22. そうして二人は、『緑の魔女の森』にたどり着く
……馬車に乗っている。
差し込んでくる朝日が眩しく、ウィルヘルムは窓のカーテンをそっと閉めた。朝は苦手だが、カーテンを閉めたのはそれが理由ではなかった。
頭が痛むのは、二日酔い──ではなく、旅の疲れが原因だろう。
そしてそれも、もうじき終わる。
ウィルヘルムの左肩には、今、女の頭が乗っていた。珍しい話ではない。腕枕の作法なら心得ている、が、今はもちろん腕枕ではなく、ふたりは馬車の座席に並んで座って、女はウィルヘルムの肩を枕にして、穏やかに寝息を立てているのだった。
がたんと、石か何かに乗り上げたのだろうか、馬車が跳ねるように大きく揺れる。女──アーシャが一瞬目を覚ました気配があったので、ウィルヘルムは軽くその頭を撫で、ぶっきらぼうな調子で言った。
「寝てていい。……着いたら起こす」
はい、とアーシャは安心したように小さく言って、再びの眠りに落ちていく。膝の掛け布が落ちそうになるのを直してやってから、ウィルヘルムはカーテンの隙間から外を見た。
馬車は、深い森への道に差し掛かろうとしていた。森の中は霧がかかっており、中に入ればきっと冷えるだろう。ウィルヘルムはアーシャの肩を抱きよせて、彼女の頭を己の胸に凭れ掛からせる。
随分と、遠くまで来た。
『緑の魔女の森』は、もう、目前まで迫ってきていた。
たどり着いたのは小さな村だった。
霧深く、それよりも更に魔力が濃いのがわかった。守護精霊の気配──空間そのものを包み込むような強い気配が充満している。
御者は二人を村の入り口で下ろし、翌日に迎えに来ると言って去っていった。なるほどこの空間は、魔法使いではない人間には息苦しいだろう。
「……ウィル」
思わず、といったふうに顔を出してのルミナの声は、少し怯えるようでさえあった。答えるようにアーシャが言う。
「『結婚と契約の女神』……フィオーレ様は、セレスティア様と、姉妹であったとも言われる守護精霊です」
「なるほど。それで、この力か」
「フィオーレ様は、セレスティア様が傷ついてこの世界を去られたことを嘆き、セレスティア様の代わりに『愛』を庇護することを決めたと言われています。『真実の愛』が、世俗のしがらみによって絶たれることのないように、と」
「なるほど」
それが巡り巡って『駆け落ち婚』、そもそもウィルヘルムがしようとしたように、『契約さえ結んでしまえばどうとでもなる』という方向に使われるようにもなっているだろうことは、フィオーレにとってはおそらく本意ではないのだろう。思いながら、ウィルヘルムはアーシャを促した。
「なんにせよ、さっさと儀式とやらをやってもらおう。……『緑の魔女』とやらがいる、ってことかな? この村に」
「はい」
アーシャが頷くと同時に、さっと霧が晴れる。そして気がつくと、二人の目の前に、一人の女が立っていた。
「当代の『緑の魔女』。シルヴァナ、と申します」
恐らく背丈よりも長い、深い森の色をした美しい髪。木々のざわめきのように落ち着いた低い声音と、髪と同じ、あるいは髪よりも更に深い緑色の瞳。若く美しいように見えるが、実際の年齢が見た目通りとはとても思えない女──シルヴァナが、感情の読み取れぬ眼差しで、真っ直ぐに二人を見据えて言った。
「ようこそ、『許されぬ愛』を持つお二方。『緑の魔女の森』は、すべての愛を、祝福します」
そうしてシルヴァナは、二人の反応を見ずに踵を返した。『ついてこい』ということだろう。ウィルヘルムはそっとアーシャの身体に手を回し、守るように腰を抱いた。
異様な、というほどではないが、普通の雰囲気でないことは確かだった。そのままシルヴァナの後ろをついて歩いていくと、やがて、小さな教会が現れる。ウィルヘルムの知っているものとはだいぶ様式が異なる、建物全体に蔦が這うようなデザインが施されたものだ。教会であるとわかるのは、屋根の先端に、おそらくは女神のモチーフであろう花を模した彫刻が飾られているからだった。守護精霊『フィオーレ』は、今は『結婚と契約の女神』であるが、元は草花を司るような女神であったのかもしれない。
シルヴァナが手をかざすと、教会の扉が勝手に開く。扉からまっすぐに敷かれた布を踏みしめて、ウィルヘルムとアーシャは中に入った。
中は静かで、正面にある祭壇の両脇に、ふたりの少女が立っている。シルヴァナは真っ直ぐに祭壇に向かい、数段高くなっているそこに立ってやっと、ウィルヘルムとアーシャとの方へ向き直った。
「──手を繋いで、前に出して」
特に抵抗するつもりがあった訳ではないが、それでなくとも、従わなければならないと思わされる、妙な圧力のある声だった。言われるがままにアーシャと手を繋ぎ、繋いだ手を前に出す。すると、ふたりの少女が静かに歩み寄ってきて、二人の手首を真っ白なリボンで結んだ。こちらの名前の確認さえない。性急だな、と思ったのが顔に出たのだろうか。シルヴァナはごく静かに言った。
「私達は、何も聞きません。『すべて』を許すのがこの森の決まり。そして、貴方がたを祝福するかどうかを決めるのは、我が守護精霊フィオーレです」
「何も言ってないよ。……話が早くて助かる、と思っただけさ」
当人の出自を確認しない、という決まりがはたして『愛』を祝福しようという意図に沿うものか、というのは甚だ疑問だが(既婚者同士だったらどうするつもりだ?)、当の守護精霊がいいのならいいのだろう。ウィルヘルムはいつもの調子で嘯いて、軽く、アーシャの手を握る手に力を込めた。
『愛している』も『結婚してくれ』も、言わなくていいなら、それに越したことはない。
なのに今、そのふたつの言葉を求められていないことが、どうにも座りが悪い気がしてしまう。言いたいだなんて、思っているはずがないのに。ウィルヘルムはちらりとアーシャを伺い、その顔が不自然なぐらいに白い──そう気づいたときには、儀式はもうはじまっていた。
「私の後に続いて、誓いの言葉を述べなさい。──『汝を私の妻とします』」
違和感がある。けれども、今更躊躇う理由はなかった。ウィルヘルムは口を開いた。
「汝を、私の妻とします」
間をおかずにシルヴァナは言った。
「『汝を私の夫とします』」
アーシャが、わずかに、唇を舐めるのが見えた──緊張しているように。
「……汝を、」
びり、と、手がしびれた。
「私の夫と──、ッ、……!!」
ぼう、と、二人の手を結んでいたリボンが青く燃え上がる。ばちん、と大きな音が鳴り、強い衝撃とともに手が弾かれるような感覚があって、ウィルヘルムは咄嗟に手をアーシャの手を離した。
シルヴァナが大きく目を見開く。その顔を見て、ウィルヘルムは、己がそれほど驚いていないことに気がついた。ウィルヘルムは軽く手を振った。
こうなる可能性は考えていた──というか、考えるなという方が無理だった。
ウィルヘルムは、今まで散々、アーシャの『魔法が効きづらい体質』とやらが魔法を拒絶するところを目撃してきた。それなのに、『結婚契約の』の魔法は問題なく効くだろうと思うのは、希望的観測が過ぎるというものだ。そして今、その可能性が現実となり、ウィルヘルムは不思議なぐらいに冷静だった。
こうなる可能性は考えていた。──こうなってもいいと、思っていたのだ。ウィルヘルムは口を開き、けれども、ウィルヘルムがそれを口にする前に、呆然とした声でシルヴァナが言った。
「……ヴィオレッタ……?」
「……え?」
信じられない、という響きとともに紡がれたよく知った名に、ウィルヘルムは驚いてシルヴァナを見上げた。どうして今、母の名が? ──と同時に、ウィルヘルムの懐から出てきたルミナが言う。
「久しぶりだね、シルヴァナ」
「──ルミナ!? どうして……え? じゃあ彼は、ヴィオレッタの息子なのか?」
「そうだよ、シルヴァナ。学院にいたころ以来だね。そして君が気付いたとおり……」
ルミナはシルヴァナからアーシャへと視線を移した。アーシャは何を思うのか、表情の抜け落ちた蒼白な顔で佇んでいる。ルミナは言った。
「君の魔法は今、彼女にかけられた『守護魔法』によって弾かれた」
ウィルヘルムは驚いてルミナを見下ろした。『守護魔法』? アーシャが『体質』だと言っていたそれが魔法だと?
「強すぎる魔法だ。あらゆる魔法的脅威から彼女を守っている──もはや『守護』を通り越して『拒絶』と言っていいほどに強力で、頑なな術。……あれをかけたのは、ヴィオレッタなんだね?」
「……ええ」
呆然としたまま、シルヴィアはどうにか頷いた。
「確かにそう……彼女が研究していた魔法式と同じものに見える。彼女は、守護魔法を、少ない魔力で恒常的に貼り続ける方法を研究していた。……その魔法の発展型に見える術式だ。でもなぜ? ヴィオレッタは、帝国に魔法の研究に行ったんじゃなかったのか?」
「それが、僕にもわからないんだ。ヴィオレッタは、ウィルヘルムを置いて帝国を出た。アーシャに彼女の術が掛かってるってことは、行き先はスヴェルダだった、ってことになりそうだけど……でも、どうして?」
二人の会話で、ウィルヘルムはやっと大まかな事情を察した。アーシャにかけられている魔法──体質などではない、れっきとした、強固な『守護魔法』によって、『結婚契約』の魔法は妨害された。その魔法をアーシャにかけたのがヴィオレッタなのだ、と二人は言っている。
そして、ルミナとシルヴァナが顔見知りということは、シルヴァナはヴィオレッタがスヴェルダの魔法学院に所属していた時の知り合い、あるいは友人とでもいったところなのだろう。ともあれ、残る問題は、ヴィオレッタがなぜこんなに強力な魔法をアーシャに施したか、ということなのだが──
「……あー、アーシャ?」
今はその『問題』は──というか、ヴィオレッタがそれをアーシャにかけていたということも含めて──ウィルヘルムにとって、さほど重要なことには思えなかった。
なるほど、『結婚契約』の魔法は失敗した。だからなんだ? ウィルヘルムはシルヴァナとルミナを無視し、固まったままのアーシャへ声を掛ける。
「その、……俺は、この可能性は、あると思ってた。君だって、思ってただろう。君の特異性が体質的なものであっても、そうでなくとも……強力な守護精霊の魔法さえ跳ね返してしまう可能性はあった。でも」
アーシャが、ウィルヘルムの声に反応し、どこか呆然としたままウィルヘルムを見上げる。その顔を見下ろし、ウィルヘルムは、言葉をつっかえさせながら言う。
「いいだろ、別に、ここで『結婚』できなくても」
それは、間違いなくウィルヘルムの本心だった。
「戻って、『結婚させてくれ』と君の親に頭を下げたっていいし、このまま駆け落ちを続けて、許しが下りるまで、君の親と根競べしたっていい。……なんなら、結婚なんてできなくたっていいんだ。僕は、君が行きたいところに行く。……君が、そうしたければだけど」
君が、と口にしながら、実際のところ『そうしたい』のは、間違いなくウィルヘルムのほうなのだった。このまま逃げたっていい。なんなら、ずっと許しが下りずとも、どこかの村で羊でも育てながら生きたっていい。ウィルヘルムは今、本当にそう思ってしまっているのだ。
それはつまり。
けれども、アーシャの耳に、ウィルヘルムの声は聞こえていないようだった。アーシャの唇が、小さく震える。
「……どうして」
「え?」
「どうして。ここの、……『緑の魔女の森』の契約は、すべてに勝るのではなかったのですか。どうして……!」
アーシャは明らかに取り乱していた。紫の瞳を零れ落ちそうに大きく開いて、かと思いきや突然ぐしゃりと顔を歪める。
「どうして。結婚できなければ、意味なんてないのに……!」
「……どういう意味だ?」
ウィルヘルムは眉を寄せた。正反対のことを言っている。
元々、『結婚』とそれに伴う持参金の獲得が必要だったのはウィルヘルムの方で、アーシャの側に、ことさらに『結婚』に拘る理由などないはずだった。眉を寄せるウィルヘルムを見上げて、譫言のようにアーシャが言う。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ウィルヘルム様……! こんなはずじゃなかったのに。私は、貴方にすべてをあげたかった……あげなければならなかったのに……!」
「落ち着け。何を言っている? 僕になにをくれるって?」
それはウィルヘルムの最初の目的、アーシャが持っている『持参金』のことだろうか。
「だから、それは……別に、いいんだ、もう。どうしてそんなに急ぐんだ? 今すぐ結婚できなくたっていいだろ」
ウィルヘルムはアーシャの手を取った。自分でも制御できずに言葉が溢れる。
「今は」
強く、手を握った。決して放したくなかったから。
「一緒にいるだけで、十分だろ。……違うのか?」
アーシャが、大きく目を見開く。ウィルヘルムはその顔で気が付いた。自分があまりに自分らしからぬことを言っている、ということにだ。そして同時に、それは、まぎれもないウィルヘルムの本心だった。
結婚契約が成立しなかったとき──ウィルヘルムは確かに、と思っていたのだ。結婚はもはや、ウィルヘルムにとっては重要な事柄ではなくなっていた。
ウィルヘルムは、居場所が欲しかった。誰に阿ることもなく、安心して眠れるところ。ウィルヘルムはついに観念した。
ウィルヘルムは今、その居場所が、彼女の隣であればいいと思っているのだ。ウィルヘルムの言葉を聞いて、アーシャは、たしかに、迷うような顔をした。アーシャはウィルヘルムを見上げ、泣きそうな顔で、首を振った。
「……だめ」
その瞬間、アーシャの周りで、まばゆい光が強くはじけた。
この光を知っている、と、ウィルヘルムは思った。この暖かな光。アーシャをずっと包んでいたもの。ウィルヘルムの記憶の底に確かに残っているもの。
これは。
「っ、あ、……」
そうして、──やがて、光が収束する。
「見ないで、ウィルヘルム様……!」
悲鳴にも似た、ひどく掠れ、ひび割れた声がウィルヘルムを呼ぶ。現れた姿に、ウィルヘルムは思わず息をのんだ。
そこにいるのはアーシャではなかった。
少なくとも、ウィルヘルムが見慣れたアーシャではない。
枯草のような髪、皺に覆われた肌、棒切れのような身体の女が──ただその紫水晶の瞳にだけ彼女の面影を宿し、呆然と、その場に座り込んでいた。




