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私が幸せになるたび、誰かが泣いている

作者: かなりあ
掲載日:2026/10/18

妹の工房は昼を過ぎると染め場の湯気で窓が白く曇る。


イーリスは糸を巻いた木枠を腕いっぱいに抱えて奥から出てきて、私を見つけると枠を作業台に置き両手を腰に当てた。


「お姉さま、また前触れもなく」

「近くまで来たから。邪魔なら帰るわ」

「邪魔じゃないから座って。今日は見てほしい色があるの」


妹は十五で染めを始めて、三十を過ぎた今では妹の仕事を目当てに注文が来るようになっていた。作業台に並べた布は同じ青でも染めた回数で深さが違い、妹はそれを一枚ずつ指で押さえながらどれが春の注文に合うかを私に聞いた。私が選んだ一枚に妹はうなずき、自分も同じものを選んでいたと笑った。


「お姉さまの目は信用できるのよ。昔から」

「昔はあなたの髪飾りを選ばされただけじゃない」

「それも含めて」


職人が奥から妹を呼び、妹は返事をしてから私に茶を淹れた。湯気の向こうで妹の手は染料で青く、指の節のところだけ白かった。この手が好きだった。前にもそう思った覚えがある。


「それで、お姉さまは最近どうなの」


私は答えた。セヴェリンが領境の橋の修繕で忙しいこと、客間の暖炉を直したこと、ノアが北の町との取引をまとめたこと。妹は聞きながら糸をほどいていたが、ほどき終わると顔を上げた。


「それ、全部お姉さまのことじゃない」


嫌味な声ではなかった。ただそう言われて私は次に話すことを探し、見つからなかった。


鞄の底には王立測量院の聴講案内がたたんで入っていた。先月、都から取り寄せたものだ。三十三になって地図を学び直すなど誰にも言っていない。妹にも言わなかった。そのかわりに去年ミラが見せてくれた地図のことを思い出した。領内の川沿いの道を載せた一枚で、右下の隅にミラの名前が小さく刷ってあった。ミラは自分で歩いて確かめた道を人差し指でなぞり、ここの曲がり角が前の地図より正しくなったのだと言った。私はその指の動きを見ていた。嬉しかった。嬉しいまま家に帰り、夫に地図の話をして、夫はそれはよかったと言った。それで終わった。


「ちょっとね、考えていることはあるの」

「なあに」

「決まったら話す」


妹はそれ以上聞かず、帰り際に小さな布の端切れを私の手に押し込んだ。選んだ青だった。


帰り道は坂を下る。首にかけた護符が歩くたびに胸元で揺れた。祖母の形見で、十七の春に私のものになってから一度も外していない。鞄の中の案内のことを考えていた。相談に行くだけなら誰にも断らなくていい。行くだけなら。そう思いながら角を曲がり、荷車の音を聞いたのは車輪が目の前にあった時だった。


*


目を開けると天井の梁の節が見えた。


実家の、私の部屋の天井だった。嫁いでから一度も使っていない部屋だ。手を上げると指が細かった。爪のそばに糸で切った覚えのない小さな傷があった。


護符を探すと首にかかっていた。石の表面が曇り、指で擦っても戻らない。祖母は一度だけ、この石は持ち主を一度だけ助けると言っていた。伝承の話は半分に聞いていたが、曇った石を見ているともう二度目はないのだと素直に思えた。


窓の外は春だった。


私は起き上がり、寝間着のまま父の書斎へ降りた。廊下で女中とすれ違い、おはようございますと言われておはようと返した。声が若かった。棚の下段に領内へ回ってくる公報の束がある。春の束をめくって王立測量院養成部の受験案内を探した。あった。受付は春の終わりまで、試験は夏、地域給費枠は一名。


前の人生ではこの紙を一度も手に取らなかった。縁談と家の都合が先にあった。その夏、給費枠を得たのはミラだった。


私は案内を胸に当てて、しばらく書斎の冷たい床に立っていた。足の裏が冷えてくるまで。それから自分の部屋へ戻って服を着替えた。


*


父に話したのはその日の夕食の後だった。


「養成部を受けたいの」


父は葡萄酒の杯を置き、私をしばらく見た。怒鳴る人ではない。考える時に眉の間を親指で押す癖があり、その時もそうした。


「学費は三年分だ。寮も含めれば、うちで続けて出せる額ではない」

「給費枠を取ります」

「地域で一つだぞ」

「知っています」


父は家令を呼び、帳簿を持ってこさせた。私の前で帳簿を開いたのは初めてだった。返済と屋根の修繕、それに来年の税。読めるところだけ読んでも、自費で三年通える家ではないことは分かった。小口の旅費なら出せる。三年の学費は出せない。それは父の意地ではなくただの数字だった。


「それと、セヴェリン殿の件がある」


その名前を聞いて私は自分の手を見た。十五年余り、この人と暮らした。悪い人ではなかった。優しい時もたくさんあった。それでもこの春の私はまだ彼の妻ではない。


「正式なお話の前に、一度お会いして確かめたいことがあります」


父は眉を押した。それから会う段取りをつけると言った。


*


セヴェリンは約束の日に本を二冊持ってきた。


「測量に関心があると伺いました。私の書庫にあったものです。教師も、必要なら手配できます」


二十四歳の彼は私の覚えている彼より頬が丸く、声の調子が若かった。本の背表紙を見ると確かに測量の入門書だった。この人はこういうことをする人だ。それも覚えている。


「ありがとうございます。それで、お聞きしたいのですが」


私は本を膝に置いたまま聞いた。養成部に入れば在学中に現地実習があり、何か月も家を空けることもある。修了すれば測量院か領の仕事に就いて外で働くことになる。結婚した後もそうしていてよいか。


彼は少し考えて正直に答えた。本を読むことや家で図を描くことは構わない。けれど自分の家は客の出入りが多く、妻には家にいて采配してもらうつもりでいる。何か月も家を空けるのは想像していなかった。


「それでは、私の望みとは合いません」


声は震えなかった。彼は不快そうな顔をしなかった。少し驚いた顔をして、それから分かりましたと言った。本を返そうとすると、彼は持っていてくださいと首を振った。玄関まで送った時、彼はもう一度振り返って試験がうまくいくようにと言った。私は礼を言った。それもこの人らしかった。


そのあと父にそのまま伝えた。父は長く黙ったあと、家令と話すと言った。縁談で見込んでいた援助がなくなるなら売れるものを調べなければならないと。


妹が廊下から顔を出した。


「私も縁談はいやよ。お姉さまの代わりなんて」


妹は十五で、まだ染めの見習いにもなっていない。それでも言うことははっきりしていた。父は妹を叱らなかった。


「お前に代わりをさせるつもりはない」


それだけ言って父は帳簿を閉じた。


その夜、私は机に受験案内とセヴェリンの置いていった本を並べた。胸の奥が少し軽かった。喪失の夜になるはずの夜だった。けれど私の頭にあったのは、明日からこの時間を全部勉強に使えるということだけだった。入門書を開いて最初の頁を読んだ。読めた。読めることが嬉しくて二頁目をめくった。


*


ミラの家は街の坂を上がりきった所にある。父親が建物の図面を引く仕事をしていて、家の一階が仕事場だった。


「来ると思ってた」


扉を開けたミラは、私が受けると言う前にそう言った。髪を後ろで一つに束ね、袖に炭の粉がついている。


「どうして」

「公報が回ってきた日から、あなたの顔が受ける顔だったもの」


受ける顔がどういう顔なのか聞いたら、ミラは私の眉のあたりを指でつついてここが上がってると言った。


二人で仕事場の端を借りて、同じ坂道を描いた図を二枚並べた。街の中心から川へ下る坂で、途中に石段が三か所と荷車が通れる迂回路がある。私の図は道幅と段数を書き込んで、どこで迂回路へ曲がるべきかが一目で分かるようにしてあった。ミラの図には段の高さまで書いてあり、三つ目の石段の手前に小さな印があった。


「これ何」

「排水の溝。雨の日はそこだけ水が流れるの。靴が濡れる」

「見てきたの」

「見てきた。雨の日に」


私は笑った。ミラは私の図を指で押さえた。


「でもこれ、荷車の人はこっちのほうが助かる。どこで曲がればいいか先に分かるから。私の図じゃ段の高さを読んでる間に荷車が転がる」

「あなたの図は歩く人が靴を濡らさない」

「どっちも要るのよ。目的が違う」


どちらの図も完全ではなかった。見る目的によって要るものが違った。それが面白くて、私たちは二枚の図を交互に見ては相手の気づきに文句をつけたり感心したりした。


「ここの道幅、あなたの図だと荷車二台がすれ違えることになってる」

「なってるわよ。測ったもの」

「何で測ったの」

「歩幅」

「それ、測ったって言わない」


ミラは言いながら自分の図を引き寄せて、そこに歩幅の数字を書き足した。私の歩幅で。文句をつけた道幅をそのまま使うのかと言うと、ないよりましだと返された。ミラは私の数字の揃え方を真似したいと言い、私はミラの印の付け方を自分の図に写した。時間を忘れた。窓の外が暗くなっているのに気づいたのは、ミラの父親が灯りを持って来てくれた時だった。十七の時にもこうして過ごしたはずなのに、私はこの時間がこんなに楽しいことを三十三まで忘れていた。


ミラは棚から薄い本を一冊取り出して私に渡した。街路の写図の手引きで、余白にミラの書き込みがびっしりある。


「貸す。私は書き込みを帳面に写してあるから、いつでも返していい」

「いつでもって」

「あなたが要らなくなった時」


募集要項は二人で読んだ。地域給費枠、一名。私たちは顔を見合わせて、それ以上その数字の話はしなかった。約束もしなかった。どちらかが落ちたら祝うなどと言うのは、言葉にした途端に嘘になる気がした。ミラもその数字には触れず次の頁をめくった。


それから夏まで週に三日はミラの家で過ごした。坂道の図は五回描き直した。描き直すたびに二人で実際に坂を下りて確かめた。三つ目の石段の溝は晴れの日には何も見えなかった。ミラが得意そうに、だから雨の日に見たのだと言った。四度目の確かめの日は本当に雨が降って、二人で溝に水が流れるのを見た。ミラの言う通り靴が濡れた。私の靴のほうがひどく濡れて、ミラは笑いながら自分の図の印を指で叩いた。


ある午後、ミラが帳面から目を上げて言った。


「先週ね、父さんの図面の清書を手伝ったら報酬をくれたの。ちゃんと仕事として」


少し誇らしそうな声だった。私は手を止めてすぐに答えた。


「養成部に入ったら、もっと学べるわ」

「そうね」


ミラは帳面に目を戻した。私も自分の図に戻った。


模擬課題はミラの父親が出してくれた。二人とも別々の机で解いて父親が採点する。坂道とは別の知らない区画の図だった。結果は私のほうが上だった。段数の数え間違いがミラにあり、私にはなかった。


採点の紙を見た瞬間、顔が勝手にほころんだ。ミラの顔を見るより先に。


「段を一つ飛ばしたわ。あの溝のところで癖がついてた」


ミラが悔しそうに言って、私はようやく自分の顔を気にした。けれどほころんだものは引っ込まなかった。未来のこととかミラに悪いとか、そういうことより先にただ勝って嬉しかった。私はそういう人間だった。これまで知らなかった。


その頃、家では母の代わりに私が受け持っていた使用人の賄いの帳面を家令の娘に任せることになった。私が勉強で手を離せないからだ。任せる前の晩、私は帳面の付け方を書いた紙を三枚も用意した。娘はそれを一度読んで分かりましたと言った。翌月の帳面は私がつけていた時より几帳面だった。私がいなくても回ることがあると知って拍子抜けした。それから少し安心した。私の望みがいつも誰かの損になるわけではなかった。


*


ラウルと歩くようになったのは、勉強帰りの道がたまたま重なったからだった。


幼なじみで、二つ上で、領の技師見習いとして橋や水路の現場に通っている。坂の途中で会うとどちらからともなく並んで歩いた。最初は挨拶だけだった。次に天気の話をした。三度目に彼が私の抱えている図を覗き込んだ。


「その道、荷車は無理だな」


ある夕方、ミラの図に印をつけた石段を見上げて彼が言った。


「無理。でも見晴らしがいいから、歩く人には好かれてるの」

「上から夕方の川を見たことある?」

「昼間なら。測りに行くのはいつも昼だから」


彼が笑った。私は昼でも地形は読めるのだと言いかけてやめた。笑われたのに腹が立たなかった。


「もう少し歩かない?」


言ってしまってから私は理由を探した。石段の上から迂回路の合流を確かめたい、図の修正に要るから、それに夕方のほうが影で段差が見やすく。


「いいよ」


彼の返事が簡単すぎて、用意した理由が全部宙に浮いた。私は口を閉じた。彼が横でまだ笑っていた。


石段は八十二段あった。数えながら上がった。彼は数えていなかったが、途中で私が声に出して数えているのに気づいて一緒に数え始めた。七十を過ぎたあたりで息が切れて、二人とも数が怪しくなった。


上に着くと川と街の屋根が見えた。しばらく二人とも黙っていた。夕方の光が屋根の瓦を一枚ずつ照らしていて、迂回路が石段の下でどう合流しているかが上からだとはっきり見えた。私は図を広げて合流の角度を直した。彼が横から覗いた。


「ここ、荷車が曲がりきれないって現場で言われてる」

「角度が急すぎるの?」

「急すぎるのと、ここに井戸がある」


井戸は図に描いていなかったので私が書き込んでいると、彼が先に口を開いた。


「南の治水の現場に来年人を出すらしい。遠いけど、行ってみたい」

「行くの」

「まだ分からない。考えてる。川を丸ごと一本付け替える仕事だ。一度でいいから、そういうのを見てみたい」


彼の横顔を見た。前の人生で私はこの人のこういう話を聞いただろうか。聞いたとしても覚えていない。覚えているのは、三十三の私が彼と道で会って挨拶を交わし、それだけだった距離のことだ。今、隣にいる彼は治水の話をしながら本当に楽しそうだった。それが私の覚えている距離よりずっと近かった。


「そういえば」


降りる途中で彼が言った。


「前に、川の曲がり角を上から見てみたいって言ってただろ。北の尾根の道から見渡せる。今度行かないか。俺も水路のつながりを一度上から見たいんだ」


言った覚えはあった。ずっと前、たぶん十五の頃のことで、彼はそれを覚えていた。


「行く」


答えが早すぎて今度は私が笑った。彼も笑った。約束をして坂の下で別れた。帰り道、私は何も用事のない足取りで歩いていた。


その週、ミラの家で坂道の図を広げると、ミラがすぐに井戸の書き込みに気づいた。


「誰に聞いたの」

「ラウル」


ミラは何も言わずに少しだけ口の端を上げて、自分の図にも井戸を描き足した。


*


試験は夏の盛りに領都の講堂で行われた。


筆記は午前に、製図は午後だった。製図の課題は、与えられた測点の数値と不完全な現地の記録から一区画の図面を仕上げること。測点の一つに記録の欠けがあった。


時間は半分が過ぎていた。周りの机から鉛筆の音がする。図を見栄えよく仕上げたいなら、欠けた点を前後から推して線を引けばいい。きれいな図になる。けれどそれは確かめていない線だ。


私は推した線を点線で引き、欄外に「未確認」と書いた。確かめた部分は実線で、要る情報を全部書き込んで仕上げた。見栄えは少し落ちた。それでよいと決めるのに時間はかからなかった。ミラの図の雨の日の溝の印を思い出していた。見てきたから描ける印。見ていないものは見ていないと描く。


提出の鐘が鳴って鉛筆を置いた時、手が汗で湿っていた。隣の列のずっと向こうにミラの背中が見えた。試験の間、私は一度もそちらを見なかった。手を緩めなかった。終わってからそのことに気づいた。


*


発表は十日後、同じ講堂の前の掲示板だった。


人が集まっていた。私は後ろから名前を探した。合格、地域給費、一名。その欄に私の名前があった。


エルナ。自分の名前が紙に刷ってあった。


胸の中で何かが跳ねた。息を吸ったら声が出そうだった。本当に出た。小さく、ああ、と。足の裏が地面から浮いたみたいだった。嬉しい。嬉しいことがあると私は昔からまず隣を向く癖がある。ミラに言うために。


隣を向いた。


ミラはそこにいて掲示板を見ていた。私の見ていた欄の一つ下、次点の欄にミラの名前があった。


言いかけた言葉が口の中で止まった。


喉の奥に、言いかけた言葉がそのまま残っていた。


ミラは掲示板から目を離し、受付へ行って自分の書類を受け取った。私のほうを一度見たが何も言わなかった。悪意のある顔ではなく、ただ何も言えない顔だった。それから踵を返して人混みの外へ歩いていった。背中がまっすぐだった。


私は受付へ行き、合格の書類を受け取った。手続きの説明を聞き、紙を鞄に入れた。帰りの馬車の中で紙を一度取り出して、また入れた。


喜んでいた自分を悪い人間だとは思えなかった。思えないことが少し苦しかった。


*


受付で渡された手続きの紙は二枚あった。


一枚は入学意思の確認書で、締切は発表から十日目。もう一枚は寮と持ち物の案内だった。確認書の裏に小さな字で注意書きがあり、私はそれを馬車の中で三度読んだ。受諾後であっても期限内に辞退を申し出た場合、給費枠は次点者へ繰り上げる。期限を過ぎてからの辞退および入学後の退学については繰り上げを行わない。


次点者。ミラの名前がその言葉の後ろに貼りついて見えた。


家に着いて父に合格を伝えると、父は眉を押してからよくやったと言った。それだけだったが、父にしては多い言葉だった。妹は飛びついてきて、手に染料の青がついたまま私の袖を握った。家令が祝いの葡萄酒を開けた。私は笑って、飲んで、部屋に上がった。


机の上に合格の書類を置いた。灯りの下で自分の名前が刷ってある。何度見ても嬉しい。嬉しいから見ていられなくなって引き出しにしまった。


しまった途端に別のものが浮かんだ。


川沿いの道の地図。右下の隅の小さな名前。自分で歩いた道を人差し指でなぞるミラの指。あの曲がり角が前より正しくなったのだと言った時の声。


私が辞退すればあれは戻る。


そう思った。必ず戻るとは言えない。十六年先のことで、間に何が起きるかなど分からない。それでも私が今この紙を返せば、ミラは給費を得て養成部へ行き、そして私の知っている道筋のどこかへ出る。戻せるかもしれない。私はそう思った。思ってしまうと引き出しの中の紙が重くなった。


引き出しを開けてもう一度読んだ。やはり嬉しかった。閉めた。


その夜はそれ以上考えないことにして、できなかった。


*


発表から三日目に私からミラへ短い手紙を出した。一度話したい。それだけ書いた。返事はその日のうちに来て、翌日の午後、坂の途中の茶店で会うことになった。


ミラは先に来ていた。髪はいつも通り一つに束ねてあり、袖に炭の粉はついていなかった。


「おめでとう」


座る前にミラが言った。私は座った。言われた言葉をどう受け取ればいいか分からなくて、ありがとうとだけ言った。それから茶が来るまで二人とも窓の外を見ていた。窓の外は坂で、荷車が一台、迂回路のほうへ曲がっていった。


「それで、話って」

「あなたのこと。これからどうするのか」


ミラは茶を一口飲んだ。


「父さんの知り合いの事務所で助手を探してるの。水路の修繕の図面を引くところ。有給で朝から夕方まで。条件を聞いてるところ。まだ決まったわけじゃない」

「来年も受けられるわ。助手をしながらでも準備はできる。私の帳面も送れるし」

「それはそうだけど。その事務所ね、今やってるのが」

「製図の課題なら私が寮で解いたものを写して送る。筆記は」

「エルナ」


ミラが私の名前を呼んだ。私は続きを待った。


「今年は、収入と仕事を先にしたいの」


ミラの声は静かだった。私は口を閉じた。


「まだ決まってないって言ったでしょう。でも決めるのは私。決まったら私はそこで図面を引く。来年の試験は今は考えてない」

「でも養成部に行けば」


言いかけてミラが目を上げた。


「そればっかり」


小さい声だった。けれど私の言葉はそこで切れた。


「あなたが受かったことに文句はないの。悔しいけど文句はない。私が落ちた。それは分かってる。でもね、エルナ。私が今何をしようとしてるか、あなたは一度でも聞いた?」


答えられなかった。私はこの日ミラの話を聞くために来たつもりだった。けれど実際に聞いたのは、助手の仕事の名前と条件が決まっていないことだけだった。どんな図面を引くのか、どうしてそこを選ぼうとしているのか。清書を手伝って報酬をもらったとミラが言った春の午後も、私は養成部の話をして自分の図に戻った。あの時の少し誇らしそうな声を今になって思い出した。


「ごめんなさい」

「何に謝ってるの」


ミラは答えを待たずに茶代を置いて立ち上がった。


「おめでとう。それは本当」


そう言って出ていった。私は冷めた茶を前にしばらく座っていた。嫌われたかもしれないという怖さがあった。それと別に、もっとはっきりしたものが残った。


*


発表から六日目の朝、私は確認書を机に広げてペンを持たずに座っていた。


辞退したら何をするのか。それを初めて真面目に考えた。


家の帳面に戻る。家令の娘から賄いの帳面を引き取り、父の手伝いをして、修繕の職人と話し、来年の税の心配をする。それは役に立つ。父は安心するだろう。ミラは給費を得る。少なくともその可能性はある。私は自分の学びをまた後ろへ送る。


後ろへ送ったことなら覚えがあった。二十一の春、セヴェリンの屋敷で、客間の整理が一段落したら本を読もうと思って、一段落は三年来なかった。読まなかった本は今も書庫のどこかにあるはずだ。あの時は送った先に何かがあると思っていた。なかった。あったのは次の用事だった。


ミラが喜ぶ保証はない。ミラの仕事もまだ決まっていない。


それでも私は学びたかった。


図を見比べる午後が楽しかった。試験の答案に確かめた線と確かめていない線を分けて書いた時、私は自分がそれを面白いと思っていることに気づいた。合格の紙を見て声が出た。あれは全部私のものだった。誰かにもらったものではなく、誰かのために取ったものでもなく。


ペンを取り、確認書に署名した。


その日のうちに領都の受付へ出向いた。締切は四日先で窓口は空いていた。受付の人は書類を受け取り、名前の欄を指で押さえた。


「エルナ様、ご本人で間違いありませんか」

「はい」


それだけだった。受付の人は印を押し、控えを私に渡した。私は控えを鞄に入れて外へ出た。夏の終わりの光が強くて目を細めた。


*


締切までの四日間、私は控えを引き出しに入れたまま取り出さなかった。


制度の上ではまだ取り消せる。それは知っていた。知っていて私は机に向かい、ミラに借りた写図の手引きを開いて、入学前に読んでおくよう指示された範囲を読んだ。寮の持ち物を揃えた。妹と街へ出て丈夫な靴を買った。妹は飾りのついた靴を勧め、私は底の厚い茶色の靴を選んだ。妹は不服そうだったが、現地実習で歩くのだと言うと納得した。


十日目の夕方、私は何もしなかった。窓の外が暗くなるのを見ていた。それで締切は過ぎた。


これ以上、辞退するかどうかを考えることはなくなった。考えることは一つだけ残った。ミラとこれからどう付き合っていくのか。


*


出発の五日前に本を返しに行った。


ミラは仕事場の前の石段に腰かけて帳面を膝に広げていた。私を見ると帳面を閉じた。


「決まったのね」

「うん。養成部へ行くことにした」


ミラはうなずいた。それだけで、よかったとも残念だとも言わなかった。私もそれ以上は言わなかった。


「あなたのほうは」

「決まった。あの事務所。来週から」


ミラは隣の石段を手で払った。私はそこに座り、鞄から手引きを出した。表紙の角が少し丸くなっていた。


「返しに来たの。それと、謝りに」


ミラがこちらを見た。


「茶店の日、あなたは事務所の仕事の話をしようとしていたのに、私が受験の話にしてしまった。春に清書の報酬の話をしてくれた時もそうだった。ごめんなさい」


ミラは少しの間黙っていた。石段の下を荷車が一台通った。


「仕事、どんなことをするの」


私が聞くとミラは帳面を開いた。


「水路の修繕のための図面。古い水路のどこが崩れてるかを現地で測って、直す場所を図に落とす。でね、これが面白いの。古い図面と今の水路が合わないところがある。昔の人が測り間違えたのか、水路のほうが動いたのか、まだ分からない。来週、まずそこを歩いて確かめることになってる」


ミラの指が帳面の線を追った。合わないという場所に小さな丸がついていた。見覚えのある印の付け方だった。


「崩れたせいで動いたのかも。それか、昔の図のほうが見た目で引いてるのかも」

「そう思うでしょ。だから確かめに行くの」


言葉が続いた。私は水路の勾配のことを聞き、ミラは古い図の線の引き方について文句を言った。曲がり角を定規で引いている、あんな川はない、と。私は笑った。少しの間、春の午後と同じだった。


それから私が養成部の寮の話をしようとして、やめた。ミラも気づいたと思う。短い間が空いた。その間をどちらも埋めなかった。


「本」


私が手引きを差し出すと、ミラは受け取らなかった。


「持っていって。寮で使うでしょう。私は帳面に写してあるから」

「借りたままで、いいの」

「貸したまま。あげるんじゃない」

「じゃあ、次に帰ってきた時に返す」

「そうして」


ミラは立ち上がった。事務所で打ち合わせがあるからと言って帳面を小脇に抱えた。


「気をつけて行って」

「あなたも」


ミラは坂を下りていった。私は石段に座ったまま手引きを膝に置いていた。借りたままの本があり、次に帰った時に返すという用事ができた。それだけのことが、その日の私には大きかった。


*


出発の三日前、妹が私の部屋に布を三枚持ってきた。


「寮に持っていく服、一枚は私が仕立てる。色を選んで」


青が二枚と灰色が一枚。妹は一枚ずつ私の肩に当てて窓の光で見た。


「こっちの青は顔が明るく見える。でも灰色のほうが汚れが目立たないわよ。図面を描くんでしょう」

「どっちがいいと思う」

「私は青。でも決めるのはお姉さま」


私は青を選んだ。妹は満足そうにうなずき、布を抱えて降りていった。階段の途中で振り返った。


「明日、ラウルと出かけるんでしょう。帰り、暗くなる前に戻ってね」


どうして知っているのか聞く前に妹は行ってしまった。


*


北の尾根の道は思っていたより長かった。


朝のうちに街を出てラウルと並んで歩いた。進学のことは発表の日に伝えてあったから、改めて話す用事はなかった。彼は現場の話をし、私は寮の案内のことを話した。道は最初のうち林の中で、木漏れ日が足元に落ちていた。


「いつ発つ」

「明後日の朝の便」

「見送りには行けない。その日は現場だ」

「分かってる」


彼は少しの間黙って、それから、だから今日なんだ、と言った。私はうなずいた。


尾根の道は途中から木が切れて川が見えた。川は街の下で大きく曲がり、曲がった先で二つの水路に分かれて畑へ入っていく。上から見ると、その分かれ方が図で見るのとまったく同じで、まったく違った。


「ああ、ここでこう分かれるのか」


彼がつぶやいた。私も同じことを思っていた。二人で立ち止まってしばらく見ていた。水路のつながりを彼が指でたどり、私はそれに合わせて図を頭の中で開いた。あの曲がり角が確かに前の図より正しい形で見えた。ミラの地図の曲がり角だ、と一瞬思って、私は深く息を吸った。


「来てよかった」


彼が言った。私のためではなく彼自身が言った声だった。それが分かって私は嬉しかった。


「ここ、昔は左の水路しかなかったんだ。右のは六十年前に掘ったって現場の親方が言ってた。だから右のほうが線がまっすぐだろ」

「本当だ」

「人の手が入るとまっすぐになる」


私は彼の横顔を見た。この人はこういうことを面白いと思う人だった。私と同じように。


帰りの道で私はいつもより歩くのが遅くなった。彼がそれに合わせて遅くなった。林の中に入ると木漏れ日が朝より低くなっていた。街の屋根が見えてきた時、私は足を止めた。


「ラウル」

「うん」

「また会いたい。用事がなくても」


言ってから理由を足そうとして、足さなかった。


彼はしばらく黙っていた。それからゆっくり言った。


「俺もだ。あの日、石段で誘ってくれて嬉しかった。今日は俺が会いたかった」


私は彼の顔を見た。彼は照れて目をそらし、それからもう一度こちらを見て、何か言いかけてやめた。手が少し持ち上がって、止まった。


私から一歩近づくと彼が少しかがんだ。短い口づけだった。離れてから、どちらも何も言えずに笑った。


「手紙を書く。寮に着いたらすぐ」

「俺も返す。遅いかもしれないけど、必ず」

「次に帰った時」

「迎えに行く」


坂を下りて街の入口で別れた。別れてから私は一度振り返った。彼も振り返っていた。妹に言われた通り暗くなる前に家に着いた。玄関で妹とすれ違い、妹は私の顔を見て何も聞かずただ笑った。


*


父にはその夜のうちに話した。


「ラウルとお付き合いをします」


父は眉を押した。長く押した。


「身分も先行きも簡単ではない」

「分かっています」

「今ここで許すとも許さぬとも言わん。お前が決めたのなら、まず自分の学業を成せ」


それで終わった。父はそれ以上言わず、私もそれ以上求めなかった。


出発の朝、父は乗合馬車の時刻表を三度確かめ、御者に宿場の名前を言い含めた。妹は荷造りを手伝い、青い服を一番上に入れた。家令は旅費を小さな袋に入れて私に渡し、父の後ろに立っていた。ノアは私の鞄を馬車の荷台に積み、重いと文句を言って笑った。


父と家令がこの秋のうちに屋根の修繕と返済の段取りをつけることは、昨夜のうちに聞いていた。売るものがあるかどうかはまだ分からない。家の問題を全部片付けてから出るのではない。けれど大人たちがそれぞれの持ち場で動いていた。私はそれを見て馬車に乗った。


護符は首にかけたままだった。曇った石はもう何もしないが、それでも外さなかった。


馬車が動き出して私は窓から家族を見た。妹が手を振っていた。父は振らなかったが、馬車が角を曲がるまで立っていた。


*


都までの三日は長かったことしか覚えていない。


寮は測量院の裏手にあり、二人部屋だった。同室になった人は南の領から来た私より一つ上の人で、先に着いて窓際の机を使っていた。


「机、どうしますか。窓際と、灯りの近くと」


同室者が聞いた。私は部屋を見た。窓際は昼の光がいいが夜は灯りから遠い。灯りの近くは夜に図を描くのに向いている。


以前の私なら、どちらでも、と言った。言いかけた。


「夜に製図をすることが多いと思うので、灯りの近くを使いたいです。昼は窓際の机を少し借りてもいいですか」

「いいですよ。私は朝が早いから窓際で。灯りの油は半分ずつ出しましょう」


それで決まった。それだけのことで私は少し息を吐いた。同室者は自分の名前を言い、私も言った。それから二人で寝台の毛布を広げて、どちらの毛布が薄いかで少し笑った。


荷をほどいて教材を机に並べた。セヴェリンの置いていった入門書とミラの手引き。手引きは一番上に置いた。余白の書き込みはミラの字のままだ。雨の日の溝のことも、どこかの頁に書いてあるはずだった。


便箋を一枚出してラウルへの手紙を書き始めた。


部屋のこと。窓から見える測量院の屋根のこと。同室の人が朝早く起きるので私は灯りの近くの机にしたこと。明日から始まる授業のうち製図の基礎を一番楽しみにしていること。寮の食堂のパンが硬いこと。尾根から見た川の分かれ方を授業で習う前に図に描いてみたいこと。右の水路のほうがまっすぐだったこと。


書いているうちに便箋の下まで来た。まだ書きたいことがあった。


私は二枚目の便箋を引き寄せた。

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