【解決済み】母の葬式を覚えています
母の葬式を覚えている人を、インターネットで探したことがある。
母が死んだ証拠を、母に見せるためだった。
一
きっかけは、飲み物の名前だった。
子どもの頃、母と買い物に行くと、帰りに小さな紙パックのジュースを買ってもらった。薄い水色の箱に、二つに切った梨が描いてある。ストローを刺す穴だけ銀色で、吸いすぎると箱の横腹がへこんだ。
商品名は「しろい梨」。
そう覚えていたのだが、実家の片づけで出てきた遠足の写真には、「梨しずく」と書かれた箱が写っていた。
妹の千尋に写真を送った。
〈これ、名前変わったんだっけ〉
〈最初から梨しずくでしょ〉
〈しろい梨ってなかった?〉
〈お母さんがそう呼んでただけじゃない〉
それで納得した。
こういうことはある。
昔の記憶は、たいてい昔のままではない。間違った呼び名を何度も使ううちに、箱にもそう印刷されていた気になる。三十六歳の私でも、その程度のことはわかっていた。
それでも検索したのは、懐かしかったからだ。
見つかったのは、「記憶と記録が違うもの」という掲示板だった。
なくなったと思っていた駅。昔と向きが違う店のマーク。テレビで一度だけ見た、映画の別の結末。
その中に、水色の梨ジュースの話があった。
四人が「しろい梨」と覚えていた。
私はちょっと嬉しくなって、五人目として書き込んだ。
〈母とスーパーに行った帰り、いつも飲んでいました。私もその名前で覚えています〉
数分で返信がついた。
〈お母さんは、お元気ですか〉
妙な質問だったが、悪意は感じなかった。
〈七年前に亡くなりました〉
返信は、それきりだった。
母が帰ってきたのは、翌日だ。
二
玄関に入ると、だしの匂いがした。
千尋が来ているのだと思った。
母が死んだあと、実家には千尋が一人で住んでいた。その千尋も先月、職場の近くに引っ越した。家を売ることになり、私たちは休日ごとに荷物を分けていた。
台所のすりガラスに、人影があった。
「お兄ちゃん?」
私は、靴を片方だけ脱いだ姿勢で止まった。
千尋は私を透と呼ぶ。
お兄ちゃんと呼ぶのは、母だった。
引き戸が開いた。
母は、灰色のカーディガンにエプロンをつけていた。
覚えているより、頬が少し下がっていた。髪の分け目が白く、眼鏡のつるに細い鎖がついていた。死んだとき五十七歳だった母が、生きて六十四歳になっていたら、こんなふうだろうと思った。
「どうしたの。その靴、履きにくいの」
やけに普通の質問だった。
だから私は、質問に答えた。
「いや」
「お昼まだでしょ。うどんでいい?」
私は母の左手を見た。
親指と人差し指の間に、三日月形のやけどの痕があった。
小学生の頃、私が鍋の取っ手にランドセルを引っかけた。そのとき母は、落ちかけた鍋を素手で受けた。
母は取っ手を見ていなかった私を叱ったが、鍋をつかんだ理由については、「床がべたべたになるでしょ」と言っていた。
その傷だった。
私は台所の椅子に座った。
母は私の前にうどんを置き、ねぎを食べるか聞いた。私はいらないと言った。母は自分の丼にだけ入れた。
何年ぶりかで、誰かにねぎを食べるか聞かれた。
一口食べたら、涙が落ちた。
「熱かった?」
私は首を振った。
母はそれ以上聞かなかった。
昼食のあと、庭に出て千尋へ電話した。
「お母さん、死んだよな」
少し沈黙があった。
「どうしたの」
「死んだよな」
「透、今どこ」
「家。お母さんがいる」
千尋は笑わなかった。
「玄関の横、見て」
言われたとおり、家の横へ回った。
「青い鉢ある? 取っ手の片方が欠けてるやつ」
「ある」
「それ、葬式のあと二人で買った。供花の鉢、全部枯らしたから。花のないやつなら枯れないと思って」
思い出した。
私たちはホームセンターで、観葉植物を買った。千尋が車から降ろすときにぶつけ、鉢の取っ手を折った。
青い鉢には、アロエが植わっていた。
「パキラじゃなかったか」
「パキラだよ」
私はアロエの葉を触った。
硬い葉先が、指に刺さった。
「透、そこ出て。今から行くから」
背後で、網戸が開いた。
「そのアロエ、日陰に入れといて。お父さんがいた頃からのだから」
母がそう言った。
父は母より先に死んでいる。
私は鉢の欠けた取っ手を握っていた。
内側に、白い接着剤が固まっていた。私が千尋から渡された破片を、くっつけようとして失敗した痕だった。
三
千尋は台所に入るなり、泣いた。
母は手を止めて、今度は千尋の分のうどんをゆでた。
私たちは母と食卓を囲んだ。
千尋は泣きながらうどんを食べた。
母は、千尋が髪を短くしたことにも、先月引っ越したことにも驚かなかった。
「少しは職場、近くなった?」
千尋はうなずいた。
「よかったね。朝、無理してたから」
千尋は箸を置いて、しばらく下を向いた。
母が洗濯物を取り込みに出た隙に、私たちは仏壇の引き出しを開けた。
父の会葬礼状があった。母のものはなかった。
母の葬儀費用を記した封筒には、屋根の修繕見積書が入っていた。
何か一つでも残っていれば、母に見せて、どういうことか聞けると思った。
私のスマートフォンには、納骨の日の写真が残っていた。
石屋の男。黒い服の私と千尋。花。
そこには母も写っていた。
私たちの間に立ち、少しまぶしそうにしていた。
「お父さんの納骨の写真じゃないよね」
千尋が言った。
「違う」
「私、その頃まだ、この鞄持ってない」
私は画面を拡大した。
七年前、墓地に行く途中で千尋は鞄を落とした。金具の下に斜めの傷がついて、本人はひどく気にしていた。
写真の鞄には、傷があった。
母が死んでいない写真の中に、母を納骨した日の傷があった。
千尋は、自分の携帯に残っていた最後の留守番電話を再生した。
母が入院する少し前のものだという。
『千尋。冷凍庫にコロッケ入ってるから、持って帰ってね。袋、破れやすいから、下を持ってね』
聞き終えると、廊下に母が立っていた。
「ああ、昨日の。忘れちゃった?」
千尋が携帯を伏せた。
母は何も言わず、洗濯物を置いて出ていった。
留守番電話の受信日は、昨日になっていた。
私たちはその晩、二階の私の部屋で眠った。
玄関から出ることはできた。車も動いた。千尋のアパートへ行けば、眠る場所もあった。
それでも二人とも、帰ろうと言わなかった。
一階で母が風呂の湯を抜いている。
台所の椅子を、元の位置へ押し込んでいる。
最後に、階段の下から声がした。
「電気、消すよ」
千尋が口を押さえた。
私は暗い天井を見ていた。
七年かけて慣れたはずの静けさが、どれほど静かだったのか、初めてわかった。
四
翌朝、掲示板に新しい話題を立てた。
件名は「母の葬式を覚えています」。
昨日から母がいること。私と妹だけが葬式を覚えていること。写真や物が変わったことを書いた。
ふざけた返信も来た。寝たほうがいいという返信も来た。
その中に、一人だけ、具体的なことを聞く人がいた。
〈いちどに全部調べないでください。お母さんの前で思い出を言い直していませんか〉
名前欄は「冬木」だった。
〈言い直す、とは?〉
〈たとえば、昔と料理の味が違うとする。お母さんが、昔からこうだったでしょう、と言う。あなたが、そうだったかも、と答える〉
私は台所を見た。
母が、梨をむいていた。
切った梨を薄い塩水につけている。
母は昔、梨を塩水につけていただろうか。
小さな疑問が浮かんだ。
〈何が起きるんですか〉
〈昔もそうだったことになります〉
冬木は、別の連絡先を送ってきた。
そこで初めて、私以外にも同じことを経験した人がいると知った。
冬木の母は三年前に亡くなっていた。ほかに二人、死んだ母親が帰ってきたという人がいた。
私は冬木に、食卓で梨をむく母の写真を送った。
四十分、返事がなかった。
戻ってきたのは、一枚の写真だった。
知らない居間だった。
黄色い座布団に、うちの母が座っていた。
眼鏡の鎖も、口元のほくろも同じだった。左手を膝に載せていて、指の間に三日月形の痕が見えた。
〈これは誰ですか〉
私は送った。
〈私の母です〉
冬木から返信が来た。
〈あなたの写真も、私には母に見えます〉
私はもう一度、写真を開いた。
母だった。
よその家にいる母だった。
続けて届いた二人の写真にも、母がいた。
一人はベランダで洗濯物を干していた。もう一人は、助手席で弁当を食べていた。
写真を重ねて見比べるまでもなかった。
四人の知らない子どもが、同じ母親を持っていた。
私は傷について尋ねた。
冬木は、ストーブの上のやかんを倒した、と答えた。
別の人は、母は給食の調理場で働いていて、そこでできた傷だと書いた。
残る一人は、事故のことは知らないが、自分が生まれる前からあったと言った。
誰も、鍋とランドセルを覚えていなかった。
私はそこで、冬木を疑った。
写真を盗まれたのだ。何かの加工をされた。傷のことも、私がどこかで書いていたのかもしれない。
そう考えると、ずいぶん楽になった。
母が帰ってきたことは受け入れたいのに、母が他人の母でもあることは、どうしても認めたくなかった。
冬木が書いた。
〈私の母は、私を圭一と呼びます〉
〈私は透です〉
〈お母さんに、それを伝えないでください〉
私は携帯を置いた。
「透、塩、濃くなかった?」
台所から母の声がした。
「梨、昔はそのままだった気がする」
「何言ってるの。こうしたほうが好きだったじゃない」
母は笑った。
私は昔から、料理に文句を言って母を困らせるのが苦手だった。
「ああ、そうだったか」
口にしてから、冬木の文章を思い出した。
遅かった。
夏休みの台所が浮かんだ。
金属のボウルに入った、塩水の梨。
扇風機。床に寝そべった私。
母は梨の皿を、私の背中に載せた。冷たくて、私はふざけて怒った。
そんなことはなかった。
なかったはずなのに、背中の冷たさまで覚えていた。
私は冬木に、そのことを書いた。
〈青い皿ですか〉
〈そうです〉
〈縁が欠けていて、母はいつも欠けたほうを自分に向けていた〉
私は打つ手を止めた。
冬木は、しばらくしてもう一行送ってきた。
〈それは、私の夏休みです〉
五
千尋は、その梨を食べなかった。
「食べるから変わるわけじゃない」
私が言うと、千尋はうなずいた。
「わかってる。怖いから食べたくないだけ」
私たちは二階で、母について別々に書いた。
まず母が死んだ日。病院。葬儀会館。棺に入れたもの。
大きなところは同じだった。
細かいところは違った。
棺に入れたカーディガンを、私は茶色だと思っていた。千尋は、えんじ色だと言った。
どちらでもよかった。
私たちは確かに、一枚のカーディガンを棺に入れた。
そう言うと、千尋は少し安心した顔をした。
「前からそうだよ。透と私、同じ家にいたのに全然違うこと覚えてる」
千尋は書きかけの紙を伏せた。
「あの人、やさしすぎる」
「お母さんは、やさしかっただろ」
「うん。でも、機嫌悪い日もあった」
母の話をするとき、私たちはそんなことを言わなくなっていた。
母はやさしかった。
母はよく笑った。
話すたび、母の扱いやすいところだけが残った。
「私、専門学校やめたいって言ったとき、すごく怒られた。学費をどれだけ払ってると思ってるんだって。覚えてる?」
「私、って」
千尋が顔を上げた。
「おまえ、専門学校だったか」
口に出した瞬間、自分の失敗に気づいた。
千尋は二年制の専門学校へ通った。卒業式の日、私は車を出した。
それなのに、頭の中には、大学の正門で袴を着た妹がいた。
門の横で、母が写真を撮っていた。
妹の顔がうまく見えなかった。
梨のことしか言い直していないのに、母以外の人の記憶まで変わっていた。
「透。私、どこで働いてる?」
私は答えた。
正しかった。
「私の誕生日は?」
答えた。
それも正しかった。
千尋は、自分に言い聞かせるように、うなずいた。
「じゃあ、まだ大丈夫」
その夜、冬木たちと四人で通話した。
私だけが妹の話をした。
冬木にきょうだいはいなかった。
もう一人には、弟がいた。
最後の人は、四歳下の妹がいると答えた。
名前は千夏。大学を出て、銀行で働いていた。
私が見たのは、知らない男の妹の卒業式だった。
通話中、一人が不意に黙った。
向こうで引き戸が開く音がした。
『誰と話してるの』
母の声だった。
同じ声が、うちの階段の下から聞こえた。
少し遅れて、冬木のマイクからも聞こえた。
四つの場所から、同じ女が同じことを尋ねていた。
誰も答えなかった。
すると、うちの母だけが言った。
「お友達なら、お母さんにも紹介してね」
次の日、あとの二人は連絡をよこさなくなった。
一人からは、最後に短い文章が届いた。
〈母と話しました。昔の写真もありました。こちらの勘違いだったようです。お騒がせしました〉
二時間後、もう一人からも届いた。
一字一句、同じ文章だった。
添付された昔の写真では、それぞれが母に抱かれていた。
写真の隅に、小さな私も写っていた。
どちらの家にも、私は行ったことがなかった。
六
冬木は、私より一か月早く母に会っていた。
きっかけは、子どもの頃に住んでいた町の話だったという。
駅から実家まで、どう歩けばよかったか。
地図では道が一本足りない。そう書き込んだら、同じ道を覚えている人がいた。
その人に、母親は元気かと聞かれた。
〈私もです〉
私が書くと、冬木はしばらく返事をしなかった。
〈道も飲み物も、母と一緒の記憶だったんですね〉
冬木は、自分と私が書き込んだ掲示板を調べていた。
古い話題の一覧を送ってきた。
題名を読むだけなら、ありふれた懐かしい話だった。
小学校の裏にあった店。
母親の自転車の後ろから見えた、赤い歩道橋。
幼い子どもの手を引いて、家まで帰る人が出てくるテレビ番組。
途中で母親の話になり、やがて相談が始まる。
死んだはずの母がいる。
自分の家を知っている女がいる。
母が、覚えのない弟を連れてきた。
どの相談も、最後は解決していた。
〈母と話しました。昔の写真もありました。こちらの勘違いだったようです。お騒がせしました〉
私は、自分の前にいる母を信じたかった。
だからこそ、同じことを繰り返すこの文章が嫌だった。
それぞれの家には違う事情があるはずだった。
みんな同じ言葉で安心するのは、おかしかった。
〈お母さんは何をしたいんでしょう〉
私は聞いた。
〈わかりません〉
〈一人の人が、同時に何軒もの家にいるんですか〉
〈わかりません。私には母に見える、としか言えません〉
冬木は、一つの音声を送ってきた。
食器の音がした。
冬木が、子どもの頃に飼っていた犬の話をしていた。
『犬なんか飼ってなかったでしょう』
母が答えた。
『犬を飼っていたなら、あの冬、お母さんが入院していた間、誰が散歩したの』
『あの冬って』
『圭一、おうちで一人で待ってたじゃない』
十秒ほど沈黙が続いた。
冬木が息を吸った。
『そうだった』
音声はそこで終わった。
〈私は犬の散歩を覚えています。病気になった母を、一人で待っていたことも覚えています。どうしても、片方だけ間違いだと思えません〉
冬木が続けて書いた。
〈でも、犬を探しているつもりだったのに、気づいたら母の退院がどれほど嬉しかったかを話していました〉
犬の写真も添付されていた。
玄関のたたきに、薄い茶色の四角い跡がある。
そこに、犬の寝床があったのだという。
写真の端に母のスリッパが写っていた。
〈家を出ませんか〉
私は初めて、冬木にそう言った。
〈出られますよ。仕事には行っています〉
〈戻らなければ〉
既読がついた。
返事はなかった。
翌朝、冬木の相談に「解決済み」の表示がついた。
私は本文を開かなかった。
七
千尋は、私の着替えをボストンバッグに詰めていた。
「しばらく、うちに来て」
「仕事の道具がある」
「あとで取りに来ればいい」
母は外にいた。
玄関の横で、アロエの鉢に水をやっていた。
千尋は、バッグのファスナーを閉めた。
「透。私、あの人に聞かれた」
「何を」
「七年前、家を出ていったでしょ、って」
私は黙っていた。
「お兄ちゃんが具合悪いときも、帰ってこなかったねって」
七年前。
母の葬儀のあと、私は熱を出した。
勤め先へ休む連絡をしたことは覚えている。そのあとの三日ほどは、何があったか曖昧だった。
「私、あのとき、透とここにいた」
千尋は自分の足元を見た。
「お母さんがいない家で、二人で寝てた。一人になりたくなかったから」
私は、階段を上がってくる足音を思い出した。
誰かが、盆を持ってくる。
うどんが載っている。
ねぎは入っていない。
「おまえが、作ったんだっけ」
千尋はうなずいた。
「めんつゆ、どこかわからなくて。お母さんが空き瓶に移してたから。ラベル全部はがしてあったでしょ」
その話を、知っていた。
つい昨日、母から聞いた。
熱を出した私にうどんを作ったら、千尋が調味料を片づけてしまっていて、めんつゆを探すのに苦労したのだと。
私は母に礼を言った。
あのときは悪かったね、とも言った。
千尋は私の顔を見た。
「あの人も、知ってるんだ」
「聞いた」
千尋が、ゆっくり息を吐いた。
怒鳴ってくれたらよかった。
もっと強く、私を責めてくれたらよかった。
千尋はただ、ひどく疲れた顔をした。
「じゃあ、私がまだ話してないことも、そのうち知るんだね」
階下で玄関が開いた。
千尋がバッグを持ち上げた。
「行こう」
私は階段を下りた。
母が、濡れた手をエプロンで拭いていた。
「お出かけ?」
「うん」
「千尋のところ?」
私はうなずいた。
母は私の襟を直した。
やけどの痕が、顎に触れた。
「じゃあ、コロッケ持っていって。冷凍庫の」
千尋は玄関で靴を履いていた。
母が冷凍庫を開けた。
薄い袋がこすれる音がした。
「袋、破れやすいからね」
私はその背中を見た。
今ここを出たら、次に来たときには、もういないかもしれない。
台所には、積み上げた段ボールだけがある。
床には母の足の形にすり減ったスリッパがあり、もう誰も履かない。
私は、そうなることを願っていたはずだった。
「透」
千尋が呼んだ。
母が振り向いた。
「この子、さっきから変なこと言うの」
母は声をひそめた。
「お母さんがいなくなったとき、ここでお兄ちゃんと暮らしてたって」
「行こう」
千尋がもう一度言った。
「お母さん、いなくなってないよね」
母は私の顔を見ていた。
千尋を怖がっているように見えた。
「七年前も、お兄ちゃんとここにいたよね。千尋は家を出て、たまにしか帰ってこなくて」
熱の出た夜が浮かんだ。
部屋のドアが開く。
うどんの載った盆。
誰かが、床に膝をつく。
顔を見ようとした。
母だった。
千尋だった。
どちらの記憶も、懐かしかった。
「透、今の私を見て」
千尋が言った。
顔を上げると、千尋は玄関の扉に手をかけていた。
「昔のこと、わからなくてもいいから。今、迎えに来てるから」
私は靴を探した。
母が、コロッケの袋を私に渡した。
半透明の袋を通して、指が重なった。
「お兄ちゃんまで、そんなこと言わないで」
母の手は冷たかった。
冷凍庫の中に入れていた手だから、当然だった。
母の最期の手は、もっと冷たかった。
あのとき、何を言っても温かくはならなかった。
今なら一言で、母を安心させられる。
私は、母の手を握った。
「いたよ」
自分の声がした。
「あのときも、お母さんがいてくれた」
玄関で、バッグが床に落ちた。
千尋は私を見ていた。
私は、その目を知っていた。
七年前、病院で私を見た目だった。
何を言っても、もう取り返せないことが起きた。
そのことを、私に知らせようとする目だった。
母がほっとしたように笑った。
「そうよね」
母の後ろで、廊下がきしんだ。
誰かが、二階から下りてきた。
一人ではなかった。
靴下の足が、階段を下りる。もう一組下りる。その後ろでも、段が鳴っている。
私は振り返らなかった。
「うん」
母に答えた。
足音が止まった。
家の中の、いるべきところに、みんなが収まった気がした。
千尋はバッグを拾った。
私の分のバッグを、玄関に置いた。
自分の鞄だけを持って、外へ出た。
扉が閉まった。
私は、なぜ妹があんなに泣いていたのか、思い出せなくなりかけていた。
八
家の売却は取りやめになった。
母が住んでいるのだから、当然だった。
千尋からは、月に一度ほど連絡が来る。
私は実家を出て、平日は元のアパートから会社に通っている。休日には母のところへ行く。
母はうどんを作ってくれる。
ねぎは入っていない。
私は時々、知らない町の夢を見る。
夢の中では、その町をよく知っている。
坂を上がったところに赤い屋根の家があり、庭で茶色の犬が待っている。銀行で働く妹が、先に帰ってきていることもある。
目が覚めると、母に話そうと思う。
母なら、どこの町か教えてくれる。
台所のすりガラスの向こうには、たまに大勢の影が映る。
引き戸を開けると、母だけがいる。
食卓の椅子が、いくつか温かい。
誰かが来ていたのかと聞けばいいのだが、聞かなくても、来ていたのだとわかる。
先日、掲示板から通知が届いた。
昔の相談に、誰かが返信をつけたのだった。
〈その後どうなりましたか。うちにも同じことが起きています〉
自分が書いた文章を読み返した。
母が死んだ。
妹と葬儀をした。
写真が変わった。
ずいぶん怖いことを考えていた。
削除しようかとも思ったが、心配してくれた人に、何も伝えないのはよくないと思った。
返信の欄に、文章を打った。
〈母と話しました。昔の写真もありました。こちらの勘違いだったようです。お騒がせしました〉
自分の言葉で書いたつもりだった。
相談を解決済みにするボタンを押した。
その夜も、私は実家に泊まっていた。
千尋から電話が来た。
「消さなかったんだね」
「何を」
「掲示板」
私は黙った。
「見てたのか」
「うん」
千尋は、母のことを悪く言わなかった。
帰ってこいとも言わなかった。
「一つだけ、話してもいい?」
「うん」
「私が作ったうどん、覚えてる?」
胸の奥が、少し痛んだ。
「お母さんが作ったんだよ、あれは」
「うん。透は、そう覚えてるんだよね」
千尋の声は静かだった。
「あの日、めんつゆが見つからなくて、かつお節の袋を全部使ったの。味、しなかったと思う。醤油も、どの瓶かわからなくて」
私は目を閉じた。
床に膝をついた誰かが、丼を持っていた。
薄い、ほとんど湯だけのうどんだった。
「お母さんみたいにできなかった。ごめんね」
記憶の中の人が言った。
私は目を開けた。
千尋は、まだ電話の向こうにいた。
「それだけ。おやすみ」
電話が切れた。
私は長い間、消えた画面を見ていた。
うどんを作ったのは母だった。
今も、はっきりそう覚えている。
母が盆を持ってきて、母が床に膝をついた。
母が私に言ったのだ。
お母さんみたいにできなかった。ごめんね。
廊下から、引き戸の開く音がした。
「お兄ちゃん、おなかすいた?」
私は返事をしなかった。
母が、私の隣に座った。
しばらく一緒に、暗くなった携帯の画面を見ていた。
母は急かさなかった。
私が自分から昔の話を始めるまで、待っていた。




