31. 放蕩者は愛を手に入れる
鐘が鳴る。
スヴェルダの王都、美しい港町ヴェルミは、第二王女の結婚という、この上ない祝い事に沸き立っていた。相手は帝国からの留学生だった麗しの王子で、ふたりのロマンスは(かなり現実からかけ離れた形で)人々の耳に伝わっていた。
その伝聞とは、曰く、以下のようなものである。
アーシャとウィルヘルムは夜会で出会い、ふたりはひと目で恋に落ちた。ふたりは順調に逢瀬を重ねたが、ウィルヘルムが帝国の第九王子という複雑な(中途半端な、が正しい)立場だったこともあり、王は二人の交際に反対した。アーシャは反対を受けて王宮を飛び出し、ウィルヘルムとともに『緑の魔女の森』を目指した。けれどもその途中の村で、ふたりは『セレスティアに真実の愛を伝える』という試練に遭遇し、その試練を経て『真実の愛』を得たウィルヘルムは、アーシャを説得した。王のもとに戻り、『真実の愛』を証明して許しを得よう、と。そうしてふたりは王のもとに戻り、王はその誠実さに感激してふたりの結婚を許した、と。
いやはや全く、事実は小説より奇なりというか、実際に起きたことは巷の噂より余程荒唐無稽な出来事だったのだが──と、『皆が貴方がたのことを祝福しています』との言葉とともにこの話を伝え聞いたとき、ウィルヘルムはなんとも言い難い気持ちになった。なるほど、話のところどころは事実と一致しているし、セレスティアの名が出てきたのは、ウィルヘルムが得る家名が『セレストウィルド』であることからの連想だろう。しかし試練ってなんだ? いやまあたしかにイザベラに襲われたり魔獣に襲われたり色々あったが、あれは愛の試練だったのか?
ともあれ、アーシャとウィルヘルムの結婚式は、誰からも祝福され──空からも祝福されているような晴天のもとで執り行われた。
鐘が鳴る。
王都で最も大きな聖堂、まさしく二人の結婚式が行われようとしている場所で鳴る鐘の音は、魔法による増幅によって、広く王都に響き渡る。果たしてその元となる場所、神殿の祭壇の前、大勢の人々が見守る中で、ウィルヘルムは花嫁の到着を待ちわびていた。
『魔法と精霊の国』スヴェルダにおいて、結婚は、(『緑の魔女の森』で行われるものでなくとも)魔法的な契約である。特に守護精霊を持つ家にとっては、元の家の加護を離れ、新たな家の加護を受けるという意味合いが強くなり、その受け渡しを象徴するように、花嫁は、元の家の人間に連れられて花婿のもとに歩いてくる、という風習がある。故にウィルヘルムとその守護精霊ルミナは、先に祭壇の前に立ち、アーシャが来るのを待つ羽目になっているのだった。
「……緊張してる?」
普段は胸ポケットに入っているルミナだが、花嫁を迎え入れる場とあって、今日は成獣の姿でウィルヘルムの傍らに控えている。ウィルヘルムは小声で応じた。
「そりゃあな。……ヘマをしたら上手く誤魔化してくれよ」
「了解。存分に花嫁に見惚れてくれていいよ、いい感じに演出してあげるから」
「逆に不安だなそれ」
ルミナが胸を張って言うので、ウィルヘルムは少し笑ってしまう。それでなんだか肩の力が抜けて、そう、今日はただ楽しめばいいのだ、という気持ちになれた。めでたい日──祝福の日だ。そもそもアーシャのドレス姿は普通に楽しみでもあることだし。そうしてウィルヘルムは改めて姿勢を正し、その瞬間、式の開始を告げる喇叭の音が高らかに響いた。
祝福の魔法が掛かった荘厳な音楽が大聖堂を満たし、正面の大きな扉が、ゆっくりと開かれる。
──光が。
差し込んできた、というのは、ただの事実でもあったし、それ以上の意味を含んでもいた。ウィルヘルムの息が止まる。アーシャの姿は魔法の光によって最も美しく見えるよう照らし出されていたし、その分を差し引いたとしても、アーシャは十分に輝いて見えた。
ストロベリー・ブロンドの髪は華やかに結い上げられ、繊細なレースに縁取られた長いヴェールが、アーシャが少し動くたびにふわりと揺れる。紫の瞳は神秘的にきらきらと輝き、緊張で少し紅潮した頬と淡い色の紅が載せられた唇の赤さが、白磁の肌の中に咲く小さな花のようだ。王家に代々伝わるという純白のドレスは慎み深くアーシャの全身を覆い、上半身のぴたりとしたデザインと大きく広がり後ろに流れるスカートの対比とが、彼女の少女めいた華奢さを一層際立たせている。
世界で最もうつくしい花が人の姿をとったかのような、凡そこの世のものとは思えない美しい少女が、彼女の姉であるエリシアに手を引かれ、ゆっくりとウィルヘルムに歩み寄ってくる。
息ができない、と、ウィルヘルムは本気で思った。
花嫁の美しさに息を呑む人々の気配も、聖歌隊の厳かな歌声も、なにひとつウィルヘルムには感知できない。ただアーシャしか目に入らない。儀式の手順も何もかも頭から消え去って、もはや彼女に触れることすら恐れ多い、と、そんな思いで頭がいっぱいになる。おいルミナなんとかしろ、と、ウィルヘルムはほとんどパニックになって、内心で傍らの相棒に助けを求めた。上手く誤魔化してくれるって言っただろ!
──その瞬間。
ふわり、と。
光を取り入れるための華やかなステンドグラスしかない、風の通らないはずの大聖堂の中を、柔らかな風が、吹き抜けた。ルミナか? と思ったけれど、それはルミナの魔法の気配ではなかった。
風はウィルヘルムの短くなった髪を柔らかく弄び、アーシャのヴェールを揺らし、参列者たちを心地よく撫でて、ぐるりと大聖堂を一周し──再び戻ってきたときに、その風は、美しい花々を伴っていた。
「……!?」
花びらが舞う。ウィルヘルムとアーシャの結婚を祝福するように。
いつか見た光景に似ている、と、ウィルヘルムは思った。祭りの夜、紙吹雪に包まれた広場の中で、アーシャだけが浮き上がって見えた夜。あの日とは異なり、花びらはアーシャにも同じように降り注ぎ、純白の花嫁を悪戯に飾り立てている。段取りにはない出来事にエリシアとアーシャが戸惑ったように足を止め、人々の間にもざわめきが起きはじめる、その瞬間に声は降り注いだ。
『私はフィオーレ。結婚と契約──全ての愛を祝福するもの。リベンジに来た!』
風が渦を巻き、次の刹那に、緑の蔦と色とりどりの花とに彩られた、美しい女性の姿を形作る。『緑の魔女の森』の守護精霊、『結婚と契約』の女神フィオーレ。フィオーレが軽く手を降ると、花々がエリシアとアーシャとを包んで持ち上げ、ふわふわと祭壇の前まで運んでしまう。そうしてウィルヘルムの隣まで運ばれたアーシャは、すがるように掴んでいたエリシアの手をそっと離して──なにがなんだかわからない、という顔をしながらも、はにかんだ笑みでウィルヘルムを見上げた。
「……ウィルヘルム様」
かわいい。
思わず天を仰ぎそうになるのを既のところでこらえた。何が起きているのかわからないが、ともかく、今は結婚式の最中なのだ。ウィルヘルムはどうにか、今までの経験値を総動員して、いつもの顔で微笑んだ。
「……きれいだよ。思わず見惚れた」
「まあ」
ただの事実なのだが、アーシャはいつもの軽口だと思ったかもしれない。小さくくすりと笑ってから、儀式中であることを思い出したのだろう、少し慌てて祭壇へと向き直る。ウィルヘルムもまた祭壇の方を向き、皆と同じようにわけが分からない顔をしている神父と、その後ろでにこにことしているフィオーレとを見上げた。
『──手を繋いで、前に出して』
どうやらフィオーレは、『緑の魔女の森』式で結婚式を進めるつもりらしい。女神とも呼ばれる守護精霊には逆らわないが吉、と決め込んだらしく、神父はもう観念した顔で穏やかに微笑んでいる。フィオーレは楽しげに続けた。
『私の後に続いて、誓いの言葉を述べなさい。──『汝を私の妻とします』』
躊躇う理由はなかった。ウィルヘルムは口を開いた。
「汝を私の妻とします」
間をおかずにフィオーレは言った。
『『汝を私の夫とします』』
アーシャが、わずかに、唇を舐めるのが見えた。緊張しているように。
「……汝を、」
声が震えているのがわかって、ウィルヘルムはアーシャの手を軽く握った。何も恐れる必要がないことを伝えるために。アーシャは続けた。
「──私の、夫とします!」
ぱあっ、と。
繋いだ手の間に、光のリボンが形作られる。それはふたりの手首を繋ぎ、そのまま、ふたりの中に吸い込まれるように消えていった。契約が、成立したのだ。フィオーレは満足げに頷いた。
『これにてふたりは……ああ、違う違う。こちらではもうひとつ儀式が必要なんだったか』
フィオーレがとんと神父を叩いて、それでハッとしたような顔をした神父が、仰々しい咳払いを一つする。それから言った。
「──誓いのキスを」
普通はもう少し長々とした前振りがあったような気がするけどな、と思ったけれど、流石に口に出さなかった。ウィルヘルムはアーシャに向き直り、改めて見たそのうつくしさに、ひっそりと息を止めた。この少女に口付けをする? 本当に? 今更に緊張するウィルヘルムを、こちらも緊張した面持ちでアーシャが見上げ、おずおずと、その瞼が下ろされた。
ぎゅぅっ、と、掴まれるみたいに胸が痛んだ。キスなんて数えきれないほどしてきた──してきたことを、今更になって愚かだと思った。こんな気持ちになるのは初めてだった。こんなに苦しくて、どうしようもない、ただ彼女の幸福を祈るような気持ちになることは。
ウィルヘルムはアーシャの腰に手を回し、身体を屈めた。
そっと、唇を触れさせる。それだけで、途方もなく緊張する。なのに離れ難い。儀式的なものというには長い口付けに、フィオーレがどうやら笑ったようだった。厳かな声が響く。
『……これにて、二人の婚姻は正式に結ばれた』
名残惜しさを感じながら、その言葉を契機として唇を離す。ゆっくりと開かれた目、その紫の瞳が少し潤んでいるのが目に入った瞬間、もう一度口付けたくてたまらなくなる。そんなウィルヘルムを笑うように、おそらくウィルヘルムにだけ聞こえるようにフィオーレは言った。
『我が妹セレスティアに代わって礼を言うよ。彼女も、やっと満足したようだ。……この世界で一番うつくしいものを見せてくれて、ありがとう』
それは、セレスティアの呪いが完全に解け、以降王家の子孫に呪いが引き継がれることはないということだった。ウィルヘルムは目を見開いた。
『それと、もう一つ。……ヴィオレッタの『呪い』が、なぜあのタイミングで解けたのか、君たちは疑問に思っていたようだったけど。ヴィオレッタは優秀な魔法使いだ。呪いが解ければ、己の『呪い』もまた不要になることを知っていた。だから彼女は、呪いと同じ条件で呪いを掛けたんだ──『真実の愛』』
それはつまり。目を瞬くウィルヘルムに、フィオーレは言った。ひどく優しく。
『わかるかい、王子様。あのとき君は『結婚する』という打算を完全に捨てて、『彼女と一緒に居る』ことを選んだんだ。それが愛じゃなくてなんだって言うんだ? ヴィオレッタ……君の母親の方が、君のことを、君の本当の気持ちを、君より先にわかってしまった。セレスティアより先に『真実の愛』だと認めてしまった。あれはつまり、そういうことだったんだと私は思うよ』
──ヴィオレッタのことを。
もう恨んでいない、と、言い切ることは難しい。ウィルヘルムが孤独に過ごした日々は無くならない。それでも、と、ウィルヘルムはアーシャを見下ろして思った。
呪われ衰弱する赤子を見過ごせないと思った、その彼女の愛のおかげで、アーシャは今こうして生きている。それはやはり尊い、尊敬できる行いなのだろう、と。
今は、少なくとも、そう思える。どうしてそう思えるようになったのかも、ウィルヘルムにはわかる。ウィルヘルムは軽く目を細め、それから結局堪えられずにアーシャをきつく抱き寄せて、儀式とはまるで関係のない熱烈な口付けを、アーシャの唇に落としたのだった。




