想い出を売る店
ショウケースの中には幾つもの想い出が並べられている。
大きな想い出に小さな想い出。柔らかそうな想い出に、少しいびつだけど温かな光沢のある想い出。
どれも魅力的に輝いていて、思わず手に取りたくなってしまう。
とくに左から二番目の想い出が素敵だ。優しく穏やかな丸みの中に、小さな傷が斜めに切れ込んでいるのがいい。その傷からにじみ出る甘やかな痛みは、さぞ心地よいことだろう。
……でも。
少女はポケットの中から小さな財布をとりだし、不安そうに首をかしげた。
お金、足りるかな。
店先にに吊されている、見るからに安そうな想い出の欠片や、陳列棚に並べられている色あせた想い出に比べ、ショウケースの中に入れられているこれらの想い出はいかにも高そうだ。
値段を聞きたいところだけど、店主は先ほどから奥のテーブルで年老いた男と熱心に話をしている。男は身なりがよく、いかにも裕福と言った感じだ。きっと、幸せな想い出をいくつも買うようなお得意様なのだろう。買うかどうか―― というよりも、買えるかどうかわからない自分が割り込んで邪魔をするわけにはいかない。
少女はショウケースを眺めながら大人しく待つことにし、ついでに、二人の会話に聞き耳を立てることにもした。
「――では、こちらはどうです?」
店主はコバルト色のピンセットで慎重に取り出した想い出をテーブルの上に置く。
「ほう。これは……」
「なかなかの物でしょう」
思わず感嘆の声を漏らす老人に、店主は得意げな微笑を浮かべる。
それは、ずいぶんと濁った色をした、傷だらけの想い出だった。
形は不自然に歪んでゴツゴツしており、時を重ねることによって得られるはずの滑らかさや光沢が一切ない。それでいて、古い想い出にしかないセピアが、濁りの中に浮かんでいるのだ。見ているだけで心が不安定になってくる。
これなら店先に吊されている寄せ集めの想い出のほうがまだマシよと、少女は思う。
「触れても、いいのかね」
「ええ。ただし指の先で、ほんの少し触れるぐらいにしてください。とても脆い物ですから」
「では、失礼」
老人はおそるおそる手を伸ばし、立てた小指で想い出の端をかすめるようにして触れる。
変化は劇的だった。
「おお…おお…」
濁った想い出に触れた途端、老人は胸を押さえてうめき声をあげ、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
顔は苦痛に歪み、瞳からは涙がとめどなくあふれ出ている。先ほどまで紳士然としていた人間とは思えない、まるで子供のような泣き声。
少女は唖然としてその光景を眺めていた。
「いかがですか。これほどの想い出は滅多にありません。それに触れたときは、私も心が壊れるかと思いました」
「すばらしい。実にすばらしい」
泣き崩れながら恍惚の表情を浮かべる老人を見て、店主は満足そうに頷く。期待通りの反応だったのだろう。少女には理解できない世界だった。
涙がおさまり、ようやく落ち着きを取り戻した老人は、いつもの紳士然とした口調で店主に告げた。
「買わせてもらいたい。是非」
「ありがとうございます。では、お値段のほうですが――」
「言い値でかまわん」
「いつもありがとうござます。ご用意しますので少々お待ちください」
店主はコバルト色のピンセットで濁った想い出を箱に戻すと、丁寧なお辞儀をしてカウンターの奥へと消えた。
老人はイスの上でピンと背筋を伸ばして目を閉じている。さきほど触れた想い出の余韻に浸っているのかもしれない。
なぜ、あんな想い出を買ったのだろう。店内にはもっと綺麗で温かな想い出が沢山あるというのに。それから、ずいぶんと貴重な想い出らしいことも気になる。あんなに濁っていたり歪んでいたりするのに、どこにそんな価値があるのだろう。
訊いてみたかったけれど余韻に浸っている老人の邪魔をするのが憚られ、少女は黙ってショウケースの想い出を眺めていた。
自分が買うとしたら絶対にこっちだ。無垢な空を思わせる、豊かで滑らかな想い出。きっと触れるだけで、幸福な想い出に浸ることができるだろう。
だけど、それを経験するのは自分ではない。
これは母への贈り物だから。
何一つ恵まれることのなかった母への、最後の贈り物。
「お待たせしました」
店主が奥から戻ってきても、老人はしばらく目を閉じたまま動かずにいた。店主のほうも慣れているらしく、老人が現実に帰ってくるのを静かに待つ。あるいは、それは何かの儀式なのかもしれなかった。
音一つない空間の中。七分のような七秒が過ぎたところで、ようやく老人は目を開いた。
「…いただくとしよう」
ぽつりと言う。
「ええ。お受け取りくだださい」
店主は頷き、つぼみのように閉じた両手を静かに開く。それは、夜のように黒い箱だった。おそらく貴重な想い出を収める専用の箱なのだろう。
「言うまでもないことですが、保管をする場所は」
「わかっている」
「ええ。しかし念のため――」
「いいから、早くこっちへよこしてくれ」
急かす老人を焦らすように、店主はゆっくりとした動きで想い出のつまった箱を差し出した。
「ふむ。すぐにでも触れたいところだが、家まで我慢しなくてはな。待っておれよ」
老人はまるで孫娘を慈しむかのように、受け取った黒い箱を撫でている。
「では、こちらにサインをお願いできますか。……はい、確かに。これで取引は成立しました。いつもありがとうございます」
「こちらこそ礼を言わねばな。おかげで良い想い出を見つけることができた」
「ご期待に添えられたようで、何よりです」
「これからも期待してる」
「お待ちしております」
丁寧に頭を下げる店主に老人は軽く手をあげて応え、急いたような早足で店を出ていった。
「ありがとうございました」
その声は、きっと届かなかっただろう。
老人が出ていったことで、店内は少女と店主の二人だけになった。
いよいよ自分の番だ。何しろ想い出を買うのは初めての経験なので、否応なく緊張してしまう。
一番の問題は、やはり値段だ。「これをください」 と言って指をさすのはそう難しいことではないけれど、店主の口から飛び出す金額が予想できない。とんでもなく高価な物だったらどうしよう。
店主がこちらを見た。少女は慌てて目をそらして身を固くする。
まだ声をかけてこないでほしい。心の準備が完了するには、最低でもあと五分は必要だ。途方もない金額を言われたときに動揺しない準備。今は買えないと謝罪する準備。他のお手頃な想い出を勧められたときに、母への贈り物だからと断る準備。
それから、そう。笑顔と愛らしい仕草の準備もしないといけない。
祈りのような願いが届いたのか、あるいは客にならないと判断されたのか、店主は少女に声をかけてくることなく、先ほどの老人に見せていた幾つもの想い出を例のコバルト色のピンセットで片付け始めた。
それらはどれもいびつで濁った色をしており、お世辞にも美しいとは言えない。それにも関わらず、ショウケースの中の想い出よりもずっと貴重な物らしいのだ。老人は目を輝かせて見ていたけれど、少女にはさっぱりわからなかった。
「幸福な人生を過ごしてきた人には、美しい想い出や優しい想い出なんて毎日の食卓に並ぶパンみたいなもの」
声は少女の背中ごしに投げかけられた。
「だから、その人たちにとって最も価値があるのは、自分では決して経験できない悲しい想い出や、いびつで醜い想い出というわけ。…ちょっと難しかったかしら」
耳に染み込んでくるようなアルトの響きに振り返ると、
「いらっしゃいませ」
女性が優雅に微笑みかけてきた。
「想い出をお探しですか? 小さなお客様」
その切れ長な目は開いたままで、全く瞬きをしない。まるで、心を吸い込む夜水晶。
「あ……」
少女は反射的に口を開いたものの、気が動転してしまって上手く声が出てこない。
何か言わなければと思えば思うほど、脈絡のない言葉が頭の中に飛び交い、ぶつかりあい、壊れていく。
「あの、私、あの。あの…」
瞬きをしない女性は、慌てふためく少女を面白そうに見つめていたが、ふと何かに気がつくと口元をほころばせた。
「ひとつ、聞いていいかしら」
「え?」
「カモミールティは好き?」
唐突な質問に、少女は口と瞳を丸くする。
「よろしければ、ご一緒に」
言って、瞬きをしない女性は少女の後ろを指す。その尖った指先を追うように振り返ると、
「さあ、お茶が入りましたよ」
お盆に三つのティーカップを乗せた店主が、微笑を浮かべてこちらを見ていた。
※
瞬きをしない女性に案内されたのは、先ほどまで老人が腰掛けていたテーブルだった。
「さあ、どうぞ」
促されるままに少女は腰をおろす。向かいの席には店主が座り、右隣には瞬きをしない女性が腰掛けた。
「カモミールティはお好きですか?」
「それはもう私が訊いたわ。ね?」
「はい。香りが好きです」
「それは良かった。遠慮なく召し上がってください」
微笑む店主に強張った笑みを返して、少女はティーカップを手にとった。
優しい香りが鼻腔をくすぐる。一口。二口。穏やかなハーブの香りと、微かな甘味を纏った琥珀の液体が滑らかに喉を通り過ぎていく。
「…あ、おいしい」
口をついて出たのはごく普通の感想だった。
少女は、もっと沢山の言葉を知っていたらこの美味しさを正確に伝えることができたのにと、心の中で悔やむ。
「カモミールティには少しばかり魔法じみたところがありましてね、心が強張っている人ほど美味しく感じるのです」
言いながら、店主はほとんど空になってしまった少女のカップにカモミールティを注ぎ足してくれる。
「とても緊張していたものね。あなた」
「はい。すごく」
素直に頷く少女に、瞬きをしない女性は目を細めて笑う。
「実際、珍しいことだわ。あなたみたいな小さな子が想い出を買いに来るなんて。ねえ、お父さん」
「そう。想い出を買いに来るのは大人ばかりだね。それはなぜか、お嬢さんにはわかりますか?」
少女は首を振る。
「彼らは―― いえ。私たちは、日常を固定してしまっているからです」
「固定ってなんですか?」
「変化をしないように固めてしまうことです。固まった日常は変化がとても小さいため、なかなか新しい想い出を作ることができません。その点、子供たちの日常はとても柔らかいので、いくらでも想い出を作ることが出来ます。ですから、わざわざ想い出を買いに来る必要がないのですよ」
そう説明したあとで、普通はねと、少女を見てつけ加える。
店主は少女の来店という、固まった日常の中に入り込んできた非日常を楽しんでいるようだった。
「あの。違うんです」
店主の好奇の眼差しを怪しんでいると勘違いしたのか、少女は慌てて首をふる。
「欲しいのは私の分の想い出じゃなくて、お母さんの分の想い出なんです」
「お母さんの?」
「はい。綺麗な想い出が欲しいんです。幸せでいっぱいの想い出です。でも、お金があまりないので少しでもいいです。でもでも、できたら沢山――」
「どうぞ」
まくしたてる少女の前に、店主は色鮮やかなお菓子を乗せた皿を置いた。
そして、お菓子が一枚つまみあげられるのを待ってから聞く。
「お母さんは、あまり想い出を作らなかったですか?」
「作りました。沢山。でも、どれも悲しい想い出や辛い想い出ばかりなの。痛くて、苦しい想い出ばかり」
「ほう。それは興味深い。色と形を教えてもらっても良いですか」
「お父さん」
腰を浮かせて身を乗り出す店主を、瞬きをしない女性が睨みつける。
「失礼」
睨まれた店主は咳払いをしてイスに座り直した。
「なるほど。それでお嬢さんは、お母さんに幸せな想い出をあげたいと思ったわけですね」
「はい」
「でも、想い出ならあなたと一緒に作れば良いんじゃないかしら。素敵な想い出をいくらでも」
「できません」
瞬きをしない女性の提案に少女は首をふり、皿の上に並べられたお菓子をもう一枚つまみあげる。
「どうして? 想い出の作り方なら色々あるでしょう。美味しいお料理を食べたり、綺麗な場所へ出かけたり、楽しい歌をうたったり―― あなたと話をするだけでも、素敵な想い出は作れるわ」
「お母さんは来週の水曜日に寿命を迎えるんです」
「あら、まあ」
「それから、お母さんは私のことが嫌いです。とても」
「あら、まあ」
だから素敵な想い出を買いにきましたと、少女はつぶやく。
瞬きをしない女性は三度目の 「あら、まあ」 を声にしたあとは何も言うことが出来ず、黙り込んでしまった。
気まずい沈黙の中を、少女がクラッカーを食べるサクサクという音だけが響く。
「それでも」
少女が三枚目のクラッカーを食べ終え、瞬きをしない女性が二杯目のカモミールティを注ぎ始めたところで、店主が静かに口を開いた。
「お母さんが好きなんだね?」
少女は四枚目のクラッカーを手にしたまましばらく考え、迷いながらも小さく頷く。
「好きです。多分、すごく」
いつもなら意地を張ってしまうのに、今日は不思議と素直に答えることができた。
きっと、このカモミールティのおかげだろう。
少女は四枚目のクラッカーを食べ終えると、瞬きをしない女性が注いでくれた二杯目を吐息で冷まして口へと運ぶ。
「おかわりは沢山あるから遠慮しないでね」
そう言われることで、少女は自分がまるで遠慮していないことに初めて気づき、顔を赤くした。
「私は感心しているんですよ」
店主は皿に残っていた二つのクラッカーを手に取ると、一つを少女のティープレートに乗せ、もう一つを自分のプレートに乗せる。
「あ。ありがとうございます」
「何に感心しているのか、わかりますか?」
「沢山食べてごめんなさい。このお菓子、とても美味しくて」
「そうでしょう。でも、私が感心しているのはお嬢さんの食べっぷりではありません」
「お姉さんはいいんですか?」
「大丈夫よ。私はお父さんの分を貰うから」
言って、瞬きをしない女性は店主のプレートからクラッカーをつまみあげた。
「その優しさですよ。人を思いやれる、その優しい心に感心しているのです。娘にも見習ってほしいのですが、こればかりは」
店主は品良くお菓子をかじる女性を悲しげに見つめる。
「あの、いつもはすごく意地っ張りなんです」
少女は慌てて首をふり、ティーカップを持ち上げた。
「素直になれたのは、このカモミールティのおかげで」
「カモミールティを飲んだのは娘も同じですよ」
「あっ。…あの、えっと」
「そういうところが優しいのよ」
何とかフォローしようと慌てふためく少女を見て、二人は声を出して笑った。
※
「それで、ありましたか?」
「え?」
「お母さんが喜びそうな想い出ですよ」
不思議なティータイムを終え、少女の緊張がすっかりほどけたところで店主が尋ねてきた。瞬きをしない女性は、ティーカップを片付けに奥へ行ったまま戻ってこない。
「あ、はい。ありました」
「どれです?」
「ありましたけど……」
「ささ、こちらへ来て教えてください」
口ごもる少女を気にかけることもなく店主は立ち上がった。仕方なく少女も席を立ち、こわごわとショウケースの方へと歩いていく。そして、
「あの、これ… です」
ためらいがちに、左から三番目の想い出を指した。自分が好きなのは左から二番目の想い出だけど、母にふさわしいのはこの想い出のような気がした。
「良い目をしていますね」
店主はショウケースの裏窓をスライドさせると、例によってコバルト色のピンセットを取り出し、左から三番目の想い出をつまみあげた。
「これは始まりから終わりまで、純粋に幸福であり続けた想い出です」
説明しながら静かにケースの上に置く。
「あ、触れてはいけませんよ。まだ生きる時間が長いあなたには危険です」
少女は伸ばしかけた手を慌てて引っこめる。
「幸せなのに、危ないんですか」
「幸せだからこそ、です。幸福だけに彩られたこの想い出は、言うなれば奇跡のようなもの。今この想い出に触れてしまったら、あなたは自分の人生にもこの奇跡のような幸せを―― あるいはこれ以上の幸せを求めずにはいられなくなるでしょう。それは、とても不幸なことです」
店主は言い、そのあとで少女を安心させるように口元をゆるめた。
「逆に言えば、まもなく生涯を終えるあなたのお母さんには最良の贈り物になるはずです。辛い日々を過ごされてきたと言うのなら、なおのこと」
「お母さんほど悲しい人はいないです」
少女は言い切る。彼女の小さな世界の中では、間違いなく母が最も悲しい人だった。
「でしたら、きっと喜ばれますよ」
優しい店主の言葉に、少女はしかし曖昧に首を傾げることしか出来ない。
幸せに焦がれ、いつも幸せを求めていた母だから、きっとこの贈り物は喜んでもらえるだろう。それがたとえ嫌悪している相手からの贈り物だったとしても。
もしかしたら、自分のことを少しだけ好きになってくれるかもしれない。そんな期待さえある。
ただ、問題なのは――
「どうかされましたか?」
「あの、この想い出はとても高いですよね」
最も気がかりなことを、少女は口にした。
「…ああ、なるほど」
店主は少女の悩みに合点がいったように頷くと、何かを考えるような間を置いたあとで、ゆっくりと答えた。
「そう。人によってはとても高価に思えるでしょうし、人によっては信じられないほど安く感じるでしょう。物の価値とはそういうものです」
少女はポケットから財布を取り出した。それは花柄のプリントが消えかかった小さな財布で、とても大切に扱われてきたことと、ずいぶん使い込まれていることが良くわかる。
「あの… これで足りますか?」
言って、一枚の紙幣をショウケースの上に置く。いつか、母が一度だけくれたお小遣い。どんな理由があったのかわからないけれど、それは奇跡のような出来事で、少女はずっと遣わずに取っておいたのだ。
しかし、店主は首をふる。
「そのお金では、店先に吊されている想い出さえ買うことができませんよ」
「あ、あの。もう少しあります」
慌てて財布から取り出したのは三枚の硬貨だった。拾った物なのか、泥や草がこびりついて酷く汚れている。
「これで全部です」
「残念ですが」
店主はもう一度首をふり、穏やかでありながらもはっきりとした口調で告げた。
「それでも、お売りすることはできません」
少女もわかっていたのだろう。わずかな沈黙のあとで 「はい」 と小さく頷き、顔を伏せたまま紙幣と硬貨を財布に戻す。涙を見せたりして、店主を困らせたくはなかった。
「ありがとうございました。お茶、美味しかったです」
声が震えないようにゆっくりと言葉を紡ぎ、少女は背中を向ける。飾られている色とりどりの想い出の間を数歩で通り抜け、木製扉のノブを回す。
そして、最後にもう一度お礼を言おうと振り返ったとき、
「ひとつ、提案があります」
店主は人差し指を立てて、そう言った。
少女が出ていく寸前まで口にしなかったのは、演出で勿体ぶっていたわけではない。
どこか観念したような表情からは、さんざん迷ったあげくの、いわば情にほだされた結果であることが見て取れる。
「売ってくれるんですか?」
「その逆です」
おそるおそる聞く少女に、店主は提案を口にした。
「先にそちらから想い出を売って頂き、その見返りとしてこの想い出を差し上げるということです」
「…よくわかりません」
「要するに、想い出と想い出の交換ですよ」
想い出の交換と聞いて少女は店主の提案を理解したが、納得することはできなかった。どう考えても公平な取引とは思えなかったのだ。
「でも、私の想い出はすごく小さいです。私の想い出とこの想い出と交換したりしたら、おじさんはすごく損をすると思います」
「そうですね」
店主は当然のように頷く。
「想い出は普通、長い時間をかけて大きさや深みを増していくものです。稀に例外もありますが、基本的には長く生きた人の想い出ほど価値は高くなっていきます。ですから、お嬢さんがおっしゃるとおり、あなたの想い出では全く釣り合いがとれません」
「それじゃ――」
「私が頂きたいのは、あなたのお母さんの想い出です」
何かを言いかけた少女を遮って、店主は交換する対象を告げた。
「…お母さんの?」
「ええ。お母さんはずっと悲しくて苦しい人生を歩んでこられたのでしょう? お嬢さんの話では、世界で一番悲しい人とのことでした」
「絶対そうです」
「結構。…先ほど、こちらで想い出を買われたお客様を覚えていますか?」
「はい。すごく悲しそうな想い出を買って行きました」
「幸福な人生を歩んでこられた方にとって、耐えがたい悲劇のような想い出は何より価値のあるものなんです。自分では決して味わえない痛みや絶望を感じることができるのですからね。お嬢さんには理解しがたいかもしれませんが」
少女は素直にわかりませんと答えた。想い出は幸せであった方がいいに決まってる。悲しい想い出や辛い想い出はなるべくない方が良い。それは、誰でも同じことではないのだろうか。
ないのだろう。きっと。
あの老人のように、悲しい想い出を求める人が実際にいるのだから。
「ですから、あなたのお母さんの想い出ならば―― 世界で一番悲しい人の想い出ならば、この限りなく純粋で幸福な想い出と釣り合いがとれるはずです。そうは思いませんか?」
「思い…ます」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それでも少女は頷いてみせる。
店主がそう思っているのなら余計なことは言うべきではない。
母が悲しい想い出から解放されて、幸福に包まれるのであれば何でも良かった。
「では、商談は成立ということでよろしいですか?」
「あのっ」
「はい」
想い出を交換するという話を聞いて、少女は気がかりなことがあった。
「想い出を交換するためにお母さんの想い出を取り出したら―― お母さんは私のことを忘れちゃいますか?」
その疑問を予想していたのだろう。店主はすぐに首をふった。
「いえ、覚えていますよ。想い出と記憶は違いますから」
「そうなんですか」
「例えば…そう。お嬢さんは、近ごろ誰かと遊んだりしましたか?」
「友達とお祈りごっこをしました」
「楽しかったですか?」
「はい」
「その 『楽しかった』 という想いが、まさに想い出なのですよ。記憶に付随する心の動きと申しましょうか。一方の記憶は、その 『楽しかった』 とか 『つまらなかった』といった想いを取り除いたときに残る 『お祈りごっこをした』 という事実だけを指すのです。……わかりますか?」
店主は顔をしかめて考えている少女を見て 「ちょっと説明が難しかったですね」 と苦笑した。
「…えっと。お母さんから想い出を取り出しても、私のことは覚えています」
「はい」
「私が嫌いだったことも汚いと言って叩いたことも覚えているけど、そう思っていた気持ちは消えます」
「その通りです。お嬢さんはとても賢いですね」
少女は照れたように頬を染めながら、それは素晴らしいことではないかと考える。
自分に対する想いが消えれば、毎日のように浴びせられてきた辛い言葉や、あざになるような暴力を受けずに済むようになるかもしれない。その上、幸せだけがつまった想い出をお母さんの心に染み込ませたなら――
もしかしたら、自分のことを好きになってくれるかもしれない。
それは夢にまでみた、夢でしか見ることができなかった世界だ。
「交換してください」
「お受けしましょう」
少女の言葉に、店主は頷いて答えた。
「それでは、まずこの契約書にサイン―― お名前を書いてください」
「名前… ひらがなで良いですか?」
「はい」
ペンを受け取り、たどたどしい文字で自分の名前を書く。
「結構です。次に、お母さんの想い出を取り出さなければなりません。普段は私の仕事ですが、今回は娘にやらせます。なぜかわかりますか?」
首を振る少女に、店主は説明する。
「想い出が期待はずれだったとき、私の心が変わってしまうかもしれないからです。想い出と交換するという契約を破棄したくなるかもしれません。ですから娘に任せることで―― 娘が勝手に引き受けたとすることで、自分を少し誤魔化すわけです。…おわかりですか?」
「よくわかりません」
「ええ。わかる必要もありません。要するに、想い出はきちんと交換しますよ。と言うことです」
「それならわかります」
「結構」
「こっちの準備は出来たわよ」
からりとした声。
振り返ると、少女のすぐ後ろに瞬きをしない女性は立っていた。いつの間に着替えを済ませたのか、先ほどとは違う薄紫の服を着ている。
「いいかい。これは、お前が引き受けた仕事だからね」
自分自身に言い聞かせるような店主の言葉に、女性は苦笑して頷く。
「そういことにしておくわ。お父さん」
「わかってると思うが、想い出の交換はとてもデリケートな作業だ。慎重に行うんだよ」
「ええ。ほかに何かある?」
「そうだね。……取り出した想い出は、どんなものであっても交換するように」
それは 『たとえ売り物にならない想い出であったとしても』 と言うことだろう。
「わかったわ」
女性は真剣な面もちで頷く。
それから、すぐにいつもの笑顔に戻って少女の肩に手をおいた。
「それじゃ、行きましょうか」
「はいっ」
この店に来て―― あるいは、もっと深刻な時間を経て―― 初めて、少女は少女らしい快活な声をだす。そして 「お邪魔しました」 と勢いよく頭をさげると、店主から返される言葉も待たずに店を出て行ってしまった。
「こら。私をおいっていったら意味がないでしょう」
瞬きをしない女性が、呆れながら少女のあとを追いかけていく。
「……さてさて。どうなりますかな」
店主はイスに腰を下ろして二人が出ていった扉をしばらく眺めていたが、やがて受話器をとるとリズム良くボタンを押した。
「――ああ、私です。先ほどは……」
「本当にいいのね?」
家に向かう途中、瞬きをしない女性は一度だけ少女に聞いた。
少女は迷わず 「はい」 と答える。
想い出の交換は、その日のうちに行われた。
※
少女が再び店を訪れたのは、金曜日の昼下がりだった。
木製扉を押し開くと、小さな鐘が透明な音を響かせる。
いつのまに取りつけたのだろうと考えていると、店の奥から瞬きをしない女性がふわりと現れた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
少女が頭を下げると、女性は 「あら」 と声をあげ、幼い来店者に微笑みかけた。
「ようこそ、小さなお客様」
「お邪魔します。……えっと」
少女は店主をどう呼ぼうかと考え、
「おじさん、いますか?」
彼女の語彙の中では、それが最もしっくりくる表現だった。
「ええ、いるわよ。おじさん」
瞬きをしない女性は可笑しそうにおじさんと繰り返しながら、少女を以前と同じ席に案内した。
「そこで待っていて。今、呼んでくるから」
「はい」
少女は言われるままにこの前と同じイスに腰をおろしたが、瞬きをしない女性の姿が見えなくなると、すぐに違うイスへと移動した。
座り心地に変わりがあるわけではないけれど、新しいイスからは新しい経験が入ってくる。
店主が姿を見せたのは、三つ目の席に腰を下ろしたときだった。
「いらっしゃいませ。お嬢さん」
「こんにちは。お邪魔してます」
「お待たせしてすみませんでした。今日は朝から電話が鳴りっぱなしでして」
言ったそばから電話のベルが鳴り響く。すぐに聞こえなくなったのは、奥の部屋で瞬きをしない女性が受話器を取ったからだろう。
「さてさて。今日はどうされましたか?」
店主は向かいのイスに腰をかけ、少し膨らんだ腹の前で両手を組んだ。
「お礼を言いにきたんです」
少女は以前よりもずっと明るい声で言った。
「お礼ですか?」
「昨日、お母さんのお葬式が終わりました」
「…そうでしたか。そう。確か、水曜日に寿命を迎えられたのでしたね」
ご愁傷様ですと頭をさげる店主に、少女もお辞儀を返した。ご愁傷様の意味はわからなかったけれど。
「良い最後でしたか?」
「はい。とても」
「それは何よりです」
「想い出を交換してから、お母さんは本当に幸せそうでした。『私の想い出は素敵なものばかりよ』って、最後まで笑って」
初めての笑顔を見せてくれましたと、少女は嬉しそうに言う。
「辛かったことも、悲しかったことも、ずっと不幸だったことも―― 私が大嫌いだったことも―― お母さん、覚えてるんです。でも、その話をする時はまるでよその人の話をするみたいな感じで……」
「想い出が消えるというのは、そういうことです」
少女は頷く。以前説明されたときは理解できなかったけれど、今ではその意味がよくわかる。
「寿命の時間がきてお医者さんが命を吹き消すとき、お母さん、私にありがとうって言いました。最後に幸せでいられたのはあなたのおかげねって。笑って、そう言ったんです」
「それは嬉しかったでしょう」
「はい」
店主の言葉に少女は微笑み、丁寧に頭を下げた。
「おじさんが想い出を交換してくれたおかげです。ありがとうございました」
「礼には及びません。価値の見合った交換は、れっきとした商売なのですから」
「お母さんの想い出は売れましたか?」
思い出したように聞く少女に、店主は口元をほころばせて答えた。
「おかげさまで。どうしても手に入れたいと言うお客様が三名ほどおられます」
「そんなに?」
「ええ」
「……その人たちは、幸せな人たちですか?」
「そうですね。ええ、悲しい想い出を集める程度には」
幸福に飽きた人々にとって、汚れて歪んだ母の想い出はさぞかし魅力的に映るのだろう。
幸せになることが出来たなら、私も悲しい想い出を集めるようになるかしら。
ふと、そんなことを考える。
「ご覧になりますか?」
「え?」
「お母さんの想い出ですよ。人の手に渡ってしまえば、もう見ることは出来なくなるでしょう。よろしければ最後にもう一度」
少女はしかし、すぐに首をふった。
「いいのですか?」
「お母さんとの想い出なら、もうあります。ほんの少しだけど、笑顔と幸せでいっぱいの想い出です」
「ですが、それは」
「これでいいです」
店主の言葉を遮り、少女は言った。
「これがいいです」
震えながらも、はっきりとした声で。
「…申し訳ありません。浅はかな提案をしてしまいました」
店主は自分の不明を恥じ、少女にわびる。
疎まれ憎まれ続けてきた想い出を、今さら見たいなどと思うわけがない。少し考えればわかることだった。
壁に掛けられたカラクリ時計が動き出し、小窓から現れた小人が時を告げる。
「そろそろ行きます」
少女は立ち上がり、小さくお辞儀をした。
「もう、お帰りですか」
「はい。今日はお礼を言いにきただけなんです。何も買えなくてごめんなさい」
「そんなことは気になさらくて良いのですよ」
「…いつか」
「はい」
「いつか私がお金持ちになって幸せになれたら、たくさん想い出を買いにきます」
その純粋な眼差しに、店主は口元をほころばせて頷いた。
「お待ちしております」
飾られた色とりどりの想い出の間を、少女はゆっくりと通り抜けていく。ひとつ、ふたつと数えながら。
そして、扉の前でふと立ち止まり――
「もし幸せになれなくて、悲しい想い出ばかりが集まったら」
店主を振り返って、微笑んだ。
「そのときは、私の想い出を買ってくださいね」
木製扉につけられた小さな鐘が透明な音を響かせると、少女はその音に溶け込むように姿を消した。
了