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(仮)やまと  作者: 田中 彰
古事記
2/88

国史編纂

 高御座に腰かける女帝は、彼のそのような心境を知ってか知らずか、漫然と笑みを覗かせて見据えていた。



その花顔は慎ましくも慈愛に満ち溢れていて、謁見した者は皆、一往(いちおう)にして母親のような安心感を覚える。大らかであり何とも穏やかな、まさに揺るぎのない優しさを湛えている。



五十近くで帝となった彼女が、それほどまでに大きな存在となるには、数奇な運命に翻弄されてきたことが起因している。



夫であった草壁皇子(くさかべのおうじ)は若くして早世し、二人の間に生まれた珂瑠皇子(かるおうじ)も、帝となって十年ほどで崩御してしまった。



遺された孫の首皇子(おびとのおうじ)はまだ幼年だった為、彼が成長するまでの中継ぎとして、彼女は帝に即位することとなる。



幾度の悲嘆に打ちひしがれようとも、そこで立ち止まっていることは赦されない。



先帝の治世で審議されてきた遷都を推し進めねばならず、律令(りつりょう)の法体系も施行されたばかりで、問題は至るところに山積していた。



彼女の双肩にはそういった重責が圧しかかり、誰よりも強く、凛々しくあらなくてはならなかった。



だからこそ、今上帝(きんじょうてい)としての威厳を担っていられる。少なくとも、そう演じなくてはならない。喩え、高御座が針の(むしろ)に包まれていようとも。



(おそ)れながら、太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)。謹んで帝に拝謁申し上げます」



「安万侶よ。遷都で多忙のところ、ご苦労であったな」



定型どおりに平伏する安万侶の耳に、銀鈴を鳴らせたような帝の嬌声が聞こえる。とても高齢の女性とは思えないほどの艶やかさを匂わせた。



「し、臣下とは常に従順であり、しゅ、主上(しゅじょう)のご意思に背くなど、断じてあり得ませぬ!」



それは思いのほか大声で、余りにたどたどしい答弁だった。安万侶も一瞬のうちに顔色を変えて、恥じ入るように身を縮こまらせる。



そもそも、安万侶ほどの中級官吏であれば、大極殿に召喚されることも稀なことである。尚のこと、思いがけず帝の玉音に触れたのだから、のぼせ上がって気が動転してしまうのも致し方ないのかもしれない。



帝は口もとに袖を添えて微笑み、左右に列する諸官からも微かな笑声が漏れ聞こえてくる。





 ところが、その(なご)やかな雰囲気を、たった一つの咳払いが霧散させた。官吏たちは飼い馴らされた犬のように身を正し、大極殿の中は静寂に包まれる。



此度(こたび)、そなたを呼び寄せたのは他でもない」



聞こえてきた声は威厳めいて、何とも重々しく響く。それから程なくして、帝の傍らに控えていた声の主は、悠然と半歩ほど前に進み出た。



まずは高御座の帝に首を垂れ、その鋭い眼差しを安万侶へと投げかける。朝廷を牛耳(ぎゅうじ)右大臣(うだいじん)藤原不比等(ふじわらのふひと)である。



耳から顎にかけて、うっそうとした白髭を蓄え、痩せこけた蒼顔に切れ長の目もと。その目に睨まれた者は血の気を失い、ひとたび黒ずんだ唇が動けば、理路整然とした講釈に誰もがひれ伏す。



まさに、(ちまた)で評判通りの風貌。痩身の老人とは思えないほどの威圧感を放っている。



彼はそもそも昇殿もままならぬ下級官吏でありながら、先帝の即位に尽力した功績によって、今上帝の厚い信任を得ることになった。



律令の編纂(へんさん)に始まり、遷都の施行や地方統制など、その働きは多岐にわたる。今や、宮中において不比等の権勢を妨げる者など、誰一人としていなくなってしまった。



「先だって新しき律令も施行し、我が国の京もこれより一層の発展を遂げようとしておる。だが、この国が大陸と肩を並べるには、未だに足りぬものが一つある。それが何か分かるか?」



不比等は蒼顔に冷やかな微笑を浮べて、恭しく身を屈している安万侶にそう訊ねた。



しかしながら、日常の政務に追われてばかりの安万侶に、大勢を捉えるような余裕などなく、当然のことながら質問に答えられるはずもない。



「それがしのような者に、国の大事を図ることなどできるはずがございませぬ」



そのように答えて、ただただ恐縮することしかできなかった。



すると、不比等はため息をまじえて白髭をしごき、



「そなたの見解でよい。申してみよ」と、敢えて回答を求めた。



 安万侶は窮する中で、これ以上の恥を上塗りする訳にもいかず、必死に思案を巡らせているうちに、自分にできることは何かを考えるようになった。



遷都を執行する立場になく、地方に出向いて裁定を下すこともない。賊徒を平らげるような武芸や度胸もなければ、不比等のように並外れた才覚も持ち合わせていないのだ。



いつの日も流れてくる書面と向かい合い、おかしな箇所がないかと目を光らせる。それが自分に似合った生き方であることを思い知るのである。



何の間違いか、政事を(つかさど)る大極殿に呼ばれ、柄にもなく舞い上がってしまっていたことを、どうしようもなく恥じずにはいられなかった。



自分にできることなど限られている。それに従うまでだ。心のうちで気持ちが固まれば、先ほどまでの浮き足立った感情は少なからず和らいだ。





 安万侶は気息を整えると、不比等に向かって慇懃(いんぎん)に首を垂れた。



「それがしは各地より寄せられる情報を、一つひとつ正確にまとめる役目を与っております。言ってしまえば、それしか能がございませぬ」



「うむ、それで?」



不比等の重々しい相づちに、安万侶は思わず息を飲んで、どうにか挫けてしまわないように奥歯を噛み締めてから、うち震える口唇で続ける。



「畏れ多くも、主上がそれがしをお召しになられたのは、物事を正確に読み解かねばならない事案がある為かと存じます。すなわち、大臣の問いに答えるならば、この国の在りようを明らかにすることかと」



その口振りは内心とは相反して、実に清々しく明朗な応答だった。



程なく、大極殿は官吏たちのざわめきで騒然となり、不比等の質問の意図や、安万侶の見解について口々に議論し始める。



当の不比等はといえば、深く刻まれた(しわ)を微動だにせず、わずかに高御座を見遣ってから軽く首を垂れた。



帝は微笑を絶やすことなく、涼やかな嬌声で「安万侶よ」と、彼の名を呼んだ。すると、騒がしくなっていた大極殿は、湖面に波紋が広がるように、そっと静けさを取り戻していく。



「そなたの優れた見識を、国の為に役立てておくれ」



思いがけない帝の言葉に、安万侶は呆気にとられて呆けたままでいると、また傍らから不比等の怪訝な咳払いが聞こえてくる。不比等は無礼であろうと言わんばかりに、冷淡な眼差しを安万侶にくべていた。



「ははっ。主上のご下命であれば、どのようなことであろうとも死力を尽くして臨む所存!」



安万侶は咄嗟に大声を張り上げて、飛び跳ねるような心地で平伏する。



それは間違いなく本心であったが、その心うちは実に複雑なもので、これから告げられる沙汰(さた)に対して、言いようのない不安と焦りが胸中で渦巻いていた。





 そんなことなど露知らず、不比等は悠然と手元の木簡(もくかん)に目を移し、やや呼吸を整えてから(みことのり)を恭しく読み上げ始めた。



「其の方はこれより旧辞(きゅうじ)、帝紀をよく(えら)んで(ろく)し、国史の編纂に務めるべし」



 勅命を耳にしながらも、まるで夢の出来事のように思えて、安万侶には事の次第をすぐに理解することが適わなかった。



これまでもさまざまな事業に従事してきたが、自らの手で国の歴史を(つむ)ぐという重大な構想に、まさか携わることになろうとは思いもしなかったからだ。



「国史は国の根幹を顕すもの。それ無くして国家は成り立たぬ。これは清御原(きよみはら)の帝から長年の念願でもあり、国内外を問わず、皇室の正当性を示す為にも最重要の事業となろう」



茫然とする安万侶を余所に、不比等は尚も淡々と言葉を続けた。



清御原の帝とは、今上帝より(さかのぼ)ること、三代前の帝である。現在では天武天皇と呼称されている。



簡潔明瞭な説明だったが、平生なら理解できるようなことでも、思いがけず重責を突きつけられた安万侶は、その意図を理解するまでに多少の時間を要した。



不比等の口にした旧辞と帝紀とは、かつての内乱において、すでに焼失してしまっている。それは周知の事実だというのに、この世に無いものから撰んで編纂せよとは、一体どのようにせよと命じられているのか。



考えれば考えるほど当惑する安万侶に、易々と検討のつく話ではなかった。その顔つきもいつの間にか険しいものとなっている。



すると、そのうちに高御座より軽やかな笑声が聞こえてくる。


玉座の帝は安万侶の思い悩むような表情に耐えかねたのか、口もとに袖を添えながら可憐な笑顔を綻ばせていた。



和やかに微笑んでいる帝につられて、参列する官吏からも緊張を解くような笑声が沸き起こった。


しかし、それも権力者の不機嫌そうな咳払いによって、あっという間にどこかへ霧散してしまうことになる。



「心配の種は旧辞と帝紀であろう。そのように心配せずとも、それについて抜かりなどない」



不比等は重々しい口調で叱責するように言い、一拍ほど間をあけて再び口を開いた。



「女官に稗田阿礼(ひだあれい)と申す者がおってな。その者は清御原の帝より旧辞、帝紀を余すことなく暗誦(あんしょう)するよう申しつかっておる。その方は阿礼の述べることを記し、書物として(あらわ)せばよい」



それを聞いて、安万侶も「なるほど」と、ようやく得心がいった。



要するに、恐ろしいほどの膨大な書簡に頼らずとも、その稗田阿礼という女官の暗記した内容を、自分を含めた官吏が纏めて記せば済む話なのだ。


それだけであるならば、普段こなしている職務とさほど変わりない作業だといえた。



安万侶は安堵するのと同時に、どこか肩透かしを食らったような気分となった。



これまでの歴史を紡ぐといえば大層に聞こえるが、その内情といえば、たかだか女官の暗誦を書面に纏めるだけのことで、別に誰がやったところで大した違いなどあろうはずがない。



政治の中枢たる大極殿で、わざわざ(おおや)けにするほどの事業だとも思えず、それほど魅力的な職務だとも感じられなかった。



それでも、勅命をもって任じられたからには受けざるを得ず、安万侶は(うやうや)しく首を垂れて、



「謹んで(うけたまわ)りましてございます」と、そう答えるより仕方なかった。



官吏たちはすぐに歓声で沸いたが、中には嘲笑するかのような囁きも彼方此方(あちこち)から聞こえてきて、何とも釈然としない受任となった。



中級官吏にはそれくらいの仕事がお似合いだ。


せいぜい女官と仲睦まじく楽しむとよい。


そのような下らぬ庶務が自分に回ってこなくて助かった、などなど。囁き合う官吏たちの、心の中が透けてみえて疎ましくさえ思えた。



ところが、周囲の声など物ともせず、権力者たる藤原不比等は、その冷厳な眼差しで安万侶を注視したままだった。



「安万侶よ」



その老人の一言で、辺りは一瞬のうちに静寂で包まれる。



「我が国の歴史はどの国より雄渾であり、壮大でなくてはならぬ。そして、主上は常に揺るぎなく正中(せいちゅう)。それはこれまでも、これより先も未来永劫変わることはない」



安万侶は「ははっ」と、率直に答えるも、その言葉の意図する真意を、はっきりとは理解できずにいる。



「決して忘れてはならぬぞ。その方の役目は、正しい国史の編纂にある」



不比等はやや強めた口調で重ねるようにそう言うと、高御座を横目でちらりと窺い、静かに一歩引き下がって官吏の列へと戻っていった。



「私も心待ちにしていますよ。この国はようやく歴史を持つことができるのですから」



穏やかでありながらも凛然とした帝の言葉を(たまわ)り、安万侶は慇懃に礼を尽くして、早々に大極殿を辞去した。





 にぎやかな大路を歩く安万侶の心境といえば、それはひどく複雑なものだといえた。その原因は言うまでもなく、不比等の含みをもたせた発言にある。



敢えて「正しい」と添えることで、安万侶に何を示唆したかったのか。正しく旧辞と帝紀にある故事を纏めるだけなら、あのように回りくどい言い方をする必要性などないからだ。



そもそも、先だって施行された律令や、早急に築かれている新しい京も、帝を中心とした国づくりを形成していく為の事業である。


此度の国史の編纂も、それらと同様に国家の正当性を示すことが求められることになるだろう。



大陸の国々に見劣りしない歴史。



国を治めるべき帝の正統な系譜。



氏族の出自や序列などを記さねばならず、安易に史実を纏めるというよりは、これから先の未来にも大きな影響を及ぼしかねない。



たとえば旧辞、帝紀には、良くも悪くも帝の行状が有体に記されていて、中には正当性を揺るがす記述だって存在するかもしれない。



それをある種、正しい史実として認知するとすれば、これから築こうとしている国の根幹を圧し折ることになるだろう。



まあ、そうはいったところで、あの怜悧(れいり)な藤原不比等が、そのようなつまらない失策を犯すとは思えなかったが。





 安万侶は雑踏の中で、ふと足を止めた。余りにも畏れ多い結論が脳裏を過ぎったからだ。



要するに、彼の構想する国を創る為ならば、史実の改ざんも(いと)わない。大国の(とう)にも負けぬ歴史を紡げ、と。不比等はおそらく、そのような本旨を安万侶だけに伝えたかったのだろうか。



中級官吏をわざわざ大極殿に召喚したのも、容易く国史編纂だけを命じていないことを、案に掲示したかったと考えられなくもない。



また、国を挙げての大事業の一環として、官吏たちに認識させる必要もあったのだろう。そう考えると、なるほど。大仰に受任する必要があったことにも、それなりに合点がいく。



しかしながら、それでは臣下の自分が不比等と示し合わせて、国の根幹たる帝を欺くことにはならないだろうか。


一抹の不安がよぎる。それでも、帝の御前で拝命したからには、この職務を全うするより道はない。自分にはできないからと、放り出すにはもう遅すぎた。



安万侶はぐっと奥歯を噛み締めて、国史編纂という大事業。いや、大仰にいえば、国史の改ざんに手を染める覚悟を固めなければならなかった。



まずは、(くだん)の稗田阿礼と面会するべく、不完全な京の大路を抜けて、彼女の住まう住居を目指す。



彼の何でもない一歩一歩が、この国の行く末を定めることになる。当然のことながら、今の安万侶にはそのような自覚は微塵もない。



それを知る為には、遥かに時を経る必要がある。彼の記した書物は、現在までも日本という国の根幹を為すことになるのだから。





 大極殿を後にして、朝堂(ちょうどう)を抜けるとき、幾人もの官吏が寄ってきては、興味本位で好き放題に声をかけてきた。



「つまらぬ職務に携わることになったな」と、安万侶のことを案じて言う者もあれば、表面的には心配するように「せいぜい粉骨砕身してお勤めなされ」と、心で嘲笑する者だって何人もいた。



そういった有象無象が去ったのち、仲の良い同僚が眉をひそめてやってきた。彼は少しでも安万侶の助けになろうと、すぐに稗田阿礼について調べてくれたのだという。



それが何とも不可思議な情報だった為に、その表情はどうにも難色を示していた。





 彼が言うには、第一にこの十年余りもの間、稗田阿礼という女官の姿を見た者が皆無であること。



また第二に、清御原の帝の御世より仕えてきたようだが、官吏としての実績や形跡が全く見当たらなかったこと。



そして極めつけとなるのが、朝廷の女官たちに問い合わせてみても、彼女の存在すら(いぶか)しむ声まで挙がったほどだ。



よくよく年月を計算してみれば、阿礼の年齢はすでに齢五十を超えている。寿命から鑑みても、すでに没していたとしても不思議ではない。それにも関らず、ほんの僅かな情報ですら見つけられなかったという。



たった一つだけ分かったことといえば、すでに此方へと転居していること。京から少し外れた閑静な田園の中に、ぽつりと彼女の屋敷があるらしい。



同僚の官吏はその身を案じるものの、勅命はすでに下っており、安万侶を留めることはもうできない。



「何も取って食われるという訳でもあるまい。そのように心配するな」



安万侶は努めて明るく振舞い、同僚の肩を二、三度ほど軽く打って「手間をかけた」と労ってから、朝堂より朱雀大路へと向かっていった。



不安がないかといえば、嘘になる。けれど、彼女のもとを訪ねないかぎり、事が始まることはない。そう意を決して、大股で喧騒の中を抜けていく。運命という不確かなものに、その背中を押されるようにさえ思えてならなかった。





 尾花の穂が秋の涼やかな風にそよぐ。高く晴れ渡った空を見上げながら、どこまでも行けそうな足取りで歩んでいた。



黄金色で彩った田園風景の中に、稗田阿礼の質素な屋敷はひっそりと佇んでいた。とても帝に仕える女官のものとは思えないほど、物寂しい風景に馴染んだ家屋である。



いつ建てられたかも知れない古びた門を眼前に、先ほどまでの昼下がりの心地良さはどこへやら。



安万侶は背筋に冷たいものを感じつつ、ごくりと固唾を飲んでから、苔の生えた門を手のひらで打った。



ところが、いくら待てども無しの(つぶて)で、これといって反応する素振りもみられない。



耳をすませてみても、遠くで童たちの声と虫の声が聞こえるだけで、門の向こう側からはわずかな物音すらしていなかった。



安万侶は拍子抜けしたような心地で、このままでは(らち)が明かないと思い、今日のところは出直そうと思い立った、まさに、そのときのことだ。



「おじさん、どなた?」



不意に、背後から透き通るような声が聞こえてくるではないか。それも限りなく近しいところからである。



屋敷の前に着いてからというもの、足音もさることながら、人の気配など一切感じなかったはずなのに、今でははっきりと、背後に人が居ることがひしひしと伝わってきている。



安万侶はおそるおそる振り返ってみれば、いつからそこに居たのか、色白の童女が佇んでいるではないか。



まだ七、八歳ほどの彼女は、かすかに首をひねるような仕草をしながら、そのつぶらな瞳を安万侶へと注いでいた。



「何かご用?」



一拍ほどして、童女は不思議そうな面持ちで問いかける。



余りに突然のことで、未だ状況を飲み込めないままの安万侶は、まぬけにも口をぱくぱくさせることが精一杯で、声を発することもできずに棒立ちとなっていた。



「うふふ。どうしたの、おじさん。もしかして、お魚さんの物まねをしているの?」



そう言って、屈託なく笑う童女に、安万侶はまるで呪縛を解かれたかのように、ようやく息を吐き出すことができた。



そうやって呼吸を繰り返すことで、次第に冷静さを取り戻していき、彼女の身なりを(うかが)う余裕も持てるようになる。



二本の足は確かに地面へと着いており、朽葉色の衣から雪のように白い肌がのぞいている。垂髪は後ろで奇麗に束ねていて、その風采は見るからに女官を模しているようだった。



推測するに、どうやら彼女は近郊の河川まで、炊事の水を調達しに行ってきた帰路といったところだろう。



両手に携えた(おけ)には並々と()まれた清水。それと、懐には疫病草(えやみくさ)の青紫色の花弁が幾つかのぞいていた。



「そなたは屋敷の者かな?」



安万侶は童女が笑い終えるのを待ち、咳払いをしてからそう訊ねた。



すると、童女は素直にこくりと(うなづ)いてみせる。



「ここは稗田阿礼殿の邸宅で相違ないかな?」



また訊ねると、童女も先ほどと同じように、澄んだ眼差しで頷いた。



この娘は屋敷に仕える下女であるらしく、重そうな桶を小さな身体で軒先(のきさき)まで運び、こじんまりとした握りこぶしで軽妙に何度か門を叩いた。



それからほどなく、きしむような物音を立ててゆっくりと門が開いていき、中から背の曲がった老爺(ろうや)が現れる。



その顔はげっそりと痩せこけており、簡素な衣からむき出しになっている手足も、骨に皮膚を貼りつけたほどの細さである。



そして何より、その肌はまさに死人のものと同じ土気色を為し、生気といったような温もりを全く感じることはできそうになかった。



「随分と遅かったのう。どこで道草を食っておった」



老爺はおもむろに口で叱りながらも、ところどころ欠けた歯を覗かせて笑い、水桶を童女から受け取ると、華奢な腕でいとも容易く持ち上げてみせる。



「ふんだ。私はそんなことしないもん。ただ、奇麗なお花が咲いてたから、主上に差し上げようかと思って摘んできただけのことよ」



呆気に取られている安万侶を余所に、童女は悪びれる様子もなく、あまつさえ舌をのぞかせていたかと思えば、いつの間にか敷地の中に踏み入っているではないか。



「よくも抜けぬけと……。それを文字通りの道草と言わずして何と言うんじゃ」



呆れたように独りごちった老爺は、安万侶の方をちらりと横目で見遣るだけで、少しだって気に留めることなく、ふいっと顔を逸らせてしまう。





 安万侶は目の前で演じられる日常の風景を、ただ眺めていることしかできなかった。



幾つも疑問が思い浮かんできては消えていき、また目の当たりにしては唖然とする始末で、まるで(きつね)につままれているかのような心境である。



安万侶が門を叩いても応答すらなく、童女が拍子をとるように叩いたところ、老爺は何の気配も立てずに開門させている。これは一体どういうことなのか。



郊外に居を構えていることもあり、用心の為に門の叩き方に工夫を()らしていたとしても、客人が訪れたときにはどう対処するというのか。そもそも、招き入れるつもりなどないのか。(はなは)だ疑問である。



また、童女にしても老爺にしても、気配というものを少しも感じさせないことに驚かされる。あれだけ目の前で動いているにも関らず、足音どころか衣の擦れる音すら聞こえてこなかった。



そこに見えているはずなのに、そこには存在していないかのような、まるで海のものとも山のものともつかない、人の(なり)をしたもの。



そんなことなどありえるはずもないが、それを否定する術も持ち合わせていないのだから、今は肌身で感じ取れる現実を受け止めることしかできそうにない。



さして意味のないことに頭を悩ませる安万侶を尻目に、老爺は童女に向かって「あれは何者だ?」と、声をひそめることもなくそう訊ねた。



「ううん、知らないひと」



童女の答えは余りに素っ気ないもので、老爺もまた「そうか」と呟くだけで、そのまま古びた門を閉じようと押しはじめる。



「い、いや。少し待たれよ!」



安万侶は弾かれたように駆け出して、きしみながら閉まろうとする門の隙間をどうにか抜けて、主人の許しも得ずに敷地内へと闖入(ちんにゅう)してしまっていた。



「無礼は()びよう。しかし、訪ねてきた者に対して、あのような扱いはないのではないか」



少しばかり憤ったように言えば、老若の二人は顔を見合わせて、恥らうような苦笑を滲ませる。



「いやはや、これは失礼をいたしました。客人とは思いもよらず…」



老爺はうって変わったように、丁寧に会釈を交わしてから謝意を述べ、邸宅の方へと手のひらを差し向けて導こうとする。



「どうぞお入りくださいませ」



童女もにこやかに微笑んでそう言うと、中庭の小道を先導を務めるように進み始めた。



「さあ、こちらへ」と、その童女が誘う。



未だ身分を明かしてもいないというのに、二人は何の警戒心もみせない。先ほどとは全く異なる対応に、安万侶はどうにも戸惑いを隠せなかった。



「おや、どうかなされましたか?」



冷やかな声でそう言って、怪しくせせら笑う老爺。童女も無垢な微笑を浮べながら、つぶらな瞳で見据えたままだ。



晩秋の昼下がりといった心地良さは何処へやら。門の内側は外界から乖離しているのか、涼やかというよりも寒々しい冷風が、不意に安万侶の頬を撫ぜていく。



とんでもないところに、足を踏み入れてしまったのではないか。



そのような疑念が瞬時に脳裏をよぎった。稗田阿礼の不可解な風聞も加味する始末で、その不気味さは時間を追うごとに、彼の胸のうちで大きく膨らんでいくばかりである。



今から引き返そうにも、背後の古びた門はすでに閉ざされており、安万侶は進退きわまる状況へと、図らずも自ずから飛び込んでしまった。それを後悔したところで、もはやあとの祭りと言わざるをえない。



「主上にお会いなさるのでしょう?」





 ややあって、老爺が眉をひそめて訊ねる。



「主上もこの日をお待ちしておりました。さあ、どうぞお進み下さいませ」



色白の童女はそう言ったあと、明確に「太安万侶さま」と続けた。その口調はまるで子供の使う言葉遣いでない。先ほど老爺と遣り合っていた彼女とは、全くの別人のように思えた。





 安万侶はまず自分の耳を疑った。これほどまでに印象強い童女と、どこかで面識でもあればきっと覚えているだろうし、門前で会ってから一度も名を明かしていない。



当然のことながら、彼女が太安万侶を知るはずがないのだ。それは疑うべくもない。



「どうして私の名を?」



驚愕する余り、そう問いかけるのがやっとだった。それから少しばかりして、二人の言う「主上」という言葉にも引っかかりを感じる。



そもそも、主上という呼称とは、臣下が帝に向けて使うべきものである。それを老爺と童女が用いているのは、二人の主人である稗田阿礼に向けてであろう。



「だって、帝からそのように命じられたのでしょう」



屈託ない笑顔をのぞかせた童女は、また子供らしい口調でそう言った。



「どうしてそれを?」



安万侶が茫然として訊けば、童女はころころと笑い「また質問?」と、おどけてみせる。



「貴殿の抱かれておられる疑問については、主上がお答えくださるかと」



それは官吏が言上するような口振りで、安万侶はおもむろに声の聞こえてきた方向に視線を移すと、先ほどの老爺がうやうやしく(うずくま)って首を垂れていた。



身なりは粗末であっても、毅然としたその佇まいは、まさに高貴な官僚そのものである。



謎と疑念は一層深まるばかりだが、たしかに老爺の言うように、稗田阿礼と面会した方が色々と話も早かろうと、安万侶はちっぽけな勇気を奮い立たせて、重たい一歩をようやく踏み出した。





 庭先の小道から門廊を抜けて、母屋の回廊を童女のあとに随行して進んでいく。



彼女はまだ八歳ほどというのに、足音ひとつたてることなく、宮中の侍女たちも驚嘆するほどの洗練された所作で先導を務めてくれる。



安万侶がそれに感歎して目を奪われているうちに、童女は妻戸の前でぴたりと足を止めた。それから綿毛の舞うように振り返ると、膝を屈して慇懃にお辞儀をする。



「中へお進みください」



童女が大人びた口調で言ったあと、白く細やかな手を伸ばして妻戸を引き開ける。



その先は衝立障子(ついたてしょうじ)で区切られた空間の中に、二つの(しとね)が程よい距離を空けて並んでいる。



童女は面を上げて安万侶の顔に目を遣り、先ほどまでの子供らしい笑顔をにこりと綻ばせてみせた。どうやらこの場所で稗田阿礼を待てと、言葉はなくともそう伝えているらしい。



安万侶は内心でそわそわしながらも、そこは官吏らしく威厳をもって「うむ」と頷き、仰々しく部屋へと足を踏み入れた。



すると、背後からクスッと笑う声が聞こえてくるものの、敢えて何事もなかったかのように、堂々と褥へ腰を据える。



それにしたところで、中級の女官にしては随分と見栄えの良い館である。



周囲を見回してみれば、しっかりと塗り固められた築地(ついじ)に、ここから一望できる庭園は絶景の一言に尽きた。



前庭に掘られた池の脇には、燃えるように色づいた楓や紅葉が植樹されており、何とも華やかな彩りを添えている。



面白く折れ曲がった松の枝から、頬白(ほおじろ)らしき小鳥の声が聴こえ、吹き抜けていく風により、乳白色の壁代(かべしろ)は緩やかに波打つ。そして、どこからか仄かに(かお)る、心惹かれる甘美な匂い。



安万侶は取り憑かれたかのように時が経つのを忘れて、庭園の美しさと何とも言えない心地良さに酔い痴れていた。





 そんな折、壁代の向こう側から衣の擦れる物音が聞こえてくる。



安万侶はすぐさまたるんでいた身なりを正して、壁代越しに透けてみえる人影を目で追った。



昼下がりの陽光を浴びて浮かぶ影は、思っていたよりも背筋が伸びていて、若々しさで満ち溢れている。噂に聞いた五十歳を越える女性とは、(いささ)かの相違が見て取れた。



その人影はそのうちに見えなくなり、ほどなく衝立障子の向こうから一人のうら若き女性が目の前に現れた。



安万侶は驚きの余り、開いた口も塞がらないままに素っ頓狂な奇声を上げてしまった。妙齢の美姫。まさに、その表現が相応しく思える。



色鮮やかな萌黄色の衣、肩から下げられた純白の比礼(ひれ)、額には朱の花鈿(かでん)が施されていて、黒々とかがやく垂髪には小さな花冠が挿してあった。



そういった雅やかな服装よりも、透き通るように白い柔肌や、すっと伸びる奇麗な眉と伏せ目がちで艶めく瞳。また、所作の一つひとつが畏れ多いほど娟麗(けんれい)に映った。



彼女が物静かな足運びで移ろうたびに、室内には涼やかな鈴の音色が反響する。



チリーン、チリーンと、それはどこか、世の中の喧騒とはかけ離れたところに存在しているかのようで、安万侶はそら恐ろしさを覚える反面、張り詰めていた緊張が一気に和らいでいくのも感じている。



彼女の麗姿を目の当たりにしてからというもの、一瞬といえども目を離すことも適わない。今までにそういった経験をした覚えがない為に、自分がうろたえているのかすら分からない有様だった。





 彼が大いに動転していることなど露知らず、妙齢の美姫は泰然自若と向かい合わせに腰を落ち着かせる。それから微かな笑みを覗かせながら会釈を交わした。



「お初にお目にかかります。私が稗田阿礼にございます」



ほのかな紅色の口唇より零れた声もまた、湧き水のような清々しい潤いを含んでいた。



相対する安万侶は未だに呆然とするばかりで、年長者としての威厳や風格などもすっかり崩壊しきっている。



「あの、安万侶さま?」



ややあって、阿礼がそっと呼びかけたことで、安万侶はようやく意識を取り戻したかのように、慌てて息を吐き出した。



「こ、これはとんだ失礼を。それがしが太安万侶にござる」



思いのほか早く口走った為に、呼吸の仕方さえも儘ならず、安万侶は彼女の前で情けなくもむせ返ってしまう。



「いや、重ねがさね申し訳ない!」



慌てふためきながら謝ったところ、阿礼はその美しい(かんばせ)に袖を添えたかと思えば、その様子が余りに可笑しかったのか、ころころと可愛らしい声で笑った。



当の安万侶は年甲斐もなく顔に朱を散らし、うな垂れるばかりでどうすることもできない。あの大極殿で見受けられた官吏としての姿も形無しである。



「どうぞ我が家とお思いになって、お(くつろ)ぎ下さいませ」



そう言って麗しく微笑んだ阿礼を前にして、安万侶の脳裏にいち早く疑問が浮かんでくる。



この女官はどうしてこれほどまでにうら若いのだろうか。



大極殿で聞く話に寄ると、清御原の帝が彼女に誦習を命じたのは、今から遡ること四十年よりも以前である。



そうなれば、その人物は単純な計算に基づき、少なく見積もったとしても四十歳は過ぎてなくてはならない。ところが、今目の前で鎮座する女性は、どこをどう切り取ってみても三十歳に満たないのだ。



彼女の若々しい容貌を食い入るように眺めて、どうにも(いぶか)しんで憮然となる安万侶に、阿礼は困ったような苦笑を浮べて、



「お訊きになりたいことがあれば、何でも(おっしゃ)ってください」と、その心うちを見透かすように(うなが)してくれた。





 安万侶は「それならば」と、今更ながらに官吏らしく身なりを正して、ううん、と咳払いをする。



「そなた、まことに稗田阿礼で相違ないか?」



「はい、相違ございませぬ」



即答する彼女に、迷いなど見受けられなかった。



「では、清御原の帝より詠み習いを命じられたな」



「それは少しばかり違っています」



阿礼は微笑を絶やさないまま、長い睫毛(まつげ)をたおやかに上下させた。



「帝がご下命なさったのは、私の育ての親であるお(ばば)さまです」



「お婆?」



安万侶が首を傾げて訊くと、阿礼はこれから語ろうとする経緯に備えて、少しばかり深く息を吐き出した。





 詳しく話を聞く限り、そのお婆と呼ばれる人物こそが旧辞と帝紀を習い、今から数年ほど前に亡くなったのだという。



そして、安万侶の前にいる若い女性は、お婆の縁者ということでその名前と官職を受け継ぎ、今日まで誦習に務めてきたということだった。



「なるほど。それでは先代の稗田阿礼に代わり、そなたが帝の勅命を全うしているのだな」



「はい、物心のつく前より、それが私に与えられた使命なのだと」



安万侶は彼女の話を聞いて、得心がいったように何度も首を頷かせた。つまり、同僚から聞いた噂話も、それから端を発している。



何十年も朝廷に仕えるはずの稗田阿礼という女官を、誰も見聞きしていないこと。世代交代があったのだとすれば、それも当然の話である。



若い稗田阿礼はこれまで生きてきた二十年もの歳月をもって、旧辞と帝紀の詠み習いだけに捧げてきたのだから、朝廷に出向くこともそれほど多くはなかったのだろう。



女官としての実績や形跡がなく、彼女を見かけた女官も皆無だとしても、何の不思議もなかったのだ。





 安万侶は阿礼の(けが)れなく美しい微笑を眺めていて、ふと憐れに思えてならなかった。



広いとはいえないこの屋敷だけが彼女の世界であり、広大な世の中を見ることもなく、何ものにも触れずに生きてきたのだろう。だからこそ、触れてしまえば壊れてしまいそうな麗しい姿でいられるのかもしれない。



世間の泥にまみれて生きるか。阿礼のように浮世離れした生活を送るのか。どちらが幸福かと一概にはいえないまでも、彼女には産まれ落ちたときより、選ぶ権利すら与えられていないのだ。



ただ、縁者の中に稗田阿礼がいて、偶々彼女がその任務を担うことになった。



端からすれば、たったそれだけのことである。それでも帝の勅命とはいえ、人の運命とは何とも無慈悲で、呆気ないほどに些末なものかと憂えずにはいられなかった。



「失礼致します」





 そんな折、ささやくような可愛らしい嬌声が聞こえてきた。



安万侶が声のする方へ顔を向けてみると、先導を務めてくれた童女が妻戸の外に居て、膝を屈したまま慇懃に首を垂れて礼を取っている。



「主上、安万侶さま。白湯をお持ち致しました」



彼女は会ったときとはうって変わったように、(つつ)ましやかな所作で歩み寄ると、二人の手許に湯気の立つ茶碗を。そして、もう一つ。青紫色の花弁が添えられた土瓶を二人の中間にそっと置いた。



「まあ、きれいね」



稗田阿礼は大きな瞳を細めて、ゆっくりとそう呟いた。



「河原にたくさん咲いておりましたので、少しばかり摘んで参りました」



童女もにっこりと微笑んで、慇懃に両手をついたまま首を垂れる。



「ありがとう。美しい花を眺めていると、自然と心が和みますね」



唐突にそう投げかけられて、それほど風情に興じることもない安万侶は、どう答えてよいものか分からずに、不細工な愛想笑いで何とか受け流そうとする。



目の前に咲く可憐な微笑を前にすれば、竜胆(りんどう)の花の美しさなど、随分と色あせたように霞んでしまう。安万侶の本音としては、まさにそれに尽きた。



彼のそんな心境を見透かすかのように、童女はちらりと横目で中年の紅潮した顔を見遣る。すると、如何にも可笑しそうにクスクスと笑い、そのまま部屋を後にしていった。





 そのあとには、何とも居心地の悪い沈黙だけが残った。



安万侶は気を紛らわそうと、おもむろに茶碗へと手を伸ばし、熱そうな白湯を注意しながら(すす)った。



どうにも落ち着かない気持ちを和まそうにも、彼女の美しい顔立ちを見ていると、それほど口下手という訳でもないのに、これといった話題すら浮かんできてはくれなかった。



(なまめ)かしい黒髪に、筆先でなぞったように凛とした眉。そして、どこまでも澄み渡った円らな瞳は、深く引き込まれてしまうような強靭さを宿している。



それは世間知らずの無垢な心がそうさせるのか、自分の使命を信じ込んでいる思いがそうさせているのか。



どちらにしても、これほど実直な眼差しをする人間を、安万侶も今までに会ったことはなかった。



少なからず近しいものに思えるのは、帝という立場を全うされておられる女性と、冷徹な眼差しの中に、揺るぎない信念を(みなぎ)らせる最高権力者だけだ。



もとより、お二方と中級官吏ごとき彼女を比するなど、余りにも畏れ多いことではある。





 安万侶がそんなことを考えているうちに、彼女の微笑は影をひそめて、真剣な顔つきをしている。



「先日、右大臣のご使者が参られまして、事の次第はすでに承ってございます」



阿礼が改まってそう言うと、安万侶も咳払いをしてから身を正し、手にしていた茶碗を静かに脇へと置いた。



「私が暗誦している旧辞と帝紀をひも解き、国史編纂に務められるのだとか」



「そのとおりだ。今となっては過去を知る者も、故事を記した書物なども数少ない。それ故に、そなたの暗誦が頼りとなるであろう」



「ええ。私はこのときをずっと待っていました」



阿礼は頷きながらそう答えると、ゆったりと頬を緩ませた。



「だが、これでようやく合点がいった」



安万侶が安堵したように嘆息をつけば、阿礼はそれを不思議がって首を傾げてみせる。



「どうかなさいましたか?」



彼女の問いかけに対して、安万侶は気恥ずかしそうに相好を崩して、



「いや、屋敷の者たちはそれがしのことを見知らぬはず。ところが、老爺や下女は一目見ただけで太安万侶と言い当ておった。それを不可解に思っていたのだ」と、そう答えた。



前もって使者が遣わされていたのであれば、二人が官吏らしき来訪者を自分だと決めつけたところで、全くもっておかしくはない話かもしれない。



ただ、それなのに素知らぬ顔をしてみたり、平気で門を閉ざそうとしてみたりなど。



あの二人には、まだまだ疑念を抱かずにはいられなかったが、それでもひとまずは、大きな謎の解明ができたことで、胸の(つか)えもすっきりしたような心地がした。



「そもそも、我が家を訪ねてこられるようなお方はごく(まれ)で、安万侶さまにご無礼があってはならないよう、あの子と(じい)やには以前より伝えておりました」



阿礼はそう言ったあと、ふと何かを思い起こしたように眉を持ち上げた。それから間もなく彼女の表情は一変して、その美しい顔に不安の色を滲ませる。



「もしや、あの者たちに何かされましたか?」



彼女の懸念は見事に的中していたが、安万侶は何事もなかったように手を振って「そのようなことは」と、きっぱり否定した。



二人を庇い立てする筋合いもなかったが、これから大事業に取り組んでいくにあたり、阿礼との関係を(こじ)らせる訳にもいかなかったからだ。



「それなら良いのですけど……」



彼女は眉をひそめて嘆息を漏らし、その円らな瞳を庭先の景色へと向けた。



「この日が来ることを、あの子たちは余り望んでなどいないでしょう」



それから独り言のように、そっとそう呟く。





 また二人の間で沈黙が生まれ、安万侶は再び白湯に手を伸ばした。そのとき、もう一つの疑問が思い浮かんでくる。



これは少々重苦しい話題になると思い、残っていた白湯を臓腑に流し込んでから、その勢いのまま茶碗を下に置く。



不躾(ぶしつけ)ではあるが、そなたに訊きたいことがある」



そう言った表情が強張っていたのか、阿礼も視線を戻すのと同時に、真っ直ぐな眼差しで向かい合う。



「どうぞ、何なりと」と、彼女は透き通るような声で言った。



「主上とは、畏れ多くも我々臣下より帝を呼称させて頂くもの。そなたは(みだ)りにも、家の者にそう呼ばせているとは。少々おこがましいのではないか」



安万侶が叱責とも受け取れるような、語気を強めた口調で言ったところ、当の阿礼は呆気に取られたようにきょとんとした表情で、長い睫毛を何度か上下させている。



「それがしの言うことを理解できておるのか?」



そんな表情を見ていると、安万侶の方が不安に思えてきて、手探りで確かめるように問い質した。しかしながら、彼女の表情には少しの変化もみられない。



「あ、いえ。余りに唐突だったもので。つい放心してしまいました」





 どれだけの沈黙が続いたのだろう。阿礼がそのように告げるまで、安万侶は何も考えることができずにいた。



「申し訳ございません。安万侶さまにご指摘を受けるまで、そう呼ばれることに少しの疑問も抱いてきませんでした」



恥じ入るように苦笑する阿礼に、安万侶は眉間に深々としわを刻みながら「どういうことだ?」と、またも問い質す。



「お育て下さったお婆さまも、私のことをそうお呼びになられておりましたので、それがおかしいことだとは思ってもみませんでしたから」



阿礼がそのように答えると、安万侶の表情は今まで以上に険しいものとなる。



先代の稗田阿礼は彼女に対して、どうして(へりくだ)ったような呼称を用いていたのか。謎は深まるばかりである。



「先代とは縁戚なのであろう。それなのに、年長者が幼少のそなたを敬うなど、世の常識からは著しく逸脱しておるな」



「そういうものなのですか」



当の本人は全く事情を知らないようで、きょとんとした表情は未だに変わることもない。



「そなたが帝や皇子のご落胤でもなければ、そういったことにはなるまいが……」



安万侶は蓄えた顎鬚を(しご)きながら、あれこれと憶測を巡らせてみるが、とどのつまりは何の確証も得られない妄想である。



そうすることに意味などないことに気づき、安万侶は首を左右に振り振り諦めてしまった。



「そういえば……」



すると、阿礼がすっと伸びた眉を持ち上げて、独りでにそう呟いた。



「お婆さまが亡くなる前に(おっしゃ)っていたのですが、この胸のうちの深いところに、()るお方の御魂を宿しているのだとか」



「然るお方?」



安万侶は怪訝に思いながら相づちをうつと、阿礼も沸き立つ興奮を抑えられないのか、円らな瞳を爛々(らんらん)と輝かせて首を大きく頷かせてみせる。



「今となっては真実かどうかも分かりませんが、そのお方のことを畏敬していたように思うのです」



そのように言われたところで、兎角(とかく)、現実的な学者肌の安万侶である。



有耶無耶(うやむや)な絵空事を「はい、そうですか」と、真に受ける気にもなれなかった。だが、それを事もなげに切り捨てるのもあまりに忍びなく、安万侶は苦笑して誤魔化すより仕方なかった。





 話が途絶えたところで、阿礼ははしたなくも身を乗り出していることに気づき、頬に朱を散らして身なりを整える。その姿が年頃の生娘のようで、安万侶の目に何とも可愛らしく映った。



掴みようのないお婆の話は置いておくとしても、確かに彼女の容姿は傑出して美しい。宮廷の美姫や妓女であっても、その美麗さを前にしたなら目に映らなくなるほどだ。



「何はともあれ、そなたはまことに美しい。それならば、誰もが崇める気にもなるだろう」



安万侶はふと気を抜いた瞬間に、ぽろっと本音を吐露した。



すると、阿礼は円らな瞳を更に丸めたかと思えば、吹き出したようにころころと笑声をあげる。それもまた、なんと愛らしいことか。



安万侶は我を忘れたように、彼女が笑い終わるまでの間、ずっと艶やかな嬌声に聞き惚れていた。



「まあ、お戯れを。私は無作法で(いや)しい娘でしかありませんよ」



謙遜してそう答えているのだろうと思ったが、阿礼の澄んだ瞳には一点の曇りすら見つけられなかった。その優れた容姿を、まるで知りもしないかのように。



「そなたは何も分かっておらぬようだな」



安万侶が呵々大笑して白い歯を覗かせると、阿礼も微笑をほころばせて、ゆっくり首を振った。



「私は幼き頃より誦習してきたことを、安万侶さまに余すことなく伝えるのみ。それ以外に何を望みましょう」



阿礼は真摯な眼差しで、少しも淀みなくそう答える。



「それだけが私の望みでもあるのです」



直向(ひたむき)な瞳を前にして、安万侶は何も言えなくなった。本心からそれを望んでいることが、はっきりと見て取れたからだ。



安万侶はおもむろにため息をつく。自分の浅ましさがつくづく嫌になった。



国史の内容などは適当に済ませてしまえばいい。結局のところ、最後には藤原不比等の思いのままとなるのだから。



それよりも編纂を立派に務め上げたのなら、そのあとはきっと昇級も望めることだろう。朝堂で馬鹿にした高官たちを見返すことも適うはず。



そんなどうでもいい見栄ばかり気にして、大切なことを見失うところだった。まだうら若い阿礼は、そういった二心すら抱かず、国史の編纂を宿命とまで考えている。





 そのようにまで、どうして思い切ることができるのか。この世には生業や職務よりも楽しいことは幾らでもあるというのに。安万侶は阿礼の一途な考え方に、少なからず興味をそそられた。



彼女の内面にあるものといえば、言うまでもなく旧辞、帝紀だけであろう。それをひも解くことによって、その思考を理解することも適うのかもしれない。安万侶は率直にそう考えた。



帝の皇統譜を主とする帝紀については、安万侶もそれなりに見識を得ているが、説話や伝承などを纏めた旧辞には、これまでも興味を抱けなかった。



虚実の入り混じった神話でさえ、生真面目に書き記さなくてはならないかと思うと、取りかかる前から億劫になってしまう。だが、阿礼の無垢な性格を形作っているのも、おそらくはその旧辞となるのだろう。



「阿礼どの、旧辞とは如何なるものであろうか」





 安万侶はふっと息を吐き出してから、声を静めて素直にそう訊ねた。



唐突な質問だったにも関らず、阿礼も動じることもなく微笑んで、ゆっくりと桃花のような口唇を開く。



「古人が人を思い、国を憂い、そして世を慈しんだ。そんな心の国史とでもいうのでしょうか」



心の国史とは、どういったものなのか。安万侶はふと心の機微に触れる。この国がこうして存在していること、それは紛れもなく古人の功績である。



その中で人々は何を考え、何を見てきたのだろうか。後世に伝えられている略歴には、残りもしない幾多の思いの一つひとつ。それがどのような色彩で描かれているのか。多少なりとも興味を抱く。



「務めに取りかかるのは、また後日ということになるだろうが、もし宜しければ何か一つ、逸話などを披露しては貰えまいか」



安万侶の唐突な要望にも、阿礼は微笑を絶やさず頷いてみせる。



「それではお話を一つ、ご紹介いたしましょう」



「かたじけない。是非とも、お聞かせ願いましょう」



安万侶はそう言って会釈を交わした。



それから頭を上げてみれば、彼女はどこか嬉しそうに微笑んでいて、まるで想い人のことでも思い浮かべているかのように思えた。



伏せ目がちに長い睫毛をゆっくりとはためかせ、白い頬にほのかな朱を散らしている。



彼女の吐息が漏れるたびに、何とも(かぐわ)しい匂いで室内は華やぐ。童女が摘んできた竜胆の花でさえも、阿礼の色香を前にして恥じ入るかのよう。



少しばかり前かがみになったせいか、肩にかかっていた黒髪が、萌黄色の衣からするりと流れ落ちた。



すると、またどこからか、鈴の音が清らかな音色を奏で、それが艶やかな髪の毛を纏めている、深い翡翠(ひすい)色を為した(くし)の装飾だと気づく。



見ているだけで吸い込まれてしまいそうなほど、緑色の濃淡が細やかに入り混じった見事な櫛である。



「神代より、ひとの世へと受け継がれし御世」



 阿礼はゆるやかに瞬きをしたあと、桃花のような口唇でゆったりと言葉を発する。



(いにしえ)の帝はヤマトの地に国を(ひら)き、その太子によって安寧が(もたら)される」



抑揚のある吟唱(ぎんしょう)に聴き入っているうちに、安万侶は言いようのない心地良さを覚えて、誰に言われることもなく(まぶた)を閉ざしていた。



眠気とはまた違ったような、ふわふわとした心許ない安らぎに包まれていく。トクン、トクンと脈打つ音だけが木霊し、浮かぶとも堕ちるとも思えるような感覚に、いつの間にか浸っている。



真っ暗な闇の中で、たった一つのかすかな光が灯った。



ゆらゆらとたゆたう輝きは、彼を遥か永久(とこしえ)の世界へと(いざな)う。それに抵抗を試みようにも、安万侶にはもはや為す術などない。



阿礼は彼と向かい合って座ったまま、静かにすうっと息を吐き出す。それから、彼女自身も黒真珠のような瞳を長い睫毛で(おお)い、その清らかな嬌声で物語を(うた)い聴かせる。



「その太子は御名を、小碓命(おうすのみこと)と云う。現世うつしよに燦然と輝く生命のうち、たった一つの小さな瞬きとなる」





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