17. 放蕩者は絆されている
旅の三日目は、二日目までとは打って変わった荒天だった。
地鳴りのような雨音が、馬車の中に響き渡っている。昼過ぎの出立の際『雨の気配がするが、本当に行くのか』とぼやいていた御者は、今頃『言わんこっちゃない』と嘆いているに違いない。報酬を弾まなければいけないな、とウィルヘルムは内心でため息を吐いた。
「……すごい音」
アーシャが、不思議そうな顔で窓の外を見る。大雨はもちろんどこでも降るが、大雨の中外に出たことなどないのだろう。雨粒が叩きつける窓を興味津々の体で見るアーシャは、外界を知らない子どものようだった。
「通り雨さ。すぐ過ぎる」
「そうなのですか?」
「多分ね」
そうであってくれ、という方が正しい。ウィルヘルムは、アーシャを安心させようと軽く笑った。
「……怖いなら、こっちに来るかい?」
「え?」
「手でも握っていれば、安心するだろ?」
とん、と己の隣を叩いて示すと、アーシャは驚いたように目を瞬いた。「それとも、僕がそっちに行くかい」と尋ねたその瞬間──がたん、と馬車が大きく揺れて、「きゃあ!」という悲鳴とともにアーシャの細い体が大きく跳ね上がる。そのまま倒れそうになるアーシャを慌てて抱き止め、ウィルヘルムは「何があった!」と御者に尋ねた。
「旦那、すまねえ!」
「どうした!?」
大雨で声が掻き消されるから、やりとりは怒鳴るような声になる。
「車輪が嵌まっちまった! 手を貸して貰えますかい!?」
「わかった! ……どうやら、泥濘に嵌まったらしい。少し待っていてくれ」
そもそもが田舎の悪路だ。こうなるのも必然だっただろう。ウィルヘルムはアーシャを車内に残し、雨の中に出た。
「いやはや、こんな雨になるとは……近くに村があるんで、今日はもうそこまでにした方がええんじゃないですか」
「そうだな」
という会話をする間にも、あっと言う間に濡鼠になる。御者は撥水魔法がかかった専用の上着を着用しているようだったが、それもほぼ役割を成していなかった。今日は、これ以上の旅は不可能だろう。予定の七割ほどは来たはずだから仕方がないか、とため息を吐きながら、車輪の具合を確認する。
「……破損したわけではないようだな。幸いだ。これなら、僕の魔法で持ち上げられる」
「そりゃよかった!」
御者は心底安堵したように言い、それから、愚痴るように「しかしなあ」と零した。
「この時期に、ここまで降るなんて珍しい。……セレスティア様が何か、怒ってらっしゃるんですかねえ」
「セレスティア?」
「天気の女神様ですわ。そういや、祭りの時期ですな。ちょうど降りて来なすってたか」
どこかで聞いた名前だな、と思い、アーシャと行った観劇で見たのだ、と思い出す。そのときは確か『愛の女神』とかいう触れ込みだったが。考えつつ、ウィルヘルムは口を開ければ流れ込んでくる雨水に苦労しながら呪文を紡いだ。中にいるアーシャが驚かないようにと僅かに馬車を浮かせて、泥濘から離れたところに置き直す。そうして少し押してみると、車輪は問題なく回るようだった。
「よし、動いた」
「いやあ、旦那が魔法使いで助かりました」
「いや、無理を言って出てもらったのはこちらだ。もう少し……村まで頼」
その瞬間。
「──ウィルヘルム様!!」
馬車の扉が勢いよく開き、中から、転がるようにアーシャが飛び出してくる。馬車の中で靴を脱いでいたからだろう、裸足の白い足先が泥の中に閃く──昨日といい今といい、中で大人しくしているということができないのかこのお姫様は? 『何をやってる』とウィルヘルムが怒鳴るより前に、アーシャと同じような叫び声が胸元から聞こえて、出てきたルミナが鋭く言った。
「ウィル!! 魔獣だ!!」
「──何だって!?」
魔獣とは、人間における魔法使い同様、保持する魔力が多いことにより、通常より力を増した獣のことだ。ただし、魔法使いほど割合は多くはなく、討伐隊により優先的に駆除されるため、街道で出会うことはほとんど無い存在である。しかもこの大雨だ、獣だって活動したくはないだろう。それなのに何故──と考える間もなく、唸り声とともに、何かが飛びかかってくる。
そして──ウィルヘルムが狼型の魔獣を視認すると同時に、魔獣とウィルヘルムとの間にアーシャが飛び込んできて、ウィルヘルムは「は!?」と大声を上げた。
──何を、やっている!?
「この、……馬鹿!!」
慌てて駆け寄ってその細い腕を掴み、背後に放り投げるようにして前後を入れ替える。そして魔法を紡ぐ──片手を掲げる。
「──雷鎚!」
雨で暗い視界を、眩しすぎる光が切り裂く。大雨の中、飛び掛かってきていた魔獣に落雷が直撃したのを確認してから、ウィルヘルムは背後のアーシャを怒鳴りつけた。
「馬車に戻ってろ!!」
「でも!」
「足手纏いだと言ってるんだ! ──ルミナ! その馬鹿を中に押し込んでおけ!!」
「ええ!? 僕!?」
役割が逆じゃない!? と文句を言いながらも、ルミナが風の魔法を起こしてアーシャを包み込み、丁寧に馬車に押し込むのを感じる。
これでひとまずは安心だ。思考と並行して第二第三の魔法を用意する──狼とは、群れで狩りをする生き物だ。一体倒せば安心とはいかない、と思うと同時、予想どおりに二方向から同時に飛び掛かられる。一匹は風で往なし、一匹は雷鎚で落とす。魔獣と通常の狼とが混ざった数匹で構成された群れの中から、魔力感知で確実に魔獣だけを狩り落としていく。
……いつの間にか、雨が止んでいる。
四匹目に雷鎚を落としたところで、残りが諦めて撤退していくのが見えて、ウィルヘルムはやっと肩の力を抜いた。
慣れない魔法を使いすぎた疲労で、一気に身体が重くなるのがわかる。服は水浸し、足元は泥だらけ、長い髪も雨を吸って異様に重い。満身創痍だ。どうにか怪我なく終えたことだけは幸いだったが。思いながら「終わったよ」と声をかけようと馬車の扉を開き──飛び出してきたアーシャに思い切り抱きつかれ、ウィルヘルムはそのまま泥の中に尻餅をついた。
「おい!?」
「っ、うえ、え、……ウィル、っ、……うええええええ……」
「いやなんなんだいきなり!?」
そのままウィルヘルムの首に縋りつき、言葉もないと言いたげにアーシャが泣きじゃくる。アーシャの無謀を叱りつけようと思っていたウィルヘルムは、完全に出鼻を挫かれた形になって溜息を吐いた。
「……あのなあ……どうした? 怖かったのか? ちゃんと護衛にルミナをつけてやっただろ? あんな見た目だけどな、あいつは結構な守護精霊で……」
「ちっ、……ぅえ、っ、……違います!!」
「じゃあなんなんだよ……」
態度を繕うだけの余裕がなくて、うんざりした調子を隠さずにウィルヘルムは言う。アーシャは何度もしゃくりあげ、その合間になんとか捻り出したふうに言った。
「あな、っ、貴方が、……心配で、……」
無事で良かった、と、心の底から思っている声でアーシャは言った。
アーシャは、ウィルヘルムと魔獣との間に、欠片の躊躇いもなくその身を投げ出した。……度が過ぎている、とウィルヘルムは思った。たとえアーシャが──なんの裏も事情もなく──ただ純粋にウィルヘルムに恋慕しているのだとしたら、その行動は、明らかに通常の姫君のものを逸脱していた。
けれども、同時に、こうも思った。
恋より他に、一体どんな事情があれば、この献身に説明がつく?
「……調子が狂うな……」
つまりは、盲目的な『恋』こそが、最も納得のいく理由だとでもいうのだろうか? 思いながら、ウィルヘルムは、仕方なく、アーシャの背中に腕を回した。
細い体。細い腕。──ウィルヘルムが今まで抱いてきた令嬢たちと同じだ。
それなのに、どうしてこの腕が、この体が、他の誰のものより温かいような気がするのだろう。
もう記憶も朧気な母が、ウィルヘルムをこうして抱きしめてくれた日が、そういえば確かにあったのだと──そんなことを思い出してしまうのは、一体、どうしてなのだろう?




