28. 放蕩者は愛を知る
陸路では三日掛かったヴェルミへの道も、空路であれば半日とかからなかった──のは、ウィルヘルムが髪の魔力を使ってまで、ルミナに無理をさせたからかもしれない。
ともかく、数時間後には、ウィルヘルムは王城のど真ん中、建物に囲まれるように存在する中庭へと降り立っていた。空からの突然の闖入者に辺りは騒然となり、ウィルヘルムはそれを気にせず王城の奥へと進んだ。
ウィルヘルムは己の上着と『目隠しの魔法』でアーシャの姿を隠していたが、それでも、ウィルヘルムの纏う空気の異様さは、見るだけで周りに伝わったのだろう。ウィルヘルムはすべてを押しのけるように早足で歩いたし、誰も二人の道を遮らなかった。だからウィルヘルムは、さほど苦労せずそこにたどり着くことが出来た。
王女の──第一王女・エリシアの部屋。ウィルヘルムは扉の前に立つ警備兵を一瞥で制し、乱暴にその扉を蹴り開けた。
「……!? 何者、……アーシャ!?」
中に居たのは、エリシアとアルデン、そして数名の侍女だった。
ウィルヘルムは、アーシャを隠していた魔法を解除する。現れたアーシャの姿を見たエリシアが、愕然とした声で叫ぶ。
「……守護が……!? どうして……!」
エリシアがアーシャに駆け寄ってきて、その皺だらけの手に手を重ねる。それを見下ろし、ウィルヘルムは「俺が知るか」と吐き捨てた。今はそんなことはどうでもいいのだ。ウィルヘルムは視線をエリシアから外した。
「そんなことより──はやく、そこのお前だ、早く来い!!」
アルデンを見て、喚くように言う。アルデンが動かないのを見て、ウィルヘルムは畳み掛けた。
「何やってるんだ!? はやく……くそ、王女様、魔法オタクのあんたなら、解呪の方法は知ってるんだろ!? そいつに命令しろ、早く!!」
「……『真実の愛』」
「それだ!!」
アーシャを見下ろしたまま、途方に暮れたようにエリシアは言った。そうだ、わかっているじゃないか、どうして誰も動かないんだ? ウィルヘルムはひどく腹立たしくなった。アーシャは今このときも衰弱し続けている。『十八歳までに』というのがセレスティアのかけた呪いの条件らしかったが、この身体で、とてもそこまで持つとは思えなかった。苛立ちのまま、吐き捨てるように言う。
「俺じゃだめだ。だから──くそ、急げって言ってるのが聞こえないのか!?」
「……残念ながら」
アルデンは苦悩するように眉を寄せた。できるのならとっくにやっている、という顔だった。
「『真実の愛』……それが条件だというのなら、私では、アーシャ殿下の呪いを解くことは出来ない。私が愛しているのは別のお方です」
「……役に立たないな!!」
ウィルヘルムは盛大に舌打ちをした。アーシャの言っていたこと──アルデンとエリシアは相思相愛である、という話は事実だったのか。仕方ない、と再びエリシアを見る。
「じゃあ他に誰か……そうだ、『真実の愛』は別に色恋じゃなくたっていいって説もある。なんならあんたが試してみたって」
「駄目ですわ。……他の呪いはいざ知らず……セレスティア様の話をお聞きになったでしょう?」
ウィルヘルムの答えを待たずに、エリシアは言う。
「わかるでしょう? セレスティア様の呪いは、王子が婚約者を裏切ったことに端を発するものです。故に、セレスティア様が求める『真実の愛』は、恋愛のそれに限定されている。残念ながら、親愛では満たされないのです。そもそも、……そんなもので満たされるなら、とっくに解除している! 当たり前でしょう!?」
エリシアはウィルヘルムを睨みつけた。言われてみればその通りだった。アーシャが、肉親に愛されていないはずがない。馬鹿なことを言った、と自分で自分が嫌になる。ウィルヘルムはあたりを見回した。
「それじゃあ……くそ、……もう、誰でもいい、誰かいるはずだろ、ここなら!」
子供の癇癪のようにウィルヘルムは叫んだ。
スヴェルダの王城。アーシャが生まれ育った場所。ここに、アーシャを愛しているものが──親愛ではない意味で愛しているものが誰一人としていないだなんて、とても考えられなかった。
「だってこいつは、こんなに可愛くて、明るくて」
ただそこに立っているだけで、誰からだって愛されるような女だった。
くるくる回る表情が可愛くて、ウィルヘルムがからかえば頬を膨らませ、ウィルヘルムの痛みに自分のほうが傷ついたような顔をして、ウィルヘルムの渡した花に子どもみたいに笑った。紫の瞳はいつだってきらきらと輝いて、真っ直ぐに澄んでいて、その意志の強さはいつだってウィルヘルムを圧倒していた。今思えばそれは、彼女がウィルヘルムのために命をかけていたことの証明だった。
「優しくて、……俺みたいなのにだって優しくて……」
そう、自分がもうすぐ死ぬという状況になったって、自分のことよりも罪滅ぼしを──愛されることより愛すること、を考えるような女なのだ。
だから、誰だって、と、ウィルヘルムは思った。
ウィルヘルムじゃなくたって、誰だって。
「誰だって、こいつのことを好きになるはずだし、……こいつにだって、好きな相手のひとりぐらいいたはずだろ、なあ!?」
彼女のことが、好きだった。
そうでないと言い張ることはもはや不可能だった。けれども、そんなものに、今更意味があるとも思えなかった。
ウィルヘルムは、愛を知らない。真に誰かに愛されたことのないウィルヘルムは、誰かを愛するすべを知らない。ましてや『真実の愛』なんて、それを散々虚仮にしてきたような自分の中に、存在するはずがない。……いや違う。
違う。そうじゃない。
たとえ、ウィルヘルムがアーシャのことを愛していたって、なんの意味もない。
だってアーシャは、『罪滅ぼしがしたかった』と言った。ヴィオレッタがアーシャを守り続けた礼として、ウィルヘルムに己の持参金を渡したいと言ったのだ。
それだけのための『結婚』だった。
それだけのための、旅だったのだ。
当たり前だ。そんな理由でもなければ──こんなにきれいでこんなに優しい、誰にだって愛されるような女が、ウィルヘルムなんかと結婚したいと思うはずがない。
だから。
だから、アーシャが、『ウィルヘルムを愛したい』と言ったのが本当だとしたって、やっぱり、なんの意味もないのだ。『愛したい』は、愛ではない。アーシャはウィルヘルムを愛したかったのかもしれない──ヴィオレッタの代わりに。そして、もしそれが成功していたとしても意味はない。家族愛では満たされない。
アーシャが魔獣の前に我が身を投げ出したとき、その献身に、恋より他にどんな理由があるのだろう──と、かつてのウィルヘルムは考えた。
今、『理由』は明かされた。恋なはずがなかった。恋なんてものでできる献身であるはずがなかった。
ただ、ウィルヘルムが、それを恋だと思いたかっただけだ。
愛されていると思いたかっただけだ。
アーシャは。
(……アーシャは、俺を、愛してない)
当たり前だ。ウィルヘルムはアーシャに愛されるようなことをしなかったし、ウィルヘルムは愛されるにふさわしいような男ではなかった。胸が痛むことすら烏滸がましかった。それにそもそも、ウィルヘルムの思いなどどうでもよかった。
問題は、アーシャが愛している誰かが、そしてアーシャを愛している誰かが、どこにもいないということだった。
『真実の愛』は、双方向だ。
思い合っていなければならないのだ。──だから、ウィルヘルムでは、アーシャを救うことは絶対にできない。
どうすればいい。
ウィルヘルムはついにその場に膝をつき、途方に暮れて、すがりつくようにアーシャの身体を掻き抱いた。
じわり、と、視界が滲む。
自分がまだ『泣く』ということを覚えていたことが信じられなかった。泣いたってどうにもならないことは、幼少期に散々思い知ったというのに。
誰でもいい、とウィルヘルムはくり返し思った。こいつを救ってくれるなら、誰でもいいから。
「……アーシャ……」
こんなにうつくしいものが、この世界から、失われていいはずがない。セレスティアの呪い? 世界で一番うつくしいものを証明しろ? そんなの、彼女の存在だけで十分すぎるはずじゃないか。何もかもが間違っている。ウィルヘルムはアーシャの身体を抱きしめて──そのとき、アーシャの頬に、ウィルヘルムの目から溢れた涙が触れた。
光が──アーシャの体を、包みこむ。
ウィルヘルムは目を見開いた。
あまりにも強い光で、目が焼ける。けれども、目を閉じられるはずがなかった。何が起きている? ウィルヘルムの腕の中で、凍りついたように冷たかったアーシャの身体が、じわりと、たしかに温もりを取り戻していくのがわかった。
……何が、起きている?
呆然とするウィルヘルムに、次に届いたのは、柔らかな、耳を心地よく擽るような声だった。
「……ウィルヘルム様……?」
光が散る。
アーシャの周りを、きらきらと、光の欠片が彩って弾ける。
その奇跡みたいな光景の中で、ウィルヘルムはやっとのことで瞬きを思い出し、何度瞬いてもその姿が変わることはない、という事実を飲み込んだ。ぐしゃりと顔が歪むのがわかった。
そこにいたのは、ウィルヘルムがずっと見てきたままのアーシャの姿だった。どういうことだ、と考えるより先に、体が動いた。
「っ、……ウィルヘルム様、……!?」
ウィルヘルムはアーシャを掻き抱いた──そのまま、きつくきつく抱きしめる。柔らかなストロベリー・ブロンドがウィルヘルムの頬をくすぐり、甘い香りがウィルヘルムの鼻腔を満たした。
生きている。呪いが解けたのだ、やっとそう、頭まで理解が辿り着いた。
……呪いが、解けた? ということは? ……今は、その件については深く考えたくなかった。ウィルヘルムは、アーシャを抱きしめ、その肩口に己の顔を埋めたまま、その場にへたりこんだ。
そして言った。絞り出すように。
「……この、馬鹿」
最初から言え、という気持ちと、言われたところでどうしようもなかった、という気持ちと、言われていても彼女を愛しただろう、という諦めとを全部ぐちゃぐちゃに混ぜ込んだせいで、どうしようもなく情けない声になった。アーシャは、おそらくは状況もまだよく理解できていないのだろう、困惑した声でウィルヘルムに答える。
「………ええと、ごめんなさい……?」
そうして、アーシャの手が、肩辺りまでの長さになったウィルヘルムの髪を、声と同じ困り果てたみたいな手つきで撫でる。その心地よさを堪能し、言葉は、ほとんど無意識にこぼれ落ちた。
「うん、……アーシャ」
アーシャの顔はまだ、見られなかった。
「結婚してくれ、俺と」
ぱちり、と、アーシャが大きな目を瞬くのを、長い睫毛が揺れる気配で感じた。
アーシャの手が、ウィルヘルムの頭から、ウィルヘルムの背中へと降りていき──その細い腕が、そっと、ウィルヘルムを抱きしめ返す。
「……はい」
その短い、困惑したままの、それでも確かな意思を持って発せられた同意の言葉を聞いた瞬間に。
ウィルヘルムはごく身勝手に、己の全てが、とてもまともとは言えない人生のすべてが、まるごと肯定されたような気がした。今日この日まで生きてきてよかった。アーシャが、今日この日まで、生きていてくれてよかった。
ウィルヘルムは、きつくアーシャを抱きしめた。あたりを見渡し、やっと自分たちがエリシアやアルデンに暖かく見守られていることに気づいたアーシャが慌ててウィルヘルムの身体を押しのけるまで──否、押しのけ始めてからもしばらくは、ずっと。




