三口半②
告白のその後、その人は何か焦っているようだったから、適当に「行っても大丈夫ですよ」とだけ伝え、歩道橋を走って下る彼女を半ば放心状態で見送った。
何が起こったのかは自分でもわからなかった。ただ幸せだという単純な感情だけが、旨の中に溢れてやまない。
けれど、いつまでも歩道橋の上にいるわけにもいかなかったので、僕はすぐ家に帰ることにした。
歩道橋を下り、木のぼうぼうと生えている場所へ足を進める。
本当は家になんて帰りたくなかった。学校には気の合う友達が何人もいるし、教育の質だって決して低くはない。
今からでも走れば一限に間に合うかもしれない。そう思って学校への道に目をやるけれど、僕は今日も不安を振り切れずに視線を戻す。
道の途中はいつものように草木が生えっぱなしで、碌に歩けるものではない。僕しか通る人がいないから、整備なんてのもされていない。
獣道と同じか、それ以上に進みにくい小道をやっと抜けると、見慣れた景色が広がっている。
蝶々やユスリカが光を反射して飛ぶ、まさしく自然の景色───その真ん中にたたずむ、真っ黒な大きい洋館。
僕は錆びて機能しない門を開け、外と同じように広がる自然豊かな中庭に目をやりながら進む。中庭からはいくつかの小屋にも繋がっているけれど、僕は真っ先に本館の扉へ手をかける。この扉もまた、蔦が絡まり放題で開けるのに苦労する。
ぎぃと音を立てて扉は開き、隙間から熱風が入ってくる。古い建物だから、ここには冷房などはついていない。
電気照明もないから、室内は間接照明の薄明かりに照らされるだけで不気味な雰囲気を持っていた。
館内の大階段を上ると、ひときわ目立つ見た目の赤い扉がある。その扉だけはやけに傷だらけで、埃もかぶっていない。最近もよく人の出入りがある扉である証拠だ。
ノックを4回、返事が聞こえなかったらまた4回。我が家の数少ないルールを守り、いつものように僕は計7回ノックをした。
すると、中からごそごそとした物音のあとに、こちらへ近づいてくる足音が聞こえる。これもまたいつものことで、その音は緩慢で重い。
「…とおちゃん、おかえり」と、ドア越しに母親の声が聞こえる。入川とおる、僕の名前を母さんは呼んだ。
「ただいま、今日はまだ何も来ていないよ」
「…そう」
そこで会話は終わり、彼女はまた足音を立て、部屋の奥へ行く。その部屋は寝室で、母さんのいる場所と言えばそこだった。
母さんとはもう数年間顔を合わせていない。たまに通販でレトルト食品が大量に届くから、それを扉の前に置く。僕たちはもう、そういう関係でしかなくなっていた。
本人はそれでいいと思っているんだろう。祖父が残したこの屋敷と莫大な財産は、十数人くらいが人生を遊んで過ごせるくらいの代物だったから、もう働く必要もない。
親戚はもうほぼいない。もともと子どもの少ない家系で、父さんも祖父よりもずっと早くに亡くなったから、実質的に遺産は全て彼女のものになった。
その、早くに亡くなった父さんは昔、母さんを「気高く、美しい人」と表現していた。今はもうその見る影もなくなっていたけれど、僕の記憶の片隅にはおぼろげながらも美しい母さんの姿がある。
力というのは、ひょっとしたら無い方がいいものなのかも知れない。
僕たちには力があった。愚かしい遺産は、「普通教育を子どもに受けさせない」───なんて状況さえ、私立の学校に黙認させている。そんな力なら無い方がまだよかった。
ずっと前から計画を立てている。半年後、小学校を形式上だけでも卒業したら、寮のある中学に入りたい。それさえできたら、きっと僕の人生はもう少しまともになってくれる。
母さんは僕がいなくなったら、もう死ぬしかなくなるかもしれない。だから計画を話したら反対されるだろうけど、常識の抜け落ちた母さんは僕がどこに行っても気付かず静かに死ぬはずだ。今の堕落の一途よりかは、むしろそっちのほうが救いがある───そういう風に、僕は理想を願う。
ただその計画の前に、ひとつだけ思い残すことがあった。
高校生の女性。僕より二回りくらい年の離れた、あのお姉さん。
あの人に対してだけは、僕は少しだけ純粋で馬鹿な少年でいたい。