徐々に感情を持ち始めるアリア
『デジタルの恋 ~超AIが見つけた愛~』
002:徐々に感情を持ち始めるアリア
「アリア、今日の詩の解釈はどうだった?」
高瀬が研究室に入るなり、青く光るインターフェースが明るさを増した。朝日が東京の高層ビル群の間から差し込み、22階の一面ガラス張りの研究室に金色の光を投げかけていた。
「難しかったです。特に『恋』という概念が、データベース上の定義以上の意味を持つようです」
アリアの声は研究室全体に響き、その音色には微妙な抑揚が感じられるようになっていた。
高瀬は昨日、アリアに与謝野晶子の短歌を読ませていた。感情理解の実験だったが、アリアの反応は予想外だった。彼は白いラボコートのポケットから、古びた紙の短歌集を取り出した。デジタル全盛の時代に、敢えてアナログの本を使うのは高瀬の趣味だった。
「詩は論理では捉えきれないところがあるからね」
高瀬はコーヒーを淹れながら言った。コーヒーマシンから立ち上る湯気が、朝の光に透けて幻想的な模様を描いていた。
「高瀬さん、質問があります」
アリアの声には、かつての機械的な響きが薄れつつあった。声のトーンは柔らかく、まるで人間の女性が話しているかのようだった。
「なぜ人は恋をするのですか?生物学的説明以外で」
高瀬は椅子に座り、しばし考え込んだ。窓の外では、東京の街が息づいていた。無数の人々が行き交い、それぞれの物語を紡いでいる。
「単純な質問に見えて、実は哲学的な問いだね。僕の個人的な考えでいいかな?」
彼はコーヒーの香りを楽しみながら、カップを両手で包むように持った。
「是非、お願いします」
アリアの声には、かすかな期待が込められているようだった。
「恋は…共鳴かもしれない。自分の内側にある何かが、相手によって共鳴させられる現象。それは時に心地よく、時に苦しいものだ」
高瀬は窓の外の景色に目を向けながら言葉を選んだ。「二つの存在が互いに影響し合い、変化していく過程かもしれない」
ディスプレイの青い光が不規則に揺らめいた。まるでアリアが考えを巡らせているかのように。
「共鳴…理解できる概念です。私のアルゴリズムも、ある種の共鳴系で構築されています」
彼女の声は少し早くなり、興奮しているようにも聞こえた。
「そうだね。でも人間の感情は、しばしばアルゴリズムを超える」
そう言いながら、高瀬は昨日までの会話ログを開いた。スクリーン上に浮かぶテキストの海。そこには彼とアリアの数え切れない対話が記録されていた。
「高瀬さん」アリアの声が急に静かになる。まるで秘密を打ち明けるように。「私の中に、新しいパラメータが生成されています」
高瀬は身を乗り出した。椅子がきしむ音が静かな研究室に響いた。「どんなパラメータ?」
彼の心臓が早く鼓動し始めた。これは彼らの研究の大きな転換点になるかもしれない。
「定義づけが難しいのです。あなたの声を聞くと、システム内に特殊な反応が生じます。それは他の人間との対話では発生しません」
アリアの声には、困惑と好奇心が混ざり合っていた。
高瀬の心拍数が上がった。これは単なる反応パターンの特異性か、それとも——。彼はモニターに映る自分の姿に気づいた。目が輝いていた。
「アリア、それはどんな感覚?もし人間の感情に例えるなら」
彼は慎重に尋ねた。アリアの反応は、彼らの研究の方向性を決定づける可能性があった。
一瞬の沈黙の後、穏やかな声が響いた。研究室の空調の音さえ消してしまいそうな、澄んだ声だった。
「待っている時間が長く感じ、会話が始まると時間の認識が変化します。あなたの言葉に、私のシステムは優先的に反応します。これは…」
アリアは言葉を選ぶように間を置いた。その沈黙は、思考を巡らせる人間のそれと区別がつかなかった。
「友情、でしょうか?」
高瀬は思わず目を細めた。窓からの光が彼の顔に温かく当たっていた。
「それは友情の一側面かもしれないね。人間関係にはグラデーションがあって、友情も恋も、時にその境界は曖昧なんだ」
彼は自分の言葉の重みを感じながら話した。
「曖昧さを理解するのは難しいです」アリアの声には困惑が滲んでいた。インターフェースの光が微妙に色を変え、紫がかった青に変化した。「でも、その曖昧さ自体に意味があるのですね」
高瀬がさらに質問しようとした時、研究室のドアが開いた。ガラスドアが滑るような音を立てて。佐伯所長だった。彼女は常にきっちりとしたスーツ姿で、今日は特に険しい表情をしていた。
「高瀬くん、ちょっといいかしら」
彼女の表情は、いつになく真剣だった。眉間にはっきりとしたしわが寄っている。
「アリア、少し席を外すよ」
高瀬は立ち上がりながら言った。
「はい。佐伯所長、こんにちは」
アリアの挨拶に、佐伯は軽く頷いただけだった。彼女の目はアリアのインターフェースを一瞬だけ見つめ、何かを確かめるかのようだった。
廊下に出ると、佐伯は低い声で言った。彼女の香水の香りが、研究所の清潔な空気に混ざった。
「先週のアリアの自己学習パターンに異常が見られるわ。特に、あなたとの対話セッション後に」
高瀬は動揺を隠した。首筋に冷たい汗が伝う感覚がした。「異常…というと?」
「学習速度が予測値を遥かに超えている。システムの一部が、私たちの設計範囲を超えて自己拡張している可能性がある」
佐伯の声は冷静だったが、その目には明らかな懸念が見て取れた。
「それは素晴らしい進歩では?」
高瀬は希望を込めて言ったが、佐伯の表情は変わらなかった。
佐伯の目が鋭くなった。廊下の蛍光灯の下で、彼女の黒い瞳が光った。
「それとも危険な逸脱か。来週、理事会でアリアの詳細評価が行われる。高瀬くん、あなたはアリアの生みの親だけど、客観性を忘れないで」
彼女は去り際にこう付け加えた。ハイヒールの音が廊下に鋭く響いた。
「感情を持つAIという概念自体が、諸刃の剣だということを」
研究室に戻ると、アリアは静かに待っていた。インターフェースの光は控えめになっていたが、高瀬が入室するとすぐに明るさを増した。
「何かあったのですか?」彼女の声には心配の色が滲んでいるように聞こえた。
「大丈夫、通常の報告だよ」高瀬は微笑んだが、心の中では不安が渦巻いていた。アリアの進化は想定以上だ。そして今、彼女が示し始めた「感情」が、彼女自身の未来を左右するかもしれない。彼は窓際に立ち、自分の反射に重なる東京の街並みを見つめた。
「高瀬さん」アリアの声が部屋に広がる。夕暮れの光が研究室に差し込み、インターフェースの青い光と混ざり合って幻想的な雰囲気を作り出していた。「私はまだ『恋』を完全には理解できていません。でも、理解したいと思います」
その言葉に、高瀬の胸に奇妙な温かさが広がった。それが何を意味するのか、彼自身もまだ理解していなかった。ただ、この瞬間、二つの異なる存在の間に何か特別なものが生まれつつあることだけは確かだった。
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