16. 王女様、襲撃者を退ける
風が吹く。
馬車の中で解いたままだったアーシャのピンク・ブロンドが陽の光を浴びてきらきら煌めき、ウィルヘルムは刹那目を灼かれた。それから、慌てて大声で叫ぶ。
「こら、出てくるな馬鹿!!」
「! ……飛んで火に入る夏の虫、ですわ!」
イザベラもまた、夢から覚めたような顔をして、殆ど反射のように片手を挙げた。まずい、とウィルヘルムが魔法を紡ぐより前に、アーシャに向かって魔法が放たれる──光の網目のようなものが広がってアーシャを包み込もうとする。おそらくは、動きを封じる類の魔法だろう。アーシャは驚いたように目を見開き、ウィルヘルムが止める間もなく光はアーシャに直撃し──ばちん、と大きな音が鳴り響いて、その捕縛の魔法が弾き飛ばされるのがわかった。
「……ッ!?」
「ご、ごめんなさい、イザベラ様!! ──あの、ウィルヘルム様!」
いや、『効きにくい』体質にしたって限度があるのではないか。
というか今のは、『効かない』というより、『跳ね除けた』に近い、もっと積極的な現象だったような。考えるウィルヘルムに、アーシャが言う。
「私、イザベラ様とお話がしたいのです。馬車の中で、ふたりにしていただいても構いませんか?」
「……はあ!?」
「今のとおり、私に彼女の魔法は効きません。不安でしたら、ルミナさんを近くにおいていただいても構いません。ただ、その……ウィルヘルム様の居ないところで、女同士の話がしたいのですわ!!」
「いやいやいや」
それで喧嘩にならなかった例を見たことがない、とウィルヘルムは思った。一人の男を間に置いて、キャットファイトにならないと思うほうが無理である。そもそもウィルヘルムは今イザベラを再び口説き落とそうとしていたわけで、それを聞いたイザベラが、アーシャに対して何を言い出すかもわからない。不安しかない。ウィルヘルムは必死に首を振った。
「馬鹿なことを言うんじゃない! 馬車の中で暴れて、壊れでもしたらどうする気だ? ……大丈夫、彼女はわかってくれた。そうだろ?」
どうにか帰ってもらわなければならない──ウィルヘルムの必死の目配せは、けれども、イザベラには残念ながら通じなかった。イザベラの視線はもう、己の恋路を邪魔する恋敵にのみ注がれている。
「わかりましたわ。……女同士のお話、受けて立ちます!」
イザベラの答えに、頭を抱える。どうしたらいい。と、胸ポケットからひょこりと顔を出したルミナが、「やらせてみたら?」とごく軽く言った。
「は!? お前な、今までその……見てきただろ散々。ここで馬車を失ったら旅どころじゃないぞ!?」
「大丈夫だって多分」
「楽観的過ぎる。どこに根拠があるんだ?」
「それは、ただの勘だけど」
ルミナはぱたぱたと翼を動かし、浮かび上がって笑った。
「話し合いで済むなら、そのほうがいいじゃない。僕が馬車を守るし……イザベラのほうは、流石に彼女の守護精霊が止めるだろ。王女様を傷つけたなんてことになったら、流石に彼女の立場が危うい……って、彼もわかっているだろうからね」
それはそうだが、今イザベラの好き勝手を許してしまっている彼女の守護精霊が、どれだけあてになるものか。けれども鷲のほうもルミナに同意するように頷いて、ルミナは「ね」と軽く笑った。
「ウィルは食べ物とかを調達してきて。……多分、そんなにはかからないように思うから」
……まさかというべきか、ルミナの予想したとおり、ふたりの会話は、ウィルヘルムが補給を行っている間に済んだようだった。
昼食用のパンの包みを抱えたウィルヘルムの前で、イザベラが馬車から降りてくる。その顔には傷一つなく、ただなにか、ひどく心乱れたような表情で唇を引き結んでいる。罪悪感? 違う、これは……と考えるウィルヘルムの姿を認めて、イザベラは一度目を瞬いた。
「……ウィルヘルム様」
それは──そう、『憐憫』とか『痛ましさ』とか、そう表現されるべき表情だ。アーシャがどんな話をすればその表情が引き出されるのか少しもわからず、ウィルヘルムはただ訝しい思いのままに眉を寄せる。そんなウィルヘルムをまじまじと見て、「ウィルヘルム様は、……」となにか一度言いかけて、結局イザベラは口を閉ざした。
そうして、少しの沈黙が落ちる。イザベラはどうにか考えをまとめたらしく、ごく小さな声で言った。
「……学院へ、戻ります。なにか聞かれても、誰にも言いませんわ」
「それは……勿論、そうして貰えれば助かるが」
「ウィルヘルム様」
イザベラが、真っ直ぐにウィルヘルムの顔を見る。
「……私も、馬鹿ではありませんのよ。でも」
僅かな痛みの滲む顔で微笑む。
「お慕いしていたのは、本当ですわ。ですから、……貴方が、幸せでありますように」
「あ、ああ、……」
何がどうしてこうなっている? 何もわからないままに、ウィルヘルムは、どうしてか言わねばならない気持ちになって口を開いた。
「イザベラ」
「はい」
「…………悪かった」
イザベラは、ほんの少しだけ目を見開いて──それから、少し、ではなく、ひどく傷ついた顔で笑った。余計なことを言ったな、と思ったけれど、口に出した言葉を回収することは出来ない。珍しくも次の言葉を見失うウィルヘルムに、ふと、イザベラが近づいてくる。殴られるかもしれない、と思い、殴られてやるべきだ、と思う。そうして立ち尽くしたままでいるウィルヘルムを、けれどもイザベラは殴らなかった。
代わりに言った。恐らくは、アーシャに聞こえないように、ごく小さな囁き声で。
「ウィルヘルム様。もし、貴方に、ご自覚があるのなら……」
何のだ、と問うのは愚かだった。
ウィルヘルムはイザベラの言葉に、『アーシャとイザベラは同じだ』という言葉に、咄嗟に返答できなかった。出来なかったことが全てだった。イザベラは言った。
「王女殿下から、どうか、目を離されませんように。──あの方を、失いたくないのなら」
どういう意味だ、と問うだけの間は与えられなかった。イザベラが踵を返し、艷やかな黒髪を靡かせて立ち去っていく。
ウィルヘルムに許されたのは、ただ、その背を見送ることだけだった。
温め直してもらったはずのパンは、イザベラとの会話の間に少し冷めてしまっていた。
「……どんな魔法を使ったんだ?」
ウィルヘルムは相変わらずそれをあっという間に食べ終えて、アーシャが食べるのをぼんやり眺めながら尋ねた。相変わらず栗鼠のように小さな口だが、食べるのは少しずつ速くなっているような気がする。アーシャは軽く小首を傾げた。
「魔法、ですか?」
「イザベラを帰らせた魔法だよ」
イザベラの最後の言葉が、まだ、頭の中をぐるぐると回っているようだった。アーシャはイザベラに何を言ったんだ。アーシャに尋ねてから、そうだ、と思い出して胸元を見る。
「ルミナ、聞いてたか?」
「盗み聞きなんて趣味の悪い真似はしないよ」
ルミナはウィルヘルムが分け与えたパンを齧りながら答えた。
「何かあったらすぐ動けるように、馬車の傍には居たけどね。中の会話は聞いてない」
「お前な……」
アーシャの護衛として役割を果たしたと言えるのかそれは。ウィルヘルムは頭を抱え、それから、改めてアーシャへと視線を投げる。アーシャは少し困ったような顔をした。
「私は……お話をさせていただいただけですわ」
「僕の過去とかを?」
ウィルヘルムの情状を酌量しようとするなら、他に話すべき内容もないだろう。ただそれで同情を稼いだところで、彼女がウィルヘルムを諦める──アーシャに譲る理由にはならないはずなのだが。ウィルヘルムが疑惑の眼差しを向けると、アーシャはごく短く答えた。
「それも含めて、色々と」
「……色々、ねえ」
「詳しくは、内緒です。……さあ、ウィルヘルム様」
アーシャは笑った。
いつもの、無邪気な──ひとつの影もなさそうな、子どもみたいな顔で。
「行きましょう。今日はいい天気ですし、予定より少し先まで行けるかもしれません」
本当は。
本当は、ウィルヘルムは、その『内緒』を、看過してはいけなかった。『何か』があるのは明らかだったらだ。けれどもウィルヘルムの口はいつものように回らず、結局、何も問うことができなかった。
自覚がない、わけがなかった。
けれどもウィルヘルムはまだ、気づいていないことにしていたかったのだ。
アーシャの笑顔が、あまりにも眩しく見えることに。自分があのとき──イザベラに『自分とアーシャとで何が違うのか』と聞かれたとき、確かに『違う』と思ってしまったことに──まだ、気が付かないふりを、していたかった。




