11. 放蕩者は(普通の)マッサージも上手い
旅路は、不気味なほどに順調だった。
天候にも恵まれ、のどかな田舎道を可能な限りの速度で馬車は駆け抜けた。それでも、夕暮れより前にその日泊まる予定だった街についたときに、アーシャは『先を急ごう』とは言わなかった。
適当な宿屋をとり──当然一部屋だ──ベッドに座ると、アーシャがほっと息を吐く音が聞こえる。
「疲れてるところ申し訳ないけど、眠るのは食事をしてからだよ。食べないと、身体が持たないからね」
「……馬車って、こんなに揺れるんですのね」
「道が悪いし、急がせているから、どうしてもね」
言いながら、ウィルヘルムは部屋の脇に置かれた盥と、湯の入った水差しを手に取った。座るアーシャの足元へ運び、水差しの湯を盥に注ぎ込む。ふわ、と温かな湯気が立ち上り、アーシャが不思議そうに首を傾げた。
「あの、これは……?」
「足を拭くんだ。入浴の準備は食後だろうから、とりあえず」
編み上げのブーツを履いたままのアーシャの足を手に取って、ウィルヘルムは軽く眉を寄せた。これでは、座り通しでは堪えただろう。手早く紐を緩めて靴を脱がせると、アーシャが驚いたように息を呑む。
「あ、あの……!?」
驚きすぎて口が回っていないが、言いたいことはよくわかった。淑女にとって、他人に──ましてや男に足を見せるなど、とんでもない行為であるからだ。けれどもウィルヘルムはその驚きを無視して、同様に備え付けられていた布を湯に浸して絞り、再びアーシャの足を手にとった。そうしてからはじめてちらりとアーシャを見上げる。
アーシャの顔が、羞恥で真っ赤に染まっている。その様に、普段の子どもめいた幼さではない、年相応の女性めいた艶やかさを感じて、ウィルヘルムは僅かにどきりとした──婀娜めいた女なんてそれこそ見慣れているはずなのに? ……気を取り直して、にこりと笑う。
「王子を跪かせる気分はどうだい?」
ウィルヘルムにとって『跪く』行為は日常茶飯事だったので、『王子を』というほどの希少価値は、実際には全く存在しない。けれどもそんなことはおくびにも出さず、ウィルヘルムはアーシャの小さな足にそっと温かな布を当てた。
そのまましばらく優しく包んでいると、強張っていた足が徐々にほぐれて、力が抜けていくのがわかる。ウィルヘルムがそのままそっと足を拭ってやると、やがて、アーシャは小さく息を吐き、ごく小さな声で答えた。
「……悪くは、ありませんわ……」
「なら良かった。……まだ固くなってるし、冷え切ってるな。少し触っても?」
「え!?」
指の間まで丁寧に拭った後、ウィルヘルムは濡れた布を脇に置き、己の手を湯で温める。そうしてそっとアーシャのふくらはぎに触れ、固まった筋肉を解すように、ゆっくりと指を動かしていく。アーシャが再び息を飲み、流石に足を引っ込めようと動かすが、ウィルヘルムはそれを許さない──抵抗はほんの僅かの間で、手の中に委ねられた重みに、ウィルヘルムはごく小さく笑った。
「痛かったら言ってくれ」
「いえ、……大丈夫です」
「なら良かった」
そっと指先を動かすと、はあ、と、アーシャが柔らかな息を零す。羞恥よりも心地よさが──あるいは、『男性に触れられている』という状況へのときめきが勝ったのだろう。
それでなくとも、拘束衣めいたドレスとヒールの高い靴とに苦しめられているご婦人方は、マッサージされるのが大好きだ。彼女らによって鍛えられたウィルヘルムの腕はなかなかもので、──そして、その主目的は、当然単なる『マッサージ』ではない。が、今日は『そちらの』手管は不要だろう。『ただの』マッサージを続けながら、ウィルヘルムは「さて」と口を開いた。
「とりあえず今日は逃げ切ったようだが……出てくるとき、何か残してきたのかい?」
「……書き置きだけ。『数日で戻ります』と」
「なるほど」
ウィルヘルムとの交際を反対されてすぐのそれ、となれば、目的地は知られていると考えておいたほうがいいだろう。『緑の魔女の森』までのルートはいくつかあり、アーシャが選択したのは最も距離が短いものだったが、こちらは馬車、向こうは馬の機動力を考えれば、早晩追いつかれる可能性が高い。考えに沈みながらマッサージを続けるウィルヘルムに、アーシャは小さな声で呟いた。
「貴方は、……慣れていらっしゃるのね」
「え?」
「女の脚に」
「……そうかな?」
「ええ。だって……アルデンは、私が少し走って脚が見えただけで、『はしたない』と言って怒るのに」
それは、ウィルヘルムの女慣れを咎める口調ではなかった。アーシャはただ不思議そうだった。それがアーシャのあまりの純粋さによるものなのか、それとも、別の理由によるものなのか。アーシャが『アルデン』と呼ぶ声が親密さに満ちているものだから、ウィルヘルムは内心で後者への疑惑を深めた。もしそうであるなら、アーシャがウィルヘルムの本性を気にしないのも納得できる。考える間にも、アーシャが、今度は沈んだ声音で言う。
「……アルデンは、きっと、怒っているでしょうね」
「うん? そりゃあそうだろう」
アルデンは、王家の護衛騎士に相応しく、いかにも堅物で融通の利かないタイプに見えた。と言っても、たとえ『利く』タイプであったところで、『王女が駆け落ち』という現状を怒るなというのは流石に無理だろうが。ウィルヘルムは殊更に軽い調子で笑った。
「だから君、万が一追いつかれたら、僕の命乞いをしてくれよ? その場で切り捨てられるのは御免だからね」
「まあ! アルデンは、そんなことはしませんわ」
「……それは……どうかな……」
ウィルヘルムの帝国でのあれこれを調べたと言うなら、その立場の弱さもしっかり伝わっていると見るべきだ。国から追い出された王子もどきの一人や二人、切り捨てても特に問題にはならない、と思われている可能性も十分にある。割と本気で命の危機を感じるウィルヘルムに、アーシャは「大丈夫です」と繰り返した。
「私のわがままだと、誰もがそうわかっています。貴方は、巻き込まれただけなのだと」
奇妙な言い回しだと、直感的に思った。『巻き込まれた』? 表面上は何も気づかぬふりで、ウィルヘルムは笑顔のまま言う。
「ついてきたのは僕の意思だよ。そこは疑わなくていい。……さて、少しは楽になったかな」
「……殿方に足を、だなんて、と最初は驚きましたけど」
ウィルヘルムが仕上げに別の布で足を拭うと、アーシャは小さな爪先を軽く動かした。血色の戻った小さな爪まで可愛らしいのが、本当に、作り物めいて見えるなと思う。そうしてアーシャはぴょんと立ち上がり、子どもみたいに無邪気に笑った。
「今は、生き返った心地ですわ!」
「なら良かった」
可愛いな、と素直に思った。この程度の手管に全力で喜べる経験の無さが。盥やら布やらを片付けながら言う。
「明日からは、馬車の中では靴を脱いでおくといいよ。君の言うとおり、僕は君の護衛騎士とは違う……君の綺麗な脚を見ても、やましい気持ちを抱いたりはしないからね」




