26. 呪われ王女の事情・4
……眼下に、痩せさらばえた、骨と皮のような己の姿が見える。
(……ヴィオレッタ様の息子、の、はずだった)
この姿を、忘れたことなど無かった。とはいえ、久々に見ると、その醜悪さに改めて目眩がするようだった。
ほとんど死人のような色の、干からびた肌。見た目通りに力の入らぬ身体では立っていることも出来ず、アーシャはぺたりとその場に座り込んだ。
(姉様は納得してくださったけど、父様のお許しは得られなかった。だから私は、ここに……『緑の魔女の森』に賭けることにした。女神の力なら、あるいは、ヴィオレッタの『呪い』を突破することが出来るのではないかと考えて……)
けれどもその目論見は外れ、そして今、どうしてか、ヴィオレッタの『呪い』が失われ、アーシャの真実の姿が晒されている。なにか、とアーシャは朦朧とする意識の中で考える。今、なにか、ヴィオレッタの『呪い』の解除条件を満たすようななにかが起きただろうか? そもそもヴィオレッタは、死の間際に、どんな条件で『呪い』を掛けたのだろう。そこで、一拍遅れてアーシャは気付いた。
(……ヴィオレッタ様の『呪い』が……守護が、失われた?)
ならば、今が好機だ。
ヴィオレッタによる『呪い』、すべての魔法を跳ね返す守護がなくなった今ならば、『結婚契約』は正しくアーシャに機能するはずだ。ウィルヘルムはこんな化物とは結婚したくないだろうけれど、自分はすぐ死ぬのだと伝えれば、きっとわかってくれるはず……アーシャの願いを、叶えてくれるはずだった。
(……ウィルヘルム様)
旅の始まりの日、アーシャは、ウィルヘルムを愛してはいなかった。
いなかったはずだ。今となっては、それも、真実であるかどうかわからなかった。とっくに愛してしまっていたとしてもおかしくなかった。ともあれ、アーシャの自認としては、あのときのアーシャは、ウィルヘルムと結婚して自分の持つ富をウィルヘルムに与える、それだけで頭がいっぱいだった。
人々の噂から知った、『ウィルヘルムもまたアーシャの持参金を狙っている』という事実は、ただただアーシャにとって都合が良かった。
問題は、アーシャの呪いは王家の機密であり、それ故にヴィオレッタの真実を彼に語ることもできないということだった。ヴィオレッタがアーシャにしてくれたこと、ヴィオレッタが彼を捨てたわけではないということを、いずれウィルヘルムに伝えたいという思いはあった。けれどもそれができなかったのは、ただ機密であるというだけでなく、ウィルヘルムがアーシャの行為を『罪滅ぼし』あるいは『施し』であると思ったら、彼の矜持を傷つけるかもしれないと思ったからでもある。
ともかく、そういう理由で、アーシャはただ己の『恋心』ひとつを表向きの理由として、ウィルヘルムを引きずっていくしかなかった。そして、きっと不自然だっただろうに、ウィルヘルムはアーシャの我儘に付き合ってくれた。
短い旅だった。期間にすれば、たったの三日間だ。けれども、今までの人生全てと比べてもこの三日間のほうが重いように思えるぐらい濃い──アーシャの人生を決定付ける三日間だった。
ふたりきりの馬車の中で、ウィルヘルムがぽつぽつと己のことを語るたび、アーシャはその雪の欠片のような言葉たちが、しんしんと己の中に積もっていくように感じていた。
(ウィルヘルム様。本当は優しいひと……だなんて言ったら、貴方はきっと、『陳腐な褒め言葉だな』なんて言って笑うのでしょう。そうしてそれから、『全部君の財産が目当てだからだよ』なんて嘯いたりもする。……嘘つきなひと)
いつからだろう。
いつから、ウィルヘルムのヘイゼルの瞳が色を変えるたび、胸が痛むようになっていたのだろう。ウィルヘルムに全てをあげたいという願いが、彼の未来が幸福であって欲しい、という願いが、罪滅ぼし以上の理由を持つようになったのは。
そう考えたとき、アーシャの脳裏に蘇るのは、『愛』について交わしたウィルヘルムとの会話と──その最後に、彼がいつもの美しい顔で微笑んで言った、ひとつの真もなさそうな言葉だった。
『じゃあ、存分に僕を愛してよ』
僕は愛されるのが好きだからさ、と、ちっともそんなことがない顔で、愛なんてひとつも信じていない、嘘つきな緑の瞳をして彼が言ったときの胸の痛みが、アーシャにおそらくすべてを教えた。
その痛みが。
彼が愛されてほしいと願う心こそが、愛だった。
だからその後、ウィルヘルムを追ってきたイザベラという少女と、ふたりきりで話したとき、アーシャはそれ以前に想定していた台詞を、上手く口にできなかった。
『あの方は、貴女のことも私のことも、どちらも同じく愛してはいない。私はそれで構わない。……私は、訳あって、十九歳までの命と言われています。私は、……』
アーシャは、自分の運命を自分で決めた。……決めたはずだった。
この命が呪いに追いつかれる前に、十八歳になる前に、ウィルヘルムに──アーシャに幸福な十八年をくれたヴィオレッタの息子に、できる限りの償いをすること。それだけがアーシャの目的だった。
目的だったはずだった。
『私は、……ウィルヘルム様に』
イザベラの顔が真っ直ぐ見られなかった。彼女と自分は同じだ、と気づいたら、彼女を説得できる材料が己の手元にはないことにもまた、アーシャは気づいてしまったのだった。イザベラとアーシャは同じだった。
同じようにウィルヘルムに愛されず、同じようにウィルヘルムを愛していた。
愛されていなくても構わない、とは断言できても、自分も愛していないから、とはもう、言えなかった。それでもアーシャは、必死に言葉を紡いだ。
『何も持たない、愛を知らないあの方に、せめて幸せだと思って欲しいのです。そのために、私が差し出せるものならば、どんなものだって与えたい。私は私を彼に押し付けず、ただ私の持ち物だけを彼に与えることが出来る。……これは、そのための旅なのです』
アーシャは俯いて、膝の上に乗せた手をきつく握りしめた。ウィルヘルムに、幸せになって欲しい。その願いは真実だったが、同時に、そのときのアーシャにはもうわかっていた。
アーシャが与えられるものでは、きっと、その願いは敵わない。
(……ウィルヘルム様。貴方に必要なのは、本当は、勿論、土地や財産なんてものじゃなかった)
だから、とアーシャはイザベラに向かって微笑んだ。
『私は死にます。だからどうか、イザベラ様。あの方を、変わらず愛していてください』
アーシャが与えられないそれを、アーシャ以外の誰でもいいから、ウィルヘルムに与えて欲しかった。
……ボサボサの、枯れ草のような髪の向こうに、愕然とした顔のウィルヘルムが見える。
長い黒髪がほつれて流れ、アーシャの顔を隠すようにかかる。ウィルヘルムの、魔力に満ちた艷やかな黒髪に、一度、触れてみたかった。そんなことをアーシャは思った。どこもかしこも美しい彼に、アーシャはなるべく、自分からは触らないようにしてきたから。
見上げた先のヘイゼルの瞳が、何より正直なウィルヘルムの瞳がどんな色をしているか、呪われ殆ど盲いた目では見えないのは、アーシャにとっての幸運だっただろう。ウィルヘルムが怯えるさまを見ずに済んで良かった。最後まで自分は身勝手だ、と思いながら、「ごめんなさい」、とアーシャはどうにか言葉を紡ぎ出した。
「……ごめんなさい、ウィルヘルム様」
貴方に本当に必要なものをあげられなくて、ごめんなさい。
ウィルヘルムに必要なのは──『真実の愛』、それより他にはあり得なかった。幼少期より誰に愛される事も知らず、愛する人も得られなかった彼の寂しさは、愛し愛されることによってしか拭えない。
(……『真実の愛』。私は、貴方に、それを与えることはできない……)
アーシャはもう、とっくの昔に、ウィルヘルムを愛してしまっているけれど、ウィルヘルムは勿論、アーシャを愛してはいないだろう。こんな姿を見た今となってはなおのことだ。だから、とアーシャはどうにか微笑んだ。
ウィルヘルム様。
いつか、誰かが、貴方を愛し──いつか、貴方も、誰かを愛することができますように。




