秋麗
秋の空は、どうしてこんなにも高いのだろうか。
放課後、校舎の屋上に続く階段を上りながら、彼はそんなことを考えていた。窓の外に広がる青は、どこまでも澄んでいて、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
その空の下で、彼は恋をした。
たった一人の、先輩に。
朝霧誠と秋山紬が初めて話したのは、九月のはじめだった。
文化祭の準備で、各クラスが慌ただしく動き始めた頃。
誠はクラスの備品を取りに行く途中で、廊下に積まれた段ボールに足を引っかけて盛大に転んだ。
「大丈夫?」
声をかけてくれたのが、紬だった。
差し出された手。
少し驚いたように見開かれた目。
けれどすぐに柔らかく緩むその表情。
「あ、ありがとうございます……」
情けない声でそう言いながら、その手を取った瞬間、心臓が妙に大きく鳴ったのを感じた。
「怪我してない?ほんと、気をつけなよ」
そう言って笑う紬は、どこにでもいそうで、でも確実に特別だった。
それが、全部の始まりだった。
紬は二年生で、誠の一つ上の先輩だった。
明るくて、誰とでも自然に話せて、でもどこか無理をしているような、不思議な人。
廊下ですれ違えば軽く手を振ってくれね、見かければ「元気?」なんて気さくに声をかけてくる。
ただそれだけの関係だった。
それだけで、誠の一日は少しだけ特別になっていた。
単純だな、と自分でも思っていたけど、どうしようもなかった。
誠は彼女の事を好きになってしまったから。
「ねえ、ちょっといい?」
そう呼び止められたのは、出会ってから一週間くらい経った頃だった。
放課後の廊下。
人がまばらになった時間帯。
彼女は少しだけ困ったような顔で、僕を見ていた。
「はい」
「相談、乗ってくれない?」
その一言で、誠の中の何かが静かに揺れた。
「実はね、好きな人がいるんだ」
屋上。
夕方の光がやわらかく差し込む場所で、紬はそう言った。
なんとなく誠は分かっていた。
でも、実際に聞くと、胸の奥がじわりと痛んだ。
「同じクラスの人なんだけどさ、全然気づいてもらえなくて」
苦笑いを浮かべながら話す紬は、少しだけ弱く見えた。
その表情を初めて見て、少し戸惑っていた。
「どうしたらいいと思う?」
そう聞かれて、誠は言葉が詰まる。
「やめた方がいい」とか、「諦めた方がいい」とか、そんな言葉が頭のどこかに浮かんでは消える。
でも、そんなこと言えるはずがなかった。
だって、彼女は本気でその人を好きなんだ。
「……ちゃんと、伝えた方がいいと思います」
結局、ありきたりな答えしか出てこなかった。
それでも紬は、少し驚いたように目を瞬かせてから、ふっと笑った。
「そっか。やっぱりそうだよね」
その笑顔を見た瞬間、心の長いが少しだけやわらいだ気がした。
それから僕は、彼女の“相談役”になった。
『今日、ちょっと話せたんだよ』
『LINE送ってみたんだけど、変じゃなかったかな』
『文化祭で一緒に回れたらいいなあ』
そんな話を聞くたびに、心のどこかが少しずつ削れていく。
でも、それ以上に
紬と過ごす時間が、誠にとってはどうしようもなく楽しかった。
放課後の帰り道。
屋上での他愛ない会話。
文化祭の準備で遅くまで残った日。
「君ってさ、話しやすいよね」
そう言われたとき、少しだけ期待してしまった。
もしかしたら……でも、その続きはなかった。
文化祭の前日。
「明日、告白する」
夕焼けに染まる屋上で、紬はそう言った。
その声は震えていなかった。
むしろ、どこか晴れやかで、決意に満ちていた。
「……そうなんですね」
「うん。怖いけどね。でも、このままは嫌だから」
強いな、と誠は思った。
自分にはきっとできない。
好きな人に、自分の気持ちを伝えるなんて。
「だからさ」
彼女は少しだけ照れたように笑って、続けた。
「背中、押してくれない?」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
ここで「嫌だ」と言えたら、何か変わったのだろうか。
でも、そんな勇気は、誠にはなかった。
「……もちろんです」
そう答えた自分の声は、思ったよりもずっと普通だった。
文化祭当日の放課後。
人はおらず妙に静かだった。
約束の時間。
校舎裏。
紬は、少し緊張した面持ちで立っていた。
「来てくれてありがとう」
「いえ……」
短いやり取りのあと、沈黙が落ちる。
やがて、遠くから誰かの足音が近づいてきた。
きっと、彼だ。
誠は一歩後ろに下がる。
「じゃあ、行ってきます」
振り返った紬は、少しだけ不安そうで、でもしっかりと前を見ていた。
その背中に向かって、誠は応援した。
「大丈夫です。先輩なら、きっと」
言いながら、何を願っているのか、自分でもわからなかった。
叶ってほしいのか。
叶わないでほしいのか。
でも
彼女が笑ってくれるなら、それでいい。
「ありがとう」
そう言って、紬は歩き出した。
その背中は、まっすぐで、綺麗だった。
結果は、すぐにわかった。
少しして戻ってきた紬は泣いていた。
でも、それは悲しい涙じゃなかった。
「……うまくいった」
そう言って、ぐしゃぐしゃの顔で笑っていた。
その笑顔を見た瞬間
ああ、終わったな、と思った。
「おめでとうございます」
自然に言えたことが、少しだけ不思議だった。
「ほんとに、ありがとう。君がいなかったら、きっと無理だった」
そう言って、彼女は僕を見つめる。
その視線は、どこまでもまっすぐで、優しかった。
でも。
そこに“恋”はなかった。
文化祭が終わった帰り道。
人通りの少ない坂道を、誠は一人で歩く。
空を見上げると、相変わらず高くて、澄んでいた。
涙は、出なかった。
ただ、胸の奥がじんわりと温かい。
不思議な感覚だった。
叶わなかったのに。
終わったはずなのに。
嫌な気持ちは、ほとんどなかった。
「ありがとう。君がいてくれてよかった」
最後に言われたその言葉が、ずっと胸に残っている。
たぶん、この恋は
最初から報われることなんてなかった。
それでも。
好きだった時間も、苦しかった瞬間も、全部まとめて。
大切だったと思える。
それで、いい。
それで、よかった。
秋の空は、どこまでも澄んでいる。
高くて、遠くて、でも少しだけ優しい。
誠はその下で、ひとつの恋を終えた。
叶わなかった。
でも
間違いじゃなかった。
秋麗しいこの季節は、とても綺麗だった。




