月のない夜
※登場人物
小碓……本編主人公。大王、伊波礼比古いわれひこの子。快活で実直な青年。父に疎まれ市井でならず者として暮らす。後に国の根幹となる。
伊波礼比古……大倭の偉大なる王。九州は高天原より東征を行い、西日本のほぼ全土を統治。大陸の国に劣らぬよう、国の創設に苦心する。どういう理由か、子の小碓を疎んじている。
高倉下……小碓の傅役。剣術の達人で『神手』という技を会得する。東征でも大王に仕え従軍した。
若帯日子……小碓の実弟。文武ともに優秀で、官吏からの信頼も厚い。大王の後継者として敬われている。
阿多都比売……小碓と若帯日子の実母。大王とは東征以前より夫婦であり、巫女としての資質も備え家臣からも絶大な支持を集めている。
石健彦……ごろつき集団『大穴持』の頭領。義に篤く強壮で好青年ではあるが、短気と機転の利かないところが玉に瑕。小碓と行動を共にする。
久須波……大王に仕える将軍の子でありながら、ごろつきと同じような暮らしをおくる。色黒の美男子ではあるが女性にあまり免疫がない。小碓の側で参謀的な役割をこなす。
小宇迦……伊波礼比古の東征に敗れた機内の王の子。奴隷として汚い仕事をこなしていたが、小碓と出会い行動を共にするようになる。小柄で身のこなしが軽く、時に冷徹な一面ものぞかせる。
弟橘……奥出雲で出会う無垢な少女。村のしきたりにより八岐大蛇の生贄として捧げられることになる。少し間の抜けたところもあるが、その瞳から発する輝きは神聖さすら滲ませる。
八瀬……大王の兄で東征の折に戦死した五瀬命いつせのみことの忘れ形見。小碓の副将として征西に加わる。
御毛沼……大王の兄であり、吉備の国を統治している。穏やかで柔和な人物。
美佐速……御毛沼の一人娘。美人でありながら、その言動は男勝りで豪放。剣術を嗜み、その力量は優秀な武官をも凌ぐほど。
火能迦……出雲の国境を警固する長。石健と何らかの因縁があるようだ。
闇方……出雲の鍛冶職人。屈強な体躯の人物。
熊襲兄弟……大王の家臣で九州の筑紫を預かっていたが、突如として叛旗を翻す。彼らを討つ為、小碓は総大将として出陣することになる。
美智之臣……大王の近臣。幼い頃より伊波礼比古を支える親友。東征にも多大な功績を残す。小碓に対して暗躍する。
八咫鴉……神より遣わされたとされる、三本足の大鴉。人間の言葉を操り、度々使いと称し小碓を導く。
それは必然だったのか、はたまた偶然の賜物だったのか。今となっては誰にも分からない。
しかしながら、計り知れないほどの旺盛な好奇心と、どこまでも真っ直ぐな衝動を持ち合わせていなければ、彼が鏡の前に立つことはなかったのかもしれない。
かび臭さのただよう宝物庫。その少年は無垢な瞳を爛々と輝かせながら、おもむろに壇上の古びた銅鏡に手を伸ばす。
静寂の中、朧月の妖しい光を浴びて、鏡面は冷やかな青い光を放っていた。まだ分別もつかないくらいの子供であれば、怖いもの見たさでそれに興味を抱いたとしても当然だといえる。
少年は両手でしっかりと掴み取って、躊躇なく鏡面を覗き込んだ瞬間。予期せず、二つの瞳に強烈な光が飛び込んできた。
ただ、鏡に反射した月光に目が眩んだだけのこと。それでも、ひそかに心細さで震えていた少年にとって、それは驚愕の何ものでもなかったはずだ。
とてつもない眩さに、どうにか瞼で遮ろうと試みても、皮膚を透けて感じる明るさや温もりに、不思議と興味をそそられる。
薄っすらと開けた少年の瞳に、一筋のつむじ風が頬を撫ぜていく。それは本当に一瞬の出来事だった。
目の前で何が起こっているのか。不完全な思考力では、とても現状を理解するには至らない。困惑の度合は著しく増していき、動揺を隠せずにその場で尻餅をついてしまう。
静けさの中で、鼻をつくカビ臭さと、宙に舞う羽毛のような埃たち。そして、微かに聴こえてくる羽音、のような音。
確証なんてものがあるはずもない。霞んでいく意識の中で、微かに残った記憶がそれだった。それ以外のことは少しだって覚えてなどいやしない。
あとから聞いた話に寄ると、真夜中だというのに誰彼構わず叩き起こしたかと思えば、興奮醒め止まぬ様子で、先ほど目にした奇怪な出来事を吹聴して回ったのだという。今となっては笑い話といったところだ。
年端もいかない子供となれば、やることも実に想像するにたやすい。愚鈍で率直。それでいて、何とも愛らしくさえ思えてしまう。
そもそも、宝物庫の立ち入りは誰であろうと禁じられている。あくる日となって、少年が父親にこっぴどく叱られたことは言うまでもない。
ひとは初めて失ってから、やっと大切だったものに気づく。
そういった時間もまた同様に、無邪気でいられた時代だと気づいたときには、もうすでに過去となっているもの。
それは何とも呆気ないほどに、指の隙間からこぼれ落ちていく。
そして、そのあとに目にするものといえば、気づきたくもなかった現実の不条理と、それまでは見えてこなかった手枷と足枷である。
少なからず、誰であっても一度は途惑うものだろう。
ついこの間までは美しく見えていたはずの景色が、そんな他愛のないきっかけで、全てが歪んで映ってしまうのだから。
あとは、それらを素直に享受するか。あくまで抵抗を試みるのか。ただ、どちらを選択したとしても、そういった柵からは決して逃れることはできない。
そうして無邪気だった子供は、現世の泥や埃にまみれて大きくなる。ひとはそれを成長と呼んだ。
生き抜く為には避けられない事実だ。押し寄せる現実を受け入れ、それを許容し、いつしか意識さえしなくなる。そういった類に思考を巡らすことの愚かさに、はたと気づかされる。
それが何も悪いということではない。
くすんだ視界の中で、幾つかの奇麗な宝玉を探しながら、少なくとも一定の拍子で脈うつ鼓動が止むときまで、ひとは何かを掴み取るために生きなくてはならない。
きらきらと輝いていたはずの世界が、どのような容に変貌を遂げようとも、喩え、それが暗闇の中を彷徨うことになろうとも、その歩みを止める訳にはいかないのだ。
何かを求めることで必死にもがき苦しみ、子供のように泣き叫んで、それでも己の意志を貫くような眼差しを決して伏せない。そういう者こそがきっと、誰よりも強く、誰よりも優しくいられるのかもしれない。
その瞳は美しい。
好奇心に満ちた眼差しは、少しだって変わることなく未来を見つめている。ただ、自分が何を求めているのか、それに気づけていないだけだ。
とても身近にあるというのに、それでいて易々と見失いがちなもの。それはたった一つの温もり、単純な衝動に似通っている。
旅路の途中で見つけた幾つかの奇麗な宝玉は、見失ってしまった大切なものを、探し出す為の道標となることだろう。
そこに一つ。傷だらけの玉石が微かな光を放っている。
失意や怨嗟という腐泥にその身を浸しながら、いつしか心の痛みが止んでくれることを、そして、何処かで救いがあらんことを切に待ち望んでいた。
闇夜に無数の影が蠢く。
陰謀などの企みが動くのは、およそ月明かりのない頃合だと決まっている。
標的はひとの背丈を越える築地の中にあり、周囲には堀まで巡らされている。ヤマトの京、白檮原からほど近い、ある豪族の邸宅だ。
影は音もなく這いずり回り、包囲を縮めていくように館の四方から闖入する。
目的を果たす為であれば、邪魔になる者も容赦なく排除し、冷やかな白刃が振るわれるごとに、おびただしい鮮血が至るところで飛び散った。
鼻をつくような臭気と、呻くような断末魔。温もりを失った亡骸は、夜更けの闇に溶け込んでいく。
春先の霞が立ち込める中、篝火に炙り出された無数の影は、魚が水を得たように踊り狂う。それはまるで、生類の性をありありと示すかのようだった。
抗う術を持たない脆弱な生命は華と散り、強者の踏み台として大地に横たわる。古今東西に寄らず、それが世の常といえよう。
幾つかの影が寝殿の戸口から流れ込むと、ところどころに灯っていた明かりはふっと立ち消えて、そのうちに叫喚の声が周囲に木霊した。
図太い喚声と女たちの泣き叫ぶ声。暴れまわるような物々しい騒音が響く。
ほどなく、館の屏風や障子が真紅に彩られて、生温かい鮮血が簀子をつたって溢れ出た。
戸口の傍らには、女中の亡骸が三体ほど横たわり、刀剣を手にした男たちも、数人ほど血の海に沈んでいる。まさに、その場は修羅と化していた。
蛮行に及んだにも関らず、影たちは少しも意に介さない様子で、悠々と屋敷内を隈なく物色し始める。
組織立っての手際のよさや、慌てる素振りもみられないことから、彼らが単なる暴徒や、群盗のような輩でないことは、その手口から一目瞭然である。
金目の物を台車へと運び込み、館の者を見つければ女子供に関係なく斬り伏せた。
肉を引き裂く物音と、血しぶきの吹き上げる音。そして、かなぎり声のような阿鼻叫喚が辺りに響き渡る。
奥ばった部屋の隅には、小さな子供をぎゅっと抱き留めて、怯えるような眼差しをくべる女性が蹲っていた。
身につけている上等な衣から察するに、主人の妻といったところだろうか。
彼女の周囲を取り巻くように、鮮血でまみれた切っ先が何本も向けられている。
身体を動かすだけの隙間すら与えられず、あとは目の前で起こる出来事を、つぶさに見つめていることしかできなかった。
「私が廷臣と知っての狼藉か!」
その傍らにある寝間では、前に突き出した下腹を露にした中年の男が、五人の影に囲まれながらも必死の形相で吼え叫んでいた。
男は剣先を振り払って威嚇するも、その太刀筋は情けないほどに拙いものだった。
でっぷりと太った身体も細かくうち震えていて、奥歯の擦れ合う音が絶え間なく鳴っている。
余りにも無様なその醜態に、影たちも嘲笑を禁じ得なかったようで、そのうちに影の一人が「これが武勇で鳴らした御仁のお姿ですか?」と、皮肉を込めて問い質す。
「このようなことをして、ただで済むと思っているのだろうな!」
中年の男は虚勢を張るのが精一杯。持てる限りの大声で怒鳴り散らしてみたものの、刺客たちに怯む様子など全くみられなかった。
それどころか、喋れば喋るほどに苛立ちを煽るようで、彼らの血の気を引かせるほどの冷徹な眼差しを見れば、漲る殺意が増幅していくのがよく分かった。
このままでは確実に殺されてしまうことを悟った男は、意を決して肥満の身体を乗り出すと、喊声をあげて一心不乱に剣を振るった。
元を辿れば、この男は一軍を率いるほどの将だった。嘗ての戦功により、大王から当地を授かったほどである。
それ故に、自分の腕がどれだけ錆びついているかも知らないで、この窮地を切り抜けられるだけの自負が多少なりともあったのだろう。
刺客の包囲を掻い潜りさえすれば、あとは妻子を伴って逃げおおせるものと、本気でそう信じていた。
しかしながら、その切なる思いも虚しく、身の毛もよだつほどの鋭さで白刃が横切って、剣を携えていたはずの右腕は、あえなく一瞬のうちにはね上げられてしまった。
間もなく、男の腕は力なく床にごろっと転がり、握っていた剣が落ちたときの金属音が、周囲にけたたましく木霊する。それから少しばかり遅れて、鮮血の滴る音がぽやぽたと耳につく。
余りにも鮮やかな太刀筋だった為か、神経に痛みが伝わるにも時間を要したらしい。もんどりうつ男の呻るような悲鳴は、程なくして皆の耳へと届いた。
妻は阿鼻叫喚し、その胸で視界を奪われた子供は訳も分からず、わんわんと泣くばかりだ。それが耳障りで煩わずらわしかったのか、刺客の一人が黙らせようと彼女を足蹴にする。
「だ、誰の差し金だ!」
男が呻きながらそう叫ぶと、腕を奪った影に向かって怨嗟の眼差しをくべた。
「お前が知る必要はない」
低く重たい声は、まるで心ここにあらずといった様子で、冷淡な口調で答える。
床に転がった燭台に照らし出された姿は、思いのほか幼さの残った面構えで、日常の中で出会っていたとすれば、どこにでもいるような若者だと、気に留めるようなこともなかっただろう。
それがどうだ。闇夜の道を歩んでいるせいか、その瞳は明らかに光彩を失い、表情からも人間らしい色味さえ感じられない。
これまでに一体どれほどの生命を奪ってきたというのか。顔に幾つも刻まれた傷痕と、どこまでも深く冷淡な眼差しが、その全てを明々と物語っていた。
「私が何をした!」
領主が死力を尽くして搾り出した喚声にも、傷だらけの青年は少しだって表情を変えることもしない。
それどころか、冷やかな眼差しの奥底で、止め処ない義憤を滾たぎらせているようにさえ思えた。
「……それなら、貴様には何一つ不義はないと?」
青年が淡々とそう訊ねるが、領主は聞き終わるよりも早く「当然だ!」と、怒号のように返答する。
それも束の間、先ほど片腕を落とした青年の剣が一閃し、今度は右足の太腿を事もなげに貫く。
「国の租税と称して、民から必要以上に毟り取り、それで私腹を肥やしているのではないか?」
肉を引き裂かれた激痛により、悶え苦しみながらのた打ち回る領主を前にしても、青年は涼しげな面持ちのまま、淡々とそう問いかけた。
それを端で見ていた他の刺客たちも、まるで見世物でも愉しんでいるかのように、やんややんやと手を叩いて囃し立てる。誰一人として、青年の陰湿な行動を窘める者はいなかった。
「守るべき領民を虐げる。貴様らが死ぬ理由など、それだけで十分だろう」
青年がそのように咎めたてたところ、領主は苦悶で閉じていた目をかっと開いて、まるで居直るかのように呵呵大笑した。
「何を戯たわけたことを!」
それから間髪入れず、
「大王より賜った領国だ。その民をどうするかなど、私の一存で決めて何が悪い!」と、さも当然のように喚き散らす。
「そもそも、この地の民は愚かにも、国をうちたてようとする大王に抗った経緯がある。本来であれば、奴婢として扱うべきところを、大王は寛大な御心で土地に残ることを赦されたのだ」
領主は自分の行為を正当化するように、訥々(とつとつ)と話してきかせた。それが刺客たちの憤懣を誘うことになろうとは、全くもって思いも寄らなかったようだ。
「その恩義に報いる為、愚民どもは我らに従うべきであろう。喩え、全てを毟り取られることになろうともな!」
領主が当然のごとく言ってのけてしまうのと、ほぼ同時の出来事だった。
怒号と共に何筋もの凶刃が閃いたかと思えば、肉づいた身体に次々と突きたてられた。
肉を引き裂く鈍い物音が聞こえて、そのあと白刃をつたう血が床を叩く音が響いた。静まり返った室内で、それは一定の拍子を刻んだ。
少し時をおいて、領主は口からわっと鮮血を吐き出し、眼前に屹立する青年を、ひどく恨みのこもったような眼差しで、ぎょろりと仰ぎ見た。
そんな光景を目にした青年は、それとはまさに対照的な表情を浮かべている。ここに至って、ようやく初めて相好を崩した。片頬を歪めただけの穿った微笑である。
「貴様が目障りだったようだぞ」
また、少しばかり空いて、青年は嘲笑するかのような軽やかさで語りかけた。
「これで我が主も安堵されることだろう」
次いで、淡々とした口調で続ける。
「争乱の火種となる者など『この国』には必要ない。そのように仰られていた」
含みをもたせたような口振りに、領主はそれで何かを察したのか、まるで凍りついたように一瞬で表情を強張らせる。ヤマトをこの国と呼称できる人物など、ただ一人だけに限られるからだ。
領主が放心したように呆けていたところに、青年はおもむろに顔を近づけて、なおも鼻で笑いながら、その耳元でそっと囁く。
「東国と通じて、保身に走るような者も、な」
「な、何を馬鹿げたことを……」
領主はそう言いたかったのだろうが、臓腑から込み上げてくる大量の出血で、まともに言葉を発することも儘ならなかった。途切れ途切れになる呼吸を、どうにか繋ぎとめるだけでやっとだ。
「あの方にとっては、貴様も愚民と称していた領民たちと、さほど変わるものではなかった。つまりはそういうことさ」
青年は喜悦を得たような微笑を浮べて、領主の頬を何度か優しく叩くと、静かにすっと身体を起こし上げた。そして、手に携えた剣を頭上まで持ち上げる。
「なあ」と、声をかけてから、
「虐げられる気分はどうだ?」
そう問いかけるのと同時に、頭髪を掴み上げて血塗られた剣を颯と振るう。
領主の首が無造作にごろりと転がり、あとに残った福々しい四肢も、ゆっくりと揺らぐように崩れ落ちていった。
それを目の当たりにした妻は、ほどなく現実を受け容れることができたのか、幾度も「貴方!」と、声が枯れようともお構いなしに絶叫し続けた。
そうしたあと、今度は思い出したように刺客たちを睨みつける。憎悪や怨恨で満ちた眼差しは、まさに鬼の形相そのものである。
「この人でなし!」
かなぎり声のような怒声で、罵詈雑言を泣き喚く。
涙ながらの扱き下ろしにも、青年に気が咎めるような様子はみられない。他の刺客たちに家財の捜索と、討ち漏らしのないように的確な指示を出していた。
そうしているうちに、彼女の周囲は主導者たる青年を含めて、わずか五人だけとなった。彼らは妻と子供をどうするのかと青年に指図を仰いでいる。
「私たちに何の恨みがあるというの!」
「あんたらへの恨みと憎しみなら、この身体が腐ってしまいそうなほど詰まってんだ」
彼女の懸命な詰問にも、そのうちの一人がまるで叱責するかのように、怒気を孕ませて怒鳴りつけた。
「俺たちがどれだけ辛酸を舐めてきたか。のうのうと暮らしてきたお前らに、分かるはずもないよな」
さらに畳みかけるかのように、別の刺客が棘のある言い方で責めたてる。
「あ、貴方たちのことなんて知るはずないじゃない!」
「まあ、そうだろうな。足元を這いずり回る蟻ごときに、あんたらが見向きするとも思えない。それでも知る必要があったんだ。だから、こんな悲惨な目に遭う」
「それは……」
刺客たちの思いがけない糾弾に、妻はそれ以上何も言えず、言葉を濁すしかなかった。
これまで夫の施政に興味を抱くこともなければ、民衆の生活など少しも考えてこなかったからである。ただ、物に溢れる生活を謳歌していた。それだけのことだった。
「でも、それくらいのことは他の領主だって、当然のようにやっていることじゃない!」
彼女が開き直ったように言うと、その瞬間に乾いた音が鳴る。ついに業を煮やした刺客の一人が、彼女の頬に痛烈な平手打ちを食らわせた。
その勢いが余りに凄まじかったのか、領主の妻は仰け反って床へと打ち伏してしまった。
「略奪者のくせして、何を戯言をほざいてやがる!」
刺客はそれでも収まりがつかないのか、鋭利な剣先を差し向けて罵声を浴びせかけた。
「もういい。こいつらに何を言っても無駄だ」
青年はため息をまじえながら刺客を窘めてから、領主の妻と向かい合うように身を屈めた。
「すぐにあとを追わせてやる」
何でもない作業をこなすかのように、青年は淡々とそう言ってのけた。すると、領主の妻は潤んだ瞳から溢れ出す涙と、腫はれた口唇から滴り落ちる鮮血をそのままに、
「この子だけは、どうか見逃してあげて」と、胸に抱き寄せた我が子の命乞いをする。
母親の懸命な懇願だったにも関らず、青年は眉一つ動かすことなく、小さく首を振ってみせた。
「幼子であっても、俺たちは容赦しない」
それが答えだった。領主の妻が袖を掴んで、どれだけ慈悲に縋りつこうとも、冷やかな眼差しに人間らしい光彩が灯ることはなかった。
青年は必死に掴みかかる妻の手を払い除けて、悠然と腰を上げようとしたところ、一瞬の隙をつくように鋭利な閃光が眼前をかすめていく。
小さな握りこぶしが二つ。短刀の束をしっかりと握り締めていた。
先ほどまで泣き喚いていたはずの幼子は、まるで歴戦の勇者といったのような眼光を放ち、大切な母親を守ろうと躊躇うことなく白刃を繰り出したのだ。
迷いのない刃は青年の頬を深く切り裂いた。それとほぼ時を同じくして、幼子の左胸を血塗られた剣の切っ先が容赦なく貫いていた。
おそらくは即死だったのだろう。幼子は声を発することなく、安らかに眠るような面持ちで小さな身体をぐったりと横たえた。
その手で子供を殺めた青年は、小さな身体から淡々と剣を引き抜くと、頬に負った傷を袖で拭ぬぐい、何を思ったのか、ふと柔らかな微笑を浮べていた。
「見事な太刀筋だった」
幼子の放った決死の一撃に、青年は初めて人間らしい温かみを忍ばせて、そのように賛辞を送った。
愛する幼子が目の前で殺された。
領主の妻は現実を受け入れられずにいるのか、両目をひん剥いて幼子の名前を何度も呼び、横たえた亡骸に縋りつく。
彼女の手のひらや衣は、見る見るうちに滔々(とうとう)と流れ出る鮮血で染まり、世にも怖ろしい形相で子守唄を口ずさみはじめる。
その光景を前にして、刺客たちの中にも目を背けてしまう者はいた。
それでも、手にかけた青年はほんの僅かに微笑んだまま、親子の遣り取りを少しばかり眺め入っている。
そして、ゆっくりと二人の側へと歩み寄ると、剣をそっと母親の首筋に当てて、間もなく薙ぎ払った。苦しむことなく逝けたのか、彼女の死に顔はどこか安らかで、赤子を寝かしつけるような柔和な眼差しだった。
「およそ片がついたようです」
刺客の一人がそう告げれば、青年は元の無表情に戻って「退け」と、他の者を伴って血染めの屋敷から、あっという間にその姿をくらましていった。
この血生臭い一件により、ヤマトに従属する豪族たちは、一往にして肝を冷やすことになる。
非情な搾取を控えるようになり、水面下での調略を断ち切ることにも繋がった。
高千穂の地から東進して、ようやくヤマトの地に拓いた国は、幾多の豪族の支えなくして、国の威信を保つことはできなかった。
かといって、彼らをのさばらせたままでは、ひとたび反旗が起ころうものなら、国の権威など易々と吹き飛んでしまう。
それほどまでに、この頃のヤマト王権は脆弱であったという他にない。それ故に、政の舵取りにも、細心の注意を必要とした。
どのような小さい芽も見逃せない。少しでも異変があれば、早急に摘むことが肝要なのである。
白檮原の地に京を築いてからというもの、およそ十余年という歳月を費やしたが、今はまだ陽炎のようなものでしかない。
東国には強大な勢力が蔓延り、統治下にあった西国でも、未だに不穏の種が常につきまとう。豪族たちの動向如何で、倭国初めての集権国家はたやすく瓦解する危険性を孕んでいた。
しかしながら、偉大なる大王、伊波礼比古の手により、白檮原の街並みは著しく発展を遂げて、各地より人と物が行き交う京となった。
日増しに高まる権威と統制。それに伴って、月のみえない闇夜のような惨劇が生じてしまうことは、どうしても避けられないのかもしれない。
国の容を成そうとしていた時代。
それは光と闇。その光が余りに強いのであれば、それだけ闇も深みを増すものだ。歴史という大河を前にして、たった一人の生命など言うに及ばない。
今まさに、この国は歴史的な局面を迎えている。その渦中で、どこまでも無垢だった少年の戦いは、屍の上に築かれた街から始まる。