野口英世を返しやがれ!
作品完成日:2007/06/25
俺はあいつに千円貸している。
それは突然のことだ。
もうじき梅雨が明け、一昔前より幾分か紫外線量が多くなった日差しに当たりながら暮らす日々が訪れるのかぁ、とほんのり憂鬱になりかけていたある日、何の前触れもなくあの女は俺の前にやってきた。
気が早いのか、もう夏服を着て意気揚々としている女。
その長い髪を揺らして、俺の机に手を置く。
「千円貸して!」
何迷うことない真っ直ぐな眼差し。
それが俺を突き抜け、心を刺した。
なんて思ったりしてたりしてなかったりでなんだったり。
さらに目の前の女はこう付け加える。
「うちの家族がピンチなの!」
彼女――美菜が言うには、俺から千円借りたら命が救われるとのこと。
どうも、親の作った借金があと千円で返せるのだそうだが、今そのたった千円が足りないそうだ。
しかもその返済の期限が今日とのことで、あと一日でも過ぎれば利子が何倍にも増えて返せなくなってしまうらしい。
千円ぐらい親戚に借りるとかしろよ! とか。
どんな高利貸しだよ! とかいろいろ突っ込みどころはありすぎて困ったが、俺は貸した。
俺は千円を貸した。
だってそうだろ?
たった千円で人を救うことが出来るのだ。
千円で救われる命を助けられる俺が、なぜ見過ごさなければならないというのか。
それに、こんなにも懇願している相手を前にして貸さないのは男じゃない。
下心あるだとか、そんなことは気にしちゃいけない。
しちゃだめなんだ。
長財布から、心なしか素敵笑顔に輝く野口さんを取り出し、美菜に手渡す。
軽く手に触れてどきどき思春期を堪能しつつ、女の手って細くて綺麗だなぁとか思いつつ顔を見上げると、ニッコリとした心なしどころか心ありありの素敵笑顔で美菜が微笑んでいた。
「ありがと」
笑顔って素敵だよね。
*
そして、あの日から一ヶ月過ぎた。
今やもう日差しなんてガンガンに俺たちを照らして、「ほら、俺なんてこんなに日焼けしちゃったぜ」なんて男どもはくだらない日焼け自慢をしている季節。
「そろそろあの時の千円返してくんない?」
美菜が一人図書室で本を読んでる時にそう言うと、彼女は俺を見上げ、
「ごめん、実はまだ……」
どうやら事情があるらしい。
聞くと、借金を返すことには返せたらしいのだが、元々そんな借金を作るような親だ。
ろくな収入源があるわけでもなく、借金を作るまではいかないにしろ、収入らしい収入がなく、家計が火の車らしい。
だから、まだ俺の千円を返せない。
そう美菜は言った。
「ごめんね」
まあ構わないだろう。
今度返してもらえば、それでいいさ。
そう言って俺は図書室を後にした。
も、もちろん、胸の前に両手を合わせて「ごめんねっ」と可愛らしく謝られた時に、「あれこいつケッコー胸あんじゃね?」とか、寄せられた美菜の胸にドギマギなんてしてない。
断じてしてないんだからねっ!
*
更に一ヶ月過ぎ、二ヶ月目。
あつはなついねー、なんてギャグもまかり通ってくれないほどジリジリ照りつける日差しが俺たちの体力気力を根こそぎ奪っていく、もっとも勉学に向かない季節。
そんなおり、
「そろそろ千円いいかな?」
今から帰ろうと下駄箱に上履きをしまっている美菜に話かける。
一瞬、彼女の時が止まった。
え? という顔をしたかと思うと、その残像を残すこともなくすぐに笑顔に変わる。
「あー、ごめんごめん。実はね……」
美菜は語る。まだ千円を返せる状況じゃないことを。
なんと父親が新たに競馬にハマったらしい。
初挑戦で万馬券を当てたのは、まあいいことだ。
それでやめられるなら、な。
もちろんそこで切れるような人間であればギャンブルにハマるはずもない。
美菜の父親はそれ以降も通い詰め、堕落の一本道。
ビギナーズラックは所詮それまで。
以来はめっきり当たりはこず、見る見る間に金が減っているのだそうだ。
「……そうかい」
間をあけ、頷く。
まあ……そういうことならしょうがないな。
うん、しょうがない。
当然、美菜が靴を履こうと前屈みになった時にチラリと見えた胸の谷間に鼻の下を伸ばしたわけじゃないんだからな!
勘違いするなよ! バーカバーカ!
*
さらにさらに一ヶ月が過ぎ、三ヶ月目。
もう夏休みも終わり、またこれから学期が始まるのかぁと目に見える形でだらける休みボケ野郎どもがクラス中に横行する季節。
その授業前。
「あん時の千円、まだ?」
これから理科室に向かおうと机の中から教科書を取り出している美菜に言う。
が、
「えーっと……」
ぽかーんとした眼差しを俺に向けたまま止まる時。
その間、十秒。
「あー! うんうん。そう、千円。千円千円」
ポン、と手を打つ。
「ごめんね、あれはまだ……」
聞くに――
どうしてもだめらしい。
なんで? と聞いたが、とにかくだめなのだそうだ。
「……、……そ、そうかい」
間を二度あけ、まあ頷く。
仕方ない、な。うん。
とにかくだめなら仕方ない。うんうん。
べ、別に手を握られてしょんぼりと儚しげに「ごめんね……」と言われてズキューンなんてハートを打ち抜かれてないんだからな!
嘘じゃないぞ! ホントだぞ! 信じろよタコ!
*
さらにさらにさらに、さらに時は過ぎて四ヶ月目。
人は読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋などと称して己の欲望のままに謳歌することが黙認されつつある、そんな素敵な季節。
場所は閑静な図書室。
「千円まだ?」
さてさてどれにしましょうかなぁ? と言わんばかりに図書室のマンガコーナーを陣取って選別している美菜。
その真後ろに立って聞くと、美菜は俺の顔を見て呆けた顔をした。
「え? なんの話?」
うんうん、そっかそっか。覚えないのか。
それはしょうがな――くねぇよッ!
「ちょっと待て!」
「待つ」
「そうでなくて!」
何だこの女は!
ちょっと待て、という突っ込みに対して気をつけの体勢で「待つ」だと!?
シュールにもほどがある――
って、突っ込みどころそこじゃねぇ!
つうか覚えてないって何事だゴラ!
先月の思い出すまで十秒かかったあれはなんじゃそりゃ!
先々月の一瞬のぽかーんは可愛いぞゴルァ!
話ずれてんぞ俺!
気付くのも遅すぎるんだぜ俺!!
「千円返せよ!」
怒鳴り声が図書室に響いて「あ、やっちまった……」なんて声を上げたことに後悔しようかな、と思いつつ睨む。
と、美菜は俺にニッコリ笑った。
「やだ」
その微笑み、まるで子悪魔――いや、悪魔の様相。
こいつ、大悪魔以外の何者でもねえ!
「にしし」
なんのキャラだかよく分からない意味不明な笑い声を出した美菜。
動きは、軽いフットワークから始まる駆け出し。
俺の脇の間をすり抜けるのに数瞬。
美菜は、あっという間に図書室から駆けて行った。
(あ、意外と俊敏なんだなぁ。もっと文系の子だと思ってたけど、意外と――)
って、
「ちょっと待てぇえええッ!!」
「待つ」
「だからそうじゃねぇよ!」
*
あれ以来、美菜のやつは俺を見るたびに小馬鹿にするように笑ってくる。
え、なにキミは四ヶ月も騙され続けてたの? ありえなーい。めっちゃひくんですけどみたいなー?
まるでそう蔑むかのような視線を感じる。
一見美人以外の何者でもない美菜の本性を知ってしまった俺は、もはやそのようにしか見ることが出来ない。
ああ悲しきかな悲しきかな。
さて。
思考を切り替え、今日もヤツのところへおもむく。
美菜は、ちょうど校門から出ようとしているところだった。
そこへ、俺が呼び止める。
「ちょっと待て」
「待つ」
こうして止まってくれるのは便利だったりなんだったり。
イマイチよく分からんが。
呼び止めれば、することは請求だ。
「そろそろ千円返せよ。いい加減家計も大丈夫なんだろ?」
「えー、まだちょー無理だしぃー。ってゆーかー、ちょーだめだめなんですけどー」
人差し指で髪の毛をくるくると巻きながら唇を突き出す美菜。
日本語としてなってないとか、時代が古すぎるとか、さっきの俺の想像の通りだったりするとか。
いろいろ突っ込みたいところではあるが、そした負けのような気がしたからやめる。
決してセリフと裏腹にアヒル口に上目遣いに見てきた美菜が可愛いとか思ったりしてない。
断じてない。
「さぁて」
そう一呼吸を置くのは美菜。
俺から少し距離を取り、アキレス腱を伸ばしながら言う。
「家計が火の車っていうあれ、ホントは嘘だから」
カーオブザファイアーが、嘘……だと……!?
「そもそも、うちの親って公務員だから滅多にお金に困ることなんてないし、っていうか借金してるような家が高校に行けてると思う?」
ああ、なるほど。
借金なんかしてたらここの学費払えてるわけないし。
そういえば毎日うまそうなカラフルな弁当食べてたなぁ。
こりゃ一本取られた――
って、なんじゃそりゃあッ!!
「ちょ、おま――」
言葉は遮られた。
何故って?
走ってたから。
美菜が、走ってたから。
え、あれマジ走り? って聞きたくなるぐらいものすごいスピードで、ローファーを鳴らしながら俺の目の前から駆けて行った。
見る見る姿形が小さくなっていく。
「ばーかばーかっ」
赤い舌を出して俺を蔑んでいた。
あのクソ女ぁあああああッ!!
*
カーオブザファイアー嘘発覚事件からしばらく。
「おい」
「おとっちゃんは渡さないよ! あんたになんか渡さないんだから!」
「おとっちゃんって誰だよ!」
これから学校だよぉ。めんどくさいなぁ。今日も体育あるしぃ。あの教師、目付きがエロくていやなんだよなぁ。すごく気持ち悪いしぃ。
そう文句を垂れ流さんばかりにとぼとぼと登校してくる美菜に絡む俺。
学校から目と鼻の先のところで待ち伏せていた。
す、ストーカーじゃないんだからね!
千円返してもらうためなんだからね!
俺の存在に気付くや否やボケに走る美菜のお笑い精神に拍手を送りたいところだが、送ったところで俺の千円は返ってこないのでしない。
してあげない。
「なんでしょーか?」
「千円」
「あげないよ!」
「ちげーよ! 返せよ!」
「やだー」
そう言って逃げようと美菜が走り出す。
あ、逃げられた!
なんてドジはもうしない。
俺だって学習するのだ。
人間だもの。
華麗すぎてため息しか出ないような素敵すぎるステップ(ただのダッシュ)を披露。
徒競走のタイムでは俺の方が上なのだ。
油断さえなければ美菜に逃げられることはない。
「ふはは! 逃がさぬぞ!」
素早く追いつくと、その腕を掴む。
その感触――柔らか。
思いのほかのやわさに、ついつい女の体の神秘について小一時間考え込みそうになったが、かぶりを振る。
「千円返せって言って――」
腕を引いて無理矢理話を聞かせようとした俺。
その声を金切り声が破った。
「キャ――ッ!!」
美菜だった。
ぶんぶん腕を振り回してひたすら俺を殴ってくる。
いてて、いてぇなコンチクショウ。
「や、やめっ」
文句言おうとする間もなく、叫び声。
「何すんのよ、この変態! 悪魔! 鬼! 痴漢! 盗撮魔! 露出狂! バカ! アホ! ドジ! マヌケ! 女の敵! 男の敵! 人類の敵! 人々に怨まれ憎しまれながら死にやがれ!」
後半のそれはなんですか!?
なんだなんだ、と口々に集まってくる人の山。
通称野次馬。
どれだけ好奇心旺盛なのか、見える限りでも幼稚園児から棺桶に片足を突っ込んでいるようなじじいまで。
老若男女全て揃ってる。
オールマイティな品揃えだ。
それらから向けられる視線。
犯行現場を見るような視線。
俺を犯人扱いするその視線。
痛いってレベルじゃねぇぞ!
「ねえ、警察呼んだほうがよくない?」
「やばいよ……誰か助けてあげようよ」
明らかに聞こえるほど大きな声で囁きあってる野次馬連中。
ふっ、甘いぜ。
今時の警察なんか当てにならねぇ。
事件発生からしばらく経ってから到着することなんてザラもザラ。
そのせいで事件が余計に拡大してしまった例なんて、ワイドショーでいっぱいやってたぜ。
つまり、それまでの間に、この突然人を犯罪者に仕立て上げて周囲の注目を集めるのが大得意なクソ女から千円取り返して、すぐにキサマら野次馬どもに弁解すればイッチョ解決。
俺ってば頭良いな!
どれだけ叫んだところで警察は来ないんだよォ!
フッハハハハ!
どこぞの大悪役顔負けの悪役なセリフで叫び蔑み続ける美菜を笑ってやろうと大口を開けると、
――ガチャリ。
その口はあんぐり口に変わった。
え……なに?
なんで俺の横にごっつい警官が二人もいるの?
どうして俺は手錠をつけられてるの?
……え?
見上げなければいけないほど背の高い警官二人が俺を挟んでいる。
俺の手には手錠。
そしてそのまま布を被せられて、署まで連行……
って、ちょっと待てッ!!
なにコレ?
俺の妄想じゃねぇよ?
めちゃくちゃ現実だよ!?
どういうこと!?
見れば、警官の一人が胸のトランシーバーでどこかと連絡を取っている。
「午前七時五十分、暴漢容疑で男を逮捕。繰り返す――」
えぇぇぇぇぇえええええッ!?
ちょ、ま……
な、なんでッ!?
俺ってば善良も善良。
これ以上ないくらい最高級に善良を積み重ねてきた小市民だぜっ?
なのに何故国家権力たる警察が俺を捕まえるのか!
今にも現状の不服を訴え、不運な少年を演じようとさえ思う。
が、視界に飛び込むほくそ笑み。
美菜の笑み。
三日月に口角の上がった顔が、視覚野に焼き付いた。
美菜は表情をそのままにケータイを見せつける。
そして指で110のところを押す素振り。
次に指すのは美菜自身を指している。
ジェスチャー……?
110番を、自分で――
解析結果。
『私が前もって通報しといたんだ。えへへ、すごいでしょ?』
俺が待ち伏せしていることを予測して、先に警察を呼んでおく。
それからいつも通りにふざけて俺を挑発して逃げれば、いつもとは違って成長した俺は腕を掴む。
その瞬間に警察がくれば、もう俺はお陀仏と。
なるほど。
俺の成長まで見込んで先読みするなんて、美菜のやつって結構頭回る――
って、ふざけんなぁぁああああッ!!
「キミ、来なさい」
「え、あ、ちょ……」
どう見ても俺のそれと比べて倍近くある太い腕が俺を引っ張る。
ずるずる引っ張る。
ずりずり引きずられる。
もちろん、その後は警察署まで連行された。
十七歳の秋、俺は初めて罪を犯した――
*
「おい!」
強く発した言葉と共に、美菜の机を叩きつける。
手がじーんと痺れたが、まあいい。
「な、なに? なにか用?」
怯えたように俺を見上げる美菜。
放課後。
友達のマサの名前を借り、美菜に教室に待つように指示しておいた。
もちろん下駄箱にラブレター調で、
「放課後、教室で待ってます。byキミのマサ❤」
と手紙を入れておいたあたり、俺は非常に乙女心を分かってる。
うん、よく分かってる。
美菜は当然のように
「マサくんは?」
が、俺はガン無視。
マサには後で詫びを入れるとして、今はそれよりも大事なことだ。
「お前、よくもやってくれやがったな!」
もう一度、バンッ! と机を叩きつける。
二回目は予想以上に痛くて泣きそうになった。
「な、なんのことかなぁー?」
ぽりぽりと頭をかく。
「とぼけるな! あん時だよあん時!」
「えっと……ああ! キミが読んでる本のしおりを五ページ前に戻したときのこと?」
「マジで!? だから妙に読んだ気がすんなぁ、って思ってた――って、ちげーよ! それもそれで怒るべきだけど、今は違うの!」
つうか、それは軽いいじめになると思うんだ。
「千円だよ! 千円! 昔は夏目漱石、今は野口英世のあれだ!」
「え? さらに昔は聖徳太子だったっていうあれ?」
こいつが嫌にシュールなのは……まあいつものことだ。
ああもう。
いちいち突っ込んでちゃ話が進まない。
「それだ、それ! 十人の話をいっぺんに聞けるそいつだよ! っていうか、千円返せ!」
右手の平を天に向け、美菜に伸ばす。
さっさと返せ。そのポーズだ。
が、
「えっ、で、でも……っ」
今までのノリとは裏腹に身じろぎをする美菜。
なんだこいつは。
今さら千円が惜しくなったのか?
ふざけるな、と声を大にして言いたい。
叫びたい。
叫んで返してもらいたい。
大体、俺はこいつのためにものすごい被害に遭ったのだ。
俺が警察に連行された件。あれは酷かった。
連行されてからあれやこれや調べられて「イヤーン♪」な展開になったり。
取調室で刑事さんが俺を諭そうとカツ丼出そうとして周りの警官に止められてたり(本当は出しちゃいけないらしい)。
無実だと分かって親父に引き取られにきたときに「バッキャモーン!」と四の五の言わさずビンタされたり。
軽く家族愛と現実逃避度が深まったり高まったりしちゃったんだぞコノヤロウ。
と、その時。
ガタッ、と美菜が席から立ち上がった。
両手を胸の前にやって、心なしか震えてるように見えた。
――震えてる?
そのまま数歩下がって……
っと、危ない。
今日こそは逃がすわけにいかない。
教室の扉近くへと行き、しっかりと両手を広げて美菜の前に立ちふさがる。
危ない危ない。
またしても逃がすところだったぜ。
美菜は国家権力まで行使してくるようなやつだ。
何をしてくるか分かんねえからな。
最善を期しておくべきだろう。
さあもう逃げられねぇぞ。
そう言おうとして――
俺は二の句を継げなかった。
美菜の肩が小刻みに震えていたから。
「……え?」
顔はうつむき、鼻をすすっている。
右手は自身の目元に当てられ、何か擦るような……。
もしかして――泣いてる?
「ご、ごめんね……っ」
聞こえるかどうかも怪しいほど、小さな声。
微かに震えを帯びたそれが、誰もいなくなった教室に染み渡る。
え……なに?
なんなの、これ。
何このいきなりすぎる展開。
ご、ご都合主義なんて認めないんだからね!
「ホントはね、千円なんて、すぐに返したいの……。返してあげたいの……っ」
ぐすっ……。
続かぬ言葉を必死に口に出し続ける。
どうしてだろう。
いつもいつもうっとうしくてしょうがなかった美菜が、すごく儚く見えるのは、空気にのまれているからなのか。
じきに暮れゆく夕日が教室の窓から差し込み、教室を、美菜をぼうと濁している。
肩が小さくわないた。
「でも、ね……っ」
美菜の言葉、一つ一つが静かに響く。
「でも……千円、返しちゃったら……もう、キミと関われることなんてなくなっちゃう、って、思って……っ」
ひっく。
一つのしゃっくりを置き、美菜は口にした。
「私、キミのこと……好きだったんだ……っ」
……。
「でも、いつも一緒に話してたりしたけど……でも、キミは他の女の子と話してることも多くて……男の子と遊んでることも多くて……っ」
そうだ。
こいつに千円を貸す前。
俺はここまでこいつに構っていたことなんてなかった。
美菜のことはただ一人の友人として見ていたし、それ以外の何者でもなかった。
ましてや、恋愛対象になんて……。
「それで、こうして千円借りれば、キミともっとお話出来るって、思って……もっと構ってくれるって、思って……っ。だから……千円、返しちゃったら……もうキミと……っ」
こんなとき、自分を情けなく思う。
男なら、こういう時は何も考えず、何も言わず抱きしめてやるものだろう。
だが、俺にそんな勇気があるはずがない。
ついさっきまで、こいつの気持ちを告げられるまで。
ただ貸した千円のことしか考えてなかった俺に、勇気があるわけなんてない。
分かるだろ?
千円ごときのためにここまで必死になって女の子を追いかけ回して。
怒鳴って。
泣かせて……。
えっと……から始まる言葉しか吐いてやれない自分が、ひどくみじめだった。
「その……なんだ。怒鳴ったりして悪かった。ほ、ほら、お前がそんなに思いつめてたなんて思ってもみなくてさ……」
俺のことが好きだったなんて初耳だったから。
ああそうだ。
それなら、どうでもいいじゃないか。
「それで……その……千円なんてなくてもさ、付き合ってやるからさ。あ、もちろん千円返せって意味じゃないぜ。千円なんかどうでもいいしさ」
こんな時にまで「千円返せ」なんて言うほど、俺はバカじゃない。
空気も読める。
大事なことも分かる。
だから。
「ホントに……?」
まだ美菜はうつむいている。
だが、その声は少しながら弾みつつあった。
「ああ、ホントだ。千円なんかなくっても大丈夫だ」
「千円、どうでもいいの……?」
「ああ、気にすんな。そんなもん、くれてやる」
――ニヤリ。
微かに美菜の口元が歪んだ。
……え?
そう思う刹那――
美菜はその場にいなかった。
否。
その場から駆けていた。
すでに俺の脇をすり抜けている。
バタバタと激しく上履きで教室の床を鳴らす音が背後から聞こえ、振り返った。
教室のドアの前に、いた。
そして、長らくうつむいていた顔が上がる。
それは笑顔。
その表情は、なんとも言えぬほどムカつくニヤニヤ笑顔だった。
当然のように、涙の跡なんて見て取れない。
「へーんだっ。だーれがお前のことなんか好きになるか! ばーかばーかっ!」
あっかんべー。
小さな舌を出して右目をむくと、ドタドタと激しい音を立てて美菜は廊下を走っていった。
お……
俺のトキメキを返せぇぇぇええええええええええッ!!
あ、それと千円も。
*
未だに俺は千円を返してもらっていない。
「え? 千円? なにそれ、おいしいの?」
「この間くれるって言ったじゃーん。今さら惜しくなったって無駄だよ~」
「うっさい、けーち。千円ぐらいくれたっていいじゃんかぁ」
「ねぇ、いい加減あきらめない? 見苦しいよ?」
「ぷっ、キモ」
もう半年。
季節はもうすぐ冬に移ろうと落ち葉を散らし、ふと感傷に浸ってもいいような気がしてきてしまう危うい季節になった。
あいつはもう冬服に着替えている。
「まったく……」
今日も俺は、美菜の元へ請求を急いだ。