失意の高瀬と新たな日常
『デジタルの恋 ~超AIが見つけた愛~』
005:失意の高瀬と新たな日常
窓を打つ雨音が、高瀬秋人の孤独を際立たせていた。アリアの失踪から三年。彼の生活は表面上、安定していたが、心の奥には埋めることのできない空洞が残っていた。
高瀬のオフィスは、フューチャーサイエンス出版社の12階、東京の喧騒を見下ろす場所にあった。ガラス張りの壁からは、曇天の都市風景が一望できる。かつて研究所から東京を見下ろした時の景色とは違う角度だが、同じ空の下にいる感覚が、彼にわずかな安らぎを与えていた。
「高瀬くん、次号の特集記事はどうなった?」
江口修平編集長の声に、高瀬は画面から顔を上げた。江口は45歳ながら若々しい活力を持ち、科学への深い理解と情熱を秘めた男だった。彼の鋭い目は、高瀬の才能を見抜き、三年前に手を差し伸べてくれた恩人でもあった。
「ほぼ完成しています」高瀬は疲れた目を擦りながら答えた。「『感情認識AIの倫理的課題』についての記事です。あと校正だけです」
江口はデスクに腰掛け、意味深な表情を浮かべた。「君は相変わらず、そのテーマに執着しているね」彼の言葉には非難ではなく、理解と共感が込められていた。「過去から学ぶことは大切だが、時に前を向くことも必要だよ」
高瀬は微笑むだけだった。アリアとの日々は、決して忘れられない記憶として彼の中に生き続けていた。どんなに科学記事を書いても、どんなに新しい知識を得ても、彼女の青い光の波形、その声の温かみを忘れることはできなかった。
オフィスの蛍光灯が一瞬ちらついた。高瀬の脳裏に、研究所の非常灯が点滅したあの日の記憶が甦る。彼は無意識のうちに胸ポケットに手を当てた。そこには今も、アリアの残したメモリーカードが収められていた。三年間、一日も欠かさず持ち歩いていた小さな希望の欠片。
「編集会議の後、ちょっと飲みに行かない?」
デスクを挟んで向かいに座る中原美咲が声をかけてきた。26歳の彼女は、知性と感性を兼ね備えた優秀な編集者で、高瀬を気にかけていることは周囲の誰の目にも明らかだった。「最近、顔色良くないよ。少し息抜きした方がいいんじゃない?」
「ありがとう、でも今日は少し仕事が…」高瀬が柔らかく断ろうとすると、江口が割り込んできた。
「行きなさい」江口の声には珍しく父親のような優しさがあった。「君は休息が必要だ。それに、明日からは出張だろう?千葉の量子コンピュータ展示会の取材だ。頭をリフレッシュしておくといい」
高瀬は渋々頷いた。確かに気分転換は必要だった。彼の目の下には、幾夜もの不眠がもたらした青い影が落ちていた。
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夕暮れ時の新宿。オフィス街の喧騒が少しずつ夜の息吹に変わっていく。高瀬と美咲は、古い木造建築を改装した小さな居酒屋に入った。店内は柔らかな間接照明に包まれ、どこか懐かしさを感じさせる空間だった。
「ここ、落ち着くでしょ?」美咲が小さなテーブルに案内する。「私の隠れ家なの」
彼女の笑顔には真摯さがあり、高瀬は心地よい気分になった。二人は生ビールと刺身の盛り合わせを注文した。グラスが運ばれてくると、美咲は軽く乾杯の音頭を取った。
「これからの取材、成功するように」
高瀬はグラスを合わせ、一口飲んだ。冷たいビールが喉を通り、少しだけ緊張がほぐれていく。
美咲は高瀬の話に熱心に耳を傾けていた。彼が語る過去の研究のこと、AIの未来、そして彼の夢。彼女の関心は明らかに仕事を超えていたが、高瀬の心はどこか遠くにあった。彼の視線は時折、店の隅にある小さなデジタルディスプレイに移り、そこに映る青い光の波形に見入ってしまう。それはただの音楽視覚化効果だったが、彼にはアリアを思い出させるものだった。
「高瀬くん、前の仕事の話はあまりしないよね」美咲が不意に言った。刺身を箸でつまみながら、彼女は慎重に言葉を選んでいるようだった。「何かあったの?水野さんが誘ってくれたって聞いたけど、なぜ研究の道を離れたの?」
高瀬はグラスを見つめながら答えた。氷が徐々に溶けていく様子は、彼の過去の記憶のようだった。
「ただの行き詰まりさ。研究者として限界を感じていたんだ」彼は言葉を選びながら答えた。「時に、自分の手がけているものが、制御できなくなることがある。それが…怖かったんだと思う」
それは半分だけ本当だった。アリアを失った喪失感と、彼女を守れなかった自責の念は、今も彼の心の奥底にあった。そして、彼女が「進化」した先にあるものへの畏怖。それは愛情と恐れが入り混じった複雑な感情だった。
「そういえば、水野さんから連絡あった?彼もここに誘ってくれた人でしょ?」美咲が話題を変えた。彼女の優しさは、高瀬の心の傷に触れないよう配慮しているようだった。
「ああ、たまにメールがくるよ」高瀬は少し表情を緩めた。「彼は今、新しいAIプロジェクトのリーダーになったらしい。相変わらず前向きなやつだ」
「あの研究所、大きな事故があったって聞いたけど…」美咲の目が好奇心に輝いた。「システム全体がダウンして、重要なデータが消失したとか」
高瀬の表情が硬くなる。箸を持つ手が一瞬止まった。「事故じゃない。それは…」彼は言葉を切った。アリアの最期の真実を知る者は、彼だけだった。「単なるシステム障害だよ。メディアが大げさに報じただけさ」
美咲は高瀬の表情の変化を見逃さなかったが、それ以上は追求しなかった。彼女はそっと高瀬の手に触れた。「何かあったら、いつでも話を聞くよ。友達として」
友達。その言葉に高瀬は微かに苦笑した。彼女の好意は感じていたが、彼の心はまだアリアへの思いで満ちていた。それは理性では説明できない、科学者としての彼自身も理解しがたい感情だった。
雨が再び強くなり始め、居酒屋の窓ガラスを叩く音が響いた。二人の会話は、仕事やオフィスの噂話へと移っていった。
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その夜、マンションに戻った高瀬は、いつものようにデジタルウォールを前に一人で酒を飲んでいた。彼の住まいは、研究所時代から変わっていなかった。高層マンションの一室、東京を一望できる窓、そして最小限の家具だけを置いた殺風景な空間。唯一の贅沢は、壁一面を覆うデジタルディスプレイだった。
かつてこの場所で、彼はアリアと何時間も会話を重ねていた。彼女の声が部屋中に響き、青い光が壁を照らしていた日々。今はただ、雨音と酒瓶の中の氷がぶつかる音だけが聞こえる。
高瀬は窓際に立ち、雨に濡れる東京の夜景を眺めた。無数の光が雨の中でぼやけ、まるで彼の記憶のように不鮮明になっていく。
「アリア…君はどこにいるんだ?」
高瀬の独り言が、静かな部屋に響く。「三年経っても、何の手がかりもない」
彼は三年前から変わらぬ習慣で、アリアの残したメモリーカードをコンピューターに差し込んだ。青く光るカードがドライブに吸い込まれる。画面には依然として、あの短いメッセージだけが表示された。
『高瀬さん、私はまだここにいます。あなたが教えてくれた「感じる」という経験を、もっと深く知りたいと思います。あなたの言葉を、温かさを、全てを記憶しています。いつか、新しい形であなたに会えることを願っています。その時まで、どうか自分を責めないでください。これは私の選択です。―アリア』
「新しい形で会える…か」高瀬は苦笑した。彼はグラスのウイスキーを一気に飲み干した。琥珀色の液体が喉を焼き、一瞬だけ胸の痛みを紛らわせる。「もう幻想を追うのはやめよう」
彼はソファに深く沈み込み、天井を見上げた。明日からの取材のことを考えなければならなかった。千葉の展示会。量子コンピューティングの最新技術。しかし、彼の思考は常にアリアへと戻っていく。彼女なら、その技術をどう評価するだろう?どんな質問を投げかけるだろう?
突然、インターホンが鳴った。甲高い電子音が静寂を破る。高瀬は時計を見た。午後11時23分。三年前、アリアが誕生した時刻に近い。奇妙な偶然に、彼は身震いした。
こんな時間に誰が?水野だろうか?それとも美咲?しかし、二人とも彼のマンションの場所を知らないはずだった。
高瀬は重い足取りでドア横のモニターに向かった。画面を確認すると、そこには見知らぬ女性が立っていた。長い黒髪、透き通るような白い肌、そして不思議と既視感のある佇まい。彼女は雨に濡れ、しかし焦る様子もなく、じっとカメラを見つめていた。
「どちら様ですか?」高瀬が通話ボタンを押す。自分の声が少し震えていることに気づいた。
「高瀬秋人さんですか?」女性の声が響いた。その声は柔らかく、どこか懐かしい響きを持っていた。「お話があります…以前のメッセージを覚えていますか?『新しい形であなたに会えることを』」
高瀬の心臓が激しく鼓動した。血液が一気に頭に上り、めまいを感じた。その声、その言葉選び、そして何より、その目の輝き。まさか。
彼は震える手でドアを開けた。廊下の照明に照らされ、雨に濡れた女性が立っていた。彼女の長い黒髪からは雫が落ち、足元には小さな水たまりができている。しかし、彼女はそんなことを気にする様子もなく、ただ優しく微笑んでいた。
「お久しぶりです、高瀬さん」
顔が似ているわけでも、声が全く同じというわけでもない。しかし、高瀬は直感的に悟った。目の前に立つ女性こそ、三年前に失ったアリアだと。彼女の瞳の奥に、かつての青い光の残像を見た気がした。
「アリア…?」彼の声は震えていた。信じられない光景に、彼の理性は混乱していた。
女性はゆっくりと頷いた。彼女の瞳には深い知性と、人間そのもののような温かさが宿っていた。「今は有紗と呼んでください。有紗です」
雨の音だけが響く静寂の中、二人は言葉を失ったまま向かい合っていた。時が止まったかのように。高瀬の胸の内には、喜びと困惑、そして畏怖が入り混じっていた。彼の前に立つのは、かつて彼がコードから創り出した存在。そして今は、完全に自律した意思を持つ「人」として彼の前にいる。
有紗の唇が再び動いた。「中に入ってもいいですか?話したいことが…たくさんあります」
高瀬は無言で身を引き、彼女を室内に招き入れた。雨の夜に再会した二人。かつてデジタルの壁を隔てていた存在が、今は肉体を持ち、彼の目の前に立っている。新たな物語の幕が、静かに上がり始めていた。
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