9. 放蕩者と駆け落ち
……馬車に乗っている。
差し込んでくる朝日が眩しく、ウィルヘルムは窓のカーテンを少し乱暴に閉めた。朝は苦手だ。ほとんど憎んでいると言っていい。けれどもウィルヘルムは、二日酔いで頭痛のする頭を抱え、早朝から狭い馬車に押し込められているのだった。
狭い。──そのうえ、重い。
ウィルヘルムの左肩には、今、女の頭が乗っていた。珍しい話ではない。腕枕の作法なら心得ている、が、今はもちろん腕枕ではなく、ふたりは馬車の座席に並んで座って、女はウィルヘルムの肩を枕にして、穏やかに寝息を立てているのだった。
ふわりと、甘ったるい匂いが鼻先をかすめる。このストロベリー・ブロンドは、本当に砂糖菓子でできてでもいるのだろうか? そんな現実逃避をしたくなるぐらいに、現状は、ウィルヘルムにとって、理解に苦しむものだった。
今、ウィルヘルムは、アーシャと二人で馬車に乗っている。
目的地は、『緑の魔女の森』。
『すべての愛を祝福する森』とも呼ばれるそこに向かうため、二人は今、馬車を走らせているのだった。
事の起こりは、恐らく、ウィルヘルムの所業がスヴェルダ王家に露見したことだった。
ある霧の深い朝、ノックの音に叩き起こされたウィルヘルムが扉を開けると、どうやって寮に入り込んだのか、はじめて出会ったときと同じ侍女の変装をしたアーシャが立っていて、ウィルヘルムは一気に目が覚めた。
……何が、起きている?
わからないまま、人に見られたら大事だと慌てて部屋の中に引き入れ、お互いの目覚めのために紅茶を一杯淹れて──アーシャが、話を切り出した。
「お姉様たちが言いますの。貴方のことを調べたと。貴方はひどい女誑しで、ほとんど詐欺師のようなお方なのだと……」
合っている。
計画失敗か──と、他人事のようにウィルヘルムは思った。元より無理のある計画ではあった。国を跨いだところで、噂から真に逃れることなど出来はしない。それが事実であれば尚更だ。スヴェルダ王家にすべてが知れたとなれば、当然、スヴェルダの社交界にも、すぐさま話が広がるだろう。ウィルヘルムの所業のすべてを知って、ウィルヘルムを婿にしたいと思う女などいるはずがない。
人は、過去の自分からは逃れられない。それはいい。
ともあれこの場をどうするべきか。ウィルヘルムは『身に覚えがない』みたいな当惑した顔を作りながら思案した。
知らないふりで、あるいは『誤解なのだ』で押し通して、アーシャの同情を買って計画を続けるか? それともすべてを諦めて、元のレオンハルトの計画のとおりに、時期が来たら国へと戻るか?
二つの選択肢を冷静に天秤にかけるウィルヘルムの前で、「でも!」と、アーシャは力強く言った。
……でも?
「それでも──私は、貴方と結婚したいのです。……ですから」
ウィルヘルムは、そのときばかりは表情を取り繕うことを忘れ、ヘイゼルの瞳を軽く見開いた。
「駆け落ちしましょう!」
馬鹿げた話だ、と。
即座に笑い飛ばさなかったのは、アーシャの紫の瞳に宿る決意が硬いことが見て取れたからかもしれないし、単に方針を決めるのを先延ばしにしたかったからかもしれない。ともかく、演技の仮面を外すタイミングを完全に逃し、ウィルヘルムはただ驚いてアーシャを見つめた。アーシャはそんなウィルヘルムを見てなぜか得意げに笑って、意気揚々と自分の計画を話しはじめた。
……と言っても、それはひどく単純な計画だった。
曰く、スヴェルダ王国の北部には、『緑の魔女の森』と呼ばれる森がある。
ここヴェルミから馬車で三、四日かかるというその森は、すべてのカップルの『結婚』を成就させる森であるという。
『緑の魔女』が代々受け継ぐ守護精霊・フィオーレの力によって結ばれた『結婚契約』は、他のすべての契約に勝る。故にそこは、事情によって結婚を許されない二人が最後に向かう場所、『駆け落ち結婚』のための場所なのだ。そう、夢見るようにアーシャは語った。
そして言ったのだ。
「そこで行われる『契約』は、あらゆる法に、そしてすべての魔法に勝ります。『結婚契約』さえしてしまえば、お父様もお姉様も手が出せません。──ねえ、ウィルヘルム様」
断られる可能性なんて、欠片も考えていないみたいなきらきらした瞳で。
「行きましょう。今から!」
──ガタン、と、大きく馬車が揺れる。
「……どうするの? 本気で『緑の魔女の森』に行くの?」
胸ポケットから顔を出したルミナが、アーシャを起こさないようにという配慮だろう、ごく小さな声で尋ねる。ウィルヘルムは「さてね」と眉を上げた。
「悪い話じゃない……寧ろ、願ったりかなったりと言えるんじゃないか? アーシャは、お前の好みにも合ってるんだろ」
「いやだから、僕の好みはどうでもいいんだって! 違うって何度も言ってるし! ただ、なんか気になる気配をしてるってだけで……」
「『知っている気がする』だったか? 教えてやろうか。『あったことがある気がする』も『気になる』も、ただの口説き文句だ。気に入ってるってことなんだよ、つまり」
「だから違うんだってえ……いや、別に、嫌いなわけじゃないけどさあ……」
ルミナはもどかしげにぱたぱたと翼を動かして、ウィルヘルムはそれを鼻で笑った。今までウィルヘルムがどんな女に近づいても嫌な顔しかしなかったルミナのはじめての態度だ。愉快に思うなという方が難しい。
とはいえ、そんな理由でアーシャの話に乗ったわけではもちろん無かった。ルミナを一頻りからかってから、話を戻す。
「『緑の魔女の森』については、俺も、聞いたことがある。あらゆる取り決めを無効にし、守護精霊の固有魔法で『結婚』を成立させるんだとか」
そもそも『結婚』は魔法的契約の一種だが、『緑の魔女の森』の『結婚契約』は、更に強い効力を持つのだろう。守護精霊の中には、その精霊にしか使えない『固有魔法』を持つものがいる。フィオーレというのは、おそらくはその類の精霊なのだと思われた。
「もしその話が本当なら……その魔法で『結婚』してしまえば、アーシャの言うとおり、国王であれ誰であれ、俺達の結婚を認めざるを得なくなる。そしたらまあ、王女の暮らしを維持するために、持参金はたっぷり弾んでくれるだろうし、俺も一生安泰だ。当初の計画通りだろ? 乗らない理由がない」
「それは……そうかもしれないけど。でも、そんなに上手く行くかなあ?」
ルミナはちらりと窓の方を見た。カーテンで覆われた向こう側に、なにか、恐ろしいものが迫ってきているみたいに。
「すぐに、追手がかかる──あの怖い顔の護衛騎士あたりが、血相変えて追いかけてくるんじゃないの?」
「まあ、もちろん、その可能性もある」
「だよね。なら……あ、そうだ! 僕が乗せていこうか? 僕の翼ならひとっ飛び……とはいかなくても、一日もあれば着くと思うけど」
守護精霊は、一般には、手のひらサイズの人形のような姿をしている。それは、彼らの存在が、契約者の魔力に依存するからだ。
けれども稀に、成獣サイズになれる守護精霊が存在する。例えば、王族を守護するものがそうだ。ごく一部の、特に力の強い魔法使いの一族にのみ現れる、例外的存在と言える。
ルミナはその、特別珍しい守護精霊だった。そしてその提案には理があった──けれども、ウィルヘルムは首を振った。
「いや、その必要はないよ。少なくとも、今はまだ」
「……なんで?」
「アーシャの真意が知りたい」
ウィルヘルムは、ふっと声音を低くした。「え?」とルミナが目を瞬く。
「真意って……結婚したいんでしょ、ウィルヘルムと。今までの、たくさんのお嬢さんたちと同じにさ」
「そうだな。それはそうだ」
早朝に一人でやって来たところから考えれば、彼女が本気で『緑の魔女の森』を目指そうとしていることだけは間違いない。ウィルヘルムの同意を受けて、ルミナは続ける。
「すごい勢いだったし、『緑の魔女の森』に行くことも、最初から決めていたみたいだった。旅装も整えて、地図まで持ってさ。結婚の話なんて、まだしたこともなかったのに」
「そう。そこだよ」
「?」
「性急すぎるんだ。普通、『お前の恋人は詐欺師だ』って言われて、交際に反対されて、すぐさま『じゃあ駆け落ちします』ってなるか? ましてや、一国の王女がだぞ」
ウィルヘルムの言葉に、ルミナはぱちりと目を瞬いた。
「……なるんじゃない? この子なら」
「……それなんだよなあ……」
なるかもしれない。その可能性ももちろんある。
アーシャは、ウィルヘルムが最初に抱いた印象ほどに『頭が軽』くはない──けれども、その純粋さと行動力は、やはり普通の令嬢に比すれば抜きん出ている。どうしたって物知らずなのだ。ウィルヘルムは軽く頭を振った。
「いや、それならそれでいいんだよ。でもまあ、普通に考えれば、何か裏があってもおかしくないだろ。例えば」
「例えば?」
「例えば? ……例えば、そうだな。なにか──」
思えば、アーシャには、怪しい点がいくつかあった。
適齢期である彼女に婚約者が『候補』すら存在しないこと。そして彼女が、皆に好かれているようでいて、この年頃の少女なら当然持っていてもおかしくない、『親友』──あるいは、『友人』と呼べるような相手すらいなそうに見えること。勿論それは、彼女が王女であるからというだけの理由かもしれなかったが、大勢の女たちを相手にしていたウィルヘルムの勘は、アーシャがただ見た目通りの可愛らしく明るい王女でない可能性があると告げていた。ウィルヘルムは端的に言った。
「なにか、余所者の俺たちが知らない、結婚を急ぐような『事情』があるとか?」
「……ええ!?」
ルミナは、眠るアーシャをまじまじと見つめた。
「そんなふうには見えないけどなあ……。いやでもまあ、『そんなふうには見えない』のはウィルも同じか。この子が、ウィルぐらいの詐欺師の可能性もあるってこと? やだなあ」
「人を勝手に引き合いに出すなよ」
ウィルヘルムは思わず顔を顰めた。ここまで純真無垢に見えるアーシャが、もしウィルヘルム並みの裏の顔を隠していたとするなら、それはもう詐欺師というレベルを超えている。ウィルヘルムは、そこまでの可能性を考えているわけではないのだ。ただ、なにか、『隠し事があるのかもしれない』と思っているというだけで。
──あるいは、その『隠し事』は……
「……例えば。そう、その『追手』こそ、彼女の待ち人かも知れないし」
「え?」
「いや、こっちの話。……だからまあ、三日の旅路は、ちょうどいい様子見の期間にもなるってことさ」
「なるほどねえ」
そういうことならそれでいいよ、とルミナは頷いて、ウィルヘルムの胸ポケットの中に戻った。馬車の揺れの中、ウィルヘルムもまた目を閉じる。
理屈はある。けれども、ウィルヘルムの行動があまりにもどっちつかずであるという指摘もまた、間違いではなかった。簡単に言えば、ウィルヘルムは結論を先送りしたのだ。結婚したいのかしたくないのか、捕まりたいのか捕まりたくないのか。ウィルヘルムは、あるいは今はまだ、何をも決めたくないのかもしれなかった。
思えば、ずっと、流されるように生きてきた。
母に捨てられ、ティーザ夫人に、レオンハルトにと、自分では何も選べないままに、拾われる先によって運命が変わる。それが、ウィルヘルムの人生だった。
朝早く叩き起こされたせいだろうか、左側が人肌で温められているせいだろうか、とにかく無性に眠かった。
駆け落ちしましょう、とアーシャは言った。
もしかしたら──もしかしたら、その奇妙に力強い声を聞いて、ウィルヘルムは彼女に、今ウィルヘルムの左側を温めている幼い王女に、ひとかけらの希望を見たのかもしれない。
今度は、この姫様に流されてみてもいい。
そう考えるぐらいには、ウィルヘルムは、アーシャに興味を抱いているのかもしれなかった。




