8. 放蕩者は噂される
もちろん、と。
ウィルヘルムは、そう頷くべきだった。というか、反射的にそうできるはずだった。愛の言葉なんて考えなくても口にできる、そうでなくては恋愛詐欺師なんて務まらないからだ。けれどもそのときウィルヘルムが即答できなかったのは、『意味がない』と思ってしまったからだった。
口づけはできる。──けれども、その口づけに意味はない。
ウィルヘルムは愛を知らない。ウィルヘルムはアーシャを愛していない。──だから、ウィルヘルムがアーシャに口づけたって、アーシャの呪いが解けることはない。
……違う、何を真面目に考えているんだ?
「もちろん」
『セレスティアの呪い』は古い伝承で、おそらく事実でもなくて、アーシャが求めているのはごく単純な愛の囁きだ。ウィルヘルムは甘く微笑んで、そっとアーシャの頬に手を添えた。
「なんなら、今ここで口づけようか? ……侍女殿には、目を瞑っていていただいて」
「まあ。ウィルヘルム様が怒られてしまいますわ」
「誰に?」
「……アルデンに?」
「……うん、わかった、やめておこう」
ここで他の男の名前を出すのか、やっぱりアーシャは……と思いながら、ウィルヘルムは大人しく手を引っ込めた。そもそも本当に口付けるつもりがあったわけでもない。アーシャは笑って、「そろそろ時間ですわね」と出口に視線を向けた。
「楽しいお話を、ありがとうございました」
「どういたしまして」
ウィルヘルムは慇懃に頭を下げた。それから、アーシャの前ではいらないことばかりを喋ってしまいがちだな、とふと思う。女との会話の基本は、向こうに喋りたいことを喋らせること。その上で『彼とは気が合う』と錯覚させることだ。知識をひけらかすことは、本来であれば、歓迎されるような手管ではない。
けれども、彼女にはどうしてか、色々と語りたくなってしまう。
それは彼女の紫の瞳が真っ直ぐにウィルヘルムを見て、確かな興味が伴っている色でウィルヘルムの言葉を待つからだ。ウィルヘルムの中でのアーシャの印象は、最初の『頭の軽いお姫様』からは、だいぶ異なりはじめていた。
アーシャは賢く、ウィルヘルムの内面にもウィルヘルムの知識にも、表面上のものではない、ただウィルヘルムに好かれたい、というだけではない興味を持っている。ウィルヘルムはほとんどはじめて、自分に好意を持つ女性との会話が楽しい、という経験をしていた。……だからどう、ということも、勿論、あるわけがないのだったが。
* * *
──そうして、スヴェルダの社交界での最近の話題は、異国から来た麗しい王子と、そろそろ結婚適齢期を迎える第二王女、国王の溺愛する愛らしい姫君の恋の行方一色になった。
「……聞きました? アーシャ殿下の話」
「もちろん。今は皆その話をしていてよ。ウィルヘルム様……あんな美しい殿方、私、はじめて見ましたわ……!」
「聞いて! 私、先日、お二人で劇場にいらしているところを拝見しましたの。まるで、絵画から抜け出してきたようなお姿でしたわ!」
「魔法学院主催の夜会で出会って、その場でダンスを踊られたのでしょう? その場にいた誰もが見惚れたとか……お互い、一目惚れだったということかしら?」
「かもしれませんわね。お似合いですもの」
王子と王女。美男美女。ロマンスの題材としては、十二分すぎる二人である。デビュー間もない少女たちはうっとりと二人の恋路を語り、その傍らで、少し長じた社交界の華たちが、訳知り顔で密やかに笑う。
「……でもねえ、そのウィルヘルム様ですけれど……綺麗なお顔で、なかなかの曲者だと思いますわよ? わたくしも少しお話をしたのですけど……あの不思議な色の目で見つめられると、王女殿下とのことを知っていても、くらりと来てしまいそうで」
「まあ! 貴方、ウィルヘルム様とお話を? 羨ましいわ」
「領地目当てですわ。わたくし、跡取り娘ですから、慣れておりますの。……ですから、殿方の、そういう雰囲気もわかるのです。ウィルヘルム様も……ねえ?」
「ええ!? そんなふうにはとても……」
「あら。殿方は、権力のためなら、どんなことだってできる生き物ですのよ。皆様方も、どうかご注意あそばせ?」
「まあ、恐ろしい」
漣のように女達は笑った。
「でも、確かに、王子と言っても、王位継承権はだいぶ下だと聞きましたわ。第……八? 九? それぐらいだったはず。ですから、本当に、身の振り方を考えておられるのかも」
「あら……では、こちらには、婿入り先を探しに来られたと?」
「なら……アーシャ殿下は、破格の『持参金』をお持ちですもの。狙いとしては、悪くないですわね」
「まあ。悪い方」
「でも、だとしたら、アーシャ殿下が心配ですわ。デビュー間もないですし、あんなに手慣れた殿方のお相手は、荷が勝ちすぎるように思えると言いますか。かといって、帝国からのお客様相手では、陛下も強くご注意は出来ないでしょうし……」
案じる言葉に、そうねえ、と思案するような同意が返る。不安がるような、けれどどこか愉しむような響きで誰かが言う。
「ウィルヘルム様は、学院でも、複数の女子学生と仲良くされていると聞きますわ。いえ、もちろん、留学に来られたばかりの方ですもの。皆様が手助けされるのは当たり前のことですけれど……王女様がおられるのに、ねえ?」
「仕方がないわ、あのお顔では。武術の心得はないようで、身体こそ随分と細身ですけれど……背も高くて、艷やかな黒い髪がまるで夜空のようで……」
「ええ。例え狙いが別にあっても……と、そう思ってしまっても責められませんわ」
ウィルヘルムの容姿や振る舞いを称える言葉は尽きず、美しい、けれどもおそらく危険な男であると、そういうふうに話は纏まる。そして、実際のところ、誰もがこう思っている。少し意地悪く。
幼くも可愛らしい王女殿下の、子どものままごとのような恋ではきっと、あの美しい男を手に入れることなど、到底、できはしないだろう──と。




