ろくでもない御子
東方の尾根より颯爽と吹き抜ける風が、ほのかに色づいた山桜をうちなびかせた。ひらひらと舞って散りゆく花弁は、うら若い女性の頬を思わせる。
その甘美な匂いにくすぐられながら、空の中に柔らかそうな浮雲を見つけては、幾つあるのかと少しばかり数えてみる。
それに飽きたかと思えば、穏やかな木漏れ日に心を埋めて、宙をたゆたう黒髪をぼんやりと眺める。
長閑な時間だけが、刻々と流れていく。
少し丈の伸びた若草をよじ登ろうとする天道虫を目で追いつつ、このまま時が止まってしまえばいいのに、と。女性の膝を枕にしている青年は、ぽつりと呟いた。
世の中で何が起こっていようとも、どこ吹く風といったような様子で、まるで童のような微笑を綻ばせている。
柔和で白みがかった肌の色は、高貴な媛君のそれと比べても遜色ない。そこに筆先でひいたような眉と、くっきりとした目鼻立ちが整然と並ぶ。
その瞳は琥珀に似通った光彩を宿し、紅を差したような赤い口唇。陽光に照らされた栗毛色の髪。それらの若々しい煌きは、見事に十代半ばという生命力を彩っていた。
それにふまえて、未だに幼さの残った顔立ちをしているせいか、どこか女性らしさを匂わせる。
端から眺めていれば、うら若き二人の女性が山桜の木陰で、何とも楽しそうに戯れている。そのように見間違ったとしても致し方ないほどである。
その恵まれた容姿とは裏腹に、彼の身嗜みは余りにも雑然としていて、とても褒められたようなものではない。
乱雑に着こなした臙脂色の古びた衣服。長い髪の毛は擦り切れたような縄紐で束ねただけ。腰元の帯だって、すでに染め色のほとんどが剥がれ落ちている。
ただ、長年の垢や埃にまみれようとも、首から下げた瑠璃色の頸珠だけは、未だにその輝きを保ったままだった。
彼が身につけているものは、今となっては見る影もなく随分とうす汚れてしまっているが、誰もがたやすく手にできるような代物でない。
紅花で幾度も丁寧に染めることで、ようやく鮮やかな臙脂色を為す。そのように上等の衣服を纏える者など、一握りの限られた有力豪族や、王に連なる一族のみといったところだろう。
下地がむき出しになっている帯も、隅々まで注意深く見てみると、微かながら黄金色の装飾が施されていたことが分かる。
そして、目にも鮮やかな群青色の頸珠は言うに及ばず、大陸より持ち込まれた貴重な宝玉であり、市場に出回るような一品ではない。
青年の素性を知るに、これほど身分を顕しているものは他になかった。
青年に膝枕をして、和やかに微笑んでいる女性も、身につけた美しい装飾を窺うに、それなりの身分であることが知れた。
艶やかな黒髪に映える金色の櫛、色彩鮮やかな藍色の衣。わずかに着崩れた身なりを細い指で整えつつ、青年とふと目が合わされば、何とも愛らしい微笑を覗かせた。
抜けるように白い肌、目元や口唇に施された妖艶な紅色。それだけでも、日頃から農作業や炊事などの雑務に携わっているようには思えない。
そのように見目麗しい彼女の華奢な指先が、そっと青年の頬を優しく撫ぜて、春先の木漏れ日に一層の色香を匂わせる。
「本当に、いつまでもこうしていられたら良いのに……」
うら若い女性は微笑に少しばかりの憂いを忍ばせて、透き通るような嬌声でそう呟く。
青年は何も答えることなくただ苦笑を綻ばせて、彼女の憂鬱そうな瞳をじっと捉えている。それができないことを、二人は十分に理解していた。
女性は青年と会いたいが為に、人の目を盗んでまで宮中から抜け出してきたからである。そういう理由もあって、彼らの逢瀬にはそれほど多く時間は許されていなかった。
この僅かなときをどれだけ大切に思おうとも、時間は平等に容赦なく過ぎていく。ましてや惜しいと思うときほど、早々に経ってしまうことも痛いくらいに分かっている。
「心配性のご尊父のことだ。あまり遅くなってしまっては、宮中が蜂の巣を突いたような騒ぎになりかねない」
青年が苦笑を浮かべたまま、囁くようにそう促した。
すると、彼女は俯きがちになって「そんなこと……」と、悲しげな声を搾り出す。
花弁を散らせるような春風が、それから黙り込んだ二人の間を駆け抜けていき、木々の葉も不安を煽るようにざわめく。
さらさらと靡く草木の物音は、引き離されてしまうことになる彼らに、なお一層の物寂しさを募らせた。
ややあって、麗らかな女性は青年の顔を包み込むように両手で掴んで、睫毛が触れ合いそうな距離にまで顔を近づける。そうしてお互いの瞳に映った無垢な輝きを、飽きることなく見つめ続けた。
「もし、ここから連れ去ってと頼んだのなら、貴方は私の願いを聞き届けてくれる?」
全くもって思いがけない問いかけに、青年は一瞬だけ怯んだように表情を曇らせた。
しかしながら、それもすぐに平生を取り戻して優しく微笑み、こくりと首を頷かせてみせる。
「馬鹿だな。お前が望むなら、俺はそれを叶えるだけさ」
青年はさも当然のようにそう言うと、穏やかな表情で彼女の瞳をじっと見つめ返した。その言葉に偽りなど微塵もないような眼差しで、まっすぐ見据えて微動だにしない。
東風がまた二人の間を縫うように吹き抜けていき、山桜の花弁を美しく、また可憐に舞わせていく。
それから程なくして、彼女はふと、柔らかな微笑を綻ばせた。何かを悟ったかのような迷いの晴れた瞳に、じわりと涙を滲ませている。
「宮中に戻ってくれないの?」
彼女はそう訊いてしまいそうになる。それを堪える為に、希薄な群青に薄紅の溶け合う大空を仰ぎ見ずにはいられなかった。
廷臣の娘である自分を京から連れ去ることより、そうする方が遥かに容易い選択だといえた。それが適うのであれば、全てが驚くほどにあっさりと、丸く収められるというのに。
青年の願望は何だって叶えられる。仮に、この女性を妻にと望むのであれば、それを拒む者がいるものか。
厳格な父も喜んで送り出してくれるはずで、彼女自身もきっと幸福を手にすることができるだろう。
けれど、彼が間違っても「戻る」という決断をしないことも、彼女はすでに分かり切っていた。鳥篭のような狭苦しい宮中で、息苦しそうにもがく彼の姿をずっと目の当たりにしてきたのだから。
自由気侭に羽ばたく飛鳥。
彼女の目に今の青年は、まさにそのように映っていた。何にも縛られずにどこまでも果てしなく飛んでいける。そんな両翼を宮中から飛び出したことで得たからである。
それ故に、これまでよりも遥かに幸せそうに笑う青年に向かって、身勝手にも宮中に戻ってきて欲しいだなんて、口が裂けても言えるはずもなかった。
そうやって悶々と葛藤することしかできず、かといって、彼と同じように宮中から飛び出すことで、雑多な市街で暮らす覚悟も持ち得ない。
そんな自分が余りに情けなくて、腹立たしくて口惜しい。その悔しさは大きな瞳からこぼれ落ちる涙となり、彼女の赤く染まった柔肌をつたっていくばかり。
「本当に奇麗ね……」
山桜から散る花弁を、二人はしばらく眺めていた。
不意に、女性が嘆息を交えてそう呟き、膝もとの青年に気づかれないよう、そっと袖で涙をぬぐった。
「来年も一緒に見られるかな?」
青年は視線を宙から移すことなく、何ともあっけらかんとした口調で未来のことを訊いた。すると、女性も努めて明るい口調で、
「きっと、見られるわ」と、艶やかな嬌声を震わせながら答える。
つい先日、彼女のもとに縁談が舞い込んできた。年頃の娘となれば、政略に用いられることは何も珍しくなどない。
そのうちに親同士で話が纏められるだろう。彼女の嫁ぐ先は、その意思に関わることなく、間もなく決まってしまう。自由と自分らしさを失うことと引き換えに、青年が彼女を求めない限りは。
女性は一つだけ大きく息を吐き出したあと、見上げていた視線を青年の方へと落とす。そして、もとの和やかな微笑を綻ばせて、彼の凛々しい顔を優しく撫ぜていく。
華奢な指で額にかかった前髪を梳いてから、その指先は雄々しい眉をつたって、鳶色の瞳を包み込む瞼と睫毛に触れる。
それから乳白色の頬を撫ぜていき、朱色の口唇を親指と人差し指で摘むと、悪戯をする童のような笑顔で愛らしく笑ってみせた。
「結局、貴方は私よりも、あのむさ苦しい人たちを選ぶのね」
そうして、ぽつりと囁いた言葉が彼女にできる、精一杯の皮肉だった。
その頬は涙のせいか、ほのかに薄紅色へと染まって、女性らしい柔らかな色香を漂わせる。
青年はそれに気づいても触れようとせず、ただ純朴な笑顔を綻ばせているだけしかできなかった。少しでも憐憫を抱いてしまえば、今以上に彼女の心を傷つけてしまうことは目に見えていたからだ。
何を言っても言い訳になる。口唇を固く噛みしめながらも、何事もないような面持ちで、青年は舞い散る山桜の花弁を目で追った。
その奥には、どこまでも続くであろう青空が広がっている。心に秘めたる想いは、彼女の幸福を切に願うのみである。喩え、自分に果たすことが出来なくても。
彼の心は何処へ導くというのか。あやふやで不確かな情熱は、何処にいても、誰といても収まることはない。
常にあるものといえば、どうしようもない孤独と悔悟の情だけ。
それから解き放たれるであろう日々を、青年は幼少の頃よりずっと望んでいる。そうなれないことに、いつの日も思い悩みながら、彼の道のりは果てしなく続いている。
ヤマト王権の中心、白檮原の京。大王の居住を取り巻くようにして、歳月を経るごとに市街も拡がりをみせる。
市街の外れにある酒戸。この古びた家屋からは、大きな笑声や歓声、ときに怒号などが木霊する。
店に出入りする者といえば、一癖も二癖もあるような無頼の輩。地道に土を耕そうともせず、商いを行うわけでもなく、首長や役人の下に出仕しようともしなかった。まさに、根なし草のたまり場である。
或る者は狩猟を生業とし、また或る者は用心棒などして食い繋いでいた。
中には賊まがいの行為も厭わず、利権を貪る役人を襲う者までいる。それでも、貧困に喘ぐ領民から略奪するような、非道な行為に及ぶことはない。
義侠をもって、己を律する。それが『大穴持』という悪徒どもの、唯一の掟だ。
今夜もまた、古びた家屋では荒れくれ者たちのどんちゃん騒ぎが始まっていた。ここはキン婆さんという女性が切り盛りする、彼らの集う酒戸である。
「―――でな、そいつの腐り切ったオツムを、撫でるつもりで軽く小突いたんだが、それだけで泡吹いてひっくり返っちまったからよ。おっ死んだんじゃないかと思って、正直焦っちまったよ」
大柄の男がこれまた大きな杯を片手に、声をひそめながら皆に伝える。
すると、それを聞いた者たちは囃し立てるように手を叩いて、その笑声は屋内から漏れ出すほどに響き渡る。
「役人をやっちまったら、そりゃもう一大事には違いねえ」
そのうちの一人が大笑しながらそう言えば、他の者たちもどっと沸き上がって、各々が好き放題に酒を飲み干した。
「それにしても、その役人も災難な話だよな。まさかお前と出くわした挙句、その図太い腕で小突かれちまうんだから」
「そりゃそうだ」と、皆の笑声が一斉に沸き起こったかと思えば、まるで大柄の男を労うかのように、次々と酒を勧め始める。
その男も喜々として、一人ひとりが勧める酒を漏れなく臓腑の中へと流し込んでいった。そのうちに感嘆のため息が聞こえ始めると、全てを杯を平らげた頃には歓声へと変わった。
「我らがお頭、イワタケヒコに賞賛の拍手を!」
お調子者の音頭で、古びた家屋が傾くのではないかと思うほどの、歓声や拍手が巻き起こる。
そんな中、騒がしい室内の片隅で独り、彼らの輪に加わることなく、ひっそりと酒を呷っている若者がいた。
誰もが酒と肴に酔い痴れて盛り上がっているというのに、彼の存在だけが、何とも異質に溶け込んでいる。
彼の顔には幾つもの裂傷痕があり、つい最近負ったと思わせるような生傷も、頬から顎にかけてざっくりと走っている。
それらを覆い隠すように、伸び放題の頭髪が無造作に垂れかかっているせいで、その表情を容易には読み取ることができなかった。
お世辞にも上質とはいえないような、襤褸切れのような衣服を纏い、土埃に塗れた四肢もそのままに、刀剣を壁に立てかけて黙々と酒を飲んでいる。
そのうちに、内輪の一人が彼のことを疎ましく思ったのか、覚束ない足取りで酒瓶と大皿を担いだまま近づいていく。
「まったく、辛気臭い野郎だな。一緒に盛り上がろうって気にならねえのかねえ!」
酔っ払いの男が目の前で喚き散らしても、青年は全くもって意に介さない様子で、気のみ気のまま酒を呷っている。
「そんなチビチビ飲んで、酒が旨いもんか!」
男が眉を吊り上げて怒鳴りつけたところ、青年はやっと視線だけくべて、
「弔い酒だ。放っておいてくれ」と、手酌で酒を口に運ぼうとした。
それも束の間、千鳥足の男は青年の杯を唐突に叩き落として、向かい合わせになるようにどかっと腰を据えた。
そして、役人を懲らしめた祝杯だと言い、彼の前に嫌がらせと言わんばかりの大皿を差し出して、その中に並々と酒を注いでやる。
「さあ、新入りだからって遠慮せず、酔い潰れるまで飲め!」
男はすでに呂律が回っておらず、半ば、底意地の悪い振舞いにも映ったが、若者はこれといって表情を変えもせず、注がれた大酒を受け取ると、何の迷いもなく臓腑へ流し込んでみせた。
それを目の当たりにして、荒くれ者たちが盛り上がらないはずもない。その度胸に感歎しつつ、やんややんやと小躍りしながら囃し立てる。
これには酒を勧めた男も、悪ふざけが過ぎたとばかりに苦笑すると、バツが悪そうにそそくさと青年の前から逃げ出していった。
「いや、その小さな身体で大したもんだ!」
傍に寄ってきた男が褒めそやすつもりで言ったところ、それまでは少しも変わらなかったはずの表情が、俄かに怒気を孕んで強張った。
「……誰が小さいだと?」
その重たく低めた声は、周囲の喧騒にかき消されて目の前の男にしか届かない。
青年は顔中の古傷を歪ませて不気味に笑い、突き刺さるような鋭い視線で睨みつけている。
良かれと思って近づいてきた男も、それなりに相当な荒れくれ者には違いなかったが、鋭利で冷やかな眼光を前にすれば、背筋に悪寒のようなものを感じずにはいられなかった。
とても十八歳やそこらで、滲み出せるような冷酷さではない。
一体幾人殺めたのなら、それほどまで深い闇を内包できるのか。吸い込まれてしまいそうなほど、ひどく澄んだ双眸には明確な殺意が、茫々と静かに漲っていた。
二人のやり取りを見かねてか、皆にお頭と呼ばれる大柄の男がやってきて、青年と男の首筋に丸太のような腕を勢いよく絡めた。
「何をゴチャゴチャやってやがる。お前らもそんな片隅に居ないで、明るいところに出てきて飲まねえか!」
大男が少々耳障りな濁声で呵呵大笑すると、先ほどまで凍りついたように固まっていた男も、引きつったような笑顔を綻ばせて、談笑の輪の中へと足早に戻っていった。
「ったく……。少しは馴染むってことを知らねえのか」
大男がため息を交えて言うと、青年は不機嫌そうに口先を尖らせて、ぷいっと顔を背けた。
「ここへの出入りは頼んだが、余計な奴らとつるむつもりはない」
余りに素っ気のない口振りに、大男はやれやれと言わんばかりに肩を窄めて、また深い嘆息を漏らす。そんなところに、細面で見映えの良い男が、酒瓶を片手に寄ってきた。
「なあ、オウカ。背丈なんて気にするようなことなのか?」
あっけらかんとそう言って、整然とした佇まいで腰を下ろす。しかしながら、男の上背はそこ等の男と比べても、頭一つほど抜きん出ている。
「……それは嫌味で言ってるのか」
青年が眉をひそめて刺々しい口調で答えると、細面の男と大男は顔を見合わせるや否や、吹き出すように笑い飛ばした。
「お前らのように無神経な奴らには、死ぬまで分からねえよ」
そう言って尚のこと臍を曲げる青年に、細面の男は誰かが獲ってきた猪肉の炙りを土師器に盛り、端整な顔に凛々しい笑みを浮べてみせた。
「まあ、これでも肴にして飲み直そう」
「確かに、顔の良い野郎ってのは無神経なもんだよな」
大男はむさ苦しい髭面で感慨深く呟いて、同調するように相づちを打つ。
豪放磊落な彼らしい身を削るような自虐に、それまで憮然としていた青年も、思わず相好を崩してしまった。
炙ったばかりの芳ばしい猪肉を頬張れば、その旨みが口内で溢れるように広がり、これまた杯を呷る手が進んでしまう。
猪肉の他にも、河川で獲ってきた鮮魚が並び、山菜や木の実といった山の幸も食卓を彩る。
ここは他に行き場のない者たちが、身を寄せ合うように集う場となっているが、他所にはない温もりと、寂しさや辛さを忘れられる賑やかさがあった。
「それにしても、あの野郎。このところ顔を出さなくなったな」
不意に、大男が猪肉を一杯に頬張ったまま、怪訝な面持ちでそう言えば、
「またどこぞの女でも引っかけて、よろしく愉しんでるんだろうぜ」と、談笑の輪から笑声を含んだ回答が戻ってくる。
すると、周囲からはどっと賑やかな笑声が巻き起こった。
「女みたいな面をしていながら、誰よりも女好きときたもんだ。そのうちに、街中の女があいつの子を孕んじまうんじゃないか?」
誰かが冗談交じりにそう言うと、他の者たちは手のひらを打って笑い転げる。
「それはまた、国の一大事になるな」
また別の誰かが言えば、
「おうよ。後継ぎが多すぎても、それはまた別の意味で困るわな」と、また違う男が大笑して答える。
「馬鹿は休みやすみ言え!」
談笑に花が咲いていたところで、何の前触れもなく、しゃがれた怒鳴り声が屋内に響き渡った。
皆が手を止めて静まり返る中、声の主である髭面の大男は、皆の顔をひと通り見渡したあと、唐突にからからと豪快な笑声をあげる。
「その前に、あんないい加減な奴が後を継いでみろ。もし、そうなったとすれば、ワシがいの一番に逃げ出すね」
大男がそう言えば、皆も合わせたように「違いない!」と声を張り上げて、杯の酒を飲み干した。
「ここには顔見知りしかいない。そんなに気を張るな」
誰もが面白おかしく笑い転げるのを尻目に、細面の男は大男の耳もとでそう囁いた。
すると、青年も顔に走った傷跡を歪ませて、柔らかな笑顔をようやく綻ばせた。
「機嫌が直ったか?」
大男がそう言って酒瓶を差し出すと、青年も素直に酌を受けて杯を重ねる。それから同時に杯を呷ったあと、大男は何かを思い煩うように眉をひそめて、おもむろに嘆息をつく。
「あいつは何も望んでねえっていうのに、いつだって生命を狙われる危険を孕んやがる。全く、堪ったもんじゃねえよな」
まるで、ひどりごとのようにぼやく大男に、細面の男もまた、同じようなため息をついて、僅かに首を振ってみせた。
「盆暗な俺とは違い、あいつは自分の運命から逃れられない」
二人が同様に陰鬱そうな面持ちで黙り込んだところ、青年が呟くような小声で、
「どうしてお前たちが思い悩む必要がある?」と、ぶっきら棒に疑問を投げかけた。
「だって、そうだろう。あいつが殺されたとして、何が変わるっていうんだ」
その言葉を耳にするや否や、大男はかっと目を見開いて青年を睨みつける。
「オウカ、てめえっ!」
そう感情を露に怒鳴りつけたあと、
「どういうつもりだ!」という言葉が轟音となって飛び出てくる前に、細面の男が先んじて彼の口を手のひらで覆った。
そのお陰で、他の者に波及することなく、揉め事は三人だけに留めることができたようだ。
きりっとした切れ長の目は、周囲の者たちの様子を窺ってから、青年の憮然とした表情を一瞥する。
「オウスは俺たちと違う。それはお前も知っているはずだぞ」
「そうでもないさ。あいつの代わりなんか、宮中には幾らでもいるだろうからな」
青年は淡々と答えながらも、やや感情的になって早口になる。
大男は青年の薄情な態度が我慢ならず、今にも飛び掛っていきそうな形相で憤ったままだ。
しかしながら、自分が感情に任せて割って入れば、それこそ大きな騒動になってしまうだろう。それを避ける為にも、ここは冷静さを保てている細面の男に任せたほうが賢明だといえた。
それは頭の中では理解できていたとしても、傍らで黙ったまま座しているにも限界がある。
どういう了見で仲間にあんな言い方ができるのか。それをどうしても問い質したい感情は今にもあふれ出しそうになっていた。
大男の気持ちなどそっちのけで、青年は譲る気など毛頭ないといった具合で、苛立ったようにぼさぼさの頭髪を掻き毟ると、鋭利な眼差しを二人へとくべた。
「それにさ、あいつは自分で棄てたんだろう。どんなに恵まれた場所かも知らずに、我が儘を通すだけの為にな!」
ほんの僅かに声を荒げた青年の目には、明らかな憤懣が漲っていた。
それを目にして、細面の男は困惑したように眉をひそめると、落胆するかのように深いため息をついた。
「お前はあいつのことになると、どうしてそんなに目の色を変えるんだ」
何でも見透かすような眼差しと、年長者としての落ち着き払った柔和な訊き方に、青年は尚更に態度を硬化させて、苦々しい表情で顔を背けた。
そのせいで、頬の生々しい傷口が露となる。それはこの数日のうちに、何者かに負わされた刀傷であることは明らかだった。
「その頬の傷……。この間まではなかったよな」
大男がいよいよ気になって、神妙な面持ちで訊ねると、青年は何事もないように「ただのかすり傷さ」と、素っ気なく答えるが、どう見ても深手であることには違いなかった。
「何があった」
大男はおもむろに腰を持ち上げて、臓腑に響くような重たい大声で訊いた。先ほどまで憤怒は何処へやら。心底から青年のことを案ずる気持ちが、その表情から満ち溢れている。
頭領という立場であるだけに、仮に仲間が他所の者にやられたとなれば、相応の対処を講じなければならない。
彼の血気に沸き立つ気概が伝染したのか、周囲にも痺れるような緊張感が立ち込めていた。
「どこの誰にやられた?」
大男の凄みのある声で訊ねられて、青年はさすがに焦りを隠せない。
「か、勘違いするな。これは修練をしているときに、過って負ってしまった傷だ!」と、慌てながら諸手を振って沈静化させようとする。
「本当か?」
「ああ、そんな恥ずかしい嘘なんかつくものか!」
青年が珍しく声を張って言うと、大男もそれで一往は納得したのか、肩を撫で下ろして腰を落ち着かせた。
「ったく……。紛らわしいところに傷なんか負ってくるんじゃねえよ」
大男はため息を交えて独りごちると、もとの和らいだ表情に戻って、大杯の酒で喉を潤わせた。それを境にして、他の者たちも再び賑やかさを取り戻していく。
ただ、事の真偽を見極めようとする眼差しが、未だに青年の微々たる変化すらも見逃さずにいた。切れ長の目は事の次第を確かめるように、慎重に青年の動向を捉えていた。
そんなところに、戸口の簾をまくって、一人の若者が屋内に入ってきた。
昼下がりの山桜の下で、先ほどまで女性と戯れていた、あの臙脂色の衣を乱雑に着こなした若者である。
「今夜も、むさ苦しいの一言に尽きるな」
彼の姿を目にするや否や、幾つもの人だかりから「待ち侘びたぞ!」という声が、至るところで飛び交った。
「今度はまた、どこの女を捕まえたんだよ」
或る男が声をかければ、臙脂の青年は照れ臭そうに笑い、
「女と遊ぶのが悪いみたいじゃないか」と、たむろする男たちの輪に、堂々と割って入り腰を落ち着かせた。
「随分と遅いご到着だな」
着座するとすぐに、脛に傷のある男たちに囲まれて、杯の中には並々と酒が注がれる。
「ちょっとした野暮用を済ませてきたんだ」
臙脂の青年はそう言って、酒を一気に流し込むと、瞬くうちに杯の中を空にした。周囲の者も同じように酒を呷り、酒宴は息を吹き返したように一層賑やかになる。
「このままだと、街中の女がオウスの子を孕むんじゃねえかって、今しがた話していたところだ」
「そんなつまらない真似をするかよ。この世に愉しみなんて数少ないっていうのに、また一つ減っちまうじゃないか」
臙脂の男は快活に笑いながら答えて、また並々に注がれた酒で男たちと豪快に杯を交わす。そうして杯を呷り、酒と肴に酔い痴れては何もかも忘れる。
彼にとって、ここが唯一の居場所だった。いや、彼だけに限らず、この古びた家屋に足繁く通う者は、きっと誰もがそうだ。
ほのかな灯火の下、温もりを求めて群がる羽虫。
何も望まず、何かを得ようともせず、短い生命を何の気なしに全うする。ただ、それだけの存在であることを、ここに居る誰もが悟っていた。
それを口にしてしまえば、自分たちが一層惨めになる。だからこそ、そんな事実を忘却したいが為に、今夜も大いに騒ぎ倒して享楽に溺れる。そうしていれば、それ以上は辛いことを考えなくて済む。実に、短絡的な話だ。
仲間からオウスと呼ばれる青年は、奥歯で自分の不甲斐なさを噛みしめながら、おもむろに猪肉へと手を伸ばして口一杯に頬張った。それから、胸の痞えを拭い去るように、今度は大酒を臓腑へと一気に流し込む。
「おいおい、そんなに腹が空いてたのかよ」
取り巻きの誰かが呆れたように言うと、青年は涙目を悟られないように、照れ臭そうな苦笑を浮かべて首を振ってみせた。
程なくして、ようやく気持ちの整理がついたのか、臙脂の青年は屋内の片隅で、大杯を呷っていた巨躯の男へと移す。
「そこの間抜けな木偶!」
それが余りに不躾な呼びかけだっただけに、取り巻きの荒くれ者たちも一往に驚き、談笑の声を控えて静まり返った。
「また偉いお役人さまを脅した挙句、拳骨まで食らわせたみたいじゃないか」
青年が真面目な面持ちで、問い詰めるようにそう言うと、大男は悪びれたように苦笑しながら、参ったとばかりに太い指で首筋を掻き毟った。
「いや、それがよ。稼ぎのねえ人間から毟り捕ろうするくせに、自分らはのうのうと腰ぎんちゃくを侍らせて物見遊山ときたもんだ。ちょっと撫でるくらいのつもりで、軽く殴っちまっただけだ」
大男はその体躯に似合わず、親に躾けられる子供のような仏頂面で抗弁する。それが何とも滑稽な景色で、他の者は必死に笑いを堪えるのがやっとである。
「ああ、そうだ。ありゃ身から出た錆みたいなもんだ!」
口を尖らせて自己肯定する大男に、青年はきっと睨みを利かせて、
「役人には手を出すなって、前々から口が酸っぱくなるほど言っているだろう!」と、先ほどよりも更に強い口調で問い質す。
「あの『大穴持』という羽虫どもを掃討すべきだと、つい先日、朝廷で議題にも上ったと聞いた。役人を蔑ろにするということは、大王をも軽んじている証拠なんだとか。それで大いに盛り上がっていたらしい」
彼が齎した情報は、その場にいた全員を沈黙させるには充分な内容だった。
仮に、朝廷から追討を受けるとなれば、さすがに今までのような生活は難しくなる。
それどころか、いつまで生命を存えることが適うかも、分からない状況に陥ってしまうことは目に見えている。
誰もが固唾を飲んで、その場は一変して静寂の中に沈んだ。
皆がこれからのことを色々と思案して、何とか打開策を打ち出そうとしているところで、唐突に如何にも可笑しそうな、笑いをどうにか堪えようとする声が漏れ聞こえてくる。
それは危急存亡を告げたばかりの、同じ口唇から微かに溢れていた。
「な、何がそんなに可笑しいんだ!」
仲間内の一人が苛立ったように怒鳴りつけると、その青年は遂には我慢できなくなったのか、その場で抱腹絶倒して、誰彼構わず高らかに笑声をあげた。
「青ざめた顔が可笑しいからに決まってるじゃないか。朝廷が本気で俺たちみたいな小物を排除しに来ると思っているのか?」
率直にそう訊ねられて、荒くれ者たちはお互いに顔を見合わせた。そして、次の瞬間にはその滑稽さに笑い転げる者が次々と続出する。
中には、未だに間に受けたまま、周囲の変化に乗り切れず、呆然と立ち尽くす者も少なからずいた。
「本当に捕えにきたらどうするんだよ!」
声を振るわせながら笑い転げる者たちに問えば、皆が声を揃えて「そんなことはあり得ない」と、明朗に答えるだけだった。
「朝廷には、俺たちにかまう暇なんてないさ。畿内の首長だって、未だに抗い続けている。まずは、その大きな鼠を討つ。そうでなければ、この国はいつまで経っても立ち行くはずもない」
細面の男が簡潔に説明すると、それまで慌てふためいていた者たちも、安堵したように胸を撫で下ろして、やっと笑顔を取り戻していく。
それを見越していたのか、臙脂の青年は「さすがは、クスハ!」と、食い気味に茶化すような野次を飛ばした。
「そもそも、お前の悪ふざけで始まったんだろう」
細面の男に叱りつけられた青年は、悪戯が過ぎたとばかりに舌をぺろりと覗かせた。
「それにしても、殴られた役人には同情するよ。イワタケのような怪物に脅されたんじゃ、まるで生きた心地もしなかっただろうに。そのお役人さま、ひどい恐怖心を飢えつけられたせいか、一人で厠にも行けなくなっちまったとか。ああ、くわばら、くわばら。よっぽど恐ろしかったんだろうな……」
あたかも役人の心理を描写するように、強張った表情や口調だけならまだしも、真に迫った荒々しい息づかいも演じてみせる。
それを目の当たりした取り巻きたちからも、一斉に笑声がどっと沸き起こり、それはしばらく絶え間なく続いた。
臙脂の衣を纏った青年もまた、彼らと同じように砕けた笑顔を綻ばせる。粗野な身のこなしや口振りは、荒くれ者のそれに違いない。
それでもやはりというべきか、その佇まいからは、どこか気品のようなものを漂わせていた。
誰かが同じことをやったにしても、彼のものとは違ったように周囲には映ってしまう。それは青年の出生に寄るところが大きいのかもしれない。
彼の名は小碓命。
父親はこのヤマト政権を統べる大王であり、白檮原の京が拓かれた年、遡ること十六年前に御子として生を授かった。
今でこそ、市井に揉まれながら暮らしているが、幼少の頃には皆から愛でられて、月よ星よと大切に育まれてきた。
要するに、此処に居る誰よりも、飛び抜けて恵まれた環境の中で生きてきたのである。
「クスハ、お前も此方に来て、酒につき合えよ」
その小碓が手招きをして呼び寄せたのは、家屋の片隅で飲んでいた、あの細面の男だ。
クスハと呼ばれた男は、やれやれといった面持ちで小碓の横に腰を落ち着かせると、ひどく重たい嘆息を見せつけるように漏らした。
「こんなところで遊んでいて良いのか?」
男がそう訊ねると、小碓はわずかに両肩を持ち上げて、まるで何も聞いていないような間抜け面をして、その視線を明後日の方へと外す。
「お前だって、偉大な将軍さまのご子息じゃないか」
小碓も負けじと現実を突きつけたなら、男は呆れたようにうな垂れて、苦笑を浮かべながら首を左右に振ってみせた。
「俺とは立場が違いすぎるだろう」
小碓は言い終わるのも待たずに、食い気味に「いいや!」と、声を発して、
「親許から逃げ出した挙句、こんな掃き溜めで呑んだ暮れているのも一緒だよ」と、何とも歯切れよく言い放つ。
さも間違ったことを言っていないような、得意満面のとびっきりの笑顔で白い歯を覗かせた。
「それに、俺にはもう関係ない。あっちだって清々しているはずさ」
小碓は苦笑しながら独り言のように続けると、持っていた杯を口に傾けて、並々に満ちていた酒を一気に飲み干した。
「クスハもそうなんじゃないのか?」
小碓から率直な質問をぶつけられたことで、細面の男も思わず相好を崩してしまった。それから空になっていた小碓の杯に、また並々と酒を注いでやる。
「そうかもしれないな」
ややあって、男は如何にも可笑しそうにそう答えると、携えた杯を持ち上げて漫然とした微笑を浮べる。
小碓も同じように杯を持ち上げて、二人は揃って酒を一気に呷った。
男は名を久須波別命と云った。
小碓よりも三つか四つほど年嵩で、見るからに、すうっと鼻筋の通った容姿端麗の優男である。
肌の色は少しばかり浅黒く、身の丈は五尺半(166cm)ほどあった。
柔和で誠実そうな漆黒の眼差しに、襟足で束ねた黒髪はとても艶めいて美しく、腰もとを過ぎるほどに長い。その佇まいは溌剌とした小碓のものとは全くの別物だ。
また、その口唇より発せられる声も、清廉として心地良く響いた。端整な容姿と相まって、聞く者の心を静めて和ませてくれるような、穏和な声調をしている。
厳格な家に嫌気が差して出奔してからというもの、市街で名主や商人などの用心棒を引き受けながら、日々の生計を立てていた。
彼もまた、宮中へ戻るつもりなど一切なく、そういうところは小碓ともよく似通っていた。
小碓と久須波が愉快に笑い合っていれば、その背中を大きな手のひらが強かに打ちつけた。
余りの衝撃に咳き込んだ二人を余所に、熊のような手のひらの持ち主は豪快な笑声を、家屋の中で無駄に響かせる。
それが誰の仕業であるかなど、わざわざ振り返らなくても二人には分かり切ったことだった。
「なんだなんだ。傷の舐め合いでもしてんのかよ!」
明け透けで粗雑、図太い声はひどく上機嫌で、下らないことだと豪快に笑い飛ばすかのような口振り。
これまでの会話も聞いていたのだろう。そのぎょろっとした大きな目には、どこか喜々とした色が滲んでいる。
「なんで嬉しそうにしてるんだよ」
小碓は背後に振り返ることなく、ため息を交えて訊ねたところ、声の主は大らかに呵呵大笑して、また二人の背中を無遠慮にも手のひらで、更に何度か打ちつけた。
「お前らが家を飛び出さけりゃあ、こうして出会うこともなかったはずだ。だったら、二人の愚行を喜ばずに何を喜べって言うんだ?」
予想以上の衝撃を受けたことで、久須波は口に含んでいた酒を吹き出す始末、小碓も眉をしかめて「痛いじゃないか!」と、思わず叱責するほどだ。
「イワタケ、お前な……。少しは力の加減を覚えろって」
久須波が小言を言うにも構わず、大柄の男は目の前の猪肉を摘んで、如何にもご満悦そうな面持ちで口一杯に頬張った。
「ワシがそう思うのはともかく、端から見ればお前らはとんだ戯け者だぜ。黙って暮らしてりゃあ、寝る食うには困らねえだろうによ」
今しがた食べた猪肉のせいで、もごもごと口ごもりながら大柄の男が言ったことは、まさしく正論には違いなかった。
それが余りに耳に痛い話で、二人は一往に憮然としたまま、背後の大きな図体を時を同じくして突き飛ばしていた。
すると、皿やら酒瓶を引っくり返すような騒がしい物音と、ドスンという重たい地響きが古びた家屋を振わせる。
予期せぬことに、小碓と久須波は少しばかり驚いて、おそるおそる振り返ってみれば、酒やら香草やらを頭から垂らした、大男の滑稽な姿がそこにあった。
「暴れるつもりなら、外出てやんな!」
それまで一度も口を挟まずに、酒の用意や料理に明け暮れていたキン婆さんの声が木霊する。
周囲を取り巻く者たちは手を叩いて大笑し、事の発端である小碓と久須波も、それに吊られて顔を見合わせると、弾けるように吹き出して笑い出す。
とんだ災難となった大柄の男も、それには怒り出す気にならず、頭にかかった香草を細々と摘んでは、丁寧に皿へと並べていく。その素振りが何とも可笑しくて、またも皆の笑いを誘った。
ようやく笑い声が収まったところで、小碓と久須波は申し訳なさそうに苦笑しながら、大柄の男にキン婆さんから借り受けた雑巾を差し出した
「すまかったな」と、久須波が悪びれて謝れば、今度は大柄の男の方が不敵な笑みを浮べて「お前らだって力の加減をしろよ」そう叱責した。
小碓はおもむろに酒を差し出して、びしょ濡れの男の機嫌を取るように酒を勧める。
「そこまで仰られるのであれば、イワタケさまが代わりに暮らしてみますか?」
謙ったような言い方に、イワタケと呼ばれた男も気を良くしたのか、酒を豪快に呷ってから、
「それが出来るなら、是非にでも暮らしてみたいもんだぜ。旨い飯に良い女。それと、ふかふかの寝床。悠々自適な生活があるんだよな」と、夢心地で呟く。
それを聞くや否や、小碓は吹き出してどっと笑い出し、久須波は呆れたように首を振って苦笑するばかり。
思いも寄らない二人の反応に、大柄の男は毛虫のような眉をひそめて、二人の顔を交互に見遣った。
「ううむ、見当違いとでも言いたげだな」
「確かに、そういったものには不自由しないだろうけど、その代償として、太陽が昇る前に朝廷に参内し、それから陽が落ちるまで勉学と鍛錬。その後も祭祀や作法などを学び、就寝するのはいつも夜更けだぞ」
小碓がつらつらと諳んじたところ、予想していた通りに大男は顔をしかめて、もう言うなと言わんばかりに必死になって手を振ってみせる。
「ああ、もう分かったよ。そもそも窮屈な生活なんて、ワシには無理な話だ。聞いていただけで脳みそが捩れちまいそうだぜ」
苦虫を潰したような面持ちに、小碓と久須波は堪らず吹き出して笑った。
「お前の頭の中にも、捩れる何かがちゃんと詰まってたんだな」
久須波が追い討ちのようにたたみかけると、二人は憮然とする大男の前で抱腹絶倒する。
この体躯の大きな男は、名を石健比古と云い、持ち前の腕力を駆使して普段は石工で生計を立てていた。
その身の丈はゆうに六尺(182cm)を上回り、身幅もそこら辺の男性と比べても倍近くあった。
顔立ちは取り分けて鼻が大きく、極太の眉に針を散りばめたような頭髪と顎鬚、しっかりとした体毛が図太い腕を覆っている。屈強な体躯と相まって、彼の姿は獰猛な獣のように見えるかもしれない。
そんな中、唯一可愛らしさを思わせるものが、くりっとしたまん丸な目だ。
まあ、それをひん剥いて睨みつけでもすれば、可愛らしさなんて微塵にも感じられない形相に変わり果ててしまうのだが。
そして、荒れくれ者を仕切る頭領としての一面もある。酒戸に出入りする連中は、彼が立ち上げた『大穴持』の一員として動いていた。
概ね、石健の人柄を慕って人が集まり、彼を中心に皆が繋がり合っている。恵まれた環境を飛び出した小碓と久須波も、それに漏れることはない。
石健が居なければ、こうして皆と酒を酌み合わすこともなかっただろう。彼らには他に寄る辺などないのだから、昨日にはどこぞで朽ち果ててしまい、屍を晒していたとしてもおかしくなどなかった。
ようやく国が成ったといっても、信用に値するものはそれほど多くない。
荒野には群盗や追剥ぎが跋扈し、それらを取り締まるべき為政者たちでさえ、それに近しい蛮行を働く者とて少なくはなかった。
石健の強みといえば、この白檮原の地に柵が一切ないことにある。
それ故に、首領として悪名が広まったところで、誰かを気遣う必要もなければ、多少の手荒な行為も全く躊躇せず及ぶことができた。
それで仮に、何か問題が起こったとしても、虎穴より抜け出して遁走すれば良いだけの話だ。
無意味に役人を畏れず、正しいことを貫く清々しい姿勢は、鬱々と暮らしていた者たちにとって、それは何よりも魅力的に映った。
そうして彼の下には、白檮原の京だけに留まらずに、畿内の各地より行き場のない者たちが集ってきたのである。
どこから流れ着いたのか。石健もそれを語ることは、今までに一度だってなかった。
そのせいで、風の噂では熊に育てられた孤児とか、大海の向こうよりやってきた皇子だとか何とか。それ以外にも云々(うんぬん)……。
彼の並外れた体躯の良さも相まって、様々な憶測が飛び交うのも致し方ないことか。
根も葉もない伝説が実しやかに囁かれ、密かに皆の笑いの種となっていた。当の本人は知る由もない。
酒戸の活気が最高潮となった頃、何の前触れもなく食器の割れる音が響き渡った。
それも過って割ってしまったような物音ではなく、力を込めて叩きつけないと鳴らないような凄まじい物音だった。
余りに突然のことで、誰もが凍りついたように固まり、数多の眼が自ずと聞こえてきた家屋の片隅へと集まった。
そこには砕け散った杯の欠片を前にして、傍らに立てかけていた剣に手を伸ばす青年の姿があった。
彼はおもむろに腰を上げると、何事もなかったかのように軽やかな足取りで戸口へと向かっていく。頬に生傷、襤褸を身に纏った青年。皆にオウカと呼ばれていた人物だ。
薄明かりの中でも、その表情が苛立ちで険しくなっているのが見て取れる。
まさに、他人を寄せつけないような雰囲気を漂わせて、剣の束を掴んだ拳は固く握られ、異様なほどに筋張っている。
誰かがふざけて声をかけようものなら、躊躇なく抜刀して斬りかかるのではないかと、本気でそう思わせるほどの強張った顔つきが、何とも異様に狂気染みていた。
小柄な青年が颯爽とすれ違うのを、戸口の方で愉快に飲んでいた者たちも、息を飲んで見過ごすことしかできない。その冷徹な目つきは、小柄と言われたときよりも遥かに勝る殺意を静かに漲らせていた。
青年が颯爽と戸口から去ってから、少しばかりの時間が流れた。それでも、しばらくのうちは誰一人として、自発的に声を出そうともしなかった。
「あいつ、いつもあんな感じだよな」
ややあって、何者かが独り言のようにそう言った。明らかに怪訝そうな面持ちで、憮然と嘆息を漏らす小碓である。
「最近になって見る顔だけど、あのオウカってやつは、一体何だっていうんだ」
小碓の口にした言葉の節々に、少しばかりの苛立ちが滲んでいる。
皆で愉しく酒を呷っているところに、何の前触れもなく冷水を浴びせかけられたようで、それが面白くない態度であったことは否めないかもしれない。
小碓の頭に浮かんだ疑問は、すぐに不機嫌そうな面持ちと一緒に石健へと突きつけられる。
その視線は日頃より『大穴持』の連中を取り纏めているのだから、少しくらいは心当たりもないのか。そう問い質すかのような視線である。
すると、その石健は当惑するように苦笑を浮かべ、傍らにいた久須波へと視線を移した。自分だけではとても答えられそうにないと、すぐに久須波へ助け舟を求めたようだ。
ところが、久須波は石健のことなどお構いなしに、酒をちびちびと嗜んでは我関せずといった佇まいで顔を背けてしまった。
それには石健もいよいよ観念したのか、大きなため息を吐き出してから、いかにも気重そうな顔つきで口を開く。
「そうだな……。まだ皆に馴染んでいることもないんだが、お前と会うときは決まって機嫌が悪くなっちまって、すぐに席を外そうとするんだよな」
石健が襟足を掻きながらそう言えば、それを聞いた小碓は眉をぐっと持ち上げて、咄嗟に驚嘆の表情を覗かせた。
「そんな馬鹿な! 俺の居ないところでは、あんな風じゃないってのか?」
「ああ。確かに言葉数も少ないし、背の小さいことを弄られたら怒りもするが、お前と顔をつき合わせたときのような態度はとらねえよ」
石健が俯きがちになって答えると、小碓にはどうにも思い当たる節もなく、腑に落ちないような面持ちで眉をひそめる。
それもそのはずで、最近になって『大穴持』に加わったオウカとは、ごく稀にこの酒戸で顔を合わせるぐらいのもので、これといった明確な接点などなかった。
「俺があいつに何かしたのか?」
そう訊ねた小碓の声は、自ずと苛立ったように語気が荒くなっていた。
何か恨まれるようなことでもあれば、少なからず納得もいくものだ。それが仮に、記憶にも残らないような些事で恨まれているのだとしたなら、皆の愉しみを奪ったオウカに多少の憤りを覚えてしまう。
「いや、そういう簡単な話じゃなくてな。オウカの中には、そう……アレだ。シコリのようなやつがどこかに残っているんだと思うぜ」
回りくどくて意味深そうな言い方に、小碓の苛立ちが増幅しないはずがなかった。
「それを知っているのなら、ここではっきりと言えよ!」
小碓が怒鳴りつけるように問い詰めれば、遂には石健も業を煮やして、
「ああ、もう! 儂の知ったことじゃねえよ!」と、鬼のような形相で喚き散らし、臍を曲げたようにごろんと巨躯を横たえた。そして、それ以上は口を利こうともしない。
「クスハ、お前は知っているのか」
石健では埒があかないことを悟った小碓は、憤りの矛先を久須波へと向けた。
それに対して、久須波は少しも取り乱すことなく、相も変わらず平然としたまま酒と肴で舌鼓を打っている。
「そんなに知りたいというのなら、本人から直接訊いた方が早いんじゃないか?」
杯の酒を飲み干したあと、久須波は小碓に目もくれず、細波のような和やかな美声でそう言った。それから微かに微笑んで、
「知らず知らずのうちに、俺たちがどれだけの人間を傷つけているか、ということをさ」と、何とも可笑しそうに続けた。
子供を諭すかのような口振りに、小碓もそれには堪らず怒気を露にして「お前に言われるまでもない!」と、声を荒げたかと思えば、その足で勢いよく戸口から飛び出して行った。
小碓が酒戸から去ってからというもの、あれほど酒を愉しんでいた活気も何処へやら。
荒くれ者たちも目の前で起こったことに動揺して、これからどうして良いのか分からずに間誤ついている。
「お、おい。お前もあんな言い方をしなくても」
石健が巨躯を起こしあげて、ようやく事の発端である久須波に声をかけた。
「他にどう伝えろと言うんだ?」
久須波が端的にそう答えると、石健はぐうの音も出ないまま、困ったとばかりに眉をしかめて、考え込むように唸りながら辺りを行ったり来たりする。
「それに、まだはっきりとした訳じゃないんだ。あわよくば、今回のことで明るみとなるかもしれない」
久須波は独り言のように呟いて、目の前で落ち着きなく右往左往する石健に、隣に腰を据えろと言うように、小気味よく床を叩いた。
「そりゃそうだがよ。もし、二人に何かあったら、それこそ一大事だぞ」
石健の当然というべき懸念に、久須波の悠長な微笑も真剣な面持ちへと変化した。
「ああ、そういった事態は避けるべきだが、少しだけ時を置いて追いかけるとしよう」
「それじゃ遅いんじゃねえか?」
如何にも心配そうに訊き返す石健に、久須波は不敵に微笑んで、小さく首を振ってみせた。
「二人とも、それなりに剣は扱える。仮に、刃を交えることになったとしても、そう易々と決着がつくとは思えない」
「まあ、オウスもオウカも腕は立つ方だけどよ。それでも万が一ってこともあるじゃねえか」
双方の技量を鑑みれば、確かに一方的な闘いになるとは考えにくい。それは頭領である石健が誰よりも把握していることだった。
幼少の頃より叩き込まれてきた小碓の剣術は、それなりに精錬されていて太刀筋も正確であるし、小宇迦も小宇迦で、どこで学んだものかは知れないが、矮躯に見合った鋭敏な剣捌きは目を見張るものがあった。
そうは言ったところで、勝負は時の運という言葉だってある。二人共に酒を呷っていることもあるし、不慮の事故が起きてしまうことも考えられる。
考えれば考えるほどに、幾つも思い当たる節があって、石健には久須波のように落ち着き払って待つことが苦痛でしかなかった。
こんなにも回りくどいことをせず、すぐにでも後を追って、仲裁に入った方が何よりも手っ取り早いはずだ。
石健がそう思い立つのと同時に、久須波は杯を呷ってから、今にも酒戸から飛び出そうとする石健を一瞥して、
「お前に二人を説得できるのか?」と、まるで思考を見抜いたように、抜群の間合いで問いかけた。
「あれが事実だとするなら、いずれはこうなっていたさ」
「け、けどよ、お互いにいがみ合うつもりなんてないはずだろう」
石健が眉をひそめて言うと、久須波は長い睫毛を伏せて、暗澹とした嘆息をつく。
「きっと、過去からの因縁がそうさせているんだ」
久須波はそう言ったあと、まるで敵でも睨みつけるように、杯の中で波打つ酒を鋭い眼差しで捉えていた。
「これには何者かの暗躍があるのかもしれないな」
「どういう意味だよ?」
怪訝な表情を覗かせる石健に、久須波はまたも首を振ってみせた。
「それは分からない。けれど、あいつはずっと生命を狙われる立場にある。それだけは確かだ」
「ま、まさか。あのオウカも?」
何の根拠もない憶測に、久須波は何も答えようともせず、未だに立ち尽くしていた石健を隣に座らせて、その大きな手のひらに杯を掴ませた。
「それを知る為にも、二人だけにする必要があるんだ」
久須波はそう言うと、石健の杯に並々と酒を注ぎ込んで、一気に飲み干すように顎をくいっと持ち上げた。
その冷静沈着振りに、石健は今更ながら舌を巻く。
「お前、こうなることを望んでいたんじゃ……」
石健のぼやきなど余所に、久須波は杯に口をつけて酒を嗜んだ。
「あの尋常ではない殺気……。まさか、とは思うが」
てんやわんやになっている酒戸の中で、一筋の明利な推考が閃く。そんな久須波の理知であろうと決して及ばないところで、大きな歯車はゆっくりと動き始めている。
小碓と小宇迦という形代を介して、ヤマト王権の行く末はまた一つ、新たな道を歩み出そうとしていた。