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【解決済み】母の葬式を覚えています

掲載日:2026/09/06

 母の葬式を覚えている人を、インターネットで探したことがある。


 母が死んだ証拠を、母に見せるためだった。


     一


 きっかけは、飲み物の名前だった。


 子どもの頃、母と買い物に行くと、帰りに小さな紙パックのジュースを買ってもらった。薄い水色の箱に、二つに切った梨が描いてある。ストローを刺す穴だけ銀色で、吸いすぎると箱の横腹がへこんだ。


 商品名は「しろい梨」。


 そう覚えていたのだが、実家の片づけで出てきた遠足の写真には、「梨しずく」と書かれた箱が写っていた。


 妹の千尋に写真を送った。


〈これ、名前変わったんだっけ〉


〈最初から梨しずくでしょ〉


〈しろい梨ってなかった?〉


〈お母さんがそう呼んでただけじゃない〉


 それで納得した。


 こういうことはある。


 昔の記憶は、たいてい昔のままではない。間違った呼び名を何度も使ううちに、箱にもそう印刷されていた気になる。三十六歳の私でも、その程度のことはわかっていた。


 それでも検索したのは、懐かしかったからだ。


 見つかったのは、「記憶と記録が違うもの」という掲示板だった。


 なくなったと思っていた駅。昔と向きが違う店のマーク。テレビで一度だけ見た、映画の別の結末。


 その中に、水色の梨ジュースの話があった。


 四人が「しろい梨」と覚えていた。


 私はちょっと嬉しくなって、五人目として書き込んだ。


〈母とスーパーに行った帰り、いつも飲んでいました。私もその名前で覚えています〉


 数分で返信がついた。


〈お母さんは、お元気ですか〉


 妙な質問だったが、悪意は感じなかった。


〈七年前に亡くなりました〉


 返信は、それきりだった。


 母が帰ってきたのは、翌日だ。


     二


 玄関に入ると、だしの匂いがした。


 千尋が来ているのだと思った。


 母が死んだあと、実家には千尋が一人で住んでいた。その千尋も先月、職場の近くに引っ越した。家を売ることになり、私たちは休日ごとに荷物を分けていた。


 台所のすりガラスに、人影があった。


「お兄ちゃん?」


 私は、靴を片方だけ脱いだ姿勢で止まった。


 千尋は私を透と呼ぶ。


 お兄ちゃんと呼ぶのは、母だった。


 引き戸が開いた。


 母は、灰色のカーディガンにエプロンをつけていた。


 覚えているより、頬が少し下がっていた。髪の分け目が白く、眼鏡のつるに細い鎖がついていた。死んだとき五十七歳だった母が、生きて六十四歳になっていたら、こんなふうだろうと思った。


「どうしたの。その靴、履きにくいの」


 やけに普通の質問だった。


 だから私は、質問に答えた。


「いや」


「お昼まだでしょ。うどんでいい?」


 私は母の左手を見た。


 親指と人差し指の間に、三日月形のやけどの痕があった。


 小学生の頃、私が鍋の取っ手にランドセルを引っかけた。そのとき母は、落ちかけた鍋を素手で受けた。


 母は取っ手を見ていなかった私を叱ったが、鍋をつかんだ理由については、「床がべたべたになるでしょ」と言っていた。


 その傷だった。


 私は台所の椅子に座った。


 母は私の前にうどんを置き、ねぎを食べるか聞いた。私はいらないと言った。母は自分の丼にだけ入れた。


 何年ぶりかで、誰かにねぎを食べるか聞かれた。


 一口食べたら、涙が落ちた。


「熱かった?」


 私は首を振った。


 母はそれ以上聞かなかった。


 昼食のあと、庭に出て千尋へ電話した。


「お母さん、死んだよな」


 少し沈黙があった。


「どうしたの」


「死んだよな」


「透、今どこ」


「家。お母さんがいる」


 千尋は笑わなかった。


「玄関の横、見て」


 言われたとおり、家の横へ回った。


「青い鉢ある? 取っ手の片方が欠けてるやつ」


「ある」


「それ、葬式のあと二人で買った。供花の鉢、全部枯らしたから。花のないやつなら枯れないと思って」


 思い出した。


 私たちはホームセンターで、観葉植物を買った。千尋が車から降ろすときにぶつけ、鉢の取っ手を折った。


 青い鉢には、アロエが植わっていた。


「パキラじゃなかったか」


「パキラだよ」


 私はアロエの葉を触った。


 硬い葉先が、指に刺さった。


「透、そこ出て。今から行くから」


 背後で、網戸が開いた。


「そのアロエ、日陰に入れといて。お父さんがいた頃からのだから」


 母がそう言った。


 父は母より先に死んでいる。


 私は鉢の欠けた取っ手を握っていた。


 内側に、白い接着剤が固まっていた。私が千尋から渡された破片を、くっつけようとして失敗した痕だった。


     三


 千尋は台所に入るなり、泣いた。


 母は手を止めて、今度は千尋の分のうどんをゆでた。


 私たちは母と食卓を囲んだ。


 千尋は泣きながらうどんを食べた。


 母は、千尋が髪を短くしたことにも、先月引っ越したことにも驚かなかった。


「少しは職場、近くなった?」


 千尋はうなずいた。


「よかったね。朝、無理してたから」


 千尋は箸を置いて、しばらく下を向いた。


 母が洗濯物を取り込みに出た隙に、私たちは仏壇の引き出しを開けた。


 父の会葬礼状があった。母のものはなかった。


 母の葬儀費用を記した封筒には、屋根の修繕見積書が入っていた。


 何か一つでも残っていれば、母に見せて、どういうことか聞けると思った。


 私のスマートフォンには、納骨の日の写真が残っていた。


 石屋の男。黒い服の私と千尋。花。


 そこには母も写っていた。


 私たちの間に立ち、少しまぶしそうにしていた。


「お父さんの納骨の写真じゃないよね」


 千尋が言った。


「違う」


「私、その頃まだ、この鞄持ってない」


 私は画面を拡大した。


 七年前、墓地に行く途中で千尋は鞄を落とした。金具の下に斜めの傷がついて、本人はひどく気にしていた。


 写真の鞄には、傷があった。


 母が死んでいない写真の中に、母を納骨した日の傷があった。


 千尋は、自分の携帯に残っていた最後の留守番電話を再生した。


 母が入院する少し前のものだという。


『千尋。冷凍庫にコロッケ入ってるから、持って帰ってね。袋、破れやすいから、下を持ってね』


 聞き終えると、廊下に母が立っていた。


「ああ、昨日の。忘れちゃった?」


 千尋が携帯を伏せた。


 母は何も言わず、洗濯物を置いて出ていった。


 留守番電話の受信日は、昨日になっていた。


 私たちはその晩、二階の私の部屋で眠った。


 玄関から出ることはできた。車も動いた。千尋のアパートへ行けば、眠る場所もあった。


 それでも二人とも、帰ろうと言わなかった。


 一階で母が風呂の湯を抜いている。


 台所の椅子を、元の位置へ押し込んでいる。


 最後に、階段の下から声がした。


「電気、消すよ」


 千尋が口を押さえた。


 私は暗い天井を見ていた。


 七年かけて慣れたはずの静けさが、どれほど静かだったのか、初めてわかった。


     四


 翌朝、掲示板に新しい話題を立てた。


 件名は「母の葬式を覚えています」。


 昨日から母がいること。私と妹だけが葬式を覚えていること。写真や物が変わったことを書いた。


 ふざけた返信も来た。寝たほうがいいという返信も来た。


 その中に、一人だけ、具体的なことを聞く人がいた。


〈いちどに全部調べないでください。お母さんの前で思い出を言い直していませんか〉


 名前欄は「冬木」だった。


〈言い直す、とは?〉


〈たとえば、昔と料理の味が違うとする。お母さんが、昔からこうだったでしょう、と言う。あなたが、そうだったかも、と答える〉


 私は台所を見た。


 母が、梨をむいていた。


 切った梨を薄い塩水につけている。


 母は昔、梨を塩水につけていただろうか。


 小さな疑問が浮かんだ。


〈何が起きるんですか〉


〈昔もそうだったことになります〉


 冬木は、別の連絡先を送ってきた。


 そこで初めて、私以外にも同じことを経験した人がいると知った。


 冬木の母は三年前に亡くなっていた。ほかに二人、死んだ母親が帰ってきたという人がいた。


 私は冬木に、食卓で梨をむく母の写真を送った。


 四十分、返事がなかった。


 戻ってきたのは、一枚の写真だった。


 知らない居間だった。


 黄色い座布団に、うちの母が座っていた。


 眼鏡の鎖も、口元のほくろも同じだった。左手を膝に載せていて、指の間に三日月形の痕が見えた。


〈これは誰ですか〉


 私は送った。


〈私の母です〉


 冬木から返信が来た。


〈あなたの写真も、私には母に見えます〉


 私はもう一度、写真を開いた。


 母だった。


 よその家にいる母だった。


 続けて届いた二人の写真にも、母がいた。


 一人はベランダで洗濯物を干していた。もう一人は、助手席で弁当を食べていた。


 写真を重ねて見比べるまでもなかった。


 四人の知らない子どもが、同じ母親を持っていた。


 私は傷について尋ねた。


 冬木は、ストーブの上のやかんを倒した、と答えた。


 別の人は、母は給食の調理場で働いていて、そこでできた傷だと書いた。


 残る一人は、事故のことは知らないが、自分が生まれる前からあったと言った。


 誰も、鍋とランドセルを覚えていなかった。


 私はそこで、冬木を疑った。


 写真を盗まれたのだ。何かの加工をされた。傷のことも、私がどこかで書いていたのかもしれない。


 そう考えると、ずいぶん楽になった。


 母が帰ってきたことは受け入れたいのに、母が他人の母でもあることは、どうしても認めたくなかった。


 冬木が書いた。


〈私の母は、私を圭一と呼びます〉


〈私は透です〉


〈お母さんに、それを伝えないでください〉


 私は携帯を置いた。


「透、塩、濃くなかった?」


 台所から母の声がした。


「梨、昔はそのままだった気がする」


「何言ってるの。こうしたほうが好きだったじゃない」


 母は笑った。


 私は昔から、料理に文句を言って母を困らせるのが苦手だった。


「ああ、そうだったか」


 口にしてから、冬木の文章を思い出した。


 遅かった。


 夏休みの台所が浮かんだ。


 金属のボウルに入った、塩水の梨。


 扇風機。床に寝そべった私。


 母は梨の皿を、私の背中に載せた。冷たくて、私はふざけて怒った。


 そんなことはなかった。


 なかったはずなのに、背中の冷たさまで覚えていた。


 私は冬木に、そのことを書いた。


〈青い皿ですか〉


〈そうです〉


〈縁が欠けていて、母はいつも欠けたほうを自分に向けていた〉


 私は打つ手を止めた。


 冬木は、しばらくしてもう一行送ってきた。


〈それは、私の夏休みです〉


     五


 千尋は、その梨を食べなかった。


「食べるから変わるわけじゃない」


 私が言うと、千尋はうなずいた。


「わかってる。怖いから食べたくないだけ」


 私たちは二階で、母について別々に書いた。


 まず母が死んだ日。病院。葬儀会館。棺に入れたもの。


 大きなところは同じだった。


 細かいところは違った。


 棺に入れたカーディガンを、私は茶色だと思っていた。千尋は、えんじ色だと言った。


 どちらでもよかった。


 私たちは確かに、一枚のカーディガンを棺に入れた。


 そう言うと、千尋は少し安心した顔をした。


「前からそうだよ。透と私、同じ家にいたのに全然違うこと覚えてる」


 千尋は書きかけの紙を伏せた。


「あの人、やさしすぎる」


「お母さんは、やさしかっただろ」


「うん。でも、機嫌悪い日もあった」


 母の話をするとき、私たちはそんなことを言わなくなっていた。


 母はやさしかった。


 母はよく笑った。


 話すたび、母の扱いやすいところだけが残った。


「私、専門学校やめたいって言ったとき、すごく怒られた。学費をどれだけ払ってると思ってるんだって。覚えてる?」


「私、って」


 千尋が顔を上げた。


「おまえ、専門学校だったか」


 口に出した瞬間、自分の失敗に気づいた。


 千尋は二年制の専門学校へ通った。卒業式の日、私は車を出した。


 それなのに、頭の中には、大学の正門で袴を着た妹がいた。


 門の横で、母が写真を撮っていた。


 妹の顔がうまく見えなかった。


 梨のことしか言い直していないのに、母以外の人の記憶まで変わっていた。


「透。私、どこで働いてる?」


 私は答えた。


 正しかった。


「私の誕生日は?」


 答えた。


 それも正しかった。


 千尋は、自分に言い聞かせるように、うなずいた。


「じゃあ、まだ大丈夫」


 その夜、冬木たちと四人で通話した。


 私だけが妹の話をした。


 冬木にきょうだいはいなかった。


 もう一人には、弟がいた。


 最後の人は、四歳下の妹がいると答えた。


 名前は千夏。大学を出て、銀行で働いていた。


 私が見たのは、知らない男の妹の卒業式だった。


 通話中、一人が不意に黙った。


 向こうで引き戸が開く音がした。


『誰と話してるの』


 母の声だった。


 同じ声が、うちの階段の下から聞こえた。


 少し遅れて、冬木のマイクからも聞こえた。


 四つの場所から、同じ女が同じことを尋ねていた。


 誰も答えなかった。


 すると、うちの母だけが言った。


「お友達なら、お母さんにも紹介してね」


 次の日、あとの二人は連絡をよこさなくなった。


 一人からは、最後に短い文章が届いた。


〈母と話しました。昔の写真もありました。こちらの勘違いだったようです。お騒がせしました〉


 二時間後、もう一人からも届いた。


 一字一句、同じ文章だった。


 添付された昔の写真では、それぞれが母に抱かれていた。


 写真の隅に、小さな私も写っていた。


 どちらの家にも、私は行ったことがなかった。


     六


 冬木は、私より一か月早く母に会っていた。


 きっかけは、子どもの頃に住んでいた町の話だったという。


 駅から実家まで、どう歩けばよかったか。


 地図では道が一本足りない。そう書き込んだら、同じ道を覚えている人がいた。


 その人に、母親は元気かと聞かれた。


〈私もです〉


 私が書くと、冬木はしばらく返事をしなかった。


〈道も飲み物も、母と一緒の記憶だったんですね〉


 冬木は、自分と私が書き込んだ掲示板を調べていた。


 古い話題の一覧を送ってきた。


 題名を読むだけなら、ありふれた懐かしい話だった。


 小学校の裏にあった店。


 母親の自転車の後ろから見えた、赤い歩道橋。


 幼い子どもの手を引いて、家まで帰る人が出てくるテレビ番組。


 途中で母親の話になり、やがて相談が始まる。


 死んだはずの母がいる。


 自分の家を知っている女がいる。


 母が、覚えのない弟を連れてきた。


 どの相談も、最後は解決していた。


〈母と話しました。昔の写真もありました。こちらの勘違いだったようです。お騒がせしました〉


 私は、自分の前にいる母を信じたかった。


 だからこそ、同じことを繰り返すこの文章が嫌だった。


 それぞれの家には違う事情があるはずだった。


 みんな同じ言葉で安心するのは、おかしかった。


〈お母さんは何をしたいんでしょう〉


 私は聞いた。


〈わかりません〉


〈一人の人が、同時に何軒もの家にいるんですか〉


〈わかりません。私には母に見える、としか言えません〉


 冬木は、一つの音声を送ってきた。


 食器の音がした。


 冬木が、子どもの頃に飼っていた犬の話をしていた。


『犬なんか飼ってなかったでしょう』


 母が答えた。


『犬を飼っていたなら、あの冬、お母さんが入院していた間、誰が散歩したの』


『あの冬って』


『圭一、おうちで一人で待ってたじゃない』


 十秒ほど沈黙が続いた。


 冬木が息を吸った。


『そうだった』


 音声はそこで終わった。


〈私は犬の散歩を覚えています。病気になった母を、一人で待っていたことも覚えています。どうしても、片方だけ間違いだと思えません〉


 冬木が続けて書いた。


〈でも、犬を探しているつもりだったのに、気づいたら母の退院がどれほど嬉しかったかを話していました〉


 犬の写真も添付されていた。


 玄関のたたきに、薄い茶色の四角い跡がある。


 そこに、犬の寝床があったのだという。


 写真の端に母のスリッパが写っていた。


〈家を出ませんか〉


 私は初めて、冬木にそう言った。


〈出られますよ。仕事には行っています〉


〈戻らなければ〉


 既読がついた。


 返事はなかった。


 翌朝、冬木の相談に「解決済み」の表示がついた。


 私は本文を開かなかった。


     七


 千尋は、私の着替えをボストンバッグに詰めていた。


「しばらく、うちに来て」


「仕事の道具がある」


「あとで取りに来ればいい」


 母は外にいた。


 玄関の横で、アロエの鉢に水をやっていた。


 千尋は、バッグのファスナーを閉めた。


「透。私、あの人に聞かれた」


「何を」


「七年前、家を出ていったでしょ、って」


 私は黙っていた。


「お兄ちゃんが具合悪いときも、帰ってこなかったねって」


 七年前。


 母の葬儀のあと、私は熱を出した。


 勤め先へ休む連絡をしたことは覚えている。そのあとの三日ほどは、何があったか曖昧だった。


「私、あのとき、透とここにいた」


 千尋は自分の足元を見た。


「お母さんがいない家で、二人で寝てた。一人になりたくなかったから」


 私は、階段を上がってくる足音を思い出した。


 誰かが、盆を持ってくる。


 うどんが載っている。


 ねぎは入っていない。


「おまえが、作ったんだっけ」


 千尋はうなずいた。


「めんつゆ、どこかわからなくて。お母さんが空き瓶に移してたから。ラベル全部はがしてあったでしょ」


 その話を、知っていた。


 つい昨日、母から聞いた。


 熱を出した私にうどんを作ったら、千尋が調味料を片づけてしまっていて、めんつゆを探すのに苦労したのだと。


 私は母に礼を言った。


 あのときは悪かったね、とも言った。


 千尋は私の顔を見た。


「あの人も、知ってるんだ」


「聞いた」


 千尋が、ゆっくり息を吐いた。


 怒鳴ってくれたらよかった。


 もっと強く、私を責めてくれたらよかった。


 千尋はただ、ひどく疲れた顔をした。


「じゃあ、私がまだ話してないことも、そのうち知るんだね」


 階下で玄関が開いた。


 千尋がバッグを持ち上げた。


「行こう」


 私は階段を下りた。


 母が、濡れた手をエプロンで拭いていた。


「お出かけ?」


「うん」


「千尋のところ?」


 私はうなずいた。


 母は私の襟を直した。


 やけどの痕が、顎に触れた。


「じゃあ、コロッケ持っていって。冷凍庫の」


 千尋は玄関で靴を履いていた。


 母が冷凍庫を開けた。


 薄い袋がこすれる音がした。


「袋、破れやすいからね」


 私はその背中を見た。


 今ここを出たら、次に来たときには、もういないかもしれない。


 台所には、積み上げた段ボールだけがある。


 床には母の足の形にすり減ったスリッパがあり、もう誰も履かない。


 私は、そうなることを願っていたはずだった。


「透」


 千尋が呼んだ。


 母が振り向いた。


「この子、さっきから変なこと言うの」


 母は声をひそめた。


「お母さんがいなくなったとき、ここでお兄ちゃんと暮らしてたって」


「行こう」


 千尋がもう一度言った。


「お母さん、いなくなってないよね」


 母は私の顔を見ていた。


 千尋を怖がっているように見えた。


「七年前も、お兄ちゃんとここにいたよね。千尋は家を出て、たまにしか帰ってこなくて」


 熱の出た夜が浮かんだ。


 部屋のドアが開く。


 うどんの載った盆。


 誰かが、床に膝をつく。


 顔を見ようとした。


 母だった。


 千尋だった。


 どちらの記憶も、懐かしかった。


「透、今の私を見て」


 千尋が言った。


 顔を上げると、千尋は玄関の扉に手をかけていた。


「昔のこと、わからなくてもいいから。今、迎えに来てるから」


 私は靴を探した。


 母が、コロッケの袋を私に渡した。


 半透明の袋を通して、指が重なった。


「お兄ちゃんまで、そんなこと言わないで」


 母の手は冷たかった。


 冷凍庫の中に入れていた手だから、当然だった。


 母の最期の手は、もっと冷たかった。


 あのとき、何を言っても温かくはならなかった。


 今なら一言で、母を安心させられる。


 私は、母の手を握った。


「いたよ」


 自分の声がした。


「あのときも、お母さんがいてくれた」


 玄関で、バッグが床に落ちた。


 千尋は私を見ていた。


 私は、その目を知っていた。


 七年前、病院で私を見た目だった。


 何を言っても、もう取り返せないことが起きた。


 そのことを、私に知らせようとする目だった。


 母がほっとしたように笑った。


「そうよね」


 母の後ろで、廊下がきしんだ。


 誰かが、二階から下りてきた。


 一人ではなかった。


 靴下の足が、階段を下りる。もう一組下りる。その後ろでも、段が鳴っている。


 私は振り返らなかった。


「うん」


 母に答えた。


 足音が止まった。


 家の中の、いるべきところに、みんなが収まった気がした。


 千尋はバッグを拾った。


 私の分のバッグを、玄関に置いた。


 自分の鞄だけを持って、外へ出た。


 扉が閉まった。


 私は、なぜ妹があんなに泣いていたのか、思い出せなくなりかけていた。


     八


 家の売却は取りやめになった。


 母が住んでいるのだから、当然だった。


 千尋からは、月に一度ほど連絡が来る。


 私は実家を出て、平日は元のアパートから会社に通っている。休日には母のところへ行く。


 母はうどんを作ってくれる。


 ねぎは入っていない。


 私は時々、知らない町の夢を見る。


 夢の中では、その町をよく知っている。


 坂を上がったところに赤い屋根の家があり、庭で茶色の犬が待っている。銀行で働く妹が、先に帰ってきていることもある。


 目が覚めると、母に話そうと思う。


 母なら、どこの町か教えてくれる。


 台所のすりガラスの向こうには、たまに大勢の影が映る。


 引き戸を開けると、母だけがいる。


 食卓の椅子が、いくつか温かい。


 誰かが来ていたのかと聞けばいいのだが、聞かなくても、来ていたのだとわかる。


 先日、掲示板から通知が届いた。


 昔の相談に、誰かが返信をつけたのだった。


〈その後どうなりましたか。うちにも同じことが起きています〉


 自分が書いた文章を読み返した。


 母が死んだ。


 妹と葬儀をした。


 写真が変わった。


 ずいぶん怖いことを考えていた。


 削除しようかとも思ったが、心配してくれた人に、何も伝えないのはよくないと思った。


 返信の欄に、文章を打った。


〈母と話しました。昔の写真もありました。こちらの勘違いだったようです。お騒がせしました〉


 自分の言葉で書いたつもりだった。


 相談を解決済みにするボタンを押した。


 その夜も、私は実家に泊まっていた。


 千尋から電話が来た。


「消さなかったんだね」


「何を」


「掲示板」


 私は黙った。


「見てたのか」


「うん」


 千尋は、母のことを悪く言わなかった。


 帰ってこいとも言わなかった。


「一つだけ、話してもいい?」


「うん」


「私が作ったうどん、覚えてる?」


 胸の奥が、少し痛んだ。


「お母さんが作ったんだよ、あれは」


「うん。透は、そう覚えてるんだよね」


 千尋の声は静かだった。


「あの日、めんつゆが見つからなくて、かつお節の袋を全部使ったの。味、しなかったと思う。醤油も、どの瓶かわからなくて」


 私は目を閉じた。


 床に膝をついた誰かが、丼を持っていた。


 薄い、ほとんど湯だけのうどんだった。


「お母さんみたいにできなかった。ごめんね」


 記憶の中の人が言った。


 私は目を開けた。


 千尋は、まだ電話の向こうにいた。


「それだけ。おやすみ」


 電話が切れた。


 私は長い間、消えた画面を見ていた。


 うどんを作ったのは母だった。


 今も、はっきりそう覚えている。


 母が盆を持ってきて、母が床に膝をついた。


 母が私に言ったのだ。


 お母さんみたいにできなかった。ごめんね。


 廊下から、引き戸の開く音がした。


「お兄ちゃん、おなかすいた?」


 私は返事をしなかった。


 母が、私の隣に座った。


 しばらく一緒に、暗くなった携帯の画面を見ていた。


 母は急かさなかった。


 私が自分から昔の話を始めるまで、待っていた。

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