三口半①
八月、夏の真っ盛り。朝の早い時間、歩道橋の上をその女性は歩いていた。
たぶん、その女性は僕のことなど眼中にない。けれど、僕の頭の中は彼女でいっぱいだった。
暑さに頭をやられて、僕は冷静な考えができなくなっているのかもしれない。本当はいけないと分かっているのに、何故かその行動に踏み切ってしまう。
僕はその女性の前に立った。身長が10cmくらい上の彼女の前に立つのは、本当に勇気がいることだ。
彼女の顔を見上げると、きょとんとした顔でこっちを見ていた。
瞬間、汗が噴き出る。何か言葉を発さなくてはならない。真摯な言葉を、ただ彼女に捧げなくてはならないと思った。
冗長な言葉はいらない。ただ伝えられたなら、それでいい。もとより成功するだなんて思っていないんだから、それでいいんだ。
息をつかず、彼女の目をしっかりと見つめる。
「ぼくの、およめさんになってください!」
その言葉は随分と幼稚で、自分勝手なものだと自分でも思った。あとから取り繕うみたいな適当な言葉も付け足したけど、自分でも何を言ったかわからない。
女性の顔はすぐに汗で濡れてきて、動揺を隠せていない。けれど彼女は顔色を変えず、「ちょっと待っててね」と言った。それは下手な誤魔化しで、そうわかると途端に胸が苦しくなってきた。
僕の目的は彼女と話し、自分の思いを伝えること。それができたら、他はどうなってもよかった。どうなってもいいと思っていた───はず、なのに。
僕は自分の愚かさに、やっと気づいた。自分自身に格好つけるみたいに諦観していた、そのばかばかしさが身を覆った。
結局のところ、僕は彼女を諦められないんだ。彼女に惹かれてしまったことが間違いと言うなら、それもそうだったのかもしれない。
気がつくと、目から大粒の涙がぽたりぽたりと流れ出ていた。わけもわからず、泣き叫びたい気分になった。
そんな僕の様子を見た彼女は、また余計に慌てたみたいだった。僕は彼女に迷惑をかけることしかできないのだと自覚して、また涙がこぼれる。
無意識の内に僕は「ごめんなさい」と言っていた。いつもみたいに取り繕うばかりの自分の姿はきっと醜いんだろう。
そうやって、勝手に悲しさを感じて何もできないままでいる僕とは対照的に、彼女は何かを決心したような目をしてしゃがみこんだ。目線が同じ高さになって、どきりとする。
そして彼女は赤く美しい唇を動かして、慈しみの笑顔で言う。
「わかった、今から私はお嫁さんね。結婚するの。…よろしくね、あなた」
はっとして、彼女の顔を数秒見つめた。今、何て言った?お嫁さん、結婚する───って。
ぼっと顔が熱くなるのがわかった。頭がまっしろになって何も考えられない。
けれど唯一まともに残った理性で、僕は「よろしくお願いします」と、できるだけ真面目に言った。
信じられない状況の中で、僕は確かに幸福を感じてしまったんだ。