとも、自分たちで命を絶ったのか。どちらにしても、死体がないのは不可解すぎる」



頭を悩ます大碓と直の許に、大慌てで水鶏が駆け込んできた。





「庭園のようなところで、火事が起こっているぞ!」



「火事?」



二人は異口同音で驚きの声を上げた。


一同は急いで御苑まで向かえば、水鶏の言った通り、湖水の中央にあった建造物から激しい炎が立ち上っていた。すでに、その大半は焼け落ちて、豪華絢爛だった楼閣は見る影もない。



石畳の回廊も彼方此方で崩れ落ちて、周囲には幾つもの亡骸が無造作に転がっていた。匕首や飛刀、長剣など、ここで激闘が繰り広げられていたことを物語る。






「どうやら斥候の襲撃があったようだな。おそらく、徐光の部隊を襲った奴らと同じだ」



大碓は足元に落ちていた飛刀を拾って、街道の亡骸に刺さっていたものと一緒であることを確認した。



「殺した部隊が偽者だと分かったのか。これじゃ、死んだ奴らも報われないな」



水鶏が溜息をついてそう言うと、大碓は首を振って飛刀を湖水に放り投げた。



「いや、敵の目を欺けただけでも十分だ。そのお陰で田英は王城に戻ることができたはずだからな」



「それはそうね。無駄な死に方なんて一つもないわ」



直も鬱々とした面持ちで、大碓の意見に同意した。








 御苑をぐるりと回ってみたが、尖兵の亡骸があるだけで、侍女や田英のものは見当たらなかった。三人は少し安堵して一様に溜息を漏らした。



「それにしても、田英はどこに行ったんだ?」



大碓の質問に答えられる者はいなかった。全くもって、解決の糸口すら掴めていないのだ。



「煙にでもなって消えたか」



水鶏の軽口に、大碓と直は驚嘆して顔を見合わせた。二人の脳裏で物悲しい光景が過ぎった。連れ添った夫婦は楼閣で心中を図り、火を放って身を焼いたのではないか。



そう思い至った大碓は、すぐに炎上する楼閣まで駆け寄った。だが、燃え上がる炎の灼熱によって、側まで行くことも適わない。



どうしたものか、と考え込んでいれば、直が大碓の腰に差してあった火之迦具土(ひのかぐつち)に手をかける。


そして、すらっと引き抜くと、燃え盛った炎に向けて力の限り叩きつけた。



瞬く間のことだった。楼閣の残骸は炎に巻かれて二つに割れたのだ。そのまま崩れ落ちて、湖水の中へとゆっくり水没していく。


白い煙が立ち上り、今まで目の前にあったはずの炎はたちどころに消えている。






「さすが、というしかないな」



思いも寄らぬことに、大碓は苦笑して直の勇壮な横顔を窺った。火之迦具土を知らない水鶏に至っては、驚きの余りに腰を抜かして尻餅をついた。


充血したギョロ目を丸くして、今目の前で起こったことを受け入れることができない面持ちだ。



「こんな身なりでも、昔は盗賊を生業としていたからね」



悪戯っ子のように屈託なく笑った直に、大碓も吹き出して「知ってるよ」と笑みを浮かべた。


動きやすい男の衣服に身を包んでいるものの、女性らしい化粧や髪飾りは手放さなくなっていた。



涼やかな目元は上品で、牡丹の花のように良く映える唇も艶やかだ。出会った頃の薄汚さなど、今となってはどこにも見受けられない。




大碓はあのときの事を咄嗟に思い出して、思わず笑みを零した。それを目にして「なによ」と言った直は、不機嫌そうに眉をしかめる。


その膨れた顔が何ともいじらしい。人によっては敬遠されてしまうかもしれない性格も、大碓にとっては他に代えの利かないものだった。



「なんでもない」と答えた大碓に、直は食い下がって「何でもなくない!」と問い掛ける。



それに答えることなく、大碓は彼女の手にあった火之迦具土を取って、石灰の鞘に収めた。


そして、視線を楼閣のあった辺りに向けてみれば、幾つもの遺骨の先に地下へと潜り込んだ階段が目に留まった。






「ナオ、あれを見ろ」



大碓は声を張り上げて、眉をしかめたままの直の手を引く。その声に、水鶏も立ち上がって側に寄った。



「どうやら、下の方に回廊が続いているらしいな」



水鶏が興味深そうに覗き込めば、先ほどまでの火災で熱せられた敷石に触れてしまい「熱っ!」と奇声を発して飛び跳ねる。



「霊廟までの道かもしれないな。ここを進めば田英と玉鈴に会えるはずだ」



大碓は嬉しそうに言うと、直も満面の笑みで頷いた。興奮する二人は、周りで跳ね回っている水鶏に目もくれない。







 三人は意を決して地下通路に足を踏み入れた。真っ暗闇に延々と続いている坑内では、小さな物音も奥まで反響していく。


大碓は手に火之迦具土を翳して灯火の代わりとした。水鶏も篝火から松明を取り出して後に続く。



水滴の落ちる音さえ響き、何とも不気味で居心地が悪い。外気ほどの肌寒さは感じなくなっていた。



身体に纏わりつくような湿気。それに、かび臭さが鼻をつく。(ねずみ)は石壁の隅で走り回り、百足(むかで)や蜘蛛が至るところで蠢いた。



直は心許なく思って、大碓の腕にしっかりとしがみ付く。水鶏は得物の刀剣を抜いて背後を気にしながら先へと進む。


まさに、常世へと繋がっていると伝わる、黄泉比良坂(よもつひらさか)を下っていくかのような心境である。









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